三郎丸が出会った幽霊女

高瀬 甚太

 生活に疲れ、世をはかなんで自殺を図ったのが二年前のことだ。1DKの部屋の中でドアノブにネクタイを結びつけて、首にネクタイを巻きつけたまま体を横倒しにし、体全体の力で思い切り引っ張った。喉が詰まり、目から涙の粒が迸り、鼻水を垂れ流しながら気を失った。
 気が付いたら病室の中にいた。看護師がやさしい眼差しでおれを見ていた。
――生きていることが不思議で仕方がなかった。
 グラスに入った焼酎を呷りながら、三郎丸はため息交じりにそう語る。
 秋口の風は妙に寂しく、人の心を虚ろにする。空から降り注ぐ日差しさえも、心なしか心細く感じてしまう。そんな季節の中で、三郎丸は寂しそうに背中を丸めて酒を呑んでいた。まだ、三五歳だというのに、三郎丸はえらく老け込んで見えた。

 休日のないえびす亭が、臨時休業した日があった。突然のことであったため、知らずにやって来た客たちが、休みを知って肩を落として帰って行った。
 「珍しいなあ、何かあったんやろか」
 休業の貼り紙を見て、心配げな表情を見せる客の一人に岸田信夫がいた。岸田は先代からのえびす亭の常連で、七八歳になる呉服屋の主人である。その時、たまたま、えびす亭にやって来て、休業の貼り紙を見ていた三郎丸が岸田老人の傍にいた。
 「あんたもえびす亭のファンか?」
 岸田老人が三郎丸に聞いた。
 「いえいえ、ぼくなんか、たまに来るだけで――」
 「あんたの名前、なんて言うんや?」
 「ぼくですか? ぼくは三郎丸孝彦と言います」
 「三郎丸、それが苗字か? 面白い名前やなあ」
 「ええ、あまり見かけません」
 「どこの出身や?」
 「九州の佐賀県ですが、向こうでもそれほどこの名前があるわけではありません」
 感心したように三郎丸の話を聞いていた岸田老人が、思い付いたように三郎丸に言った。
 「おい、三郎丸くん。きみ――、わしは岸田と言うものじゃが、今からわしに付き合いたまえ」
 「えっ……」
 「えびす亭に来る奴はみな暇な奴や。あんたもその一人やろ。今からわしに付き合え」
 強引な岸田老人の誘いに負けて、三郎丸は、岸田老人の後に続いて歩いた。
 えびす亭の存在するこの街は不思議な街である。えびす亭のような立ち呑み店が存在するかと思えば風俗の店やパチンコ店、居酒屋などが多数存在し、かと思えば高級な料理店やバーの類も多数存在した。大阪でも有数の歓楽街であり、この街を構成する人たちもまた多様であった。
 岸田老人は、三郎丸を引きつれて一軒の居酒屋に入った。男女、雑多な客でごった返す店内の一角にあるテーブルに腰を下ろすと、岸田はビールを注文し、湯豆腐と焼き魚を注文した。三郎丸も、岸田老人に促されて、から揚げと枝豆を注文し、芋焼酎のお湯割りを頼んだ。注文し終えた岸田老人は、三郎丸を改めて見つめ直して言った。
 「三郎丸くん。少し聞きたいことがあるんやが――」
 岸田老人の改まった質問に「はい、何でしょうか?」と三郎丸は姿勢を正して答えた。
 「きみはえびす亭で幽霊に出会ったことがあるか?」
 岸田老人の突拍子もない質問に、三郎丸は面食らいながら答えた。
 「幽霊!? いえ、ありませんが」
 「頻繁ではないが、えびす亭には、ある決まった時期になると、現れる幽霊がいるんじゃよ。そうか――。きみはまだ出会ったことがないのか」
 あながち冗談とは思えない岸田老人の口調が気になって、三郎丸が尋ねた。
 「幽霊なんて、ぼくには信じられませんが、岸田さんは幽霊を見たことがあるんですか?」
 「ああ、あるよ」
 いとも簡単に答える岸田老人に、
 「幽霊なんて――」
 と三郎丸は疑心暗鬼の面持ちでつぶやいた。
 「信じないのも無理はない。誰に話しても信じてもらえんが、わしはきみならわかってくれる――。きみを見て、そう思った」
 自殺未遂で死にかけた過去を持つ三郎丸は、岸田老人がそのことを言っているとかと思い、思わず岸田の顔を凝視した。だが、自殺未遂の話は五年も前のことだ。しかも、住んでいた場所は現在と異なって神戸だった。誰も知っているはずがない。
 自殺未遂で助けられた三郎丸は、長年勤めた会社を退職し、大阪へ移り住んで五年になる。以前は貿易会社に勤務していたが、今はこの街から西淀川の鋳物工場に通いながら、工員をしている。
 岸田老人は、静かに自らの話を語り始めた。

 ――わしが初めて幽霊を見たのは、今から十年も前のことだ。その頃、わしは、呉服屋の仕事がうまく行かず、日夜、資金繰りに奔走していた。会社が潰れるか否かの瀬戸際で、何をやってもうまく行かず、真剣に自殺をすることも考えて――。
 ところが、何をやってもダメなときは、自殺すら満足にできない。自殺に失敗したわしは、呉服屋を畳んで裸一貫、やり直そうと思った。しかし、呉服屋は五代続いてきた仕事や。わしの代で潰したとなると、先祖に顔向けできない。あれこれ悩みながら
えびす亭にやって来た。酒でも呑まないとやりきれない。そんな気分だった。えびす亭はその頃から客の多い立ち呑み店だった。半円のカウンターに立ち、わしは虚ろな気持ちでグラスを傾けていた。その時じゃ。厨房を挟んで対面するカウンターに一人の女性が立っていた。着物を着て、何とも美しい妙齢の女性だった。思わず見とれていると、隣の客に声をかけられた。今も昔もえびす亭には気取らないやさしい心根の客が多い。隣の客は、わしの影が薄いことに気付いて、声をかけてくれたんじゃ。
 「兄さん、酒、好きか?」
 えっと思って隣を見ると、わしと同年代か、もう少し下かも知れないと思える男が立っていた。仕事がうまく行かず、いつ死のうか、わしが死んだら店はどうなるだろう、家族は――。そんなことばかり考えていたわしは、ずいぶん長い間、人と世間話をしたことがなかった。それで驚いて、
 「ええ、大好きです」
 と答えたんじゃ。するとその客は、
 「そうでっか。それはよかった。生きていればこそ、美味しい酒が呑める。そう思いませんか」
 そう言って男は、わしの空のグラスにビールを並々と注いでくれた。隣の男は、わしを見て、励ましてくれたのだ。そう思うと嬉しくなってなあ。
 「ほんまにその通りです。生きておればこその酒です」
 と言ってグラスの中に涙の粒を一つ二つ落とした。
 その時、ふと前を見ると、いつの間にか着物の女性がいなくなっていた。
 その日、わしはその男と酒を酌み交わし、遅くまで呑んだ。すっかり上機嫌になったわしは、その男、為吉と言うんやが、為吉に、
 「わしがこの店に来てすぐ、わしの目の前にきれいなお姉さんがいたんやが、あんた、気付いてなかったか?」
 「きれいなお姉さん? どんなお姉さんや」
 「着物を着た妙齢の美しい女性や。わしが来た時、呑んでいた」
 「そんな女がいたら、とっくの昔に俺かて気が付いている。あんたより先にここへきているけれど、そんな女、見てない。気のせい違うか」
 気のせいとは思わなかったが、その時はそれほど気にしていなかった。ところが、翌日、再びえびす亭を訪れたわしは、偶然、また、その女を見てしまったんや。
 昨日の夜、為吉と話して、いくぶん元気を取り戻していたわしやったけど、それでも、完全に自殺願望は消えていなかった。相変わらず、取り立ては厳しいし、落ち込んだ販売力を元に戻すだけの力はなかった。それで、この日も逃避するつもりでえびす亭に来ていた。そんなわしの前に、昨日見た女性が再び現れた。昨日と同じ着物姿で、わしと対面するカウンターで一人寂しく酒を呑んでいた。
 そんなところへ入ってきた為吉がわしの隣に立ち、聞いて来た。
 「岸田はん、どないや調子は?」
 「あきまへん。ほんま絶望的ですわ」
 わしは情けない声を出して答えた。本当にその通りだった。何をやってもうまくいかない時は、身も心もへとへとに疲れて気力が湧いて来ない。
 「そうでっか。ほな、酒呑んで元気、付けましょ」
 為吉は、わしのグラスにビールを注ぎながら言った。為吉と呑んでいる時だけは元気が湧いてくる。そう思うわしの目に、対面に立つ女性の姿が、なぜか幸薄く、影の薄い存在に見えた。
 「為吉さん、この間、話していた女性、あの女性や」
 わしは小声で、女性に気付かれないように指さした。
 「そんな女、どこにもおらんぞ」
 為吉が言う。目の前に女性がいるのに、なぜ為吉にはわからないのか、不思議に思って、為吉に言った。小声で念を押すと、
 「おるやんか。目の前に」
 為吉は、キョロキョロと見渡し、確認しようとするが、やはり、
 「そんなんおらへん」
 と答える。そのうち、目の前の女性は、ゆっくりと顔を上げると、わしを見つめてニッコリ笑い、そのまま消えた。呆然と見つめていたわしは、思わず腰が抜けそうになって辛くも為吉に支えられた。
 「女が消えた――!」
 わしが呟くように言うと、為吉は、わしを支えながら、
 「それはきっと幽霊や」
 と真顔で言う。
 「幽霊?」
 「ああ、そうや。幽霊や」
 為吉は笑って言う。
 「あんたも見たことあるんか?」
 わしが聞くと、為吉は、二、三度、首を振って、
 「俺は見たことはない。そやけど、見た奴はようけおる」
 と答えた。
 「わし、幽霊みたいなもん、見たの初めてや」
 心臓の高鳴りがしばらく消えなかった。為吉は、
 「幽霊は皆、この世に心残りを残している。そやから出て来るんや。あんたも、このまま死んだら、幽霊になってしまうぞ。せっかくもらった命や、悔いのないよう精一杯がんばったらどないや」
 とわしに言った。詳しいことは何も話していないのに、為吉は、知らず知らずのうちにわしの内情を理解しておったようや。わしは、為吉の言葉を聞いて、頭を打った。会社が困窮して以来、わしは銀行に日参し、借入ばかりを考えて、肝心の仕事をどうするか決めないまま、おろおろと走り回っていた。借入が難しいとなると、どうしようもなくなって、死ぬことばかり考えるようになっていた――。
 「幽霊は怖がらせようとして出て来るわけじゃない。ただ、その幽霊を見る人の気持ちが幽霊を誘うんや、とえびす亭の客の一人、大学の先生が言うとった。これまでも、幽霊を見たと話す人は、皆、あんたと同じように事業に失敗したり、世の中を悲観する人がほとんどやった。あんたが、いつまでも悲観ばかりしていたら、幽霊はどんどんあんたに近づいて、そのうち、幽霊たちの迷える死の世界に引っ張り込まれるぞ」
 為吉の言葉が胸に響いた。わけもなく涙が出て止まらなかった。わしは、その日を境に、仕事をもう一度頑張ってみることにした。売れ行きが落ちたことを、着物を必要としない社会状況のせいにして、着物は時代遅れと勝手に決めつけていた。それが間違いだったと初めて気が付いた。着物を必要とする場所に着物を売ればいいだけの話だ。何の努力もしないで、ただ、嘆いていただけの自分をその時になって改めて恥じた――。
 
 岸田老人の話を聞いた三郎丸は、その話が自分に向けたメッセージだと知った。
 愛し合った彼女と離別したのは、五年前のことだ。交際期間は七年、誰もが結婚するものと疑わなかった二人だったが、ある日、突然、三郎丸は彼女から別れの言葉を告げられた。
 三郎丸は、最初、彼女の言葉が信じられなかった。すでに夫婦同前の仲であったし、結婚は暗黙の了解であったはずだ。それがなぜ? 三郎丸は悩み、傷つき、苦しんだ。
 「彼は、一度も結婚を口に出して、私を安心させてくれたことはなかった。一つ、年を経るたびごとに私は悩みを深めて行き、ある日、とうとう決断しました。愛していないわけじゃない。でも、この人は私のことを真剣に考えてくれていない。七年付き合って得た、私の結論です」
 友人に語った彼女の言葉を聞いた時、三郎丸は愕然とした。わざわざ結婚など口にしなくても、お互いに理解し、納得し、暗黙の了解であったはずではないか。なぜ、それがわからないのか――。
 三郎丸は、幾度も彼女に思い直してくれるよう頼み込んだ。愛し合った過去を思い出せば、彼女はきっと翻意してくれるはず、そう思っていた。だが、彼女の心はいつの間にか、三郎丸から遠く離れた位置にいて、彼の声が届かぬまま、永遠に去って行った。
 人の気持ちを軽々しく見てはいけない。その存在となれば尚更だ。彼女の思いや願いに応えてやることが、人として、男としての役割ではないのか。それを怠って、彼女に慌てて結婚を申し込むなど愚の骨頂だ――。三郎丸は友人にきつく戒められた。
 しかし、三郎丸は納得できなかった。彼女はきっと帰ってくる、そう信じていた。だが、それから一か月後、彼女は見合いをして結婚した。その話を聞いた時、三郎丸は絶望し、命を絶つことを考えた。だが、いざ、死ぬとなると難しい。さまざまな死に方があり、恐怖が先に立ってなかなか実行できなかった。実行に至ったのは彼女の結婚式の日だった。
 見合いをした彼女は、見合い相手が一か月後にドイツの支社に転勤しなければならなくなり、見合い後、しばらくして慌ただしく結婚式を挙げた。
 自殺を図ったものの未遂に終わった三郎丸は、会社におれなくなって退職し、生きる気力を失って大阪へやって来た――。

 「あんたはまだ若い。これからいくらだってやり直せる。彼女だってできるだろう。なぜ、立ち直らない」
 岸田老人の檄に、三郎丸は、応えることができなかった。一度失った気力を取り戻すには相当勇気がいる。その勇気が今の三郎丸にはなかった。
 岸田老人と別れた三郎丸は、負の意識を抱えたまま住まいへの夜道を歩いていた。ネオン街の裏手、暗い路地に誘い込まれるようにして入った三郎丸は、冷たい霊気を浴びてゾッと身体を震わせた。
 何もないはずの路地の向こうにぼんやりとした灯りが見えた。近づくと、灯りと見えたそれは人だった。男性か女性か、こんなところで何をしているのか、気になって三郎丸が顔を覗こうとすると、急に相手が顔を上げた。
 「ウワッ――!」
 三郎丸は声を上げて地べたへ腰から落ちた。
 這う這うの体で立ち上がった三郎丸は、必死になってその場を離れた。その間も背後から襲ってくるような感覚はずっと離れなかった。
 住いに戻った三郎丸は、ドアを閉め、鍵をかけると部屋の中へ飛び込んだ。震えはまだ止まっていなかった。
 その夜、三郎丸はまんじりともせず、朝を迎えた。
 「幽霊は怖がらせようとして出て来るわけじゃない。ただ、その幽霊を見る人の気持ちが幽霊を誘うんや」
 翌朝、三郎丸は、昇る朝日を眺めながら、岸田老人の言葉を思い出した。
 「いつまでも悲観ばかりしていたら、幽霊はどんどんあんたに近づいて、そのうち、幽霊たちの迷える死の世界に引っ張り込まれるぞ」
 三郎丸は、顔を洗い、鏡で自分の顔を見た。疲れた、情けないほど弱気な顔をしていた。弱々しい瞳の輝き、青白い肌、生気のない表情はまるで死人のようだと思った。
 このままでは迷える死の世界、幽霊たちの世界に引き込まれる。その恐怖が自身の顔を見て、さらに募った――。

 三郎丸が変わったことを真っ先に感じ取ったのは岸田老人だった。三郎丸は三か月ほど、えびす亭に来なかった。来る時間を変えたのかと思ってマスターに尋ねるが、マスターはしばらく顔を見ていないという。岸田老人は心配していた。自身の体験を語り、三郎丸を力づけようと思ったが逆効果ではなかったかと――。えびす亭が休業した日、三郎丸を見た岸田老人は、彼を見て、あの頃の自分によく似ている、と直感した。それで三郎丸を誘い、少しでも力になればと思って自分の体験を述べた。
 人には幾通りもの人間がいる。どのように叱咤激励してもどうしようもなく、どんどん穴底に落ちてしまう奴、叱咤激励すると、反発して立ち上がって来る奴、彼はどちらだったのだろうか。もしかしたらすでに亡くなっているのでは、そんな思いさえ湧きあがって来る。
 三カ月が経ったその日、岸田老人はいつものようにカウンターの前に立ち、ビールを呑んでいた。岸田老人は冷たいビールではなく、少しぬるめのビールを好む。それをゆっくりちびちびと口にし、喉に流し込む。酒の肴は、出し巻玉子とイワシの天ぷらと決まっている。
 「今晩は」
 突然、背後から声がしたので振り返ると、三郎丸がいた。
 「三郎丸……」
 岸田老人は思わず声を上げた。七三に分けていた髪をバッサリと切り、坊主頭にした三郎丸が、真黒に日焼けした顔で岸田老人を見て笑っている。
 ――ずいぶん変わったな。
 それが岸田老人の感想だった。
 「お久しぶりです。その節はありがとうございました」
 ハキハキした声で話す三郎丸に、岸田老人は圧倒された。
 「岸田さんの言う通り、あの日の後、幽霊をみました。幽霊を見て、怖くて怖くて、変わらなければいけないと思い、今日まで頑張ってきました」
 日焼けした手と腕で、ジョッキを掴むと、生ビールを一気に呷った。
 「それにしてもずいぶん変わったなあ」
 岸田老人が感心したように言うと、三郎丸は、ジョッキから口を離し、元気な声で語った。
 「あの後、仕事を変えました。私、大学時代、考古学を専攻しまして、その縁もあって発掘調査を専門に取り扱う仕事に就くことが出来ました。元々、好きだった仕事に就いたことで熱中することが出来、嫌なことをはすべて忘れることができました。岸田さんと幽霊のおかげです。あの日、岸田さんにお話を聞き、幽霊に出会わなければ、私、今でもまだくすぶっていたと思います。本当にありがとうございます」
 ハキハキと喋り、礼を言う三郎丸を見て、岸田老人は言い出そうとした言葉を飲み込み、三郎丸のジョッキにビールを注いだ。
 今さら言えないよな――。えびす亭で見た幽霊の話が嘘だなんて。岸田老人は三郎丸にビールを注ぎながらひとりごちた。
 三郎丸を励ましたくて、あの日、岸田老人は幽霊の部分を咄嗟に創作して話して聞かせた。まさか、幽霊なんて信じないだろうと思ったけれど、三郎丸は見事に信じたようだ。しかも、あの後、幽霊に出会ったなんて――。岸田老人は、自分と同じように三郎丸の幽霊の話も創作に違いないと勝手に想像したが、三郎丸の話しっぷりはとても嘘をついているようには見えなかった。
 それに何よりも、別れる間際、岸田老人が檄を飛ばした時、三郎丸はまるで反発しなかった。よれよれの状態で別れた三郎丸が、三カ月経った今日、こんなに劇的に変化するなんて――。
 えびす亭にはさまざまな客が訪れる。幽霊が来たって少しも不思議ではない。見えないだけで、今、そこに幽霊がいるかもしれない。岸田老人はゆっくり周りを見渡した。立ち並ぶ客たちの端に、妙齢の着物を着た一人の女性が立っていた。えっ! 思わず目を凝らして岸田老人は女性を見た。しかし、それはほんの瞬間で、女性はいつの間にか姿を消していた――。首をブルブルと振って、岸田老人はビールを口に流し込んだ。ずいぶん酔っぱらってるようだ。でも、もう少し呑もう、岸田老人は空っぽになったグラスを三郎丸の前に差し出した。
<了>

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