秘境の温泉宿殺人事件 前編
高瀬 甚太
「ご招待いたします」の文字につられて兵庫県の山深い温泉にやって来た。 以前、その温泉宿の取材をして、旅の雑誌に記事を書いたところ大きな反響があり、それ以来、親しくお付き合いをするようになった温泉宿が、昨年、リニューアルし、全面改装を終えたということで、その完成披露パーティーが開かれることになり、招待を受けた。
ハガキが送られてきた時はどうしようかと思ったものだが、宿の女将から、交通費を振り込むからぜひ来て欲しいと連絡があり、それならと重い腰を上げた。
何しろ、交通手段の少ない秘境の温泉宿だ。交通費だけでも馬鹿にならない。零細出版の編集長にとってちょっとの出費でも頭が痛い。しかし、交通費を出してくれるとなれば話は別だ。時間はいくらでもあった。喜んで大阪を発つことにした。
特急電車で姫路駅まで行き、そこから和田山方面に向かう電車に乗り、和田山で普通電車に乗り換えて北へ向かった。
乗降者の少ないひなびた無人駅で下車すると、温泉宿のマイクロバスが待っていた。
「井森編集長ですか?」
宿の名前を書いた法被姿の男に声をかけられて、「はい、そうです」と答えると、男は、私をマイクロバスの中に招き入れた。
駅から宿まで約40分はかかる。すぐに出発すると思ったが、バスはしばらく駅に滞在し、誰かを待っていた。やがて、15分ほどして、一人の女性がマイクロバスに駆け寄って来た。
「すみません。遅くなって」
と言いながら女性はバスに乗り込み、私の前の席に座った。
三十代後半といった感じの女性は、どうやら宿の従業員のようだった。髪を無造作に後ろに束ね、着物を着た女性は、宿で働く仲居のようにも見えた。
男が運転するバスは、山間の狭い道を器用に切り抜け、時間通り宿に着いた。
バスを宿の前で停車させると、男は私を宿の中へと案内した。以前は古びた木造二階建てに建て増しを重ねた建物だったが、すっかりリニューアルされて、洋館の美しい白亜の建物に変身していた。
入り口で女将に迎えられた。四十歳を超えて間もない女将は、鮮やかな和服に身を包み、その美しさを一層際だたせるような、明るい笑顔を私に向けた。
「編集長、ようこそいらっしゃいました。お待ちしていましたのよ。パーティーは5時に始まりますから、それまでお部屋でくつろいでいてくださいませ」
女将は、なまりのない言葉で私を歓迎した。
「それにしても、大胆にリニューアルしたものだねえ。前の面影は何も残っていないように見える」
私の言葉を受けて、女将は、
「旧式の建物でしたからね。いつ倒壊するか、心配で仕方がなかったのですよ。頑丈な建物を作ろうと思っていたら、こんな形になってしまって。でも、きれいになったでしょ」
と笑顔で答えた。
だが、こんな秘境の山深い場所で、このようにモダンな建物を建てて、果たして採算が取れるものだろうか、とふと心配になった。女将にそのことを尋ねると、女将は笑って、
「皆さん、そう思われるようですけど、これでも結構お客様は多いのですよ」
と私の憂いを軽くいなしてみせた。
確かに採算も考えずにヨーロッパ調の立派な建物を山奥に造るはずもなかった。
仲居に案内されて部屋に入ると、部屋もまた贅沢な造りで、そのあまりの豪華さに驚かされた。
「他の部屋もみんな、こんな感じなの?」
和室でありながらも、近代的な様相を呈した室内は、都心の高級な和風旅館に勝るとも劣らない贅を尽くした造りであった。
「はい。もっと立派な部屋もございます。申し訳ありませんが、この部屋が一番普通タイプの部屋なんです」
欄干といい、床の間といい、部屋を構成する素材が良質なのは明らかだった。おまけに窓から眺める景色が秀逸だった。二階の部屋であるにも関わらず、遠くにあるはずの湖が紅葉する木々の合間に展望出来る。
パーティーが行われるまでの間、散歩をすることにした。山の日暮れは早く、4時を過ぎると黄昏が迫り、30分もしないうちに闇に包まれた。
温泉宿の取材を終えた後、何度か訪れていた山間の小道、ゆっくり歩けば湖に出会う。バタバタと鳥の羽音が聞こえ、幾種類もの鳥たちの鳴き声が聞こえる。湖までの距離はそう遠くない。森林が醸し出す、ひんやりとして荘厳な空気に触れながら歩いていた時のことだ。前方から足音が聞こえた。驚いて立ち止まると二十代前半とおぼしき若い男がこちらに向かって歩いて来た。男は私を見て驚いたようの顔を上げた。
「こんにちは」
と挨拶をすると、間を置いて「こんにちは」と男の声が返って来た。
男はそのまま温泉宿の方角へ向かって歩いて行った。
湖に到着すると、薄闇の中で湖面が怪しく光っているのが見えた。月の光を映し出しているのだとは思ったが、そうは見えない不気味な光が湖面にさらされていた。湖の周りには散策のための小道が続いていた。一周すると30分ほどかかる。何度か歩いたことがあるが、立つ方角によって湖の風景が変わる。しかし、この日は日が暮れた後であったため、期待した景観は望めなかった。
宿に戻ろうと思い、元来た道を歩き始めたところで、突然、ガサガサという音が木陰で聞こえた。動物が潜んでいるのかと思い身構えたが、音はすぐに止み、聞こえなくなった。急ぎ足で宿に戻ると、パーティが始まる直前であったようだ。パーティー会場へどうぞと、仲居に案内されて、そのまま会場へ向かった。
リニューアルに相応しい、まるでヨーロッパの舞踏会場を思わせるような広いパーティー会場には、すでに百人程度の人たちが会場を埋め尽くしていた。テーブルの上には、豪華なバイキングメニューが飾られている。
「井森編集長じゃないですか?」
と、会場に入ってすぐに声をかけられた。振り向くと、小山智史だった。
「小山くん、きみも来ていたのか?」
小山は名古屋の出版社の編集長で、主にハウツー本を出版している。旅行関係とは無関係のはずだと思い、尋ねた。
「いやあ、実はハウツー本だけではやって行けなくて、今度、温泉旅館を紹介する本を出版することになったのですよ。それで招待されたようなわけでして」
銀縁メガネに指をやりながら、小山は答えた。
「そうですか。で、今日はここにお泊まりですか?」
と訊ねると、小山は両手を振って、
「いえいえ、9時に帰ります。明日も忙しいので」
と疲れた表情で言った。
小山と離れ、会場の中央に席を移した。他に知っている人はいないかと見渡したが、どうやら他には知り合いはいないようだった。
午後5時丁度にパーティーが始まった。女将が挨拶をし、宿のリニューアルについてひとくさり説明をした後、来賓の政治家二人が型どおりの挨拶をし、県議会議員が乾杯の音頭を取って、ようやく会食に至った。
バイキングではあったが、料理は秀逸だった。和食も洋食も中華、寿司、麺類に至るまで豊富に取りそろえられていた。飲み物も多彩で、吟醸酒から地酒、焼酎、ワイン、ビールと多岐にわたっていて、どの客も満足した表情で箸を動かしていた。
寿司を皿に載せ、テーブルに戻ろうとした時、先程、山道で出会った若い男に会った。
男は私に気付いていないようで、私の前をそのまま横切って会場の外へ出て行った。
主に年輩の客が多かったが、その中に混じって華やかに彩った中年女性の姿が目立った。
女将は会場内を巡り、笑みを絶やさず各人に挨拶を重ねていた。女将の美貌はいつにも増して輝いていた。
私が女将と知り合ったのは、宿の取材の時が始めてではなかった。それ以前に私は女将を知っている。
三十代半ばの頃、私は独立を控えて旅をしたことがあった。勤務していた出版社を退職して新会社を開くまで少し時間があった。その時間を利用しての四国へ旅だった。
高松まで宇高連絡船に乗り、そこから列車に乗り換えて徳島県の阿波池田に向かった。阿波池田には学生時代の旧い友人が住んでいた。そこで一泊し、旧交を温めた後、高知に足を運んだ。
高知の国民宿舎桂浜荘で一泊した翌日、私は松山に向かう予定でいた。ところが台風が進路を変えて高知地方に上陸するとその夜のニュースが報じたため、さらに一泊を余儀なくされた。海岸ではすでに二メートル、三メートルとも思われる高波が防波堤を洗っていた。夜の間に大時化になり、それは朝になっても止むことはなかった。朝方から凄まじい風を伴った大雨が高知湾岸を支配し、国民宿舎を取り囲む周辺は海水にすっぽり浸かってしまった。「危険ですから外に出ないでください」と館内放送がしきりに大声で告げ、宿舎を出ることができなくなり、国民宿舎さえも危険にさらされた。
その日一日、宿泊客は宿舎での滞在を余儀なくされた。雨は夕方になってようやく小やみになったが、風の勢いは止まらなかった。
宿泊客の中にとりわけ目立つ女子学生がいた。美しいという形容がピッタリのその女性は、友人二人と一緒に同じ宿に泊まっていた。
強い風と宿舎を囲む水害の余波で、台風が通り過ぎても宿舎から出ることは出来なかった。しかも、それはこの日一日だけでなく、翌日も、悪くすれば翌々日も外へ出ることが出来ないと宿舎の支配人は宿泊客に伝えた。
レストランの隣に小さな娯楽スペースがあり、そこに卓球台が置いてあった。私は暇つぶしに卓球に興じようと思い、周辺の客に「卓球をしませんか?」と声をかけた。誰もすぐには応じなかった。台風災害が心配でその気になれなかったのだろう。そう思ってあきらめかけた時、
「わたし、やります!」
と手を挙げた女性がいた。例の目立って美しい女性だった。
卓球には少し自信があった私だが、彼女の腕前も相当なものだった。一試合目は辛くも勝利したものの、二試合目は惜敗した。三試合目になると、たくさんの人が集まって来て、そのほとんどが美しい彼女を応援する。劣勢に立たされた私は三試合目、奥の手の汚い手、つまりネットに引っ掛けてポトンと落とすやり方や、右に注意を向けさせて左へ直球をサーブするなどを姑息な手を尽くして辛くも辛勝した。勝ちはしたものの、観戦していた客たちのブーイングがすさまじく、私は這々の体でその場から逃げ出した。
その夜、レストランで食事を終え、部屋に戻ろうとした時のことだ。「先程はどうもありがとうございました」と背後から声をかけられた。振り返ると先程の彼女が立っていた。
「先程は……。大人げない真似をしてすみませんでした」
平謝りに謝ると、彼女は笑って「いいんですよ」と言って片手を振った。
そのことが縁で、その日、私は夜を徹して彼女と話した。彼女が京都にある有名私立大の女子大生であること、出身が兵庫であることも、その時初めて知った。それが彼女、つまり女将と会った最初だった。
五年ほど経過した時のことだ。旅の企画で温泉宿を取り上げることになった。編集長であり、オーナーであった私は、従来の定番の温泉宿でお茶を濁すことを拒否し、口コミで宿を選び、そこを掲載するという提案を編集部員たちにした。
編集部員の中には、口コミというあやふやなものを嫌うものもおり、大幅に企画の進行が遅れたが、結局、編集長であり、オーナーの私の決断で企画が決定した。
口コミで宿をえらぶのは大変な作業だったが、それまで紹介されなかったユニークな宿や珍しい宿、質のいい温泉がたくさんあったことに驚かされた。
その中に今回、私が招待されたこの宿もあった。私が自ら取材に出向いたのだが、その宿に行って驚かされたのは、女将が以前、高知で出会った美人の女子大生であったことだ。
宿に行き、女将に会った時、最初、私はまるで気付かなかった。美しい人だなとは思ったが、まさかあの時の女性だとは思ってもみなかったのだ。
「ご無沙汰しています。お久しぶりですね」
そう挨拶された時も、私はキョトンとその女性を見ていた。
「お忘れですか? 高知で一緒に卓球をした……」
そう言われて、はっとした。あまりにも大人の美しさを備えていたので思わず見間違うところだった。
「いやあ、奇遇ですなあ」
と言うのが精一杯で、照れの方が先に立った。
幸いにも企画は当たり、本もよく売れた。『本で紹介されたおかげでお客様が増えました』と彼女から連絡が来て、その後、二度ほどその宿に招待された。
女将の名前は天野世津子と言い、温泉宿の名称は『天乃星旅館』と言った。先祖から続くこの宿を三十歳で継ぎ、学生時代からの恋人と二四歳の時に結婚したが、宿を継ぐ頃に別れて、今は独り身と聞いた。美人の女将が独り身、それもこの宿の人気の所以だろう。
パーティーは午後8時終了の予定だった。だが、7時半になって間もなく。事件が起きた。
突然、パーティー会場の照明が落ちたのだ。悲鳴や叫び声と共に、コップの割れる音、テーブルの倒れる音が随所で聞こえた。
5分ほどで照明が点り、その瞬間、新たな悲鳴が聞こえた。
会場の真ん中に男性が倒れていたのだ。女将が慌てて駆け寄り、男を抱き起こして名前を呼んだ。騒然となった会場に女将の声が響いた。
30分ほどして警官が数人駆けつけた。会場にいた人間は誰一人宿を後にすることが出来なくなった。警察が足止めをしたのだ。
救急車が到着した時、すでに男は絶命していた。
亡くなった男は白野孝志、兵庫県議会議員を三期務める政治家で、この日のパーティーで主賓として最初に挨拶をした人物だった。
女将の嘆きようはひと通りではなかった。それが人々の注目を集めた。警察の聞き取り調査が行われ、会場に残っていた七十人ほどが聴取された。もちろん、私もその一人だった。
県警本部から佐川陽一警部が駆けつけ、彼が中心になって捜査を開始、検死官と鑑識、数人が男の死因を調べ始めた。
「困ったよ。今日中に帰らないといけないのに足止めを食って、どうにかならないかな」
小山がやって来て、私の側で大袈裟に嘆いてみせた。
私は小山にワインをすすめ、
「こういう事態だから仕方がない。ワインでも飲んで気分を変えたらどうだ」
とグラスを手渡した。小山は、一つ大きなため息をつくと椅子にどっかと座り込み、ワインを一気に飲み干した。
足止めを食らった多くの客が小山と同様、困惑した表情で会場に立ちつくしていた。
眺め見渡したその時、会場にいた一人の男が私の目を惹いた。暗がりではっきりとは確認出来なかったが、湖に続く小道ですれ違った若い男によく似た男がいたのだ。パーティーが始まってすぐに彼を見たものの、以後、一度も会場に姿を見せていない。その男がどういうわけか今、この会場にいて、倒れた男の側に立っている。
検死官が、ようやく死因を特定したのが40分後のことだった。佐川警部が会場にいた人々を集めて、事件の説明をした。
「本日、午後7時25分、本会場において、兵庫県県会議員白野氏、年齢五五歳が殺害された。死因は青酸カリなどの薬物による薬殺と断定された。会場内において、予め用意しておいた毒物入りのワインを白野氏に飲ませたことが原因とされる。
白野氏の死の直前に毒物を混入したワイングラスを渡したものがこの会場内にいるはずです。死亡推定時刻直前、白野氏の近辺にいた者に詳しい話を聞きたい。白野氏の周辺にいた人物は名乗りを上げてほしい。また、周辺にいたと思われる人物を目撃した者も同様に名乗りを挙げてもらいたい」
白野の側にいたと名乗りを上げた人物が五名、側にいた人物を目撃したと名乗り出た者が三名。周辺にいたと思われる人物の中に、何故か私も含まれていた。
白野が死亡する少し前、私が皿を片手に白野の側を通った、と目撃者の一人が佐川警部に証言した。そう言えばそうだったかも知れないと思ったが、白野の存在をまったく意識していなかったので驚いた。目撃者は小山だった。
私の他に白野の側にいたのは、秘書の松坂義夫、後援会の会長でもある松中耕三、たまたま通りかかり、白野に挨拶をしたとされる芝谷由佳、同じテーブルにいた佐藤洋子、山本章一、白野と懇談していた女将、それと通りかかった私の七人が本事件の重要参考人として事情聴取されることになった。
他の来客は氏名、住所、連絡先を警察に報告した後、全員、帰宅を許された。それにしても腹の立つのは小山だ。彼がなぜ、私を陥れたのか、真意がわからないまま、彼は私に挨拶一つすることなくあたふたと宿を後にした。
白野の死体が県警に運ばれ、さらに詳しい死因を確認するために解剖されることになった。
「七名の皆様にはまことに申し訳ありませんが、しばらくご協力していただくことになります」
佐川警部は七名を一堂に集めると、年季の入ったライターを取り出し、内ポケットからタバコを取り出し、ゆっくりとした動作でそれを口にすると、それぞれの当時の状況を訊ね始めた。
ダークのスーツに青の縞模様のネクタイが印象的な秘書の松坂は、ずっと白野の側にいたが、誰かがそのグラスに毒を混入したり、グラスを渡すところなど見ていないと証言し、もちろん自分はそんなことをするはずがないと強い言葉で言い張った。
後援会長の松中は、でっぷり太ったその身体をもてあますようにして、「誰が白野をやったんじゃ、わしが殺したる!」と喚き立て、佐川警部を慌てさせた。土建屋上がりの彼は、白野氏と同郷で、幼い頃からの付き合いだと強調した。
保険会社に勤務する四十代半ばの芝谷由佳は、「たまたま側を通りかかり、目が合ったので挨拶をした」、それだけのことですと冷静に言い放った。
同じテーブルにいた佐藤洋子は、白野の学生時代の後輩で、白野とはテニスサークルで今もご一緒していますと言い、ワインに毒を入れる人など見ていませんと涙ながらに語った。
同じテーブルで、佐藤洋子よりも白野に近い席にいた山本は、固い表情で、「私は白野氏と同じ選挙区で白野氏とはライバル同士ですが、秘かに彼を尊敬しておりました」と、殊勝に語り、話し終えると表情を沈ませた。
女将は、佐川警部に質問されてもすぐには答えられないほど憔悴しきっていた。それで時間を置くために先に私が質問を受けることになった。
白野のことをまるで知っていないということと、あの時間、白野の側を横切ったかどうかさえも覚えていないと正直に話すと、佐川警部は露骨に嫌な顔をしてみせた。
「井森さんでしたよね。あなたは確か大阪で出版社をやっておられる。そうでしたね」
私が頷くと、佐川警部は、
「あなたは編集長で、政治にもかなりお詳しいとお伺いしましたが、そうではないんですか。兵庫県県会議員の白野氏のことも当然、知っておいでじゃなかったのですか?」
と言って私を責めた。明らかに疑いの目を私に向けている。
「そんなことを誰が言ったか知りませんが、私は特に政治に詳しいわけではありませんし、白野氏の存在もよく知りませんでした。その証拠に、私は今日、一度も白野氏と会話を交わしておりません」
私の説明を聞いても、佐川警部はまったく納得していない様子で、
「そうですか。私が訊いた話とずいぶん違いますが、まあ、後ほどわかるでしょう」
と言って、今度は女将への質問を始めた。
「女将さん、よろしいですか。少しは落ち着きましたか?」
女将は放心状態が続いていて、佐川警部の質問に反応しない様子だったが、やがて、気を取り直したのか、「はい、どうぞ。何でもお聞きくださいませ」と言って、姿勢を正した。
「女将さんと白野氏の関係からお聞きしましょうか」
佐川警部が訊ねると、女将は、
「関係といっても、女将と客の関係です。それ以上でも以下でもありませんわ。白野氏は、旧くからの当宿の常連客で、いつもごひいきにしていただいていました」
と言って、再びハンカチを取り出して涙を拭いた。
「あの日、白野氏は普段と変わりはありませんでしたか?」
佐川警部の問いに、女将は少し考えていたようだったが、今度は、はっきりと答えた。
「特に変わりはありませんでした。ただ、二、三日前、電話でご相談を受けたことがあります」
「どんなご相談ですか?」
「詳しくは仰っていませんでしたが、困っている、と」
「困っている? その内容をお聞きしましたか」
「いえ、電話でしたし、そこまで詳しくはお話になりませんでした。ただ、あの方には珍しく、弱気になられていて、困っているんだと、二度ほど呟くように言われて電話をお切りになりました」
佐川警部は秘書の松坂に目を向けた。
「松坂さん。あなた、白野氏からその内容について聞いていませんか?」
七三に髪をきっちり分けた生真面目な表情の松坂は、少し逡巡した後、「聞いておりません」と短い言葉で応えた。
佐川警部は、私を含めた七人を見渡しながら、鋭い目を投げかけて言った。
「今回の事件は明らかに白野氏に恨みを持つ者の計画殺人と思われます。申し訳ありませんが、七人の皆様にはもう少し、お伺いしないといけないことになります。本日は時間も遅いのでここまでにしますが、明朝、9時より再度、ここに集まっていただき、改めてお話をお伺いすることになります」
時刻は11時を少し過ぎたところだった。警部は、立ち上がり、軽く礼をして会場を出て行った。それに伴って、それまでいた五人ほどの警官も同時に姿を消した。
「皆様、本当に申し訳ございません」
女将は警察がいなくなると六名に頭を深く下げ謝った。
「いや、女将のせいじゃないよ。気にしないことだ。それより本当にこの中に犯人がいるのだろうか」
冷静さを取り戻した松中が肥えた腹を揺すりながら言った。
秘書の松坂は落ち着かない様子で、床に下げた目線を不必要にキョロキョロさせていたのが妙に印象に残った。芝谷と佐藤は二人して席を立ち、女将が用意してくれた部屋に戻った。山本も同時に席を立ったが、部屋には戻らず、入り口の方に向かって行った。
その夜、私はすぐには眠ることが出来なかった。一人の人間が目の前で殺された。その事実が私を興奮させ、眠らせなかったのだ。
――白野は毒殺された。死因は、グラスに入っていたワインに青酸カリが混入され、それを飲んだ白野が命を失った。犯人として特定出来るのは、近くにいた者、グラスに青酸カリを混入することの出来た者、鍵は照明が落ちたあの瞬間だ。
多分、その数秒間に何かが起こったに違いない。それにしても、あの停電は、偶然だったのだろうか。それとも予め仕組まれたものなのか、そこに事件の謎を解く鍵があると思った。
あの時、白野の側にいたのは六人、それぞれ怪しいと言えば怪しい要素がある。白野氏との人間関係に原因があるとしたら、さらに複雑な要素が絡んでいるに違いない。
そうなると、誰一人として省くことは出来ない。午前1時を回った時間ではあったが、私は友人の生方直樹に電話をした。
大手新聞社のデスクを務める生方は、私の学生時代の後輩で、彼の女房は私の紹介によるものだ。それもあって彼は私に対してひとかたならぬ恩義を感じている――はずだ。
電話をするとすぐに出た。さすがは新聞社のデスクだ。
「何ですか、井森先輩。こんな時間に……。勘弁してくださいよ」
生方は寝ぼけた声で私に愚痴った。よほどよく眠っていたのだろう。そんなことなどおかまいなしに私は続けた。
「悪い。なあ、生方。兵庫県県会議員の白野孝志について調べてくれないか。なんでもいい。どういう経歴なのか。スキャンダルはどうか……。携帯にメールでくれ。今すぐだ。頼む」
叫ぶような生方の声が聞こえたが、私は構わず電話を切った。
夜中の3時頃、生方から長いメールが届いた。生方はそのメールの末尾に、「ほんま、怒りますよ!」と書き添えてあった。
<後編につづく>
四
翌日、午前8時半。佐川警部が宿に到着した。三名の警官が同行している。パトカーは二台だった。
女将が疲れた表情で佐川警部を迎えた。9時から事情聴取の予定だったが、山本を除く五名が顔を揃えていた。
「山本さんはどうしたのかしら?」
女将が仲居に尋ね、一人の仲居が山本の部屋へ向かった。その仲居を見た時、はっとした。こちらへ来る時、一緒に乗り合わせた仲居だったからだ。宿に入ってその仲居の顔を見るのは今日が始めてで、仲居ではなかったのかと今まで不思議に思っていた。
宿の従業員は全部で十五名、そのうち仲居が十名、フロント、事務担当が三人、その他、裏方として二人の男がいた。そのうちの一人が湖に向かう時、出会った若い男と知ったのは今朝のことだった。
「キャー!」
二階から叫び声が聞こえ、佐川警部が立ち上がった。女将が二階へ向かおうとするのを警部が止め、警官二人を同行して二階へ走った。
二階の奥まった部屋のドアが開け放されていた、急いでその部屋に飛び込んだ警部は一瞬目を疑った。腰を抜かした格好で蹲る仲居の目の前に山本が泡を吹いて横たわっていたからだ。
明らかに死体とわかるその様子に、佐川警部は携帯電話を取り出し、急いで鑑識を呼んだ。死体の様子から見て毒殺の可能性が高かった。
事件はさらに深刻になった。二人の死者が出たのだ。宿に滞在する六人の容疑はさらに深まった。
今回も白野の事件と同様に青酸カリが用いられたことが鑑識の調べでわかった。死体の状況から判断して死亡推定時刻は午前2時前後。どうやら山本はその時間まで起きていて、眠るまえにお茶を口にしたようだ。そのお茶に毒が混入されていた。状況からそう判断された。
死体が運ばれ、落ち着きを取り戻した宿のロビーで私を含めた六人が再度、佐川警部の聴取を受けた。
まず質問されたのは、昨夜の全員の様子だった。それぞれ、聴取を受けた後、部屋に戻ったはずだったが、女将と山本だけはそれが確認出来なかった。
女将は仕事があったので、宿で片付けをしていたらしく、自分の部屋に帰って眠りについたのは午前1時を回っていたという。しかし、それを証明する人間は誰もいなかった。
山本は聴取を受けた後、一度宿の外に出ている。その理由はわからない。ただ、30分ほどで帰って来て、その後、部屋に戻っている。それを仲居の女性が証言した。
警部は、ロビーに戻ると、改めて六人を集合させ、言った。
「この事件が解決するまで、君たちを帰すわけには行かない。犯人は間違いなくこの中にいる。私はそう確信している」
警部の厳しい目が六人をみた。
私はある確信の元に推理をした。この事件の謎を解く鍵はただ一つ、この温泉宿のリニューアルにあると考えた。そして、女将と白野の関係にあると思った。
昨夜、生方に私は白野について調査を依頼した。その結果、わかったことがいくつかあった。
白野孝志は三五歳の時、それまで勤めていた宣伝広告の大手代理店博通を退職して県会議員に立候補している。しかし、その時は今回殺害されたと思われる山本が当選し、白野は次点で落選した。三年後の改選の時、再度立候補した白野は、山本と共に当選を果たし、以来、三期に渡って県会議員を務めている。
常に金銭スキャンダルがつきまとう山本と違い、白野は清潔でスキャンダルとは縁遠い議員として人気を博していた。それもあって白野は、三期目の終了を待って、政権与党の民自党から国会議員として立候補する予定でいた。
だが、順風満帆のそんな彼のスキャンダルが一部で噂になった。学生時代の後輩である佐藤洋子との不倫である。白野は否定したが、問題視したのは佐藤洋子の夫だった。
佐藤洋子の夫は、白野に不倫の責任を問う電話をしつこくしていたらしい。しかも、彼は、それを公にしようと考えていた節がある。彼の目的は金であることは明白だった。
人妻との不倫が選挙民に知られれば、女性票が圧倒的に多い白野にとって、選挙の命運を左右するどころか、政治家としての命脈を断たれるに等しい。
佐藤洋子の夫は株の失敗が重なり、多額の借金を重ねていたようだ。それもあって白野に執拗に金を要求した。最初は言いがかりだとはねのけていた白野も、佐藤洋子の夫に不倫の証拠写真を突きつけられては抵抗のしようがなかった。
山間の温泉宿で頻繁に落ち合い、愛し合う二人の様子がしっかりと写真に撮られていたことがわかった。白野は仕方なく口止め料として二百万円を佐藤洋子の夫に支払った。
だが、夫の要求はそれでは収まらなかった。
その間、佐藤洋子は、夫を何度も説得したようだ。だが、金に追われていた夫は、妻の裏切りを責め立てるあまりにDVに転じ、洋子に瀕死の重傷を負わせることも度々あった。
離婚を決意した佐藤洋子は、夫と別居し、母方の実家に帰った。そうなると、夫はますます凶暴化し、白野を責め立て、新聞に不倫を告発すると息巻くようになった。
生方の所属する新聞社に佐藤洋子の夫から投書があったのはごく最近のことだという。実態を掴み、確認しようとした段階で、佐藤洋子の夫が突然、兵庫県の山中で交通事故に合い、死亡した。そのため、新聞社は、この件を確認出来ないままお蔵入りとした。
それが生方から届いた白野のスキャンダルの顛末だった。
事件は明らかに白野のスキャンダルに端を発している。白野の死もスキャンダルが遠因のように思われ、不倫の舞台もこの温泉宿だったはずだ。
リニューアル記念パーティーの行われる日を狙っての犯行であったことは疑いない。そう考えると事件の糸口が見えて来た。
私は、一つの仮定をした。それはこうだ。
まず、想定される犯人像だが、いくつかのパターンが考えられる。
佐藤洋子を犯人として仮定した場合はどうか。白野にとって佐藤洋子は大きな獅子身中の虫になっていたはずだ。彼女の存在がスキャンダルの元凶であるわけだから、白野が佐藤洋子を疎ましく思っていたとしても決して不思議ではない。それを察した佐藤洋子が白野を追い詰め、やがてそれが殺意に転化したとしたらどうだろう。それに佐藤洋子の夫の死も、あまりにも都合が良すぎた。そこにも作為を感じてしまう。
では、後援会長の松中はどうか。これも生方の報告でわかったことだが、松中は、土建屋の時代、白野と同郷であり、幼なじみの白野の力を得て、のし上がったということがわかった。
小さな土建屋から県内でも有数の建設会社へと変貌した松中を支えていた影の力が白野だった。そう考えても不思議ではない事例がいくつもに渡って出てきた。ただ、彼等は巧妙にその事実を隠蔽し、秘密を秘密のままにしてきた。白野にとっても松中から貢がれる資金は魅力だったに違いない。だが、国会議員を嘱望する白野にとって、身辺を浄めておくことは必要不可欠なことだった。そのためにも松中と絶縁しておく必要があった。松中とこのままズブズブの関係を続けていたらそのうちメディアにかぎつけられ、今回の不倫と同様の悪夢になることは間違いなかった。
しかし、松中はどうか。彼には白野をここまで押し上げたのは自分だという強い思いがあったはずだ。たとえ相応の見返りがあったとしても、それ以上の力を与えてきたと松中は自負していたと思う。だから、白野が自分と絶縁することなど到底許せるわけがない。もし、白野がそう考えていたことを彼が知ったらどうだろう。そこに殺意が生まれても決して不思議ではなかった。
芝谷由佳は四十代の独身女性だ。保険の外交員をしていて、白野とは保険勧誘で知り合い、ファンになったという。そこには何ら複雑な関係が生じていないように思える。しかも、今回は挨拶しただけと紹介されている。彼女をこの事件から除外してもいいのではないかと私は思った。
秘書の松坂はどうか。彼には特に動機のようなものがなかった。むしろ白野がいなくなると困る立場だ。彼もまた除外していいだろう。
死体で発見された山本はどうか。白野とは常に敵対関係にあった。そこには憎悪しか存在しなくても決して不思議ではない。白野が国会議員を志望していたように、山本もまた同様に国会議員への道を考えていたのだろう。ただ、これまで山本は選挙資金を捻出するためにかなりあくどい資金調達をしてきた。過去に、それがスキャンダルとなって一時は県会議員の地位さえ危ぶまれたことがあった。白野がそのことを知らないはずはなかっただろう。同様に山本もまた白野の不倫スキャンダルを知っていた可能性がある。山本と白野の確執が山本の殺意を生み、青酸カリを混入して白野を殺し、自身も自害して果てた。そういったストーリーも十分考えられた。
女将はどうか。白野が倒れ、絶命寸前の時の女将の姿は異様で、とても客と女将の関係とは思えないほどだった。
白野がこの温泉宿を頻繁に利用していたことは事実だ。だが、彼は佐藤洋子との不倫のためだけにこの宿を利用したのだろうか。むしろ、女将と会うことが白野にとって、ここを訪れる最大の目的ではなかったのではないか。確かに最初は佐藤洋子との不倫のためにこの宿を利用したのだろう。しかし、夫に見つかって脅迫されるようになってからは佐藤洋子とは会っていなかったはずだ。だが、生方の報告によれば一カ月に三度、四度と利用している。しかもつい最近までそれが続いていたという。生方はそれを佐藤洋子との不倫と思ったようだが、私はそれは違うと思った。
佐川警部は数時間に渡って六人を聴取した。だが、パーティー会場のことゆえ、曖昧模糊として実態が掴めないでいた。
山本の検死報告が佐川警部の下に届いたのは午前11時のことだった。やはり死因は青酸カリによるもので、白野に使われたと同じ青酸カリが使用されていた。しかし、自殺か他殺かの見極めについては判然としなかった。もし自殺なら遺書が遺されているはずと思い、警部は徹底的に部屋を調べさせたが遺書のようなものは出て来なかった。
当初、佐川警部は私を疑って身辺調査をしたようだ。その結果、私と白野との接点は何も見つけられず、そのうち、私が出版社の編集長をしていて、こうした事件に深入りしてたまに解決していることを知り、急に友好的になって相談を向けて来るようになった。それは私にとっても好都合なことだった。私の知らない新情報を得られる機会が増えるからだ。
急転直下、犯人が逮捕されたのは、それから数時間後のことだった。
私は、温泉宿の大幅なリニューアルが事件の鍵を握るのではと思い、佐川警部と共に女将を追求した。結果的にそれが事件解決に至るきっかけになった。
女将は、代々続く古びた温泉宿を大幅に改装して新しいイメージの宿にしたいと常々考えていた。しかし、実行に移そうにも資金が大幅に不足していた。
宿自体は昔からの客も多く、この不景気な時代に好調を持続していたが、湯治客や家族連れなどの利用だけではいずれジリ貧になると考え、危機感を募らせていた。
多くの客を大量に呼び込める宿、多目的に利用出来る宿を模索していた女将は、斬新な企画を設けて自分の代でさらにこの宿を発展させることを考え、建築会社の松中に相談を持ちかけた。
松中は女将の美貌に惚れ込み、資金調達の道を模索したが、それにはどうしても白野の政治力が必要だった。やがて、白野も参加し、三人で企画を練った。そこへ白野の不倫問題が発覚し、それを清算することが先決になった。
佐藤洋子の夫は執拗に金を要求してきた。一度ならず二度、三度とそれが続いて白野は殺害を計画するようになった。それに加担したのが松中であり女将だった。
松中も女将も白野が政治家で居続けることですべての計画が叶うと信じていた。そこで、妻の佐藤洋子を巻き込んで佐藤洋子の夫の殺人計画を実行することになった。
交通事故を装った殺人は、思いの外うまくいき、誰も疑う者などいなかった。ただ、問題は、目撃者がいたことだ。
女将が佐川警部を前にして事件の全貌を語り始めた。
「交通事故による殺人を考えたのは松中でした。白野が、金を渡すからといって佐藤洋子の夫をこの宿に呼び寄せ、ここへ来る途中、事故死に見せかけて殺しました。あの日、松中は、山間の道で佐藤洋子の夫が車で現れるのを待っていました。予定通り現れた佐藤洋子の夫の乗った車が急カーブに差しかかったところで、松中はスピードを上げて突然、飛び出しました。飛び出て来た車に驚いた佐藤洋子の夫はハンドルを切り損ね、急傾斜の山間に突入しました。そのまま車は転がり落ち、佐藤洋子の夫はあえなく命を落としました。松中がそれを見届けて去ろうとした時、通りかかったのが保険外交員の芝谷でした。彼女はその日、保険セールスの仕事で得意先へ向かっている最中でしたが、事故を目撃し、慌てて車を降りると、携帯電話で助けを呼ぼうとしました。それを止めたのが松中です。救急車を呼ばれて、万が一にでも助け出されると困ります。仕方なく松中は芝谷を言い含めて、目撃しなかったことにしてくれるよう頼みました。芝谷は金の匂いをちらつかされると案外素直に承諾しました。但し、自分も仲間に組み入れてくれるよう頼んで――」
女将は途中、目の前に置いたお茶を口にしてなおも語り続けた。
「交通事故は不慮の死と判断され、運転者の過失死となって、その時点で計画は成功しました。ただ、仲間が四人になったことは想定外でしたし、いつ裏切りがあるかわかりません。それぞれ疑心暗鬼になりながら計画を進めました。この宿のリニューアルには十億円単位の費用が必要で、それで果たして採算が取れるかどうかが問題でした。ただ、白野と松中にはもう一つ壮大な計画がありました。この宿を中心に、この地域全体を一大リゾート地にするというものでした。すでに松中は土地の売買を進行させていて、実現すれば西日本エリアでも有数の山間のリゾート地になるはずでした。それには白野が国会議員になることが絶対条件でした。国会議員になれば地域にも顔が利き、計画の実現を県に対して強く出られると考えたからです。
それをかぎつけた人物がいました。それが山本議員です。彼がなぜ私たちの計画を知ったのかずっと疑問でしたが、後で芝谷から情報を得ていたことがわかりました。山本と芝谷は出来ていたのです。だから私たちの計画はすべて山本に筒抜けでした。
山本は常々、白野に敵意を抱いていました。女性の得票数が高いこと、安定した支持があり、国会議員に立候補しようとしていることなど、山本の嫉妬心を高めるのに十分な内容でした。山本は松中を脅迫し、白野から自分に乗り換えろと迫りました。
山本は金に汚い男でしたが、女性に対しても同様に汚い男でした。彼は私に関係を迫り、受け付けないとみると佐藤洋子にも強姦まがいに手を出しました。芝谷がそれを知るのに時間はかかりませんでした。
松中は表面上、山本にいい顔をしていましたが、本心はそうではありませんでした。松中と白野は子どもの頃からの付き合いです。ちょっとやそっとでは崩れない固い絆がありました。
結局、私たちは山本を殺すということで合意しました。つまり、白野、松中、芝谷、佐藤洋子、私の五人です。どうやって殺害するか、考えた末に選んだのが、昨日のパーティーでした。
あの日、私たちは山本を囲むようにして座りました。青酸カリは松中が用意しました。親戚の農家が防虫のために青酸カリを使っていたことを知っていたので、それをもっともな理由を付けて借用したようです。青酸カリをどのタイミングでコップに入れるか、それが問題でした。誰にも見られないように五人で山本を囲むようにして座り、佐藤洋子がグラスに青酸カリを入れる。それが当初の予定でした。
誰に目撃されるかわからないということで、停電を装うことを考えました。停電させたのは、私の甥の正治です。正治は自閉症気味のところがあって、ずっとうちで裏方を務めてもらっています。彼は私のいうことなら何でも聞いてくれますから。7時半に近づいたら照明を切ってくれるように依頼し、仲居の晴子にだけそのことを話して、その瞬間、正治の側に誰も近づかないよう見張りを頼みました。
計画はうまく行きました。時間通り照明が切れ、会場内は真っ暗になりました。その瞬間、佐藤洋子が山本に青酸カリを入れるはずでした。ところが照明が点くと、倒れていたのは山本ではなく白野さんでした……」
女将はそこまで一気に話して、今回の事件に甥の正治は関係がない、仲居の晴子も関係がないと警部に訴えた。
正治は、私が湖へ行く途中に出会った若者だった。仲居の晴子は、送迎のマイクロバスに同乗したあの女性だろう。その二人の件で不思議に思ったことが二つあった。それを女将に訊ねた。
「正治は晴子と付き合っています。半年ほどしたら結婚する予定です。編集長があの日正治と出会ったのは、湖の近くで晴子と会っていたからでしよう。二人の仲はこの宿の者にはまだ秘密にしています。だから時間を見て、湖の近くで落ち合い、話していたようです。正治は晴子以外誰も打ち解けませんからあの湖が唯一の逢い引きの場所なのです」
晴子がパーティの時、姿を見せなかったのは、女将に頼まれて正治を見張っていたからだと、女将は言った。
山本殺害を画策したはずが、白野が亡くなり、事態は急転した。佐藤洋子は青酸カリを間違って白野に入れたのか、それとも最初からそのつもりでいたのか。その夜、山本は聴取を終えた後、宿の外に出ている。何のために外へ出たのか。
佐藤洋子の自白によって白野殺害の全容が解明したのは、女将の告白の後、数分後のことだった。
あの日、佐藤洋子は青酸カリを入れる役割を自ら買って出た。
「パーティーでの計画が練られた後、私は山本に呼び出されました。ホテルのラウンジで私を待っていた山本は、巧妙な話術で私を言い含め、私たちが画策していることを知るために私に言い寄りました。もちろん私は山本をはねつけました。芝谷から山本の異常な性癖を聞いていましたから最初から警戒していました。芝谷は山本の性癖と金に対する異様な執着心にあきれ果て、すでに別れる決心をしていました。芝谷に逃げられて白野の計画をスパイする者がいなくなった焦りから山本は私に狙いを定めたようです。
私が山本に会いに行ったのは、彼が夫の生前の借金のことで、解決するいい方法が見つかったと言ったからです。私は夫の借金に苦しんでいました。保証人になっていましたから。それでその時、私は藁にもすがりたい思いでいました……」
まんまと山本の計略にはまった佐藤洋子は、酒の中に入れられた睡眠薬のためにホテルの一室に運ばれ、そこで山本に辱めを受け、その痴態を撮影されてしまう。佐藤洋子はそれを白野にだけは知られたくなかった。彼女は白野を心底愛していたのだ。
当日、佐藤洋子は青酸カリを混入する役割を買って出る。彼女は照明が消えるとすぐにそれを実施した。山本は今回の計画を佐藤洋子から聞いて知っていた。だからみんなを偽って白野に青酸カリを混入するものと信じて疑わなかった。ところが、照明が急に消えたため、不安に思った山本は自分のグラスと白野のグラスをとっさに取り替えた。
結果的に白野は亡くなり、山本は安堵した。これで自分を中心に計画が回って行くはずだ、そう信じて疑わなかった。聴取を終えた山本は外に出て女将の携帯に電話をした。女将を脅迫したのだ。同時に松中と芝谷にも釘を刺した。
放心状態でいた佐藤洋子はそれでも気丈でいた。自分が殺した、愛する白野の死を前にして山本への殺意を膨らませていた。
その夜遅く、佐藤洋子は誰にも知られず山本の部屋を訪ねた。山本は佐藤洋子の来訪に喜んで部屋の中へ招き入れた。山本は佐藤洋子が白野のグラスに青酸カリを入れたと信じていたのだ。不安になって寸前に取り替えたのが自分だということを、この時、山本は完全に忘れていた。通常では考えられないことだが、山本は佐藤洋子の自分への愛を信じていた。だから山本は事件の後、佐藤洋子にだけは脅迫の電話をしていなかった。
山本は佐藤洋子を抱いた。佐藤洋子はその後、山本のコップにお茶を入れ、青酸カリを混入して飲ませた。少量でも死に至る毒薬だ。山本は翌朝、死体となって発見された。
事件はこうして解決した。直接手を下した犯人は佐藤洋子、彼女は二つの殺人事件と一つの殺人事件の教唆の疑いで逮捕された。女将は直接ではなかったが、その罪は決して軽くなかった。それは芝谷も松中もそうだった。
温泉宿は女将が、仲居の晴子と甥の正治に継いでもらうよう命じ、一線を退いた。松中は建設会社を息子に譲り引退し、服役した。
白野の後は、秘書の松坂が継いだ。線の細い松坂では到底務まらないだろうと多くの人が噂したが、彼は見事に当選し、やり手の県会議員になった。
事件から数カ月後、ほとんど一年が過ぎようとしている日、女将からハガキが届いた。
晴子と正治が結婚式を挙げるから来てくれという知らせだった。
女将は半年で釈放されたようだ。これからは別の道を歩いて行くと、ハガキの隅に小さく書かれていた。私はその日のうちに返事を書いた。
『喜んで出席します。ただ、その時、正治と晴子に一つだけ聞きたいことがある』と、言葉を添えて。
あの事件の中でわからないことがあるとしたら二人の役割だ。照明を消すよう正治に指示したと女将は語っていた。晴子には正治を見張っておくようにと伝えていた。二人の役割は本当にそれだけだったのか。
山間の温泉宿には謎が多い。新たな事件が起きないよう心から祈っている。
〈了〉
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