悪魔の棲む家 前編

高瀬 甚太

 昨夜からずっと耳鳴りと幻聴のようなものが続いている。朝方になってそれが余計にひどくなり、小林時雄課長補佐は、その日、仕事を休んだ。しかし、横になっていてもよくなるものでも治るものでもなかった。そう判断した小林は、午前九時を待ってかかりつけの医院に出かけた。
 小林の住む町は都心から四〇分ほどの郊外にあり、駅から歩いて一〇分ほどの場所にある。中古物件だが建売の一軒家を二年前に購入し、半年前まで家族と共に住んでいた。
 築二〇年の中古にしては高額な金額を必要としたが、それでも小林がためらうことなく購入したのは、住まいの場所が気に入ったことと、独特の建築様式に惚れこんだからであった。
 かかりつけの医院が臨時休業していたことから、仕方なく小林は、一駅離れたところにある、耳鼻科の専門医を訪ねることにした。
 その医院を訪れるのは初めてのことだった。旧い住宅をそのまま利用したのだろう、瀟洒な門をくぐると広い庭があり、庭の中にアジサイの花が咲き乱れていた。医院であることを思わせない造りになっていて、石畳を歩いて入り口に着くと、小さな筆文字で『加藤耳鼻咽喉科』と書かれた看板が架けられていた。入口のドアを開けると、すぐに待合室があり、数人の患者が順番を待っていた。受付に保険証を差し出すと、受付の老婆がにこやかな笑顔で応対し、問診票に記入するよう小林に言った。
 旧くからある医院なのだろうと小林は思った。自宅に診療室だけ別にあつらえたのだろう、そう思わせる受付と診療室、待合室、施術室があり、一階の奥まったところと二階が住居になっているように思えた。
名前を呼ばれて小林は診察室に入った。白衣を着た高齢の医師が小林を迎え入れ、
 「今日はどうしましたか?」
と聞いた。
 「耳鳴りがひどくて、おまけに幻聴も――」
と訴えると、医師は左耳のそばに右手をかざして、しばらくそのままじっとしていた。
 「以前からありましたか?」
 と聞くので小林は首を振った。
 「昨夜、それまでも時々、ありましたが、こんなにひどくなったのは初めてです」
 医師は、今度は小林の右耳のそばに左手をかざし、しばらくかざした手を止めた。耳鼻科に診てもらうなど初めてのことだったが、おかしな診察の仕方だなと、小林は医師の診療を見て思った。
 「どのようなところに住まれていますか?」
 医師に聞かれた小林は、住まいが耳鳴りや幻聴と何の関係があるのだろうか、不思議に思いながらも答えた。
 「N駅から歩いて一〇分ほどの場所にある、築二〇年になる住宅です。洋式と和式が混合しているところが気に入って二年前に購入しました。それがどうかしたのですか?」
 「家族は?」
 「半年前に妻と別れて、妻が子どもを連れて出て行きましたので、今は一人暮らしです」
 「……」
 医師が急に黙り込んだので、一瞬、小林は不安になった。
 「それが耳鳴りや幻聴と関係があるんですか?」
 医師は、小林の目を見つめて迷うことなく言った。
 「あります。あなたの耳鳴りや幻聴は、体の不調から起きたものではありません。明らかに霊的現象です」
 その言葉を聞いて小林は吹き出した。医師が冗談を言っている。そう思ったのだ。
 「冗談ではありません。そのまま放っておくと、大変なことになりますよ」
 高齢の医師の厳しい視線にさらされて、その時、初めて小林は震撼した。
 「もし、先生のおっしゃる通り、霊的現象だとしたら、一体、どうすればいいのでしょうか?」
 「その原因を探ることです。霊的現象が起こるには理由があります。私が考えるに、あなたの住まいにその原因があるように思います」
 「住まいといっても――、確かに二〇年ほど経っていますが、それほど古い住宅ではありません。二年前、入居する際、一応、全面的にリフォームしていますし――」
 「理由はわかりません。だが、私の診るところ、あなたの耳鳴りや幻聴はこのまま放っておくとあなたの精神に重要な影響をおよぼします」
 三十代前半での課長補佐昇格は、社内では出世頭で、一、二年のうちに課長になることは間違いないだろうと周囲から期待されている。しかし、耳鳴りや幻聴が続けばそれも夢となってしまうに違いない。他に手立てがないのであれば、霊的現象の原因を探るほか術がない。
 「先生、その原因を探るのに何かいい方法はありませんか?」
 医師は少し考えた末、一枚の名刺を小林に差し出した。
 『極楽出版編集長 井森公平』とその名刺に記されていた。
 「この名刺がどうかしたのですか?」
 「その井森編集長に電話をしてごらんなさい。私からもよく言っておくから」
 「わけがわかりません。出版社の編集長に電話をしてどうするのですか?」
 「私に相談してみろと言われたと言って頼んでごらんなさい。それしか方法がない」
 納得のいかない表情の小林をそのままにして、医師は、次の患者を招き入れた。仕方なく小林は診察室を出た。何の治療もしてもらえず、クスリの手配もない。一体、何のためにやって来たのか、小林は怒りを禁じえなかった。
 明日は、どうしても休むことが出来ない大切な会議があった。幸い、耳鳴りも幻聴も少し収まったような気がする。小林は別の病院を探すことをあきらめて家に戻った。
 自宅の前に立ち、家屋を眺めた。庭こそ小さいが、二階建ての木造家屋にひっつくようにして、洋式の家屋が連なっている。和と洋の合体は決して珍しくはないが、最初に見た時、この家の建築様式は、小林が今まで見たものとはずいぶん違うもののように感じた。それで無理をして購入した経緯があった。
 ところが住んで一年も経たないうちにトラブルが発生した。隣り近所が、突然、騒音被害を訴えてきたのだ。
 ――うちは専業主婦の妻と小学生になったばかりの娘がいるだけだ。騒音など起こすはずがない。しかし、どんなに説明をしても隣り近所は聞き入れなかった。どんな騒音なのか聞いても、具体的には教えてくれない。ただ被害を訴えて来るだけなのだ。
 隣り近所が訴えてきたのは騒音だけではなかった。ゴミのことまで煩く言い出した。ゴミは毎朝、決められた場所に捨てている。そう説明するのだが、近隣の住民は、私が近所の家の前に捨てていると言って聞かない。怒り心頭の近所の家の前に行くと、何と、ゴミ置き場に捨てたはずの我が家のゴミが近所の家の前に置かれていた。
 その他にも数えきれないほどの苦情が届いた。すっかり神経をすり減らした妻は、ほどなくして子供と共に家を出て実家に帰り、一年ほどして離婚証明書が妻の実家から届いた。
 あわてた私は、妻に離婚の理由を聞こうと思い、実家を訪ねたが実家の両親はけんもほろろの状態で私を妻に会わせなかった――。
わけがわからないまま、小林は妻と離婚せざるを得なくなった。妻と子どもとはそれ以来、一度も会っていない。
 ――妻が家にいなくなってからというもの、どういうわけか隣り近所からの苦情が一切、なくなった。その代わり、体に変調をきたすようになったのだ。身体の節々が痛んだり、原因不明の高熱に襲われたりもした。ただ、どれもが短時間で治癒し、病院に行くまでに至らなかった。ただ、このところの耳鳴りと幻聴は毎夜のように続いており、特に昨夜はひどかった。それで会社を休み耳鼻科へ行く気になったのだが、行った病院で、治療もせずに出版社の編集長の名刺を渡されるなど夢にも思っていなかった。

 その夜、小林は一層ひどい耳鳴りと幻聴に悩まされ、夜中に飛び起きた。一向に収まらない耳鳴りと幻聴に悩まされ、その夜はとうとう一睡も出来なかった。早朝に起きた小林は、悩んだ末に耳鼻科の医師にもらった名刺の出版社へ電話をすることにした。
 ――極楽出版ですが。
 早朝の六時だから誰も出ないだろうと思っていたのに、すぐに返事が返って来たことに小林は驚いた。
 ――耳鼻科の加藤医院の院長先生に、お宅の名刺をいただき、相談するといいと言われましたので、突然で申し訳ありませんが、電話をさせていただきました。
 ――加藤先生ですか。確かに昨日、加藤先生からお電話をいただいています。もし、小林という方から電話がかかってきたら、相談に乗ってやってほしいと言われておりました。小林さんでいらっしゃいますか?
 ――はい、小林です。失礼ですがお宅は確か、出版社ですよね。どうして加藤先生がお宅に連絡をしろとおっしゃったのでしょうか?
 ――確かにうちは出版社で、病気を治す医院とはまったく縁のない仕事です。小林さんがおかしく思うのは当然でしょう。加藤先生が私に相談をしろと言われたのは、多分、小林さんの病気が霊的なものではないかと判断されたからだと思います。
 ――霊的なものと判断したから、加藤先生はそちらを紹介したというわけですか? ますますもってわかりません。
 ――以前、加藤先生の患者をお助けしたことがあります。その時のことを覚えていたから、私を紹介したのでしょう。ただ、私は出版社であって医師ではありません。本を編集したり、作ることが仕事ですから、たとえ、加藤先生の頼みであっても、はい、わかりましたというわけにはまいりません。
――……。
 ――どうされましたか?
 ――耳鳴りと幻聴がひどくて……。
 ――いつからですか? そうなったのは?
 小林は、家を購入してから、様々な苦情が舞い込むようになり、それが原因で女房子供と離婚に至ったことや、女房子供が家を出て、ぴったり苦情が収まったこと、その代わり、今度はひどい耳鳴りと幻聴に悩まされ、仕事に支障を来すようになっていることなど、詳細に亘って井森に話して聞かせた。
 ――なるほど……。確かに普通ではありませんね。
 ――お願いです。一度、私の家を見ていただけませんか?
 ――家に問題があるとお考えなんですね。
 ――そうとしか考えられません。すべて家を購入してから始まったことですから。
 ――……。
 ――代金ならお支払します。一度、私の家を見ていただけませんか?
 ――先ほども申し上げましたように、私は出版社が本職です。出版に関すること以外で報酬を得ようとは思っていません。
 ――加藤先生は、あなたにお話をし、相談すれば解決策が見いだせるかも知れないとおつしゃっていました。お願いです。
 ――仕方がありませんね。では、一度、家を見せていただくことにしましょうか。
 ――今日は私、出社しなければなりません。重要な会議がありますので。できれば今日、の夕方、私の仕事が終わってからお願いできませんでしょうか? この耳鳴りと幻聴はますますひどくなっています。これ以上、これが続いたら、どうにかなってしまいそうです。
 ――わかりました。今、午後六時にお伺いします。私も急ぎの仕事がありますから、ゆっくり出来ませんが――。

 その日の夕方近く、井森は事務所を出て大阪メトロに乗り、私鉄に乗り換えた。終点近くで下車し、そこから歩いて10分と聞いていたのでゆっくり歩いていると、周囲の草木の緑の色が徐々に深まって来ることに気が付いた。一軒家が軒を連ねる閑静な住宅街だった。
 小林の家はこの辺りではないかと、10分ほど歩いた場所で井森は周囲を見渡した。すると、井森の視界に不思議な家が映った。和式建築と洋式建築が合体した奇妙な家が見えたのだ。表札を見ると、小林と書いてある。井森はチャイムを鳴らした。
 チャイムを鳴らすと同時に門が開き、玄関から小林が顔を出した。憔悴しきった青白い顔が印象的だった。
 「どうぞ、お入りください」
 和の玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩いて井森は応接室へ招かれた。応接室は洋館の一部にあり、和式が暗いのに対して洋式が異様に明るいことに気が付いた。
 「奇妙な建築構造ですね。和式が全体的に暗いのに洋式の部屋は妙に明るい。窓を大きく取ってあるせいか、それとも蛍光灯のせいでしょうかね。非常に明るいですね」
 挨拶もそこそこに小林に家の感想を告げると、小林は、暗い顔を押し隠すようにして笑みを浮かべ、
 「そこが気に入って購入したのですが……」
 と言葉少なに語った。
 「この家の前の持ち主はどんな方だったかご存じですか?」
 「購入する前、私も不動産会社に聞いたことがあります。二〇年前、この家が建てられた後、一〇年ほどで持ち主が手放され、それを不動産会社が転売するつもりで購入したと聞きましたが、詳しいことは聞かされていません」
 「そうですか。ところで小林さん、私、先程から気になっているのですが、洋式のこの建物の天井、少し変な気がしませんか?」
 和式の方は、普通の家と変わりない天井なのに対し、洋式の部屋は天井が吹き抜けのがらんどうになっている。吹き抜け自体は決して珍しいことではないが、二階建にしてもいいほどの高さがあるのに、この家の洋式は一階建で、二階を建てる途中に突如、取りやめにした、そんな感じになっていた。
「私も購入する前、そう思いました。吹き抜けにしてはおかしい。元々、二階建にする予定であったものを何かの理由で一階建にしたんじゃないか、そう思ったので不動産会社の担当者に尋ねました。すると担当者は、理由はわかりませんというだけで一向に要領を得ませんでした」
 「そう思って見てみると、和式と洋式の組み合わせが歪ですね。どちらかが最初に建っていて、どちらかを後に建てて無理やりくっつけた、そんな感じです。少し異様ですよね」
 この住宅様式は建売ではなく、注文建築なのだろうと井森は思った。この家を建てた人間は、明らかに何らかの意図を持って建築しているはず、その意図はわからないが、不自然な建て方のように井森は感じた。
 「最初、この家を見た時、面白いなと思ったんです。アンバランスな建て方がむしろ私は気に入って購入したのですが、住んでみるとおかしなことが次々に起こって――」
 小林は、近隣の苦情の話や妻と子が出て行った話だけでなく、奇妙なことが次々に起こっていると語った。
 「いえね、よくラップ音と言うでしょ。あれが一時期、頻繁に家のあちこちから聞こえたことがあるんですよ。最初は、まるで気にしていなかったのですが、そのうち、音が激しくなって――」
 「今でもそれが聞こえるのですか?」
 「いえ、今はその音はまったく聞こえません。それ以外にも和室の部屋の中で人が喋っているような声が聞こえたり、でも、部屋を覗いてみると何も聞こえないのです。空耳かなと思っていたら、実はそうではなかった、部屋でじっとしていると、本当に声が聞こえて来るんです」
 まさしく霊的現象だと井森は思った。この部屋の持ち主である小林に霊たちは何かを訴えようとしているのではないか、井森はそう感じた。
 「小林さん、この家を建てた持ち主を急いで探しましょう。早急にそれをやらないと危険です」
 小林には、井森の言っている危険の意味がわからなかったようだ。
 「それよりも井森さん、私の耳鳴りと幻聴は治るのでしょうか?」
 両方の耳を抑えて小林が聞く。小林にとっては、井森の話す霊的現象がよくわかっていないようだった。
 「この家を購入する際、世話になった不動産会社を教えてください」
 井森が性急に聞くので、小林は仕方なく、自分の部屋へ行き、机の引き出しに閉まってある不動産関係の資料を取り出し、井森の前に持って来て置いた。
 丸物不動産と書かれた書類を手にした井森が、
 「この不動産会社ですか。契約したのは?」
 と聞くと、小林は「そうです」と答え、井森が場所を尋ねると、地図を書いて場所を示した。
 「普通、不動産会社は駅の近くにあるものだと思いましたが、この不動産は、辺鄙な場所にありますね」
 「でも、クルマだととても便利な場所です。この辺りの人はほとんどの人がクルマで移動しますからね。むしろ駅近くより店が繁昌するぐらいです」
 「じゃ、小林さんの持っているクルマで私をこの不動産に連れて行ってください」
 「でも、私が以前、尋ねたことがありますが、担当者は資料が残っていないのでわからないと言っていました」
 「大丈夫です。きっと答えてくれますから」
 井森は自信ありげに答えて、小林の運転で不動産会社へと向かった。
 二階建ての丸物不動産は、県道に添って立つ大きな建物だった。交通量が意外に多い場所なので、駐車場も広く、確かにクルマが停めやすい、誰もが寄りやすい場所であった。
 「小林さんの前の持ち主ですか? 先日もお答えしましたが――」
 と、不動産会社の担当者は、いかにも面倒くさそうに井森に答えた。
 「わからないわけはないでしょ。人の命がかかっているのですよ」
 井森が語気を荒げて言うと、担当者は、エッという顔をして井森の隣りにいる小林の顔を覗き込んだ。小林が困った顔をして俯くと、担当者は焦った表情になり、今度は井森の顔を覗き込んだ。
 「上司に相談してきます」
 井森の剣幕に押された担当者は、急いで二階に上がった。
 しばらくして上司と思われる恰幅のいい男性が担当者と共に降りてきた。
 「個人情報に抵触しますので、小林さんの前の持ち主のことを話すわけにはいかんのですよ」
 個人のプライバシーを守るということを建前に逃げようとしていることがひと目でわかった井森は、上司に向かって言った。
 「ことは急を要します。個人情報の保護は確かに大切なことですが、このまま放置しておくと、小林さんは大変な目に遭ってしまいます」
 「ことは急を要するって何だね。大げさな」
 上司の男は、名刺も出さず、井森を嘲笑するように言う。井森は、語気を荒げて上司の男に向かって言った。
 「住人の小林さんは、あの家の霊に囚われて、今、大変な目に遭っています。このまま放置しておくと間違いなく、小林さんは命を奪われます」
上司は吹き出すようにして言った。
「霊とはね。奇想天外な話を持ち出すじゃないか。頭がおかしいんじゃないか、きみは――」
 「小林さんの前に住んでいた住人はどうなりましたか? その前は? そのことを小林さんに最初に説明していますか。おそらく何も説明していないでしょうね。事故物件を購入者に説明しないで売ると、これは完全に違反になります。どうですか。訴えてもいいんですよ」
 上司と担当者の顔色が明らかに変質した。井森がかまをかけて言った言葉が的を射たようだ。
 「私は、極楽出版の井森と申します。すべてを話してください。そうでなければ、私はあなた方の会社を訴えます」
 上司は、しばらく沈黙した後、井森と小林を応接室に招き入れ、誰も入って来ないようにと担当者に言明し、井森に向かって話し始めた。
 「私、丸物不動産の専務取締役、橿原暎二と申します。この店の不動産会社の実の息子です。小林さんの物件ですが、あの建物は、二〇年ほど前、船場で繊維問屋を経営していた芦原正人さんという社長さんが建てたものです。芦原さんは、資産家で芦屋や大阪の帝塚山にも豪壮な家を持っていたのですが、繊維不況が災いして急激に没落し、その上、株の暴落などで、手痛い打撃を受け、経営していた会社のほとんどが倒産し、資産のほとんどを失ってしまいました。唯一残されたのがあの建物です。そこで夫婦二人で住んでいたのですが、その奥さんにも先立たれ、芦原さんは、ひっそりと暮らしていました。
 ある時、そんな芦原さんの元へ、芦原さんの元愛人の息子と名乗る男が現れました。その愛人とは確かに一時期付き合い、面倒をみて来たことがあったようですが、子供が産まれたなど聞いていなかったので芦原さんは大そう驚いたようです。自分の息子である証拠をみせるよう迫ったそうですが、息子と名乗る男は何も証明することなく、芦原さんの家に居座ったのです。
芦原さんの生活は一気に破たんを来しました。と言うのも、芦原さんの息子を名乗るその男は芦原さんに対して異常な行動を起こし始めたのです。遺産を根こそぎ奪おうとしただけでなく、家の改造を勝手に始めてしまったのです。
 小林さんが住まっているあの建物も、元は和の建築様式でした。息子を名乗るその男が、芦原さんの了解を得ずに家の半分を無理やり洋式の家に建て替えさせようとしたものですが、突然、息子が失踪し、そのプランは途中で頓挫しています。
 私共は芦原さんとは先代からの付き合いで、かねがね芦原さんから息子に対する苦情を聞いていましたので、いなくなったことを手放しで喜んでいました。
 ところが、そんなある日、芦原さんの元愛人が訪ねて来て、息子を殺したんじゃないかと芦原さんに迫ったのです。芦原さんはその頃、すでに90歳近い高齢で、とても人を殺せるような体力などないし、またそんな人ではありません。しかし、元愛人は、息子が殺されている、調べてほしいと執拗に警察に願い出て、警察が芦原さんの家を捜査した経緯があります。しかし、殺害の痕跡など当然のことながらどこにもなく、警察の捜査は終了しています。
 その後、ほどなくして芦原さんは肺炎が元で亡くなりました。家の名義は芦原さんの孫に継がれましたが、その孫も交通事故で死亡し、持ち主不明になっていた家を私の父親が買い取ったというわけです」
 最初のふてぶてしさから、急に神妙な態度に一変したことに井森は驚いた。あの家の持ち主である芦原という人物に相当の思い入れがあるのではないかと、その様子を見て思った。
 「芦原さんの元愛人の息子と名乗る男は結局、見つからないままですか?」
 「ええ、行方不明になったまま、現在に至っています」
 「芦原さんの死ですが、肺炎とおっしゃいましたが、それは間違いありませんか?」
 「医師の診断ではそうなっていますが、本当の死因は別にあるのでは、とまことしやかに語られたこともあります。肺炎に至るまでの過程で何かがあった、私の祖父はそう疑ったようですが、結局、肺炎で死亡と言うその記録だけが残されています。井森さんは、相当、勘がいいようなので、その後のこともお話ししますが、小林さんの前に、実は三人の方がお住まいになっています。一人は杉本さんというガソリンスタンドを手広く経営されていた方で、家を買われて一年目に不審な死に方をしています。一応、死因は心臓麻痺ということになっていますが、芦原さんと同様に疑わしい点がたくさんありました」
 「二番目も三番目も同様に不審死しているのですね」
 「共通しているのが、三人共、本人を残して全員、家族が家を飛び出して離婚しているということですね。一人だけ残って不審死をする。このパターンです。もちろん何度もお祓いし、呪われた家という噂が立たないよう気を付けて来ましたが、効き目はありませんでした。小林さんの場合、あの家を買いたいと言って来られた時、何度か考え直すように進めた経緯があります。それでも小林さんの決心が固かったので売却しましたが――」
「その小林さんも今また不都合な出来事に見舞われ、先人と同様に離婚を余儀なくされ、自身も霊的現象に陥っています。そのことについてあなた方は何も手を打たなかったのですか?」
 「手を打てなかった、というのが正直なところです。私たちが第一の住居人や第二、第三の住居人の力になろうとすると、なぜか邪魔が入ります。小林さんからも再三、家の元の持ち主について尋ねられましたが、私たちは一切、口に出しませんでした。そうしなければ、私たちが呪われる、そう思ったからです」
 「呪われる?」
 「そうです。第一の住居者の方に、元の持ち主を聞かれ、うちの担当者の一人が話して聞かせたことがあります。その担当者は、第一の住居者が死んだ後、すぐに不審な死に方をしています」
 「偶然ではありませんか?」
 「そう思いました。でも、第二の住居者に同じ質問をされた時も対応した担当者が元の持ち主について話をしたところ、その担当者も同じように第二の住居者が亡くなってすぐに命を落としています」
 「……」
 「第三の住居者の時は、さすがに担当者に口止めをしました。二度も続くと偶然とは思えませんからね」
 「それで小林さんには何も言わずにいたわけですね」
 「そうです。言えば担当者に害が及ぶと思いましたから」
 「わかりました。ところで、芦原さんに関する資料について何かお持ちじゃありませんでしょうか? 芦原さんと祖父の方はかなり親しい関係でいらっしゃったようなので、もし、何か残っているものがあれば見せていただきたいと思いまして。ええ、何でも結構です。芦原さんの書かれたものがあれば――」
 橿原は少し考えた後、書類の詰まった棚を物色し始めた。
 「確か、この辺りに置いてあったはずですが――」
 棚を物色していた橿原の手が止まり、棚の奥から封書を取り出した。
 「井森さん、これは芦原さんから祖父に送られてきた手紙です。祖父が棚の奥に大切にしまっておいたものです」
 橿原から手渡された封書を見て、井森は、
 「読ませていただいてよろしいですか?」
 と断り、封筒の中の便箋を取り出した。便箋は全部で三枚に分かれていた。
<後編につづく>


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