危機、眠る平家が目を覚ます

高瀬甚太

 コピーライターの木島信行と言う青年がいて、主に広告文を中心した文章を書いているのだが、たまに私の仕事を手伝ってくれることもある。彼は非常に繊細な神経の持ち主で、しかも寡黙で大人しい。その木島が、このところ毎日のように事務所にやって来る。仕事ではない。個人的な要件で、私に助けを求めてくるのだ。
 「夜中の3時に決まって目を覚ますのです。早い時間に寝ようが遅い時間に寝ようが、必ず3時に目を覚まします」
 疲れた、青ざめた顔が痛々しい木島は大きなため息をつき、私に話す。誰かに聞いてもらわないと落ち着かないのだという。
 「目を覚ましてしばらくすると、私はいつも幻覚を見てしまいます。戦国時代の落ち武者が私の前に現れて、刀を振りかざすのです。それがとてもリアルで――」
 話の途中から木島の唇がわなわなと震えてくる。
 「こんな話をしても多分、編集長以外、誰も信じてくれないでしょう。病院へ行って精神科医にかかれと言われるのが落ちで――。編集長、どうか私を助けてください。落ち武者の振り下ろす刀が、日を追うに従って私のもとに近づいてきて、このままでは、私、きっと殺されてしまいます」
 恐怖のあまり仕事が手に付かない、という木島を放っておくわけにもいかず、私は木島にさらに詳しい話を聞き、対策を練ることにした。
 木島によると、幻覚を見始めたのは一週間ほど前からのことで、それまではそんな兆候は一切なく、突然、そんな幻覚を見始めたのだと言う。
 「最初に幻覚を見た日のことを覚えていますか?」
 木島に聞くと、木島は手帳を繰って、その日の動向を調べ始めた。
 「十月七日が最初ですが、その日は観光会社の依頼を受けて、早朝から淡路島に出かけています。淡路島の名刹を紹介するといった企画で、観光会社に指示された寺をいくつか取材しました。淡路島には淡路七福神と呼ばれる寺があって、万福寺、八浄寺、覚住寺、智禅寺、長林寺、宝生寺、護国寺とあるのですが、もう一つ、七福神には含まれていない、玄幽寺という寺を取材するよう言われていましたので、最後にその寺を取材することにしました。
 ところが、その場所がなかなか見つかりません。南淡路市にあるということでしたので役所や警察、あらゆる公的機関を通じて調べましたがどうしても見つかりませんでした。あきらめて帰ろうとした時、道端で休んでいた老婆を見つけ、念のために聞いたところ、幸運なことにその老婆が玄幽寺の場所を知っていたのです。
 老婆に道を聞き、手帳にその道順を筆記した私は、レンタカーを借りて、玄幽寺に向かうことにしました。淡路島の中南部、淡路平野から紀伊水道までの起伏の大きな山地、ここには、淡路島最高峰と言われる諭鶴羽山があります。諭鶴羽山の南側は断崖の急斜面、水仙の自生地でもあり、この近くに目的の玄幽寺があると老婆に教えられた私は、その周辺を探し歩きましたが、見つけることはできませんでした。
 あきらめて帰ろうとした時のことです。車を走らせ、ふと前方を見ると、玄幽寺と書かれた看板があるではありませんか。看板の場所に車を停めて確認すると、看板には、「玄幽寺この先3キロ」の表示がありました。
 黄昏かけた空の色が心配でしたが、私は急いで車を走らせ、玄幽寺にようやくたどり着きました。しかし、そこは廃寺でした。どこで聞いても誰に聞いてもわからなかったはずです。荒れ果てた寺内を歩きましたが、観光のためのものなど、何も見つけられません。ただ、寺内にたわわに実る琵琶の実が印象に残ったぐらいで、なぜ、こんな寺を取材しろとスポンサーが言ったのか、不思議でなりませんでした。
 結局、私は玄幽寺に関しては何の成果も得られず、そのまま帰阪しました。その日の夜半からです。私が毎夜3時に目を覚まし、落ち武者の幻覚を見るようになったのは――」
 「なぜ、玄幽寺の取材をしなければならなかったのか、広告会社に確認しましたか?」
 「ええ、翌日、広告会社の担当に会って確かめました。すると、おかしなことに、私に依頼をした直接の担当者は急に退職したとかで、容量を得ません。仕方なく、担当者の上司である蒲田主任という方に尋ねました。玄幽寺を選んだのは何か意味があったのですか? と。すると蒲田主任は、こちらは七福神しか依頼していないはずだ、と言うのです。私が、担当の方に七福神以外にもう一つ、玄幽寺を取材してくれと頼まれ、わざわざ探し当てて、取材に行ったことを話すと、蒲田主任は怪訝な顔をして、そんな寺、依頼するはずはないのだが――、と言って頭を抱えました」
 「玄幽寺についての詳細はわかりましたか?」
 「いえ、それがまったく掴めません。どこをどう探しても資料どころか、寺に類する資料は何も見つかりませんでした。玄幽寺の原稿は書かなくてもよくなったので、どうということはなかったのですが、それでも気になって仕方がなくて――」
 木島の話を聞いていて、少し気になることがあったので尋ねた。
 「広告会社の担当者が木島くんに玄幽寺を取材してくれと依頼した時の状況を詳しく話してくれませんか?」
 「淡路島の七福神の取材を依頼されて、七福神に関する資料や話を聞きました。その時、担当者に電話がかかって来て、電話を切った直後、その担当者が、突然、『南淡路市に玄幽寺という寺があります。そこの寺の取材もお願いします』と言いました」
 「担当者が電話を受けるまでは、七福神だけの取材依頼だったのですね」
 「ええ、そうでした」
 「担当者から電話を受けている時、担当者が喋った言葉を覚えていませんか?」
 「――そうですね。あまりよく覚えていないのですが、確か、呪い……、という言葉を耳にした気がします」
 「呪い――、ですか」
 確認すると、木島は小さく頷き、
 「呪いがどうの……、そんな言葉を口にしていたような気がします」
 今度は自信なさげに私に言った。
 「その担当者の現在の所在は掴めていますか?」
 「いえ、それが主任もわからないらしくて。私が取材から帰る前日、突然、辞表を提出して退職したそうです。退職した後、その担当者に確認したい事項ができて、連絡を取ったようですが、電話は不通になっていて、すでに住まいも転居していたと、蒲田主任は話していました」
 木島の顔は顔面蒼白で、寝不足からくるのだろう、疲れがありありと顔に出ていた。その表情を見て、何かに取り憑かれている――、そんな予感を私は抱いた。
 「私が思うに、何者かに仕組まれて、きみを淡路島の玄幽寺に向かわせた気がする。多分、それはきみの前世からくるものか、もしくはこれまでの過程できみが何か、重要な問題を冒している――、どちらかの可能性が強いように思う。淡路島へ行ったのは、今回が初めてではないよね」
 「ええ、比較的近い場所ですし、今までに四回ほど行っています。でも、仕事で行ったのは今回が初めてです」
 「それまでは観光目的ですか?」
 「ええ、キャンプが一度、デートが一度、ドライブで二度――。その程度ですかね」
 「比較的、新しいのは?」
 「二週間前、彼女と車でドライブに出かけました。それ以外は数年前のことで、あまりよく覚えていません」
 「ドライブに出かけた女性との仲は現在、どうなっていますか?」
 「ドライブ中に諍いを起こしましてね、以来、口も利いてくれないありさまです」
 「諍いというのは?」
 木島は、頭を掻きながら答えた。
 「本当につまらないことで喧嘩をしました。なんであんなことで喧嘩をしたのか、自分でも不思議でなりませんでした。何度か謝ろうと思って電話をしたり、彼女の家にも行ったのですが、取りつく島がありません――」
 「具体的にどのようなことで喧嘩をしたのですか? 差支えなければ聞かせてください」
 「それが今回の幻覚に関係していると言うのですか?」
 「わかりません。ただ、あながち無関係ではないと思っています」
 木島は少しためらいをみせたが、やがて、大きく息を吐くと、話し始めた。
 「――実はあの日、ドライブをしていて、本道を離れたところに車を停めて二人で休んでいたのです。彼女とは三度目のデートで、これまで映画を観たり、喫茶店でお茶を飲んだりするだけの関係でしたので、少し勇気を持って、彼女に迫ろうと思い、人気のない場所に誘いました。紀淡海峡を臨む風光明媚な場所でした。座って海を眺めている途中、私は崖のところに光るものを見つけ、好奇心を抱いた私は、崖を少し下って、それを取りに行こうとしました。近づいてみると、光っていた物体は、小刀のようなものでした。その小刀が崖の途中、崖に生える小枝に絡んで光っていたのです。手に取って小刀を眺めると、かなり旧い年代のものであることがわかりました。それを手に取って、彼女に見せたのです。すると、彼女の顔がにわかに険しくなって、その小刀を捨てて! と言うのです。私は、せっかく拾ったものだから、捨てないと言いました。少し言い争いになって――。それからですね。彼女は急に口を利いてくれなくなって――」
 「その拾った小刀は、今、どうしていますか?」
 「部屋の中で大切に保管しています。それがなにか?」
 私は、急いで席を立ち、木島に言った。
 「木島くん、きみの部屋に行こう。私の勘では、拾ったその小刀が今回の落ち武者の亡霊と関係があると思う」
 「拾った小刀が?」
 「ああ、すぐに行こう」
 木島を急き立てるようにして事務所を出た私は、西区の阿波座にある木島のマンションに急いだ。
 地下鉄を乗り継ぎ、中央線の阿波座で下車した私たちは、駅からそう遠くない場所にある木島のマンションに入り、五階奥にある木島の部屋のドアを開けた。その瞬間、独特の異臭、腐敗臭のような臭いが鼻を射た。
 「木島くん、これは何の臭いだ?」
 「わかりません。朝、部屋を出る時はこういった臭いはしていませんでした」
 ハンカチで鼻を抑えながら1LDKの部屋を見渡すが、腐敗臭の原因のようなものはどこにも見当たらなかった。木島が窓を開け放ち、空気の入れ替えを図ったが、この臭いは相当強い臭いだ。窓とドアを開け放ってもなお消えなかった。
 「小刀はどこに置いている?」
 ハンカチで鼻を抑えながら聞くと、木島は、部屋の隅に置いてあるデスクを指さして、
 「その机の右下にある大きな引き出しの中に入れています」
 と言う。
 どうやら臭いの根源は、隅に置かれたデスクの周辺から漂っているようだ。木島に引き出しを開けるように言い、腐敗臭の元を探るため、デスクの周辺を見回していると、木島が突然、「アッ」と大きな声を上げた。
 「どうしたんだ?」
 木島が青ざめた顔をさらに青くして、開けた引き出しを指さし、震えている。引き出しの中を見ると、腐敗した黒い猫の死体が引き出しの中に入っていた。
 「どうしてこんなところに猫の死骸が――」
 驚愕の表情を浮かべ、茫然と立ち尽くす木島は、今にも卒倒しそうで、顔色を失くしていた。キッチンで使うゴム手袋をして、井森はそっと黒猫の死骸を取り出した。黒猫は何者かに腹を切り裂かれ、引き出しの中に血をしたたらせていた。黒猫の死体を取り上げたその下に、木島が拾ったという小刀が血まみれのまま置かれていた。腹を切り裂かれた黒猫の死骸を見て、木島はトイレに駆けつけ、激しく嘔吐した。
 黒猫の死体を近くの公園に埋葬し、部屋に戻った私は、引き出しの中から小刀を取り出し、血で汚れた引き出しを丁寧に洗い、小刀もまた丁寧に洗った。
 「どういうことですかね、編集長。私が部屋を出る時は、引き出しの中に猫の死骸などありませんでした――」
 木島の疑問にどう答えていいかわからなかった。私には、すべての元凶が、木島が崖で見つけ、拾った小刀にあるように思えたが、それさえも定かではない。ただ、猫が腹を切り裂かれて殺された、ということは異常な事態だ。これは何か、そのことがもっと大きなことを暗示しているように私には思えた。
 「木島くん、きみは今、とても危険な状態にある。このままではきみの命が危ない。今から友人の住職に連絡を取って、相談をしてみる」
 木島は、顔面を蒼白にして、
 「編集長、私は人に恨まれるようなことは何もしていません。私の留守中に侵入して、猫を殺してその死骸を引き出しの中に入れるなど、犯人は異常です。このままだと、編集長のおっしゃるように、いつ何時、襲われ、殺されるかわかりません。住職よりも警察に連絡した方がいいのではありませんか?」
 木島は、自分の留守中に侵入し、猫を殺して引き出しの中に入れたのが人間だと思っている。そう思うのも無理はない。だが、私はそうは思っていなかった。
 滋賀県の劉王寺に連絡を取り、川口慧眼和尚を呼び出してもらった。慧眼は、旅の好きな男で、始終、出歩いている。今回もそうではないかと危惧したが、すぐに電話に出た。
 ――よう、元気にしているか?
 慧眼の声が懐かしく感じられた。時候の挨拶を控え、私は木島の件を手早く話して聞かせた。慧眼は、井森の話を聞いた後、しばし沈黙して、太い息を吐いた。
 「編集長、きみのいる場所を教えてくれ。すぐに行く。これは私の手に負えない事件かも知れないが、何とかやってみる」
 木島の住所を教えると、慧眼は「今から行く」とだけ言って、電話を切った。
 やはり、この小刀に問題があるのだと、井森はその時、改めて悟った。
 木島は、しきりに警察に連絡しましょうよ、と言って、私を促すが、私は、もう少し待ちなさいと言い、興奮する彼を椅子に座らせ、待つように命じた。
 臭気はようやく消え失せたが、デスクに置かれた小刀の刃に付いた猫の血は洗っても消えず、赤みを帯びた刃が妖しく光を放っていた。
 なおも落ち着かない様子の木島に言った。
 「木島くん、きみにこんなことを話すと、私の頭がどうかなってしまったのでは、と思ってしまうかも知れないが、今回の事件の発端は、すべてこの小刀にある。この小刀がどういういわれのあるものか、見当も付かないが、因縁を感じることはできる。きみが拾ったこの小刀が、やがてきみを大きな不幸に陥れることを私は充分予測することができる。それを防ぐのは警察の力ではない。そのため、私は友人をここへ呼んだ。もうしばらく、私を信じて、ここで待ちなさい」
 私の言葉に、木島はようやく落ち着きを取り戻した。だが、全面的に私の言うことを信じたわけでもなさそうだ。その証拠に彼は、しきりに携帯を眺め、110番を押すそぶりを見せた。
 小一時間して、慧眼和尚が現れた。彼は挨拶もそこそこに小刀を手に取ると、激しい声と荒い息を吐き出して、小刀を手から放り出した。
 「編集長、これは想像以上のものだ。この小刀に潜む妖気は、並みのものではない。早く手当をしなければ、大変なことになる」
 慧眼は木島に、この小刀を見つけた状況を詳しく聞いた。木島は、紀淡海峡を見下ろす眺めのいい崖の途中に小枝に絡まった形で小刀があったと説明をした。
 「その時、この小刀は、そのまま小枝に絡まった形で置いてありましたか?」
 慧眼の質問に、木島は、その場面を反芻するように目を閉じた。
 「白い半紙のようなものに柄の部分だけが包まれていました。私が手にすると、白い半紙はどこか、遠くへ飛び去りましたが――」
 「その白い半紙に文字が書かれていませんでしたか?」
 木島は、慧眼の言葉に、宙を眺めるようなまなざしを浮かべ、静かに考えた。
 「そういえば、何か、書かれていたような気がします。すぐに飛んで行ってしまったので、何が書かれていたか、まるでわかりませんでしたが――」
それだけ聞くと、慧眼は、井森の方を振り向いて言った。
 「治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦だが、平安時代の末期に起こった大規模な内乱で、後白河法皇の以仁王の挙兵をきっかけとして各地で打倒平家の反乱が起こった。平清盛が生前中はまだしも、熱病で亡くなってしまうと、平家一門は相次ぐ反乱に対処できず、瀬戸内海に添って西国に落ち延びた。瀬戸内海の各地には、さまざまな平家の落ち武者たちが住んだという隠れ里が存在する。淡路島の地にも、おそらく平家の落ち武者たちが住んだのだろう。そして、その中には怨念を抱きながら亡くなった平家の落ち武者たちも多数存在したことと思われる。木島くんが拾った小刀もその怨念の象徴であったかも知れない。過去に多くの問題を起こしたその小刀を封じ込める作業が営まれ、崖の下の小枝の木に怨霊を封じ込んだ文字を書き記して、置かれていたのだと私は推測する。
 その小刀を木島くんが拾い、封じ込めていた呪文を解いてしまった。この小刀には、想像を超える霊力が含まれていて、とうてい人間に太刀打ちできるようなものではありません。解放された怨霊たちの呪いが多分、今後、多くの人間や社会に影響を与え続けることになるはずだ」
 「では、慧眼和尚を持ってしてもどうすることもできないということですか?」
 私の問いに、慧眼和尚は、小さく首を振り、
 「そうではない」
 と確信を込めて言い放った。
 「怨霊たちの霊力とまともに戦って勝てる保証はないが、人間は、戦う能力と共に、癒す能力も兼ね備えている。怨霊たちの怨念を癒す方法を見つけることができたら、どうにかなる可能性はある」
 「怨霊たちの怨念を癒す方法ですか――」
 慧眼和尚の話を聞いて、思い浮かんだことが一つあった。それは、木島が淡路島へ取材に出かけた時、玄幽寺という寺に誘われたことが一つのヒントになっているような気がした。
 木島が、予定にない玄幽寺に取材に行くように命じられたこと、そして、木島が辿り着いたその寺で、何も起きず、帰阪してから落ち武者の亡霊に悩まされるようになった、そこに怨霊と対峙する重要なキーワードがあるように思えたのだ。
 慧眼和尚にそのことを話すと、慧眼和尚も井森と同様の思いを抱いたようで、すぐに淡路島へ出かけようということになった。
 慧眼和尚は、小刀に仮の封印をして、レンタカーを借り、井森の運転で木島と共に出かけることにした。木島は事の成り行きが理解できないようであったが、付き合わないわけには行かなかったのだろう。渋々、車に同乗した。
 大阪から明石まで高速を乗り継ぎ、兵庫県垂水区と淡路市の岩屋を結ぶ明石海峡大橋を渡り、本四連絡道路を通って玄幽寺を目指した。
 木島は、玄幽寺の場所をしっかりと記憶していた。ハンドルを握る私を悩ませることなく、行き先を指示して、井森たちは難なく玄幽寺に到着することができた。
 玄幽寺は、朽ち果てた土の塀と、伽藍の跡を偲ばせる土台が残るだけの廃寺で、琵琶の実をたわわに実らせた琵琶の木と、小さな祠のようなものが一つ、生い茂る草の陰に隠れて存在した。
 慧眼和尚は寺の中央に佇むと、静かに空を仰ぎ見た。小刀を手に持ち、しばらく寺の中を歩き回ると、やがて草むらに隠れた小さな祠の前に座し、手に持った小刀を祠の前に置き、呪文のような歌を奏で始めた。私には、その歌がどういうものであるか見当が付かなかった。ただ、聞いているとなぜか耳に心地良く感じられた。
 木島は呆然と私のそばに立っていた。おそらく木島には、慧眼和尚がなぜ、こんなことをしているのか、何のためにしているのか、わかっていないのだと思う。こんなことをするよりも、自分の部屋に侵入し、猫の死骸を置いた不埒な人間を捕まえてほしい、そう思っていたに違いない。
 慧眼和尚の呪文のような歌のような儀式は約1時間程度続いた。歌が終わりかけたその時のことだ。慧眼和尚の前にあった小さな祠がパッという音と共に小さく発火した。
 慧眼和尚はそれを見ると、今度は激しい勢いで大きな声でお経を唱え始めた。たわわに実っていた琵琶の実が、一つ、また一つと大地にその実を落としていく。同時に、朽ち果て、辛くも残されていた土塀がもろくも崩れ落ちて行く。玄幽寺の風景がにわかに怪しく変貌していくのを、私と木島はただ見守っていた。
 慧眼和尚が立ち上がると、祠の発火は消え、すべてが収まった。
 慧眼和尚は、祠の前に置いた小刀を天に捧げるように恭しく持ち上げると、呪文のような言葉を発し、前のめりに倒れた。慧眼和尚はそのまましばらく起き上がらなかった。慧眼和尚を助け起こそうとしたが、途中でやめ、自然に目を覚ますのを待つことにした。

 帰阪する車中、慧眼和尚は私に語った。
 「怨霊たちが戦いを挑んでいるようには私には見えなかった。それよりも逆に、癒しを求めているような気がした。本来なら、木島くんが小刀の封を破った瞬間、天変地異を揺るがす怨霊たちの動きがあってもおかしくなかった。だが、怨霊たちはそれを辞め、木島くんを淡路島のこの地に呼び寄せ、玄幽寺に誘った。怨霊たちは木島くんに期待していたのだろう。安らかに眠らせてほしい、そう期待していたのかも知れない。だが、霊力の何たるかを知らない木島くんには難しいことだった。その夜から彼の前に現れ、要請したが、木島くんは怖がるばかりでしっかりと対峙することができなかった。
黒猫を殺して引き出しの中に入れたのも、怨霊たちの仕業で、あれは最後の警告だった。あの時、木島くんが編集長の元に相談に行かなければ、そして、編集長が私に連絡をしていなければ彼の命は危ないところだった。
 戦えばとても勝てる相手ではなかったが、私には怨霊たちの気持ちを読み取る能力がある。それが幸いした。私は、癒しと安眠を望む怨霊たちに応えるため、精一杯の努力をした。癒しの言葉を放っている時、私には、怨霊たちの感謝の声が聞こえたよ。小刀は、改めて封をし、玄幽寺の寺内に埋葬した。二度と表に出ることはあるまい」
 慧眼和尚はそれだけ話すと目を閉じて高いびきを立てて、眠ってしまった。慧眼和尚が使った体力は相当のものであったのだろう。
 「編集長、やっぱり、警察に届けなくていいですかね」
 助手席にいた木島が聞いた。
 「何を届けるんだ?」
 「勝手に部屋に侵入されたことと、猫の死骸を引き出しの中に入れられたことですよ」
 木島は何もわかっていなかった。慧眼和尚の姿を見て、何をどう思っていたのだろう。井森は笑うしかなかった。
 「それにしても、あの小刀、残念なことをしたなあ」
 木島のつぶやきを聞きながら、私は明石海峡大橋を渡りきった。
〈了〉

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