マダム

高瀬 甚太

 えびす亭の中でひときわ異彩を放つ客がいる。マダムと呼ばれる六十代後半のオカマである。さぞや値が張るだろうと思われる和服に身を包み、きれいに結った髪を整えてしずしずと柳腰で歩く様は、女性そのもので、男性であることをまったく感じさせない。
 マダムがいつから「えびす亭」に来るようになったのか、見当もつかないほど昔から顔を出し、バーに出る前の少しの時間を利用して酒を一杯ひっかけにやって来る。
 マダムの店は、えびす亭から歩いて八百メートルほどの場所に立つ猥雑な店の居並ぶ雑居ビルの五階にある。
 バーの名前は『ピエロ』、店内は、カウンターだけの小さな店である。十二席の止まり木があるが、それが満杯になることなどめったになかったが客は絶え間なくやって来る。店にはマダムの他にチーママのよしこ、日替わりでやって来る若いスタッフが四名ほどいる。
 チーママのよしこは、マダムより十歳若く、小柄だが見映えはよく、饒舌な話しぶりで客を飽きさせないところに魅力があった。
 「今日はマダムはまだ来ていないの?」
 証券会社の経理課長をしている佐藤宗之がよしこに聞いた。彼はマダムの大ファンで、マダムが店にいないと、まだ来ていないのかと、いつ来るのか、尋ねるのが常だ。
 「一度来ましたが、出かけています。30分もすれば帰って来ますよ」
 よしこが答えると、佐藤は、ブランデーグラスを傾けながら、
 「えびす亭か。好きだものなあ、マダムはあの店が」
 と感慨深く言う。
 「佐藤さんもよくいらっしゃるの?」
 「昔はね。今はあまり行かない。立ち呑みの店は疲れるからね」
 「私もあまり好きじゃないけど、マダムったら店に来る前に必ず、あの店に一杯ひっかけに行くのよ。しかもあの和服姿で」
 「店で呑んでいる連中はみんなびっくりするんじゃないか」
 「びっくりしますよ。それでもマダムはあの通りの人でしょ。誰にも親切でやさしくて、だからえびす亭の人たちにもずいぶん好かれているようですよ。店の客が時々、マダムを訪ねてやって来ますから」
 佐藤はブランデーで舌を潤し、ひとり言のようにつぶやいた。
 「何年前になるかなあ……。私がまだ主任になったばかりの頃だった――」
 「えっ……?」
 「いやね、昔の話なんだがね」
 「マダムの話ですか?」
 「そうだよ。マダムの恋物語さ」
 佐藤の話によしこが耳をそばだてる。バイトの柏木くんも客のあしらいをしながら佐藤の話に興味ありげな素振りを見せる。
 「由香ちゃん、しっかりお客様の相手をしなさいよ」
 よしこが柏木洋一に釘を刺す。柏木は二二歳の若者で、この店では由香と呼ばれ、生野のマンションで彼と同棲している。
 「はーい」
 柏木が愛らしい声を出してカウンターの客の水割りにウイスキーを注ぐ。素直なところが彼のいいところだ。
 「佐藤さん、そのマダムの恋物語、わたし、興味があるんだけど」
 よしこが甘えたような声を出して、佐藤にねだる。五〇代半ばの佐藤は、マダムとは一五年来の付き合いである。マダムの私生活を知っていても決して不思議ではない。
 「マダムが長い間付き合っていた彼がえびす亭を好きでね。その彼に付き合うためにマダムもよく店に出かけていた」
 「マダムの元彼って、武田さんのことですか?」
 「そうだよ。武田基次郎、○○電器の取締役だった。マダムより一五歳上だったと思う。大手の企業のえらいさんでありながら腰の低い人でね。人柄がとてもよかった。マダムもきっとその人柄に惚れて付き合うようになったのだろう。武田さんがなぜ、えびす亭を好きだったのか、私たちには理解不能だったが、マダムは多分、その理由を知っていたんだと思う。仲よくえびす亭のカウンターに立っていたよ。その武田さんが心臓病で急死してね。マダムの元に武田さんの死が知らされたのはずいぶん後のことだった」
 よしこは途端にしんみりとなり、思い出したように昔を語った。
 「あの頃、マダムは元気がなかったわ。武田さんが店に来ないので何かあったのか、心配で仕方がなかったみたい。会社にも電話をすることができないし、家にももちろん電話などできなかった。武田さんにはきちんとした家庭がありましたからね」
 「マダムが知ったのは、えびす亭の中でのことだった。マダムがえびす亭に行きたいけど一人ではいけないと言うので、私が一緒に行った。そこでマダムはえびす亭の客から武田さんの死を知らされたんだ。嘘でしょ、とマダムは客に掴みかからんばかりにして叫んだ。あんなマダムを見たのは初めてだったよ。泣いたね。人前も構わず、マダムが泣いてね。でも、誰もそれを見て冷やかしたり笑ったりするような者はいなかった。もらい泣きをする者がいてもね」
 佐藤はグラスの酒をグイッと呷り、ため息を洩らした。
よしこもまた佐藤の話に呼応するように言った。
 「武田さんの喪に服するのだと言って一週間、店を閉めたことがあったわ。その一週間が過ぎてからだわ。マダムが一人でえびす亭に顔を出すようになったのは」
 「不思議でしたね。それまで一人であんな店に行くのは嫌だ、と散々言っていたのに、急に行くようになりましたからね。どういう心境の変化があったのか、その時の私には見当がつきませんでしたが……」
 「マダムが私によく言ってました。武田さんが立ち呑みの客たちに慕われているのを見るのが嬉しかったって。本当に気さくで誰にもやさしい人だったわって――。供養のために出かけているのだとばかり思っていたけれど、マダムのえびす亭通いは続いたわ」
 「そこから再び、マダムの恋物語が始まるのさ」
 佐藤がそう言いかけたところにマダムが帰って来た。
 「あら、佐藤ちゃんいらっしゃい」
 マダムの笑顔を見た佐藤は、よしこに向かって、
 「この続きはいずれまた」
 とウインクを一つ送ると、マダムと一緒になって話し始めた。
 
 チーママのよしこは、マダムを心から尊敬している。と言うよりもそれはほとんど崇拝に近いものがあった。よしこには一途なところがあり、惚れやすいという欠点があった。男が男を好きになるのは半ば本能に近いものがあり、好きになったものの相手にその気がなく、また同性愛を嗜好する資質がなくて振られたということも数限りなくあったようだ。
その頃、よしこは本名の井伏泰明という名前で小さな商事会社の事務員をし、スーツ姿で仕事をしていた。会社の人たちは誰もよしこの性癖など知らない。
その会社に出入りする運送会社の運転手に二十代前半だった三島仁志がいた。三島が荷物を運んで来た時、その対応をするのがよしこの役目だった。親しく話をするようになったよしこは、三島を食事に誘った。三島は年齢が十数歳上のよしこに素直についてきた。
酒を呑んでいるうちによしこは、ふと三島に自分の性癖を話してみる気になった。三島はよしこの好みの男性だった。酒に酔っていたよしこは、多分気が大きくなっていたのだろう。あけすけに自分が同性愛者で男性にしか興味がないことを三島に話し、誘った。
意外なことに三島もまた同性愛の資質を持っていた。三島はその日、よしこの家に泊まり、同棲生活がスタートした。
同棲生活が三カ月ほど続いた日のことだ。三島が突然、帰って来なくなった。それまでは必ず連絡があったのに、その時はそれさえもなかった。いつの間にか運送会社も退職していた。心配したよしこは心当たりのある場所を探し回り、三島を追いかけた。一週間ほどして、よしこは部屋の中から金銭、通帳、印鑑、貴金属のすべてがなくなっていることに気付いた。あわてて銀行へ電話をすると、すでに一切の金が下ろされた後だった。
ようやく三島を見つけ出したよしこは三島に問いただした。三島は開き直ってよしこに言った。
「金を盗んだことは悪かったよ。だけど、ゲイの相手を務めたんだ。これはその報酬と割り切ってほしい。訴えるのだったら訴えてもいいが、恥を掻くのはあんたの方じゃないか。俺は、確かにゲイの要素はあるが、ゲイにはなり切れない」
三島はすでに十代の女性と同棲を始めていた。よしこのことを本当はどう思っていたか、最初から騙すつもりならもっと早く金を奪って逃走しただろう――。そう思ってよしこは自分で自分を慰めたが、金を失い、恋人を失った傷は深く、その夜、よしこは一人で数軒の店を梯子して呑み狂い、最後に入った店が『ピエロ』だった。
『ピエロ』に入ってマダムと会い、愚痴をこぼしている時、よしこは、どこへ行っても晴れなかった気持ちが少し晴れたような気がして驚いた。相手がオカマだったからだろうか、それとも――。よしこはその時、思った。自分はこの人と会うために、傷を負いこの場所へ来たのではと。それほどマダムの存在はその時のよしこには神々しく見えた。
何も語らず、じっとよしこを見守る温かなマダムの視線に、よしこは心が癒されるのを覚え、この人のそばでずっと居ることができたらどんなに幸せだろうか、と真剣に考えた。
よしこが商事会社を退職し、『ピエロ』で働くようになったのは、その数日後だった。
その日からよしこは、男を捨てて女に変わった。

『ピエロ』の客の中に吉田譲二という男がいた。三十代後半にして前頭部が大きく禿げあがり、お相撲さんと仇名されるほどの巨漢だったが気が小さく、店にやって来てもほとんど語らず隅の方でじっとしているような男だった。
「お相撲さん、どうしたの? 今日は元気がないじゃない」
よしこが話しかけると、吉田は、首を横に振って、
「よしこさん、ぼく、また振られました」
と情けなさそうに言う。よしこが慰めてやろうと思い、悪戯半分に吉田の手を握り、頬にキスをすると、とたんに吉田は舞い上がってしまった。
よしこが突如、同性愛に目覚めた吉田と付き合うようになったのはその時からのことだ。マダム公認の仲だったが一緒に住んではいなかった。吉田の家には、役所に勤める厳格な父親と何事にも厳しい母親がいて、よしこと付き合っていると知ると、おそらく卒倒して気絶するのではないか、それを危惧して吉田は家族に秘密にしていた。
マダムはよしこを時々、えびす亭に誘うが、一度としてよしこは一緒に行ったことがなかった。立ち呑みの店と聞くだけで、よしこは怖気を覚え、行く気にならなかった。

再び佐藤が店にやって来たのは三日後のことだ。その日、佐藤は上機嫌で店にやって来た。店にはよしことバイトの二人がいて、客は四人ほど止まり木に座っていた。
「いらっしゃい。あら、今日はずいぶんご機嫌ね」
よしこの言葉に佐藤は相好を崩し、
「わかるかね」
と答えた。
「何かいいことあったんですか?」
とよしこが聞くと、佐藤は、
「辞令が出てね。万年課長からようやく脱出できることになった」
と言って、「新しいブランデーをボトルキープするよ」と気前のいい言葉を口にした。
しばらく気分よく酒を呑んでいた佐藤は、よしこが傍に近づくと、
「チーママ、この間の話の続きを聞きたくないか」
と言った。
「マダムの新しい恋物語ですよね。それはもうぜひともお聞きしたいですわ」
マダムの恋物語という言葉を耳にしたバイトの二人が、「マダムの恋物語ですかー?」と言って近寄って来る。
「客のお相手をしていなさい」
よしこが叱ると、二人とも所定の位置に戻り、渋々、客の相手をし始めた。
「武田さんの死から一年経って、マダムはえびす亭で偶然、同級生と出会った。私もその時、たまたまマダムの傍にいたんだが、その同級生が入って来た途端、マダムがアッと息を飲んだんだ。同級生だとすぐにわかったんだろうね。だが、同級生の方はマダムをみてもわからなかった。
『師岡くん、今日は。お久しぶりです』
同級生の傍に近寄ったマダムが声をかけた。師岡という同級生は目を白黒させて、誰かわからずドギマギしている。マダムが、橋本健一です、と名前を告げると、師岡は、エッと声にならない声を上げてマダムをじっと見つめた。ようやく気付いた師岡は、『会いたかったよ』と叫ぶようにして言ってマダムを抱きしめたんだ」
佐藤は変わらず上機嫌でいた。課長から出世したのがよほど嬉しいのだろう。男社会から離れて久しいよしこには、今はもうその気持があまり理解できなかった。
「師岡とマダムは中学生時代、どこへ行くにも一緒で一番仲がよかったらしい。高校でもずっと一緒で大学に入る頃に初めて別々になった。学校は違っても変わらず付き合っていたが、師岡は家庭の事情で大学を中退し、家族と共に九州に移り住んだ。
以来、連絡が取れなくなってそのまま音信不通になってしまったらしい。四十数年ぶりの再会にマダムは喜びを隠しきれなかった。だが、その反面、マダムは変わり果てた自分の姿に師岡がどう反応するか、心配でならなかったらしい。
――橋本、とてもきれいだよ。
師岡はその時、真剣な顔でマダムに言った。おそらく冗談や冷やかしではなかったと思う。師岡の言葉に感動したマダムは、化粧した頬に大粒の涙を落とした。
友情から愛情へ、移り変わったのはその時だと思う」
「その後、二人はどうなったの?」
よしこが佐藤に聞いた。
「それはきみたちがマダムに直接聞いてみることだ」
と言って佐藤はグラスの中のブランデーを氷と共に喉の奥に流し込み、答えをはぐらかした。
それからしばらくしたある日、マダムがよしこを呼んだ。佐藤から師岡との出会いの話を聞いてから一週間も経っていなかった。
「よしこ、お前、この店で働き始めてもうずいぶんになるだろう?」
マダムに聞かれたよしこは、ざっと回想して、
「十年は超えていると思います」
と答えた。
「じゃあ、充分経験は積んでいるわけだ」
「いえ、まだまだだと思います」
「十年、オカマの店を経験すれば資格は充分だよ。よしこ、いいかい。『ピエロ』のマダムは、明日からよしこに譲るからね。この店すべてがお前のものだ。頑張るんだよ」
突然のマダムの言葉によしこは狼狽した。
「そんな、マダム、無理です。マダムあっての店ですし、マダムあっての私です」
「いいかいよしこ。人には巣立ちというものがあるんだ。いつかは巣立たなきゃならない。あんたにとってはそれが今日なのさ。あんたは充分、マダムとしてやっていける。私が保証するよ。自慢じゃないけど、この店の客は筋がいい。常連も多く、馬鹿みたいに儲かっていないけど、赤字を出すようなことは絶対にない。――よしこ、今まで本当にありがとう。あんたがいてくれたおかげで私もずいぶん助かった。しっかりやって行くんだよ」
マダムはそう言ってよしこの手を握った。よしこは突然の話に面食らったまま呆然自失している。
マダムは頑固だ。一度言い出したら利かない。そのマダムに言われたら抵抗なんてできるものではない。なぜならよしこにとってマダムは神だったから――。
「この店から離れてマダムはどうなさるおつもりですか?」
よしこの問いにマダムはしばし熟考した。
「私もこの年だ。それほど先は長くない。――よしこは私がこの店を始めたいきさつを知っているかい?」
よしこが首を振ると、マダムはいつもと違う、男の声色で喋った。
「元々、私はゲイじゃなかったんだ。オカマバーをやるなんて考えてもいなかった。大學を出て就職して働き始めてすぐに恋をした。会社の先輩に連れて行ってもらったバーでカウンターに立っていた女性に一目ぼれ……。足しげく通ったよ。私にとって理想の女性だった。そんな私の一途な気持ちを相手の女性も感じ取ってくれたんだろうね。私たちはいつしかデートを重ねるようになった。三回目のデートの時だっただろうか。ホテルに誘うと、彼女は素直についてきた。だけど、ホテルのベッドに入ったところで、私は信じられないものをみた。彼女の股間に私と同じ一物があったんだ。
彼女は男だった。私は思わず声を挙げそうになった。だってそうだろ。私はノンケで女性にこそ興味があっても男にはまったく興味がないと思っていた。だけど、男とわかっても、私はその人が好きになっていた。セックス云々じゃなくて、多分、愛で結びついていたと思う。同性とのセックスはその時が初めてだった。嫌な印象は不思議となかった。多分、私は生まれながらの同性愛体質なのだろうとその時、思ったわ。その後も私はその彼女と度々会った。そのうち彼女が、私に、『あなたも女になって見たら?』と言い始め、私もおふざけでやってみた。すると、彼女が『あなた、きれいよ』ってほめてくれた。それがきっかけになって私、目覚めたのだと思う。彼女とはしばらく付き合って、やがて自然な形で別れた。そして私、武田さんに出会った。
亡くなった武田さんは本当に心のやさしい人で、私のことを愛し、慈しんでくれたけれど、私たちの間にはセックスはなかった。武田さんは私を抱きしめ、やさしく包んでくれた。その人が亡くなって、私はずいぶん気落ちしたわ。
あの人が好きだったえびす亭、私、初めの頃はあまり好きじゃなかった。でも、武田さんが亡くなって、一人でえびす亭に顔を出すようになって初めて知ったわ。武田さんがえびす亭に何を求めてやって来ていたのか――。
武田さんは心のぬくもりを求めていたのよ。えびす亭の人たちが武田さんを慕っているのを見て、それを知ったわ。
今度、恋を知ったら、もし真剣な恋が出来たら、店を譲って、その人と夢を見て暮らしたい。武田さんとの恋で叶えられなかったものを捕まえたい。そんな少女のような夢を考えていたの。
でも、それはあくまでも夢でしかなかった。そう思っていた。でも、そうじゃなかった。私、出会ったの。運命の人に――。
師岡くんと私は、中学時代からの大の親友だった。高校時代も仲が良くていつも一緒に過ごしていた。でも、高校を卒業してからは離れ離れになって音信不通になってしまった。
会えなくなって初めて気付いたの。会いたい、と思うこの気持ち、胸が張り裂けるような思いは恋ではないかと――。たとえそうであっても、親友に告白できるものではない。告白した段階で友情は壊れてしまい、たとえ出会えたとしても会えなくなってしまうだろう。そ思っていた。
えびす亭に師岡くんが入って来た時、私、すぐにわかったわ。白髪が増えて、顔にも皺が増えていたけれど、忘れるものですか。ずっと、ずっと会いたかった人だから。
でも、出会った時、私は和服で女装をしていた。おまけに化粧までして、真紅の口紅が唇を覆っていた。私、そんなことも忘れて、『師岡くん』と叫んでしまった。
気味悪がられるか、馬鹿にされるかどっちかだと思ったけど、師岡くんはそうじゃなかった。
――橋本、きれいだよ。
と言ってくれた。えびす亭を出た私たちはいろんなことを話し合った。九州へ転居した後、彼の父親が詐欺に遭い、多額の借財を背負って一家離散の憂き目にあったこと、その後、彼が東京へ行き、苦学して大学を卒業し、就職して海外勤務を続けなければならなかったこと――。上司の勧めで見合いをし、結婚をしたがうまくいかず一年で離婚、その後、ずっと独身で、会社を退職した後、思い出の多い大阪へ戻って来たこと。
『結婚に失敗したのは、女性とセックスができなかったことなんだ』
師岡くんはそう言って、同性愛者であることを白状した。師岡くんもまた、私と同様に、中学生の頃から私のことを友人というよりも恋愛の対象として考えていたようで、大阪を離れた後、連絡をしなかったのは、自分の気持ちを知られるのが嫌だったからと言っていた。
――よしこ、私たち、一緒に暮らすことにしたの。長い年月がかかったけれど、ようやく心を通じ合うことができたわ。だから私は、店を離れる。よしこ、後は頼んだわよ」
マダムは神々しい笑顔をよしこに向けて、一言、
「さようなら」
と言った。
マダムは頑固な人だ。言い出したら利かない。二度と『ピエロ』に、戻ってくることはないだろう。生涯のうちで一番の幸せを掴んだのだ。『ピエロ』になど構っている暇がないのだと思う。よしこは、マダムの跡を継ぐ自信が自分にあるのかどうか見当が付かなかったが、数杯するマダムが愛したこの店を大切に守っていかなくては、と心から思った。
幸い、マダムが言うように『ピエロ』の経営は、多くの客に愛され安泰だった。
よしこもまた、毎日ではなかったが、マダムに代わってえびす亭に顔を出すようになった。お供は吉田だ。いずれ近いうちによしこは吉田と暮らすことになる。吉田の家に乗り込んだ時の騒動を考えると気が重かったが、まあ、なんとかなるだろう。そう考えていた。
吉田はえびす亭に見事にはまった。今ではよしこが吉田に引っ張られる形でえびす亭にやって来る。店が心配だったが、後進は育っている。少しは楽をしても罰は当たらないだろう。そんなことを思いながらえびす亭で酎ハイを頼み、おでんをつつく。
<了>


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