雅やんの秘密

高瀬 甚太
 
 マスターと雅やんの仲の良さは店と客の関係を超えたものがあるように、常連の誰もが感じていた。
 誰に対しても気安く、分け隔て無く声をかけ、気軽に接するマスターだが、雅やんにだけはなぜか様子が違ってみえた。
 学生時代の同級生じゃないか、と言う者もおれば、竹馬の友じゃないか、と言う者もいた。親戚ではないかとか、義理の兄弟じゃないかと言う者までいた。それほど二人の仲は客と店主の関係を超えて親密にみえた。
 少し大柄で体格のいい雅やんは、店の中では常に寡黙で、マスター以外とはあまり喋らず、店でも一目置かれた存在として君臨していた。雅やんがどんな仕事をしているか、誰も知らなかったが、中には頬に人差し指で頬をスーッと引っ張って、ヤクザではないかと心配する者までいた。
 珍しく、店に雅やんが顔を出さなかったその日、保健所に勤務している山本さんがマスターに尋ねた。客の詮索をすることは、この店では御法度だけれど、酔った勢いで山本さんが、「マスター、いつも来る雅やんやけど、あの人、何やってんの?」と聞いた。
 マスターはしばらく考えるような素振りをみせたが、首を振って、
「ぼくも知りまへんのや。ごめんな」と答えた。
 保健所に勤める山本さんは、非常に好奇心の強い人で、店に来る客の誰に対しても関心を持つ。だからといって店の客と深く付き合ったり、仲良くするわけではなかった。ただ、客の素性を知りたいという願望が強いだけなのだ。雅やんのようにマスターとだけ懇意にして、他の客と一切関わりを持とうとしない人に対しては特に好奇心を露わにし、何とか、つきとめたい、そんな意欲を垣間見せ、マスターや他の客を閉口させることがよくあった。
 「山本さん、雅やんのことは放っておいてあげたほうがいいんと違うか」
 常連の一人、繁さんがある時、山本さんに忠告したことがある。
 「いえいえ、そんな……。わたし、酔うと詮索したくなる性質で申し訳ありません」
 その時は素直に詫びるのだが、口で言うほど山本さんは反省していない。 その証拠に酔いが回ると雅やんのことをあれこれ人に尋ね回る。もちろん、雅やんのいない時に限るのだが。
 そんな山本さんが、ある時、京橋駅近くで偶然、雅やんを見かけた。声をかけようと思ったが思いとどまった。山本さんは雅やんとそれほど親しくないし、話を交わしたこともなかった。
 黒いスーツに身を包んだ雅やんは、派手な水商売風の女性と共に駅の改札口をくぐっていた。雅やんは水商売でもやっているのか、ふと山本さんはそんなことを思った。しかし、どうみてもそんな感じには見えなかった。どちらかといえば体育会系で、がっしりした体格の雅やんは柔道か空手、武道でもやっているようなタイプだ。
 黒髪をオールドバックにし、黒く太い眉、九州男児を思わせる男性的な容貌は、水商売には不釣り合いのように思えた。年齢は四十代前半といったところか、謎の多い雅やんに山本さんは益々興味を惹かれた。
 そんなある日、山本さんは、えびす亭で雅やんと隣り合わせになった。雅やんはグラスに焼酎を注ぎ、グラスの中の焼酎をロックで一息に煽っていた。
 酒の肴は刺身が一皿、ポテトサラダ、おでん盛りが常だった。雅やんという呼称は、マスターが雅やんを呼ぶ時、その名前で呼んでいたので、山本さんも客の多くもそう呼ぶようになっていた。
 「雅やん、今日はどないしたん。いつもに比べて時間が早いやないか」
 マスターが雅やんに声をかけると、雅やんは、
 「今日、この後、ちょっと野暮用が出来て……」
 ボソボソとした調子でマスターに答える。
 「そうか。体、気いつけなあかんで」
 マスターの方が年長なのか、雅やんにそう言うと、雅やんも、
 「ああ、気いつけるわ」
 と言って、微笑んだ。雅やんの笑い顔など、ついぞ見たことがなかったので、驚いた山本さんは親近感が湧いて、雅やんに声をかけた。
 「失礼ですが、雅やんと呼ばせていただいてよろしいですか? わたし、保健所に勤めている山本と申します」
 雅やんは驚いたような顔をして山本さんを見ると、コクリと頭を下げた。
 「名前と顔はよう知っているんですが、以後、お見知り置きください」
山本さんは公務員らしく丁寧な応対で頭を下げるとマスターに向かって、
 「マスター、雅やんにコップ、お願い! どないでっか。ビールでも一口。」
 と大声で言った。驚いたのは周りのみんなだ。とうとう山本さんが雅やんにアプローチした。これからどうなるか、興味津々の面持ちで客たちは、山本さんと雅やんを見た。
 山本さんは雅やんのコップにビールをなみなみと注ぎ込んだ。雅やんはそれを嫌がるふうでもなく、受けると、グイッと一息に飲み込んだ。
 あまりにも見事な飲みっぷりに山本さんを含む、カウンターにいた十数人が思わず拍手をした。それほど雅やんの飲みっぷりは豪快でしかも恰好よかった。
 「雅やんのこと、この間、わたし、京橋駅の構内で見かけましたわ」
 山本さんが言うと、雅やんは一瞬、エッという顔をしたが、それでも動じるふうはなかった。
 「きれいな女の人を連れてホームをくぐっていましたんで、声をかけそびれたんですが、失礼ですけど、雅やんは商売、何してはるんでっか?」
 雅やんは再び焼酎のロックを口にして、
 「いやあ、大した仕事はしてまへん」
 と素っ気なく答えた。
 店の中が一層騒動しくなってきた。客がドッと増えたのだ。立ち飲みの店なので詰めればいくらでも入る。雅やんはそれが気になったのか、山本さんの詮索好きに嫌気を出したのか、「マスター、勘定して」と早口で言うと、金を払ってスーッと店から消えた。
 山本さんは雅やんの後ろ姿を見つめながら残念な顔をして、ビールを一気に喉に流し込んだ。山本さんにしては珍しい飲みっぷりといえたが、雅やんに起きた拍手はどこからも起きなかった。
 山本さんの年齢は五三歳、一度、三十代の頃に胃腸が悪くて長患いをしたこともあって出世が遅れ、未だに課長にはなれていない。
 胃が悪いせいか、顔色も悪く、体も細く、おまけに白髪が多かったので職場でもえびす亭でも十歳は老けてみられた。好奇心旺盛で詮索好きなところは問題だが、人柄は悪くなかった。山本さんを悪く言うような人は繁さん以外、えびす亭にはいなかった。
 「マスター、一度聞いてみようと思うていたんやけど、マスターと雅やんはどんな関係でっか?」
 山本さんに聞かれて、カウンターの中でおでんを盛っていたマスターは、
 「雅やんですか。お客さんですわ」
 とマスターにしては素っ気なく答えた。
 「それはわかってますがな。なんぞ関係がおますんかと聞いてますのんや」
「……」
 マスターは忙しく働きながらそれ以上、山本さんに答えようとはしなかった。
 その日は山本さんもそれ以上、マスターを追求しなかった。ビールの差し替えを頼み、しばらくして店を出た。
 山本さんはえびす亭にほぼ毎日、日課のように顔を出す。時間も決まって午後7時台、8時半までには店を出て家路に就く。
 判で押したような山本さんの日常は保健所に勤めだしてからずっと変わっていない。特に趣味があるわけではなかったからスポーツの話題が出ても参加出来ないし、芸能の話題にも疎かった。だからというわけではないが、えびす亭に来る人間に興味が湧く。他の人は二、三言話せばその人の背景がたいていわかるが雅やんだけはまったくわからなかった。しかもマスターと何か因縁がありそうだ。山本さんの好奇心は益々高まった。
 雅やんはその後、えびす亭に顔を出さなかった。気になった山本さんはマスターに聞いた。
 「マスター、最近、雅やんの顔を見ないけど、来てないの?」
 「雅やんはしばらく来ないよ」
 マスターは抑揚のない声で答えた。
 「来ないって、どっかへ行ったの?」
 「ああ、遠いところへね。それより山本さん、今日はまぐろを食べないの?」
 急に店の中が賑やかになってきて、山本さんはまぐろの造りを頼むと、それを食べて店を出た。
 雅やんの姿はそれっきり消えた。一カ月もすると誰も雅やんの噂をしなくなった。だけど、山本さんだけはいつまでも雅やんのことを気にしていた。
保健所で働く山本さんの日々は単調に明け暮れる。ある日、1匹の犬が餓死していたと山本さんのところへ報告があった。飼い主がいなくなって、ずっと飼い主が帰るのを待っていたようだ。
 かわいそうな犬だ。そう思って報告書を見た。
 ――大阪市住吉区○○町○丁目○番地、木村雅夫の所有するミニダックスフンドが餓死状態で発見された。飼い主の木村雅夫は、暴力団抗争で敵対する組の幹部一名を殺害し、現在服役中。マンションで主人の帰りを待っていた飼い犬はそのまま餓死したものと思われます――
 木村雅夫、雅やん……。雅やんの姓は何と言ったのだろうか。山本さんはしばらく考えていたが、まさか、そう思って報告書を閉じた。
 えびす亭には今日も雅やんは来ていない。山本さんは、店に入ると雅やんが来ていないかどうか、確かめるのが習慣になっている。今日も先ず確かめた。やっぱり今来ていなかった。
 マスターと雅やんが中学、高校の先輩後輩の間柄だということはずっと後になって人から聞かされた。だが、雅やんのことについては相変わらず、マスターは一言も口にしないし、他の者も話題にしない。そのうち山本さんも雅やんのことを口にしなくなった。好奇心をそそる新しい客が現れたのかもしれない。
〈了〉

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