八時半の男

高瀬甚太

 顔に特徴があった。笑うと歯が目立ち、怒ると眉が尖がった。下駄のように四角な顔に申し訳程度の小さな目に愛嬌があった。はっしゃんと誰もが親しみを込めて呼んだ。そのはっしゃんがあんな事件に巻き込まれるなんて誰が想像しただろうか。
 はっしゃんは、別名八時半の男とも呼ばれていた。いつも午後八時半になると「えびす亭」に現れるからだ。年齢は三十四歳だから「えびす亭」の客の中では若い方に入る。ただ老け顔だったので、十歳ほど年齢が老けて見られることが多かった。
 「よっ、はっしゃん今日も来ましたね。八時半の男!」
 店に入ってきたはっしゃんを見て、冷やかす客が必ず一人か二人はいた。そのたびに、はっしゃんは照れた顔をする。その照れ顔が冷やかす客にはたまらない。カウンターに立つはっしゃんの隣を客が奪い合いをするのも無理はなかった。みんなはっしゃんと一緒に酒を呑みたいのだ。
 大人しくて正直で、初心な男、それがえびす亭での客たちの評価だった。確かにはっしゃんは実直で真面目で、めったに怒らない男だった。

 その夜、午後八時半になってもはっしゃは現れなかった。毎晩、判で押したように正確に現れるはっしゃんが姿を見せなかったことで、客たちに動揺が走った。
 もしかしたら事故にでも遭ったんじゃないか、病気にでもなったのでは、いろんな噂が飛び交った。
 「はっしゃんかて、たまには来れへん日もあるて」
 マスターはそう言って笑ったが、客の中には本気で心配する者も数多くいた。
 午後九時を少し回った頃のことだ。中年男性と若手の男性、二人の客がえびす亭を訪れた。二人の男は店の中に入るとすぐに、マスターに手帳を見せ、警察であることを知らせた。
 「こちらに橋上陽一という男が度々訪れているようですが、彼のことについて二、三、話を聞かせてもらいたいのですが――」
 中年の刑事はマスターにそう伝えると、早速、手帳を開いた。
 「はっしゃんの何を話せと言うんですか?」
 マスターが怒ったような口調で刑事に聞いた。他の客も同様で怒りのために顔が紅潮していた。
 「橋上は窃盗傷害事件の容疑者です。逃走中の彼を追っているのですが、この店に毎日のように入り浸っていると聞いたので訪ねました。何か、橋上の行先で思い当たるところはありませんか」
 刑事の言葉を聞き、マスターを初め、ほとんどの客が信じられないといった表情で顔を見合わせた。
 「はっしゃんはどんな事件を起こしたんですか?」
  客の一人が刑事に尋ねた。
 「本日の未明、橋上は日本橋の路上で、通りかかった女性の百五十万円入りのバッグを奪い、追いかけて来る女性を殴打して逃走しました」
 刑事の答えに一人の客が噛みついた。
 「その犯人がなぜはっしゃんとわかったんや?」
 「その犯人は、女性からバッグを奪う際、抵抗を受けてカードを落としています。そのカードから橋上陽一であることが判明しました。我々はすぐに橋上の住まいを訪ねたのですが、不在だったので、逃走したものとみて、捜査に乗り出しました」
 刑事の話を聞いて、店の誰もが沈黙した。
 「証拠はそれだけですか?」
 客の一人が沈黙に耐えかねて聞いた。刑事は笑って、
 「それで十分でしょう」と言い残して店を後にした。
 刑事の去った後、店の中に気まずい空気が流れた。
 「でも、おれは信じへんぞ。はっしゃんが犯人だなんて」
 一人が言うと他の客たちもみな同調した。
 マスターを含め、誰もがそう思い、はっしゃんが犯人でないことを心から願っていた。
 「人間やからなあ。魔が差したということもあるやろ。この世の中にまったくの善人なんておらへんさかいになあ」
 チューハイを三杯お代わりした水元という喫茶店の店主がひとり言のように言った。すると、その言葉に四方田という前科二犯の男がからんだ。
 「あんた、どんだけはっしゃんのこと知ってんねん。わしはこの店ではっしゃんと酒の飲むだけの間柄でしかないけど、それでもわし、はっしゃんのことを信じとるんや。そんなことできる男やない。前科のある、悪のわしが言うんや。間違いない」
 四方田に前科のあることは、店の客のほとんどが知っていた。でも、それは若い頃の話だ。五十を過ぎた今は立派に更生して東成区の鉄工所で働いている。そのこともまた、客のほとんどが知っていた。
 「人間、誰でも表と裏がおますんや。ここで見せる顔と他で見せる顔が違っていても、それはそれでしょうおまへんやろ」
 少々、酔いの回ってきた水元が四方田に反論した。すると、四方田に代わって水元の向かいに立っていた鈴木純一が、「水やん、ちょっと待ったってや」と声を上げた。
 「わしら、みんな、はっしゃんのファンと違うんか? はっしゃんと毎晩のように一緒に呑んで、気心がわかってるんやなかったんか。警察がどない言おうと、まだ、はっきりはっしゃんが犯人やてわかったわけやないんやから、おれらが信じてやらんとどないすんねん。はっしゃんがかわいそうやないか」
 水元は、しばらく黙っていたが、呑みかけのチューハイを一気に煽ると、四方田とその向いに立っていた鈴木に、
 「わしが悪かった。わしもはっしゃんのこと、信じてるんや。気を悪うさせて申し訳ない」と潔く詫びた。四方田と鈴木はそれをみて、
「ええねん、ええねん、水やん。それよりもっと呑みなはれ」
とチューハイのお代わりをすすめた。
 「しっかし、下駄顔にちっちゃい目がおらんと寂しいのぉー」
 はっしゃんをいつも冷やかしてばかりいる、顔中ヒゲぼうぼうの里やんが声を上げた。店にいた客のほとんどが里やんの声を聞いて、小さく頷いた。みんな寂しいのだ。
 翌日もはっしゃんはえびす亭に現れなかった。警察もこの日は姿を見せず、客たちはそれぞれはっしゃんの安否を気遣い、口が重かった。
 一週間目のことだ。午後八時半ちょうどに客で一杯の「えびす亭」のガラス戸が開いた。
 それを見て、さらにヒゲぼうぼうの里やんが大声を上げた。
 「はっしゃん! はっしゃんやないか!?」
 里やんの野太い声に、店にいた客の全員がガラス戸に注目した。入口に照れたような表情をしたはっしゃんが立っていた。
 「はっしゃん! ここやここ、ここ開けるさかい」
 四方多が隣を指さすと、水元が「いや、こっち、こっち。こっちが空いてるで」
と手招きをする。それを見た鈴木が、
「ちゃうちゃう。はっしゃん、ここやがな、こっちの方がゆっくり呑める」
とはっしゃんを誘う。結局、はっしゃんは、四方田の隣に立った。
 はっしゃんは、カウンターに立つと、
「マスター、瓶ビールお願いします」
と言い、「おでん盛り」とぐつぐつ煮立っているおでんを指さした。
 「はっしゃん、大変やったん違うんかいな?」
 ビールとおでん盛りをはっしゃんの前に置きながらおそるおそるマスターが尋ねた。
 「ええ、そうなんです。夜中に発熱して、それがすごい熱やったもんやからおかんが心配して救急車を呼んで、病院で診断受けたら一週間ほど入院してもらわなあかん、て言われて……。今日、退院してきたとこですねん」
 はっしゃんの話を聞いて、マスターも店の客も口を開けてぽかーんとしている。
 「はっしゃん、ほなあんた、ずっと入院してたんかいな?」
 「そうです。軽い肺炎やったみたいで。そやけど一週間病院でゆっくりしてたら治りましたわ。一日も早うここへ来たくてうずうずしてましたんや」
 と言って歯をむき出して笑う。
 意外なはっしゃんの言葉に店内は騒然とした。
 「――はっしゃん、ほな、はっしゃんに疑いがかかっていた傷害・窃盗罪はいったいどうなったんや?」
 水元が尋ねると、はっしゃんは最初、キョトンとした顔をしていたが、
「ああ、あのことですか」
と思い出したように言って
「あれはですね」と話し始めた。
 
  ──肺炎で入院中のはっしゃんのところに刑事がやって来たのは入院して三日目のことだった。二人の刑事がやってきて、警察手帳を示し、はっしゃんに任意同行を求めた。医師がそれを聞いて、「何言うてまんのや。この患者は絶対安静で、警察へなんか行けまへん。取り調べをせなあかんことがあったらここでしとくんなはれ」と怒った。
 仕方なく警察はベッドの上で高熱を出しているはっしゃんを事情聴取した。
 刑事は、傷害・窃盗のあった時間、どこにいたのか、とはっしゃんに尋ねた。高熱で意識が朦朧としているはっしゃんに代わって、はっしゃんの母親が答えた。
 「その時間でしたら、息子は高熱を出して救急車で運ばれてました」
 母親の答えに驚いたのは二人の刑事だ。刑事は事件の状況を説明して、はっしゃんのカードが現場に落ちていたことを話した。
 「ああ、そのカードでしたら、ちょっと前にこの子、酔っぱらって道端で寝込んでしまって財布ごとカードも盗まれまして――。交番に被害届け出してますさかい、確かめてください」
 母親の説明を聞いて、二人の刑事は、母親とはっしゃんに謝罪した。
 「事件の後、現場に落ちていたカードを元にお家を訪ねたのですが留守で、これはてっきり逃亡したのではないかと疑って、逃亡先を調べるべく調査をしていました。三日目の今日になって、病院に入院しているというニュースを知って訪ねたようなわけでして」
 刑事はそう説明をして病院から去った。その後、犯人が捕まったかどうかは不明だが、はっしゃんの元にはあれから何の連絡もないという──

 はっしゃんの説明を聞いて、店の中にいた客は安堵した。マスターは、新しいビールを一本取り出すと、
「はっしゃん、全快祝いや」
と言ってはっしゃんの前に置いた。それに歩調を合わせるかのように、水元が、
「はっしゃんにおでん盛り!」
と注文すると、負けじと四方田が、
「まぐろ造り、はっしゃんに!」
と四方田が注文する。いや、それだけではなかった。鈴木もそれ以外の客も揃って、
「はっしゃんに―――」
と注文した。おかげではっしゃんのカウンターの前は、さまざまな酒の肴でごった返し、収集がつかなくなる有様だ。それをはっしゃんが、
「おおきに、おおきに」
と言って丁寧に食べていく。
 この夜、はっしゃんは閉店近くまで店にいて、家に帰りついたのが午前〇時になった。
「病気が治ったばっかりやのに!」
とおかんに散々怒られたことは言うまでもない。
<了>
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?