見合いのその日に

高瀬甚太

 立ち飲み屋にやって来る女性客は少なくない。ただ、女性客の多くはカップルか、女性同士の二人連れ、三人連れが多く、一人で来る客はほとんどいなかった。小倉佳世子、通称、佳世ちゃんはそんな中の一人だった。
 佳世ちゃんは昼間、大阪市内の会計事務所で働いている。勤務時間は午前9時から午後5時で、以前は仕事を終えるとどこへも寄らず自宅に帰っていた。認知症を患った母の世話をしなければならなかったからだ。その母がつい最近、八八歳で亡くなって、佳世ちゃんは気の抜けた人形のようになってしまった。以来、仕事を終えてもまっすぐ家に帰る気がせず、街をぶらつきぼんやり過ごすことが多くなっていた。
 ある晩、佳世ちゃんはいつものように街をぶらついていて、一軒の立ち呑み屋を見つけた。駅の裏通りに面した暗い場所で、そこには数軒の店が軒を連ねていた。佳世ちゃんが何気なく店の中を覗くと、ガラス越しに肩を寄せ合うようにして楽しく酒を呑んでいる男たちの姿が見えた。
 佳世ちゃんはそれを見て、ずいぶん昔に亡くなった父親を思い出し、何だか懐かしい気持ちになった。
 佳世ちゃんの父親は酒が好きで仕事が終わってもまっすぐ家に帰ることは滅多になく、毎日のように酒を呑み、酔っ払って帰宅した。呑み始めると止まらなくなる佳世ちゃんの父は、深酔いして一人で家に帰れなくなると、いつも母親に「迎えに来てくれ」と情けない声で電話をかけてきた。そのたびに母は「お父さんを迎えに行ってくれるかい」と言って佳世ちゃんを迎えに行かせた。
 中学生だった佳世ちゃんは酒呑みの集まる場所が好きではなかった。だが、母に頼まれると断ることができず、渋々呑み屋に迎えに行くと、へべれけになった父は、顔をほころばせて「みんな、紹介するわ。この子がわしの娘やねん」と自慢げに言って佳世ちゃんを紹介した。
 「親に似あわず賢そうな顔をしてるわ」とか、「この子はべっぴんさんになるぜ」と、そのたびに佳世ちゃんはおっちゃんたちに冷やかされて赤面すると、店の客たちが「いつもご苦労さんやなあ」と言って、パチンコの景品らしいお菓子やチョコレートを佳世ちゃんのポケットにねじ込む。そんなことがいくたびもあった。
 佳世ちゃんが中学校を卒業する頃、佳世ちゃんの父は脳溢血である日突然亡くなった。四八歳という若さだった。父の葬儀が終わってしばらくした夜のこと、五、六人の酒臭いおっちゃんたちが、
 「ケンさんに線香を上げさせてください」
 と神妙な顔をして家にやって来た。その時のことを佳世ちゃんは昨日のことのようによく覚えている。酒の臭いと酒焼けした顔を見て、佳世ちゃんは、父と一緒に酒を呑んでいた人たちだ、ということがわかった。
 そんなことを考えながら店の前に立ち、ぼんやり店内を眺めていると、
 「姉ちゃん、何してんのや。入ろ、入ろ」
 と、中年男に肩を叩かれ、佳世ちゃんはその男に背中を押されるようにして店の中へ入った。佳世ちゃんの背中を押したのは、今まで会ったことのない見知らぬ人だった。カウンターの前に立ったまま、どうしていいかわからず戸惑っていると、佳世ちゃんの背中を押して一緒に店内に入った中年男が、「マスター、この姉ちゃんにビール一本やって」と佳世ちゃんのためにビールを注文した。
 酒好きの父の遺伝かどうか、佳世ちゃんも酒は嫌いではなかった。佳世ちゃんの手にグラスが渡され、ビールを注文した中年男が、
 「まあ、姉ちゃん、ぐいっと行こう、ぐいっと」
 と、強引にビールを佳世ちゃんのグラスに注いだ。
 そのビールを佳世ちゃんはグッとひと息に呑んだ。よく冷えたビールは佳世ちゃんの乾いた喉を潤し、空っぽの胃袋を刺激した。思わず顔をほころばせた佳世ちゃん、それを見た中年男は気のいい笑顔を浮かべて、
 「女性一人じゃ入りにくいもんなあこの店は。姉ちゃん、それで迷ってたんやろ」
 と、佳世ちゃんに話しかけた。
 「父親が酒を好きで子供の頃、酔っぱらった父を迎えに行っていたことを店の前を通っていて思い出して――、店の前でぼんやり店の中を眺めていました」
 佳世ちゃんがしんみりした口調で言うと、中年男が聞く。
 「そうか。で、お父さんは元気なんか?」
 「私が中学を卒業する年に亡くなりました。酒の呑みすぎが原因だったと思います」
 と、言いながら佳世ちゃんは中年男を見た。黒縁のメガネに少し禿げあがった髪の毛、無精ひげが目立つその男は、五十少し手前のように見えた。
「俺の父ちゃんも早死にした。やっぱり酒が好きでねえ。亡くなる前の日、唇に日本酒を湿らせてやると、嬉しい顔で俺を見て、『ひろし、おおきによ』って言うんだ。大好きだったなあ、俺は父ちゃんが――」
 細いが、がっしりした体によれよれのスーツ、曲がったネクタイ、中年男の靴がひどく汚れていたのを見て、佳世ちゃんは、この男性はいったいどんな人なのだろうかと考えた。
 「父ちゃんのことを思い出すと辛くなる……。辛気臭くなるからこんな話、やめとこ。それより酒や。姉ちゃん、もう一杯、ぐっと行こう、ぐっと」
 初めて入った立ち呑みの店で、佳世ちゃんは中年男と一緒に大瓶三本を空けてしまった。
 中年男は中邨博といい、この店ではみんなからひろしと呼ばれていた。どんな仕事をしているのか、家庭はあるのか、年齢はいくつなのか――。何も話さなかったが、佳世ちゃんは一緒に酒を呑んでいて、中邨の人柄だけはわかったような気がした。
 「それじゃ、私、これで失礼します。今日は楽しかったです。本当にありがとうございました」
 午後9時半を過ぎたところで、佳世ちゃんはひろしに別れを告げた。ひろしは佳世ちゃんに向って節くれだった手を差し出すと、
 「姉ちゃん――、いや、佳世ちゃんだったよな。ここは女性一人でも安心して呑める店や。待っているから、また来いや」
 ひろしが佳世ちゃんの白い柔らかな手を握り締めて言うと、それを見た隣の男が、「ひろし、ずるいぞ。姉ちゃん、わしにも握手して」と言って佳世ちゃんに手を差し出した。結局、佳世ちゃんはその日、ひろしにご馳走になった挙句、店を出る際、五人の男と握手をしてようやく帰途に就くことができた。
 ガラス戸を開けて店を出る時、佳世ちゃんはこの店の名前を知らなかったことに気が付いた。
 振り返って看板を確認すると『えびす亭』と書かれていた。佳世ちゃんはその名前を復唱し、また来てみようかなと思った。
 一週間後、佳世ちゃんは仕事帰り、「えびす亭」に寄ってみようかと思い立った。
 店の近くまで来たところで躊躇した。男性客がほとんどの店の中、女性が一人で入るなんて、どう思われるだろうか。そう思うと足がすくんだ。それでも入ろうと思ったのは、楽しく酒を呑む客たちの輪に自分も入りたい。そう思ったからだ。
 ガラス戸を開けると、「いらっしゃい。ああ、まいど」とマスターが佳世ちゃんを見て言った。エッと佳世ちゃんは思った。一度しか来ていない。それなのに、マスターが覚えてくれていたことに佳世ちゃんは感激した。店の中は満員だったが運よく隙間ができ、その隙間にに立つと、佳世ちゃんは瓶ビールを一本注文した。
 二十人ほどの客がカウンターを囲んでいたが、女性客などいなかった。佳世ちゃんは一瞬、気恥ずかしさを覚えた。やっぱり来るんじゃなかったかな、と後悔した。
 それでも勇気を振り絞って入った店だ。ビールを呑み終えるまでは頑張ろうと思い直し、佳世ちゃんはサーモンの造りと枝豆をオーダーした。先日、会った、ひろしという男はまだ来ていないようだった。この間、握手をした客もいなかった。
 大瓶のビールが届き、グラスにビールを注ぎこんで、口にしようとした時のことだ。隣に立っていた熟年の客が、突然、「姉ちゃん、この店、よう来ますのか?」と聞いてきた。
 「いえ、今日で二回目です」
 佳世ちゃんが答えると、「わしは毎日来てるんや」と熟年男は笑って言った。笑うと、熟年男の歯は隙間だらけで、これでよくものが食べられるなあと思うほどひどかった。
 二人の会話を聞いていた佳世ちゃんの片側の客が、突然、「わしは一日二回来てまんねん」と割り込んでくる。その客もまた歯が数本欠けていて、おまけに鼻毛と耳毛がひどかった。両方の耳から耳毛が惜しげもなくはみ出し、鼻毛もそれに負けじと生えている。どちらの客も七十は超えているように思われた。
 きっかけができると、自然に話が弾むものだ。その日、佳世ちゃんは両隣に立つ二人の老人と午後9時過ぎまで話し、楽しく呑んだ。
 そのことがきっかけになって、佳世ちゃんは週に一度か二度、えびす亭に顔を出すようになった。
 
 「小倉くん、きみにいい話があるんだが――」
 佳世ちゃんの務める会計事務所の所長が、珍しく上機嫌な様子で佳世ちゃんを呼んだ。会計事務所には七人の社員がいて、四十を少し超えた佳世ちゃんはこの事務所でも古株の一人に入る。
 「お得意先に岸本工業という会社があるの、知ってるよね?」
 所長に言われて佳世ちゃんは頷いた。
 六十代になったばかりのその所長は、超のつくヘビースモーカーで、吸いさしのタバコを灰皿に山のように積み上げ、吸いきらないうちに新しいタバコを口にくわえ、ファーと息を吐く。タバコのヤニの臭いがたちまち部屋の中に充満した。
 「はい、存じています。ステンレスの会社でしたよね」
 タバコの煙を気にしながら佳世ちゃんが答えると、所長は、吸いかけのタバコを灰皿に置いて話を続けた。
 「岸本工業の専務に多賀さんという七十歳になる男がいるんだ。その多賀さんが先日、私のところへ電話をかけてきて、『小倉さんは結婚をする気があるんだろうか』と言うんだよ。それは本人に聞いてみないとわかりませんなあ、と私が言うと、多賀さんが、『もし結婚する気があるんだったら一度、見合いをセットしてくれないか』とこう言うんだよ。それで私は尋ねた。お見合いの相手はどなたですか? と。すると多賀さん、実は私の息子なんだが……、と言うんだ。多賀さんの息子さんは四三歳で独身らしい。京大の研究室に勤務していて、近々准教授になる予定のようだ。研究一筋の人で、婚期を逃がしてきたんだな、きっと。どうだね。小倉くん、一度、会うだけでも会ってくれないか」
 佳世ちゃんは所長の話に少し面食らった。この年になって見合いの話が来るなんて思ってもみなかったからだ。
「 すみません。一晩、考えさせてもらっていいですか」
 と言って、猶予をもらったのは、すぐに断るのも申し訳ないと思ったからだ。佳世ちゃんは、明日、正式に断るつもりでいた。
 佳世ちゃんは二十代の半ばに一度、大恋愛をしている。相手は酒造メーカーに勤務する佳世ちゃんより三歳上の男性で、高校時代の先輩にあたる人だった。佳世ちゃんはその人と三年間交際をして、翌春には結婚をする約束をしていたが、その年の暮れに破局した。原因は相手の男性の浮気だった。相手の男性は佳世ちゃんとは別の女性とも交際していて、その女性とも結婚の約束をしていた。そのことは、佳世ちゃんのところへ交際相手の女性がやって来てはじめてわかった。女性は佳世ちゃんに私の男と別れてくれ、と詰め寄った。佳世ちゃんはその時、男の不誠実さを知り、目が覚めたような気がした。それで交際相手の男と別離した。男からの言い訳の電話やメールがしばらくひっきりなしに届いたが、佳世ちゃんが無視すると、男はあきらめたのか、そのうちに連絡が来なくなった。佳世ちゃんはそれ以後その男と一切、顔を合わせていない。
 以来、佳世ちゃんは恋を忘れた女になった。母が体調を崩し、その介護に手がかかったことと、認知症がすすんで佳世ちゃんの時間のすべてが母の介護に向けられたのもその一因だったが、それ以上に男に対する不信感が佳世ちゃんを臆病にしていて、恋にのめり込むことができなくなっていた。その佳世ちゃんもいつの間にか四十歳だ。結婚など、とうの昔にあきらめていた。
 その日、佳世ちゃんはいつものようにえびす亭に立ち寄った。
 えびす亭は珍しく空いていて、十人ほどの客しかいなかった。時間が早かったかな、と思ったがそうでもない。午後6時は普段なら一番人の多い時間帯だ。
 マスターが「まいど、ビールでいいですか?」と聞いてきた時、佳世ちゃんはマスターに尋ねた。
 「今日はえらく人が少ないですね」
 するとマスターは、
 「今日はお通夜ですねん。それでみんなお通夜に行っていてね」
 と言って、少し顔を曇らせた。
 「お通夜って……。どなたが亡くなられたんですか?」
 驚いて佳世ちゃんが尋ねると、マスターは、
 「中邨さんですわ。うちではひろしと呼ばれてましたけど――。あの人、先日、ガンが見つかりましてね。大腸がんだったようですが、発見された時はもう転移していて――、今朝、病院で亡くなったんです。それでみんなお通夜に行ったようなわけで、今日は商売になりまへんわ」
マスターの声が寂しく響いた。
 「すみません。マスター、中邨さんのお通夜の場所って、わかりますか?」
 佳世ちゃんはビールを一口、口にしたところで、思い立ってマスターに尋ねた。
 「ええ、知ってますけど。聞いてどうされるんですか?」
 マスターが佳世ちゃんの顔を不思議そうに見て言った。
 「私もお通夜に行きたいんです。教えていただけませんか」
 マスターは、「何で佳世ちゃんが――」とでも思ったのだろう。ひとりごとのように呟いて、小さな紙に、お通夜の会場へ行き先を記した地図を書いた。
え びす亭から2キロほど離れた場所に通夜の会場があった。佳世ちゃんはその地図を手にすると呑みかけのビールをそのままにして、「マスター、また来ますから」と断って急いで店を後にした。
 喪服も着用していないし、香典すら用意していなかった。それでも佳世は、会場に駆け付けて中邨の冥福を祈りたい、その気持ちが強かった。
 会場に到着すると、正面に、花に包まれた中邨の在りし日の写真が飾られていた。写真に映し出された柔和な笑顔が中邨の人柄を如実に現している。百人ほどの人が席に座ってお坊様の読経を神妙に聞いている。ゆっくりと前段へと進んだ佳世ちゃんは、参列客の中にえびす亭の客たちが多くいたことに驚かされた。
 通夜が終わり、会場から立ち去ろうとした佳世ちゃんは、背後から歩いて来た数人の男たちに声をかけられた。振り返ると見慣れた顏が揃っていた。えびす亭の客たちだった。
 「佳世ちゃん、どうだい。これから一緒にえびす亭に行かないか? ひろしの思い出話でもしようや」
 佳世ちゃんは、小さく頷いて彼らと共に再びえびす亭に向かうことにした。
 その夜、佳世ちゃんは閉店近くまで酒を呑んだ。ひろしとは、あの時一度呑んだだけで以来、一度も顔を合わせていなかった。体調が悪いようだという話こそ聞いていたが、それほど心配はしていなかった。細いががっしりした体格、病弱なところなどまるで感じられない明るさがあったから――。
 えびす亭を出て家路に向かいながら、佳世ちゃんは少し弱気になっていた。死を身近に感じた一日だった。母親が亡くなって以来、久しぶりに感じた深い孤独感に心が揺れた。
 その時、佳世ちゃんの脳裏に、所長が話した見合いの話が思い浮かんだ。空を見上ると、曇天の夜空には星が一つも浮かんでいなかった。月も雲間に隠れて姿を消していた。
「 どんな男なのか、顔を見るだけでも見ることにしようか」
 速攻で断ろうと思っていた佳世ちゃんは、考えを改めて見合いだけでもしようと心に決めた。
 翌朝、出勤すると、佳世ちゃんは所長の元へ出向き、見合いの件を承諾した。
 「そうか、じゃあ、そのように伝えるからな」
 所長は岸本工業に見合いを承諾する電話をかけた。
 ──三日ほどして、佳世ちゃんは所長に呼ばれた。
 「小倉くん、見合いの日が正式に決まった。今度の日曜日、ロイヤルホテルで午後3時。多賀専務の息子さんはきみと二人だけで会いたいらしい。だから一応見合いだが、誰も立ち会わない。いい大人だからそれもいいでしょうと応えておいたよ。それと小倉くん、きみ、少しは酒を呑めるのかね?」
一通りの説明を終えた後で急に酒の話が出たので佳世ちゃんは驚いた。
 「はい。嫌いな方ではありません。よく呑みます」
 それを聞いて、所長はホッとしたような顔をした。
 「専務の息子さんも酒が好きらしい。できたら一緒に、酒を楽しめる人がいいと言っておった。彼も酒をよく呑みに行くようだ」
 研究者で四三歳で酒好き――。イメージが今一つピンと湧いてこなかったが、お堅い人だったらどうしようか、と思案していた佳世ちゃんは酒好きと聞いて少し安堵した。
 ――日曜日になった。午後2時、ロイヤルホテルに向かうために佳世は家を出た。浮き立つほどではなかったが、気分は軽かった。たとえ見合いであったとしても、男性と二人きりでお茶を呑むなんて久しぶりのことだ。少女にでも帰ったような気分で、佳世ちゃんはロイヤルホテルに向うタクシーに乗った。
 「小倉くん、もし相手が嫌だったら断っても一向に構わないからね。専務にはそう伝えているから」
 所長にそうアドバイスを受けていたので佳世は少し気が楽になっていた。
ホテルの中の指定された喫茶室に入ると、「小倉さん、ここです、ここです」と呼ぶ声がした。驚いて辺りを見回すと、窓辺近くの席に一人の男性が立っていた。
 慌てて駆け付けると、男は丁寧な物腰で佳世に挨拶をした。
 「初めまして、多賀健一と申します」
 それを見て、佳世ちゃんは少し驚いた。研究者と聞いていたので、もっと偉ぶった人なのかと思っていたのだが、そうではなかった。
 背はあまり高くなかったが、肩幅が広くて剛毅な印象が目立った。髪の毛は鳥の巣のようにくしゃくしゃであまり手入れをしていないように見え、顎鬚、口髭、無精髭が目立った。佳世ちゃんは多賀をひと目見て、まるで熊のような男だと思った。聞かされていなければ、とても研究者には見えなかった。
 ウエイトレスが注文を聞きに来た。佳世ちゃんは「ホットコーヒー」を注文したが、多賀は「何かお酒ありますか?」と聞いた。ウエイトレスは困ったような顔をして、「お酒……ですか」とつぶやいて、「少々お待ちください」と言って厨房に戻った。
 「お酒が好きなんですね」
 佳世ちゃんの言葉に多賀はすぐに反応した。
 「大好きです」
 「じゃあ、こんな場所やめて私の知っている店に行きませんか」
 「小倉さんのご存じの店と言うと――?」
 「立ち呑みなんですけど、よろしいですか?」
 多賀はニッコリ笑い、
 「大歓迎です」
 と答えた。
 佳世ちゃんは見合したその日、多賀をえびす亭に案内した。多賀は陽気な男だった。
 「小倉さんでちょうど三〇回目の見合いになります。写真を見て断られたのも入れればもっとたくさんになるでしょうね。何しろこんな風体と顔も熊のようでしょ。それに見合いの席でも平気で酒をガンガン呑みますからね。断られて当然ですよね」
 笑い飛ばすように言って多賀は頭を掻いた。
 「私、研究者とお聴きしていましたから、もっと神経質で知的な方を想像していました」
 「これでも知的なんですけどね。少しは神経質なところもありますし――」
 多賀はそう言って弁解したが、それを聞いていた、周りの客たちが大声を上げて笑った。
 「佳世ちゃんが男と一緒に店に来るなんて珍しいこともあるもんだなあ、と思っていたんだけど、佳世ちゃん、この人、楽しくていい人じゃないか」
客の一人がそういうと、もう一人の客もまた、
 「呑みっぷりがいいよ。佳世ちゃんいい人見つけたね」
 と冷やかす。
 「実は今日、小倉さんとお見合いで初めてお会いしたんですよ」
 多賀が弁解するように言うと、周りの人たちがまた大爆笑した。
 「お見合いにえびす亭か、こりゃあいいや」
 「いい店ですね。私、大好きになりました。小倉さん、今日はどうもありがとう」
 多賀はえびす亭が気に入ったようだ。ビールを二本、焼酎の水割りを五杯、仕上げに赤ワインを呑んで満足した表情を見せた。
 佳世ちゃんはそんな多賀を眺めながら、嘘のつけない人だな、まっすぐな人だなと思った。男に裏切られたことのある佳世ちゃんはずっと男性不信に陥っていた。多賀はそれを払拭してくれるような人だった。
 「見合いはいいけど、お前、佳世ちゃんを幸せにしてくれるんやろな」
酔っぱらった客の一人が多賀に絡んだ。
 多賀はその客の手を握り、
 「小倉さんの了解は得ていませんが、もし結婚を前提とした交際をお許し願えたら、私、小倉さんを世界一幸せなお嫁さんにしてみせます」
 と力強く言い切った。そばで聞いていた佳世ちゃんは多賀の突然の告白に驚いて口にした酒を戻してしまいそうになった。
 一人の客が多賀の肩を掴んで言った。
 「小倉と言うな、佳世ちゃんと呼べ。佳世ちゃんの腹はもうきまっとるわい。嫌いな男やったらえびす亭には連れてけえへん」
 もう一人の客もまた多賀に向かって言った。多賀は「ほんまですか?」と言うような顔をして、その男を見て、続いて佳世ちゃんを見た。佳世ちゃんは真っ赤な顔をしていた。
 「好きやったらはっきり言うたれ! 体裁かまうな。佳世ちゃんはちゃんと受け止めてくれる」
 別の客もまた、多賀の肩を叩いて励ました。佳世ちゃんの顔はますます真っ赤になった。
 「僕は小倉――、いや、佳世ちゃんに一目ぼれしました。大好きです。どうか僕と結婚してください!」
 酔っぱらっているのか、いないのか定かではなかったが、多賀は直立不動の姿勢で佳世ちゃんの前に立つと、大声を上げて宣誓した。
 拍手が沸き起こった。マスターも手を叩いている。佳世ちゃんだけが困ったような顔をして黙っていた。
 そりゃあそうだろう。今日初めて会った人だ。会ってすぐに結婚を申し込むなんてどうかしている。そう考えるのが普通だ。だが、佳世ちゃんはそうは思わなかった。多賀の言葉を本気で受け止めた。時間なんて関係ない。相手が心底信じられるかどうか、愛せるかどうかだけが問題だ。佳世ちゃんは多賀に言った。
 「ありがとうございます。多賀さんの言葉、ありがたくお聴きしておきます。ただ、今日は酒が入っています。酔いが醒めたら考えも変わっているかもしれません。だからゆっくり考えて結論を出してください。お待ちしています。私も多賀さんが大好きです」
 佳世ちゃんの言葉を聞いた多賀は、湧き上がってくる涙をこらえきれず、人前も構わず大粒の涙をこぼした。えびす亭のみんながそんな多賀を見て、拍手を送った。ガンバレ、ガンバレ、多賀! という応援の拍手が沸き起こった。
 
 佳世ちゃんはその後、しばらく顔を見せなかった。マスターも含めてえびす亭の客たちはその後、佳世ちゃんと多賀がどうなったのか気になっていた。だが、誰もその後の二人の経過を知らない。
 二週間ほど経った金曜日の夜のことだ。時刻は午後8時を少し過ぎていた。カウンターは客で埋まっていた。ガラス戸を開けて入ってきた客が、「わっ、一杯やわ」と残念な声を上げた。マスターは「すんまへんなあ……」と断りかけて、「いや、入れます。入れます。そこちょっと空けたって。二人分やで」と帰ろうとする客を引き留めた。
 「すみませんねえ、一杯やのに」
 謝りながら入って来たのは佳世ちゃんだった。佳世ちゃんに少し遅れて多賀が入ってきた。にこやかな佳世ちゃんの顔と髭の中に白い歯が目立つ多賀の顔を見て、客の多くもまた笑顔を浮かべた。
 よかったなあ、佳世ちゃん。誰もが胸の内でそう言っているようにマスターには思えた。マスターは、佳世ちゃんのカウンターに大瓶のビールを「サービスや」と言ってポンと置いた。
〈了〉


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