天神祭のあとに 第四回

高瀬甚太

 休日を利用して、暎子は鶴橋に事務所を構える瀬川の元へせっせと通った。瀬川が自分の仕事を手伝うよう、暎子に命じたのだ。事務員には見せられない内密の業務が瀬川にはあった。それを愛人の暎子に手伝わせていた。暎子が仕事を終えると、瀬川は必ず、暎子を抱いた。暎子は、それも愛だと勘違いし、瀬川を求めて、休日のたびに足しげく通った。
 瀬川からの連絡が途絶えて一週間が過ぎた。その間、暎子は瀬川の元に電話を入れるが、不通になっていて届かない。どうしたのだろうかと気を揉んでいた矢先、暎子の眼にテレビのニュース画面が飛び込んできた。
 ――AT不動産株式会社 代表取締役 瀬川陽平三十八歳が、脱税、詐欺、暴力行為等の罪で本日、逮捕されました。
 画面に瀬川の顔が大きく映し出されている。怒ったような厳しい目。暎子の知らない瀬川がそこにいた。
 前科三犯、会社は暴力団のフロント企業で、瀬川も暴力団の準構成員であるということが同時に報じられていた。
 暎子は放心して座り込むと、しばらく動くことが出来なかった。走馬灯のように、瀬川との日々が脳裏を巡る。暎子は、瀬川によって女になり、瀬川の手で大人の女になった。わずか一年ほどの歳月が、十年も二十年もの月日に思える。
 ――どうすればいいのだろう。
 瀬川は長い年月を刑務所の中で過ごすことになりそうだ。その間、自分は一体どうすればいいのだろうか。瀬川と離れるチャンスではないか――。
しかし、瀬川のことを思うと躊躇する気持ちが先に立った。彼を支えてやるべきでは――。
 思い詰めた暎子は、瀬川の会社に行き、経理を務めていた菱川晴子に相談をしようと思った。瀬川の会社で裏帳簿の作成を頼まれ、休日に働かされていた時、暎子は何度か菱川に相談をしたことがある。菱川は、その時、親身になって相談に乗ってくれた。
 菱川は、瀬川の会社の整理のため、一人、事務所で働いていた。
 「こんにちは」
 ドアを開けて暎子が挨拶をすると、菱川は暗い顔を覗かせて小さな笑顔を見せた。
 「どうしたの今日は?」
 「菱川さんにご相談したいことがあって――」
 菱川は、暎子にソファに座るように言うと、お茶を用意して暎子の前に置いた。
 「瀬川のことね」
 「はい、そうです」
 「いい機会だから別れなさい。あんな男にくっついていても何もいいことないから」
 「それはそうですが――」
 「瀬川のことを心配しているの?」
 と言って、菱川は笑った。暎子はキョトンとした表情を浮かべて、笑いやまない菱川を見つめている。
 「あいつは、大勢の女を抱えるスケコマシのような男よ。いい女を見つけたら近づいて、性の力で自分の物にしていく。あんただって、もし、あいつが捕まっていなかったら、どんな目に合っていたかしれないわよ。同情なんてあいつにはいらない。馬鹿な女がたくさんあいつの周りにはいる。その女たちが、あいつの面倒を見てくれる」
 淡々と語る菱川の表情には、瀬川に対する同情のかけらもない。
 「私も瀬川に騙された口よ。貢いで、尽くして、挙句の果ては瀬川の言いなりになっていろんな仕事をさせられた。こういった仕事だけじゃないのよ。瀬川の得意先に抱かれたことまであるのよ。馬鹿みたいでしょ。でも、私も、これを機会に瀬川から離れて、本当の幸せを見つけようと思っている。あなたもそうしなさい。いいね」
 念を押すように言って、菱川は暎子の手を強く握った。
 菱川は地味で大人しい四十代の女性だった。年齢以上に疲れたその表情は、未来の暎子を想像させるのに十分だった。瀬川に女が複数存在することは知っていた。しかし、菱川もそうだとは思いもよらなかった。暎子は、自分だけは特別だと、いつも言い聞かせてきた。自分だけは瀬川に本気で愛されている、そう思っていた。だが、菱川の話を聞いて、それが幻想であったことにようやく気が付いた。

 菱川と別れた暎子は、鶴橋から地下鉄に乗り、日本橋で乗り換えると堺筋線で扇町駅に向かった。扇町駅で下車した暎子は、一年少し前、行ったことのある占い師の元に立ち寄った。以前の易者ではなく、違う易者が座っていた。同じような婦人の易者であった。
 「占ってほしいのですけど」
 「何を占いましょうか?」
 「結婚運、――私、結婚できるでしょうか」
 易者は用紙を暎子の前に置き、そこに名前と生年月日を記入するよう言った。
 天神祭を間近に控えた商店街は、いつもより活気があるように見えた。開け放された占いの部屋に夏の風が舞い込んでくる。湿気こそあるが、意外と涼しいことに暎子は驚いた。
 「結婚に至るかどうかはわかりませんが、この秋、いい出逢いがありますよ。その男性は、あなたの足元を、提灯で照らしてくれる人です。縁が出来たら、ぜひ、大切になさってください」
 易者の言葉を聞いて、落ち込んでいた暎子の心が少し上を向いた。
 「秋ですね。出逢いを楽しみにしています」
 暎子が笑顔を見せると、易者も笑った。
 「きっと幸せはやって来ます。だからそれを信じて頑張ってください」
 易者の思わぬ励ましの言葉に、暎子は思わず瞼を抑え、ハンカチでそれをぬぐった。
 「もうすぐ天神祭ですね」
 暎子が部屋の中から商店街を眺めてひとりごとを言うと、易者が言った。
 「天神祭が過ぎたら、すぐに秋がやって来ますよ」
<了>

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