シネマの夜

高瀬甚太

第三回

 この道はいったいどこへつながっているのだろうか。
 不安に駆られながら商店街を歩くうちに、新たな商店街に行きついた。
 その商店街は、定時制高校に通学していた頃、加奈子と歩いたあの商店街によく似ていた。妙にだだっ広く、空疎な商店街だった。午後八時を過ぎると、飲食店を除いてほとんどの店がシャッターを閉める。商店街の周囲は、昼間は眠っているかのように静かだが、夜になると、途端にきらびやかなネオンに包まれ、熱気を取り戻す。そんな大人の街に、私が通った定時制高校があった。
 加奈子とは、三年のクラス替えの時に同じクラスになった。入学時には二百人ほどいたクラスメートも三年になると五クラスが三クラスになり、人数も学年併せて百人余りと急に寂しくなった。
 昼間、仕事をして、勤務を終えて学校へやって来る。大半が十代の少年少女にはそれが耐え難かった。不規則な食事で胃を壊すもの、疲れのために体調を狂わせるもの、退学の理由はさまざまだったが、最も多かったのは「遊びたい」という欲望に駆られることだった。それが如実に表れるのが夏休み明けだ。四十日余りもの長い間、学校へ通うことをしなくなると、二学期が始まっても登校しなくなる。そんな人たちが続出した。
 一年、二年と、何人もの友人を見送ってきた私は、それがたまらなく嫌で、三年になるとすぐに、同学年のクラスメート一人ひとりに一緒に卒業しようと話しかけ、共に過ごす時間を多くするように心がけた。その中の一人に三島加奈子がいた。
 加奈子は、一年からずっと皆勤を続けている大人しい少女だった。社会人を一年、経験した私と違い、彼女は中学を卒業してそのまま定時制高校に進学した。
 中学時代、首席だったと聞いたことがあったが、彼女はこの学校でも一、二を争う勉強家だった。母一人子一人だったため、昼間の高校には行けなかったが、そんな暗さを微塵も感じさせないほど、明るく芯のしっかりした努力家でもあった。
 それでも三年に進級した頃はまだ、私と彼女は仲のいいクラスメートの一人に過ぎなかった。彼女との仲が急激に進展したのは、夏休みの日の土曜、日曜を利用してのキャンプを計画してからのことだ。
 夏休みに入る前、キャンプ用品を揃え、場所を決め、スケジュールを決めるために、クラスの何人かに協力してくれるよう頼んだことがある。男子三人、女子四人が協力してくれたのだが、その中の一人に彼女がいた。
 キャンプのその日まで、メンバーと何度も打ち合わせをし、会合を重ねた。だが、仕事の関係その他で、他の仲間は欠席することが多くなったため、必然的に彼女と二人きりで会合することが多くなり、それがきっかけになって、私は彼女と急接近した。
 定時制高校に進学して、すぐにそれまで勤めていた会社を退職し、新聞配達所に住み込むようになった私は、三年のその頃には、新聞配達所をやめ、牛乳配達所に住み込んだり、ハンコ屋に住み込みで働いたり、転々と職を変え、そのたびに住まいも変わるという慌ただしい日々を送っていた。そんな私の境遇に同情したのか、夏休みに図書館で会い、キャンプの打ち合わせをする時、彼女はいつも手作りのおにぎりを作って持って来てくれた。
 食に飢えていたその頃の私にとって、彼女が持って来てくれるおにぎりは何よりのごちそうだったと思う。小柄で素朴で、決して美人というわけではなかったけれど、三島加奈子は、やさしい女の子だった。破れたズボンを穿いていると、鞄の中に用意していた裁縫道具を取り出して、繕ってくれたり、シャツが汚れていると、持っていたハンカチで汚れを拭い取ってくれた。
 夏休みに行ったキャンプには、総勢18人が参加した。クラスの半数ほどが参加したことになる。赤穂海岸にテントを張り、その日の夜はキャンプファイヤーでおおいに盛り上がった。私はその日、盛り上がったそのままの勢いで、彼女に交際を申し込んだ。
 二人とも貧乏だった。交際が始まってデートをするにも金がなく、彼女が作ってくれたおにぎりを食べながら公園で過ごしたり、淀川の川辺に座って肩を寄せ合い、話したりすることが大半だった。
 学校の帰り、この商店街を二人で駅まで歩いたものだと、商店街を歩きながらそのことを再び思い出した。途中、お腹が空いて立ちうどんの店に入り、一杯のかけうどんを二人で分け合って食べたことを思い出した。あの時、加奈子は、麺をすすりながら私に言った。
 「おいしいね」と。
 あの時の加奈子の笑顔を見て、私は胸を詰まらせることがよくあった。
 ――こいつを幸せにしてやりたい。
 心の底からそう思っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?