見出し画像

さよなら、それらしき崇高な意味。

“何のために”
は分からなくとも、

自分にとっての
「まっすぐ」を
選べばいいと許可をした。

自分にとっての
「まっすぐ」は、
心の奥底が教えてくれる。

頭でポワポワ望むことじゃない、

命が、魂が、心の奥深くが、
強くやりたいと叫ぶことを
自分にやらせてあげないと

毎日、毎瞬は霞みの中。

感じられる喜びは
どんどん浅くなって、
いつしか、自らが望むことも
薄っぺらくなって。

ただ生きているだけで
人生全体の浅さに拍車がかかり、
生きる喜びは失われていく。

同時に積もる不満感は、
既に満たされている部分にさえも
飛び火して

そのままで存在して
全く問題なかった
人や状況にさえも

八つ当たりをしては、
その尊さ美しさを
見失っていくんだ。

どれだけ、


「足るを知ろう?」
「小さな喜びを大切にしよう?」


そう、心をなだめながら
丁寧そうで素晴らしそうで
美しそうな日々を過ごしても

心の奥底の疼きが
閉じ込められたままなら、
どこからか “紛い物感” が匂ってくる。

私は、こんなことをするために
生きているのだろうか?


自分の心を閉ざす匂いに
誰よりも敏感なのは、
実は自分自身なんだ。

この耐えられない匂いが
目の前の人や環境のせいではないと
気づいてしまったのなら、

もう、
腹を括るしかないと
降参するのみだ。

大きな喜びを、許す。


それは何も、
小さな喜びへの
軽蔑ではない。


自らの輝きを、許す。


それは何も、
他者の輝きを
霞ませることではない。



もっともらしく
頭の中で鳴っていた、

大きな喜びを避けろ!
そんなのやめておけ!
と指示する色々な声を。

軽やかにかわし、
間に受けるのをやめ、
いつしか視界からも外れ、

生きるという前進を続けた先で
徐々に浮かび上がってくる、
「わたし」の意味を色濃く映し出す現実。




どれだけ、
美しいかな。




それが具体的に
どんな形かは知らずとも、
最上級に美しいことは
心のどこかで知っている。

それだけで、
未知の「まっすぐ」へと
進んでいきたいと思える。

だから、はなから
素晴らしい目的なんて
なくてもよかったのかもしれない。


“誰のために”

“何のために”

“何に繋がる道なのか”

“何を創り上げていく旅路なのか”


明確じゃなくとも、
心に眠る「まっすぐ」は
辿るだけで価値がある。


そう、思うから。


私は、ただ、
自分にとっての「まっすぐ」を
選べばいいと許可をした。


さよなら、
それらしき崇高な意味。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?