主張の強い体に感謝


わたしの中のnoteのイメージ

・みんな文章が整っている
・誰かにとって有益な記事しかない
・すなわちみんな何かしら専門的な話しかしてない
・Twitterと真逆
・いわゆる意識高い系の人がやってる



そんな中に、自分のようにコロナ第6波が予見されていた時期に転職転職異業種への転職!と息巻いていたくせに、結局度胸と意気地がなくて飲食業から離れることができず、第6波到来の今(来るとわかっていたはずの)時短要請でシフトを削られあまりの暇さに食うしか生きがいを見出せず数日で太ったこのわたしのようにイケテナイ人間がいるだろうか。


(いたら一度一緒に飲みましょう)


イケテナイわたしは、太ったのである。


ほぼ3日間で太った。

仕事を減らされているというストレスと、家にいる時間の長さ、散歩がてら出かけた先で今日はこの店に入ってみようかなんて井之頭五郎的外食を躊躇せざるを得ない経済状況。
仕事のない時間は家にいるしかないという事実がまた更なるストレスとなり、ある数日間、ちょうどシフト切り替え時期で次の日は仕事あるだろうと思ってシフト出るの待ってたら入ってなかったみたいな驚きもあって、起きて食べ、昼寝して食べ、なんかやりだすけど飽きては食べ、彼がテッペン近くに帰宅したら一緒に食べ、朝起きてまだお腹すいてないのに食べ、という生活をしていた。

したら太った。


そりゃ太ろう。

ちょっと運動に出かけようと思っても起きるのは昼過ぎ。
寒いからそこからなかなか動き出さない。
あとちょっと、あとちょっととやってるうちに日が沈んでもうぜったいに外に出たくなくなる。


自分の自堕落さ、意志の弱さをその数日で何度責めたか。

でももうピッチピチの年齢じゃないので最後の方は諦め入って、食べることへの後ろめたさも減っていた。


そして先日、数日ぶりの仕事。半日だったけれど。

気合い入れて早起きして朝食を食べてから出かけた。

そしてらそれまでの自堕落が祟ったか、電車の中で目眩を起こして途中下車して遅刻した。
チョロい仕事をこなして賄いをもらい帰宅して、初級レベルの睡魔を倒して雑務をこなしていたら、なんと今日はお腹が空かない! ここ数日はお腹が空いていなくても、口寂しさを感じたわけでなくとも何かに吸い寄せられるようにキッチンに行き、そのまま食べられるものならなんでも口に入れる病気の人間のように過ごしていたのに!

なんとなくそんな気はしていた。

「何もやることないからとりあえず食べる」ことに体が飽きを感じ始めていたことに、気づいてはいた。
というか、これ以上「何もやることないのにとりあえず食べ」ていたらマズイやろ、と目が覚め始めていた。


とうとう、セルフストップ機能がかかったのだ。


そして、前日の残りの納豆汁(2日目にして臭い強め)に春雨を一塊いれ満腹になってしまった。


次の日も無理に朝ごはんを食べることをしなかったし、家にすぐ食べられるものがないことに焦りを感じることもなく、まとめドカ食いもしないで済んだ。


完全に、体の自然なバランス感覚によってわたしのイカれ満腹中枢の暴挙は止められた。



こういうことがなん度もある。

子どもの頃は数えるほどしか食べられる野菜がなかったのに、野菜が食べられるようになって以降(それでも得意ではないのに)無性に野菜が食べたい時期があったり、鶏以外のお肉や揚げ物が苦手なのに「今日は揚げ物だろ!」って日があったり、「甘いもの食べたい」以外の理由でチョコを貪ってたら鉄分不足に気付いたり。スーパーにいくと結構ピンポイントで「あ、今日はこれ(この栄養素)だな」って感じることがある。

わたしはこれを、体がその時必要な栄養素をはっきりと伝えてきていると思っている。
(断じて気分ではない!なぜなら苦手なものを食べたくなるときもあるのだから!)


わたしはとてもメンタルが弱く、目の前の現実から逃れたくて逃れたくて仕方がないことが多々あるしそれが発疹や目眩、過呼吸などの症状になって出ることがある。
しかしそんなわたしが絶対にmental disorderというところまで及ばないのは、実はこの「体の声の大きさ」が要因だと思っている。
 
発疹や目眩も充分休むに値する症状ではあるが、それでも病院に通いながら仕事は休まないという人が自分の周りにもいる。その人の症状を聞くとわたしよりひどい。どうしてそんなになるまでがんばり続けたのか、どうしてそれでも仕事を止めないのか甚だ疑問なのだが、そういう人たちはそういった体が発する信号よりも社会性を優先する大人な人たちなのだろう。
 
わたしはといえば、基本的に健康体なので少しでも何か不調が出てきたらすぐに原因を探って取り除かないと気が済まない。「仕事にはいける」程度の頭痛でも仕事に行きたくないし、体のブツブツが数日消えなかったら「これはあの問題が解決しないからだ」と決めつけてなんとかその問題から離れようとする。信号を発してきている体の機嫌をとってやらないと、もっとひどいことになる気がプンプンする。だから、
 
 
「頭が痛くなるほど我慢したんだもんね」
「同じストレスの多い問題でも、ブツブツが出ない人より出てる自分のほうがたくさんストレス感じてるってことだよ」
 

と、甘やかす。
 
それまでは他の繊細さんと同じように、「もっと自分を強くしなきゃ」「これに耐えられない自分が悪いんだ」「問題からは逃げないで自分で乗り越えなければ」とやっていたはずが、体が「イヤだ!」と言い始めた途端、社会的にがんばるのをやめる。
 
 
これは親元にいた頃はできなかったし、そうしてもいいという言葉を聞いてもしばらくは抵抗があったが、慣れてみるとこの諦めに助けられている部分は大きいように感じる。
おかげで、人生で2度ほど睡眠専門医やメンタルクリニックにかかったことはあるが今はどちらもいらない。自分よりもっとつらい人が行くところだと思う。
自分の中に【問題解決】以外の逃げの選択肢ができたことで、問題解決のために自分を追い込むことがなくなったのだろう。

そして鬱屈した気分から抜け出したくなると体はまた「あれを食べたい」「眠いけど陽の光を浴びたい」と立ち直るための欲求を出してくる。
そしてそれに従うと満たされた気分になる。
他人からワガママと思われたくないのでいつもいつも自分の体の欲求を満たすことを優先できるわけではないけれど、いつかそうなれたらなと思う。
自分を優先しつつ、周りとの関係を壊さない言葉選びを身につけて。
 

 

 
わたしの体は声がデカい。
主張が強くて、聞き入れられるまで黙らない。
わたしが壊れないように教えてくれているのだと信じている。
 
Thanks to わたしの体。

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