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「人の労力タダだと思ってんじゃないぞ」から辿り着いた本当の心


「ママあれやっておいて」
「やってないの?」 
「しっかりしてよー」

何をやってもあたり前、
それどころか文句ばかりの家族に対して

「やってもらってあたり前と思ってんじゃないぞ? ありがたく思いなさいよ?」
と心の中で怒りのマグマをふつふつさせる毎日。


いつものようにロゲンカして出かけたある日。 仕事に向かうバスの中でふと

「気に入らないならば私が要望を聞かなければいいんじゃないか?」
と気が付きました。


しかし、
毎日心の中で怒りをたぎらせながらも応じてきたのはなぜか。 掘り下げてみるとそこには、 

人のために頑張っている私を褒めてほしい気持ち

人にやってもらったらなら感謝すべきと説教したい気持ちがありました。

感謝される or マウントをとることで、 承認欲求を満たすことが私がみんなの言うことを「ハイハイ」と聞いてきた理由なのです。




「褒めて」「愛して」「私を認めて」と叫ぶ怪物


 自分を犠牲にして人のために尽くしてる私は最高の善人だと信じていました。

そんな自分が感謝されないことは理不尽で、
私は怒って当然なのに、それすら口に出さず人のために黙々と働いている自分がなぜ大切にされないのか本当に理解できなかった。

「私は人のためにこんなに頑張っているのにあの人は私はを認めない」

という主張は

「私の頑張りを認めない理不尽な酷い人」というレッテルを相手に貼っているのと同じこと。

自分を正当化するために、人を悪者にする人間が良い人なわけないじゃないか。


今まで自分を覆っていた自己犠牲の善人面のメッキがパリパリと剥がれ落ちると、そこには、自分を認めない世界を呪い愛してほしいと涙を流す承認欲求の怪物がいました。

思い返せば最初は「よく頑張ったね」と言って欲しくてただぐずっている赤ん坊のようだったそれが、いつからか「どうして認めてくれないの?」という恨みを抱えながら、当てつけ、気を引き、愛されようと「自己を犠牲にするパフォーマンス」で相手も自分も傷つける怪物に成り果てていたのです。

それに気づいた時、自分の性格の悪さに落胆すると同時に、なぜか肩の荷が降りたようなほっとした感じがありました。

ホントのホントは自分でも知っていたんだと思います。

でも見て見ぬふりをしてきた。

それは意識していなくても楽なことでは無かったんです、きっと。

お疲れ様、自分。


自己犠牲=人のせいにできることを やめる


何かに困った時、嫌なことがあった時 「あいつのせいで」「あなたのためにやっているのに」と恨み言が出てくることはやらない方がいい。

失敗したり文句を言われても 自分でやりたくてやったことは 「自分でやったんだからしょうがない」と思える。

日々の中で

「自分が我慢をすればいい」
と思ってないか

「私こんなに頑張っているんだよ」
 と人に主張したくなることをやってないか

それらを1つずつ確かめながら自分と向き合って行きたいと思います。






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