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楽趣公園(ルーチー・コンユァン)-You 打疫苗了嗎?(Did you get the vaccine ?)-

「うぉッ。くそッ。あぁぁぁぁぁッ。あーぁ、負けた…」

 純太は悔し気にVRゲーム機のゴーグルを外した。

 ソファーに座ってノートPCの画面を見ると、やはり同じようにゴーグルを外しニヤケながらもドヤ顔のサミーがソファーに座って純太を見ていた。

 

 事の起こりは、三十分前。

 いつものようにビデオ通話をしていた純太とサミーだったが、話題がオリンピックの開催とパンデミックの衰えることのない蔓延へと言ってしまう。

 そして必ず…。

『純太。ワクチン打った?(YOU 打疫苗了嗎?)』と。

「残念ながらまだ打ってないよ。接種券は来てるけど、予約が取れなくて。サミーは?」

『日本への出張前に、会社が手配してくれた。二回とも終わってるよ』

「良いよね。大手企業にお勤めの方は。こんな時、フリーランスは弱者だよ」

『でもネットビジネス。今、景気良いじゃん』

「感染者がこんなに増えて来ると、お金より命、ビジネスより健康だよ。今日だって東京の感染者が千人越えたし。こんな状況でオリンピックやるのかな」

『やるんじゃない。日本の総理、意外と頑固そうだし』

「選手に申し訳ないけど、大丈夫なのかって思うよ」

『まだ、打ってない人多いの?』

「高齢者を除けばウジャウジャいるよ。みんな予約とれないって匙投げてるし」

『ふーん』

「それなのに三回目の接種の話まで出てさ。自分が打つ前に三回打ったなんて人が周りで出て来そうで、ちょっと切ない」

『それにしても日本の感染者数、【うなぎ上り】(日本語)だね』

 純太は、クスッと笑った。

『えっ。何が可笑しい?』

「うなぎ上りって、そういう風に使うんだっけ?」

『違った?』

「まぁ、好いんじゃない。あながち間違ってないしさ」

 二人、苦笑。

「何だか話題が暗い方へと行っちゃうね」

『うーん。そうだね…』

 純太は、点けっぱなしにしているテレビを何となく見た。

 オリンピックのメイン会場と開会式の準備模様が流れていた。

「サミーってオリンピックって見る人だっけ?」

『あまり見ないね』

「そうだよね。スポーツとか無縁そうな感じだし」

『そうでもないよ。ジムにはきちんと行ってるよ』

 サミーの細マッチョな身体を、純太は思わず思い出してしまった。

『何を想像してんの?』

「いや。別に…」

『嘘だね。俺の身体、想像してたね』

「してない、してない」

『誤魔化しても無駄だね。目が一瞬、イッた。見逃してないよ』

 サミー、ドヤ顔。

「はいはい。想像しました」

『もうちょい待っててね。毎晩、見せてあげるから』

「アホ」

 二人、和やかな笑い。

「でも、ジムだけでしょう。他にスポーツ、何かやってた?」

『卓球』

「マジ?」

『中学と高校の時にやってた。結構上手いよ』

「そうなの?」

『純太は?』

「中学の時に卓球とバレー。高校はテニス」

『ふーん。卓球。やってたんだ?』

「まぁね。一応、学校のだけどクラブに入ってレギュラーだったよ」

『レギュラーねぇ』

 サミー、どこか挑戦的。

「何だよ?」

『純太。卓球、上手いの?』

「だから、そこそこだって」

『今、勝負しない?』

「しても良いけどさ、今は無理でしょう」

 サミーはVRのゴーグルを見せた。

「えっ。マジ。E卓球?」

『対』

「やりたいの?」

『対』

「今?」

『対、対』

「勝ったら飯おごる?」

『良いよ。でも多分、純太は勝てないからご馳走になるけどさ』

 サミー、挑発発言。

 

 かくして海を挟んだ卓球対戦が始まる。

 そして結果は、純太の惨敗。

 

『純太。御馳走様』

「日本で何が食べたいの?」

『懐石料理』

「高ッ」

『ふぐかスッポンでも良いよ』

「似たような物だよ。値段的には大差ないよ」

 サミー、ニヤニヤ。

「よし分かった。おごるよ。でも条件がある」

『なぁーに?』

「こっちに来たらリベンジマッチやる」

『リベンジねぇ。純太が勝ったら飯をおごるのをチャラとか?』

「何を甘い事を言ってるんですか。サミーがおごるの」

『はぁ。それって何だかおかしくない?』

「別に…」

『まぁ、好いけどね。どうせ純太が返り討ちに遭うだけだから』

 サミー、不敵に笑う。

「サミー。甘いな」

『はいはい』

「ところでサミー、こっちには何時来るの?」

『来週、月曜の便で行くよ。まぁ、二週間は隔離だけどさ』

「毎日連絡してよ」

『純太もね』

 次の日の午後、坂本園。

「まったく、あんたとサミーさんときたら。国際通話でそんな話しかしないのかい。随分と高くつくねぇ」

 真由美、呆れ顔。

「そうでも無いですよ」

「懐石料理だ、ふぐだのスッポンだのって。景気の好い話だよ」

 想はキジトラキャットと遊んでいる。

 すっかり馴染んだ感じだった。

「良い匂いがしますねぇ」

 昼飯を食べ損ねた純太にとって、この匂いは食欲をそそった。

「お勝手で真央がお昼の支度をしているんだよ。あの人、今日が当番だっていうのに遅刻するから昼抜きになるところだったよ」

 坂本園で想を預かることになってから仁美と真央が日替わりの助っ人として来ていた。

お昼の支度は二人が分担している。

「何だい。お腹空いているのかい?」

「えぇ。実は午前中忙しくて抜きました」

「やれやれ。真央さぁーん」

「はぁーい」

 真央が奥から顔を出した。

「あら先生。いらしてたの?」

「ついさっき」

「真央さん。お昼、もう一人分大丈夫かい?」

「えぇ。平気ですよ。あら、ひょっとして先生、お昼食べて無いの?」

「実は、そうなんです」

「そう。じゃあ、食べてって」

「良いんですか?」

「ちょっと多めに作っちゃったから。食べて、食べて」

 野菜炒めと、みそ汁にご飯。

 中々の美味である。

 子供向けのメニューという感じではなかったが想は嫌がる風もなく、むしろ上機嫌で食べていた。

 彼の脇でキジトラの奴もキャットフードを食べている。

「ところで何だったかねぇ?」

 味噌汁を啜った真由美は、純太の顔を見ながら思い出したように言った。

「何だったって、何でしたっけ?」

「…」

「真央さん。野菜炒め美味しいです」

「あら。そう。先生、ありがとう」

「何でしたっけって、何だって。こっちが聞いてるんだよ」

 真由美、憮然。

「先生。お替りは?」

「良いですか?」

 純太は空のご飯茶碗を真央に渡した。

「味噌汁も良いですか?」

「いいわよ。食べて、食べて。沢山あるから遠慮しないで。先生」

「…」

 真由美のこめかみがピクピク動く。

「先生。ご飯のお替り。はい」

 真央は純太へ、ご飯をよそった茶碗を渡す。

 純太は御飯茶碗と引き換えに味噌汁椀を真央へ渡した。

 真由美は、自分の目の前で繰り広げられる純太と真央のやり取りを見て次第に苛立つ。

「先生。野菜炒め。もう少しあるわよ。食べない?」

「えっ。良いんですか。それじゃあ、遠慮なく…」

 真由美、ついに爆発。

「ちょっと、あんたたち。ここを何処だと思ってんだい」

 真由美の突然の剣幕に、純太と真央のみならず想とキジトラキャットまでが真由美の顔を注視した。

「真央さん。何やってんだい。先生の世話ばかり焼いて。息子じゃ無いんだよ。見てごらんよ、想ちゃんのおかずが空じゃないか。先生なんか放って置いて良いから、想ちゃんの面倒を見ておくれ」

 突然、想が泣き出した。

「あぁ、ぁぁぁぁぁぁぁ。ゴメンね。想ちゃん。怖くない、怖くないよ」

 真央がなだめる想の傍らにキジトラの奴、身体を摺り寄せながらミャーミャーと鳴いて彼の機嫌を取る。

「純さん。あたしの話を聞いてんのかい」

 純太は真由美にそう言われると飲みかけの味噌汁椀を置いた。

「まだ食べるのかい。まったく。人の話は聞かない。昼ごはんはバカバカと食べる。食べて行きなとはいったけど、もう。昼ごはん代、貰うからね」

「ちょ、ちょっと。先輩。そんなけち臭いこと言ってどうするのよ」

 想をあやしながら真央、呆れ顔。

「誰の財布でやってると思ってるんだいッ。純さんも立派な大人。社会人。御馳走するなんて失礼だよ」

 想は泣き止む気配がない。

「あぁ。想ちゃん。怖くない。怖くない。泣かないで。良い子にしなとね」

 純太は想を抱き上げると自分の膝の上に乗せた。

「びっくりしたね。大丈夫だよ」

 突然傍らか想が消えて戸惑っていたキジトラキャットだったが、床へ飛び降りると純太の脚に身体をすり寄らせ、ミャーミャー鳴き始めた。

 想定外の顛末に流石の真由美さんも戸惑い気味。

 びっくり反応でギャーギャー泣く想を見ながら彼女は思った。

 …家に幼い子が居るって、こんな感じだったわよね…

 顔には見せないが内心苦笑しつつ、真由美は溜息混じりで言った。

「想ちゃん。ゴメンね。想ちゃんは悪くないの。悪いのは、このお婆ちぁんだから。ゴメンね。ゴメンね。機嫌を直しておくれ」

 真由美は、想を自分の膝に乗せると彼の機嫌を取り続けながら懇願。

 そして、ようやく想が泣き止んだ。

「はぁ~」

 真由美はホッとして溜息をついた。

「それで、何だったけ?」

 彼女は純太に尋ねた。

「あー、何でしたっけ?」

 小首を傾げる純太。

「なっ、何でしたっけじゃないだろう」

 また声を荒げようとする真由美を純太は指さす。

 その先にいる想は、真由美に抱かれながらスヤスヤと眠っていた。

 キジトラキャットは、真由美の脚に身を擦らせながらウロウロと彼女の足元を歩き回っていたが、想が眠ったのを察したように奴もまた床に身を横たえて眠った。

「…今日来たのには、何か頼み事でもあったんじゃないのかい?」

 真由美、小声で話す。

「あぁ。そうでした。そうでした」

「もう。じれったいねぇ。何だい?」

「卓球」

「卓球?」

「卓球です」

「卓球がどうしたんだい?」

「特訓です」

「はぁ?」

「あぁ。ですから…、卓球の特訓をお願いしたいんです」

「?」

「?」

 真由美と真央は互いの顔を見合わせると、口を揃えて言った。

「特訓~ッ」

 二人の素っ頓狂な声に、純太は自分の唇へ指を立て『シーッ』の仕草。

 想はスヤスヤと眠り続ける。

「あたし達に卓球の特訓をして欲しいって言うのかい?」

 純太、頷く。

「先生。急にまた、どうして?」

「勝ちたいんです」

「誰にだい?」

「サミーです」

「特訓ねぇ。でも、先生。卓球経験あるの?」

「あるらしいよ。中学校だかの時に卓球部のレギュラーだったらしいから」

「へぇー。ずぶの素人ってわけでもないんですね」

「はい。多少の素養はあります。ブランクが長いだけで」

「ふーん」

「ブランクねぇ」

 二人の様子に純太はたじろぎ、少し嫌な予感がする。

「まぁ、好いけど。教えるのは真央さん、頼んだよ」

「えっ。先輩じゃないの?」

「お昼ごはんを甲斐甲斐しく世話してるところなんか、母親みたいだよ」

「は、母親って。せめてお姉さんくらいにねぇ」

「…」

 純太、二人のやり取りを唖然と見守るしかない。

「何でも好いけどさ。あんたが教えて。好いねッ」

 真央は頷いた。

 スポーツジム。

 無料開放されているスタジオに卓球台が並んでいる。

 卓球クラブの開始時間前にも関わらず真由美や真央を始めとする会員たちは既に集まっていて、卓球の練習を開始している。

 スタジオの入口からその様子を見て、純太は呆然として佇んだ。

「レベル。高過ぎ…」

 そんな純太の傍らに、顔馴染みの女性スタッフが彼に声を掛けた。

「あれ。二宮さん。今日は卓球ですか?」

「あぁ。はい」

「意外ですね。土曜日のこんな早い時間帯にお見えになるのそうだけど、卓球をされるなんですね。ちょっとビックリしました」

 彼女、ニヤニヤ。

「あら。先生。来ましたね」

 真央が純太に気づいて、そう言いながら近寄って来た。

「あら、鈴木さん。二宮さんとお知り合いなんですか?」

「そうなのよ。あたしと先輩の中国語の先生」

「えっ。中国語、なされるんですか?」

「あぁ。まぁ、少し」

「すごーい」

「そうなの。こう見えて、ちょっと凄いの。この先生」

 そう言われ、喜んで見せて良いのかどうか迷う純太。

「卓球の特訓をしたいって言うから、今日からね。あたしが先生なの」

 真央、ウキウキ。

 それに反して女性スタッフは、急に心配そうな顔つきで純太を見た。

 純太は彼女の表情を見て、増々不安を募らせた。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫よ。経験あるみたいだし。それに若いから」

「でもー。この卓球クラブは…」

「えっ。何かあるんですか?」

 純太が不安そうに尋ねると、彼女は曖昧な笑みで答える。

「結構、ハイレベルですよ」

 それは見れば判る、と思いつつ純太は彼女に訊いた。

「ハイレベル?」

「市内でシニアの卓球クラブって十チームあるんですけど、ここダントツに強くてどこも勝てないんです。県内の大会でもベスト3の常連競合チームだし」

「えっ」

 シニア卓球クラブとナメていた自分に、純太は猛省を促した。

「それに…」

「それに?」

「結構スパルタで。続く人が少なくて」

「ス、パ、ル、タ…」

 ちょっと言い過ぎたと思ったのか、女性スタッフは再び曖昧な笑みを浮かべて言った。

「まぁ。二宮さんならOKですよ。それに先生も鈴木さんですから。大丈夫、大丈夫」

 根拠のない慰めを残して、女性スタッフはその場を去って行った。

「さぁ。先生。特訓ッ。始めましょう」

 やたらと張り切っている真央に、純太は少し怯えつつ聞いた。

「そう言えば、真由美さんの姿が見えませんね」

「あぁ。先輩?」

「はい」

「今日は、お休みですって」

「えっ?」

「想ちゃんの歯の検診。昨日、愛梨さんから頼まれて連れて行っているの」

「歯の検診ですか…」

「それがね。歯医者さんが先輩のご次男さんの医院なんですって。偶然ねぇ。それもあって連れて行く事を引き受けたんですって。今頃、歯医者の待合室かしら。でも卓球の特訓はあたしだから大丈夫。楽しく卓球をしましょう。先生」

 純太は、真央によって半ば引き摺られるようにスタジオへ入って行った。

 歯医者。

「柏木想ちゃーん。中でお待ちください」

 受付で呼ばれ、真由美と想は待合室のソファーを立った。

 診療室のドアが開くと、下田恵美が息子の朗の手を引いて現れた。

「あら。想ちゃん」

 恵美は二人を交互に見ながら言った。

 彼女から声を掛けられた真由美だったが、センスの良い服とアクセサリーに身を包み、聡明さを感じさせる彼女の雰囲気に真由美はハッとさせられた。そして、この人と知り合いだっただろうかと思い記憶を総動員させるのが思い出せない。

 朗は想を見つけると嬉しそうに笑い、想の傍に立った。

 想と朗はじゃれ合い始めた。

「想ちゃんのお祖母さんでいらっしゃいますか?」

「?」

 真由美がキョトンと彼女を見ていると、恵美が続けた。

「私、下田と言います。想ちゃんのお母さんと同じ職場で仕事をしています」

「あぁ。コールセンターの…」

「朗と想ちゃんは、職場の保育所が一緒で。仲良くさせて頂いてます。今日は、息子の歯の治療で来ました。想ちゃんも虫歯ですか?」

「あの子は虫歯なんかじゃありませんよ。歯の検診だって。お母さんの愛梨さんから頼まれましてね。連れて来たんです」

「あら。お祖母様かと思って失礼しました」

「いえ、いえ。良いんですよ。下田さん、今日はお休みですか?」

「はい」

 休日でもこんなにお洒落なのかと、理由のない違和感を覚えながら真由美は彼女を見続けた。

「あら。あたし、うっかりしちゃったわ。今日、想ちゃんの歯の検診日だって聞いていたのにシフト変更の配慮しなくって」

 すこしガッカリしている恵美を見て、彼女が愛梨の言っていた尊敬している上司なのだと真由美は察した。

「柏木さんへ、次からはシフトを配慮するからごめんなさいとお伝えください」

 ドアが開き、院長が姿を現すなり言った。

「あれっ。母さん。今日、診察日だっけ?」

「えっ。院長先生のお母様でいらっしゃられるんですか?」

「えぇ。まぁ。次男なんです」

「下田さん。母さんのお知り合い?」

「今日が初めてだよ。この子のお母さんの職場の上司の方」

「あぁ。そうでしたか。えっ、なんで母さんが想ちゃんを連れて来たの?」

「この子のお母さんに頼まれたの。想ちゃん。中へ入るよ」

 想の手を引いて真由美は診療室に入って行った。

 

 想を診療台の椅子に座らせると、真由美は待合室へ移った。

 予約待ちの患者の居ない待合室で院長は会計を済ませて出て行く下田親子を見送った。

「それにしてもお洒落で美人さんだねぇ」

「…」

「ちょっと。良い年齢して。なに見とれてんだいッ」

「あっ。違うよ。ちょっと心配でね」

「心配?」

「朗君」

「息子ちゃんかい?」

「虫歯だらけなんだ」

「甘いものが好きなのかねぇ?」

「それなら良いんだけど。ネグレクトじゃないかってね」

「ネグレクトって育児放棄のことかい?」

 院長は小さく溜息をついた。

「色々な人の歯を見ていると、その人の生活や人生が垣間見えたりするんだよ。美人でお洒落。服や身に着ける物もセンスが良くて。会社でも優秀な感じだろ。どこから見ても非の打ちどころがない人なんだけど息子の口の中は虫歯だらけ。息子の歯の手入れまで気が回らないってことが多くてね。歯だけなら良いけど、実際育児放棄というケースも多くて。最近、案外多いんだよ」

「でも息子、お母さんにベッタリだったよ」

 院長は、苦笑しながら答えた。

「育児放棄や親から虐待されている子供って、親を物凄く慕うし離れないんだ」

「えっ。ひどい目に遭わされているのに、そうなのかい?」

「親に棄てられたら生きていけないだろう。動物の本能らしいよ」

「…」

「嫌な予感。外れてくれることを祈っているよ」

 院長はそう言うと診療室へ戻って行った。

 真由美と想が坂本園に戻ると、純太と真央が店の前で待っていた。

「おや。来てたんだねぇ。待たしちゃったかい?」

「あら先輩。大丈夫。想ちゃん、歯の検診どうでした?」

「虫歯無し。良く磨いていますって、先生に褒められたんだよね」

 想、嬉しそう。

「純さん。随分くたびれてるねぇ。大丈夫かい?」

 純太、力なく頷く。

「先生がこんなに体力無かったなんて想定外だったわ。基礎体力も鍛えなきゃ」

「若いのにだらしないねぇ」

 真由美、ニヤニヤ。

「それで筋の方はどうなんだい?」

「うーん。まぁ、センスはありそうね。でも土曜日だけじゃ、サミーさんの来日に間に合わないかな」

「おや。そうかい。それで、どうするんだい?」

「来週から毎日、特訓しかないわね」

「えっ」

 純太、唖然。

「スタジオの卓球向けの無料開放空いてるみたい。毎日今日の時間帯で予約しといたから。先生、月曜日から頑張りましょう」

「え、えぇっ。毎日…」

「基礎体力もつくし。良い機会よ。先生ッ」

「…」

 真由美は、店の鍵を開けた。

「まぁ。みんな、中に入ってゆっくりしていきな」

「あっ。下田さん」

 コールセンターの喫煙ルームで煙草を吸っている彼女を見つけ、愛梨は話しかけた。

「あら。柏木さん。休憩?」

「はい。今日、お休みじゃなかったんですか?」

「仕事でちょっと思い出したことがあって」

「急ぎのお仕事だったんですか?」

「そうじゃないけど。気になると先伸ばすのが嫌なの。性分よ」

 愛梨、ちょっと羨望の眼差し。

「朗君は託児ルームですか?」

「ええ。土日でも稼働してくれてるから助かるわ」

「本当にそうですよね」

 二人、和やかに笑う。

「そう言えば今日、歯医者さんで想ちゃんに会ったわよ。近所の方に見て貰ってるの?」

「ええ。でも保育園が決まるまでの間ですよ」

「その方、坂本医院の院長先生のお母様なんですってね。ビックリしたわ」

「朗君も歯の定期健診ですか?」

「虫歯。あの子、甘いものが好きで。虫歯できちゃったの」

「あら。可愛そうに…」

「ちょっと掛かりそうなの。困ったわ。あぁ、それはそうと、院長先生のお母様とお知り合いなの?」

「はい。最近知り合ったばかりなんですけど、真由美さん達には助けて頂いてます」

「良かったわね。良い人に出会えて…」

「はい。良い出会いに感謝してます」

 坂本園。

愛梨が想を迎えに来た。

「ママ」

「想。ママ、来たよ」

 愛梨は想を抱き上げた。

「真由美さん。ありがとうございました」

「なに言ってんだい。気にしないの。それに想ちゃん、虫歯無かったからね」

 想は愛梨に甘えている。

「そう言えば、歯医者さんで下田さん親子に会ったよ」

「えっ。下田さんですか?」

「よく話してた尊敬する上司って、あの人のことだろう?」

「はい」

「品の好い、身に着ける物もセンス良くて。仕事できる人って感じだね」

「そうなんです。それに責任感が強くて。今日も、お休みの日なのに仕事のことで会社に来てましたし」

「息子さんも一緒だったのかい?」

「ええ。会社の託児所に預けて」

「ふーん」

「でも、朗ちゃん。歯医者って、どうしたのかしら?」

「虫歯らしいよ」

「そうなんですか?」

「あの年頃の子だから甘いものが好きなんじゃないのかい」

 愛梨、少し腑に落ちない顔つきで真由美を見る。

「どうかしたのかい?」

「あっ。いいえ。でも、ちょっと腑に落ちなくて」

「何か気になるのかい?」

「甘いもの、あまり食べさせないようにしてるって以前に言ってたんですよ」

 ふと、真由美の脳裏の次男の言った一言が過った。

 …ネグレクトじゃなきゃ良いけど…

 真由美は母親に無邪気に甘える想を見つめた。

 サミーが来日した夜、彼は隔離滞在中のホテルから純太へビデオ通話をした。

『純太。マジかよ』

 サミーは大笑いしながら言った。

『卓球で俺に勝ちたいからって、近所のおばさま達に特訓してもらってるって?』

 純太、憮然。

『特訓は良いけどさ、俺がそっちへ行く前に過労で倒れたりしないでくれよ』

「倒れれないよ…」

 サミー、再び爆笑。

「何が、そんなにおかしいんだよ」

『だってさぁ。顔がげっそりしてるし。それに少し痩せたんじゃない?』

「身体。引締まったの。特訓の成果だから」

『特訓の成果ね。その割にはやつれて見えるけど』

 サミー、そう言いながらニヤニヤ。

「何だよ。面白がっちゃって」

『怒るなよ。こう見えて心配してんだからさ』

「全然、そんな風に見えないよ。止めろとも言わないし」

『言って欲しいのか?』

「…」

『止めたって聞かないだろ?』

 純太、少し拗ね顔。

『本当に無理するなよ。何かあったって、二週間は駆け付けられないんだからな』

「普段に何かあったって駆け付けられないじゃん。台湾と日本だし」

『現在は俺、日本に居るよ』

「知ってるよ」

『台湾じゃなくて純太と一緒の国に居る』

「うん」

『万一、純太に何かあっても隔離期間中だから、駆け付けようにも出来ないんだぜ』

 真面目な顔つきで純太を見つめながら、サミーは続け言った。

『それって滅茶苦茶辛い』

 純太は和やかな面持ちで言った。

「サミー。大袈裟。でもさ、凄く嬉しいよ」

 二人、笑う。

『うん。俺も、隔離期間中にホテルの部屋で自主トレしようかな』

「卓球できる施設とかあるの?」

『無いよ。でも、これがある』

 サミーはVRゲームのゴーグルを純太に見せた。

「持って来たんだ」

『まぁね。隔離期間中の退屈凌ぎだよ。純太に負けられないし』

「今度は、絶対俺が勝つから」

 サミーは、ちょっとドヤ顔で言った。

『まぁ、純太君。精々頑張ってくれたまえ』

 夕方。

 坂本園。

 疲労困憊の純太は店の奥、人目のつかない場所にあるソファーに横たわってノビていた。

 真由美は買物に出掛け、想の世話は仁美が焼いている。

 真央はお勝手で夕食の支度中。

店のドアが開く音。

 目だけで音源を追った純太の視線の先で、藤木が立っていた。

「あれっ。藤木さん」

 純太は節々の痛む半身を起すと、彼に手を振って見せる。

 店の奥にいる純太を見つけ、藤木は会釈した。

「純太さん。昼寝中でしたか?」

「いいや。そう言う訳じゃないんですけどね」

「想ちゃんは?」

「母屋で仁美さんと一緒に居るけど、何か?」

「お迎えに来ました」

「お迎え?」

 藤木はスマホを取り出すと、愛梨からのメッセージを見せながら言った。

「会社でトラブルが発生したようで、想ちゃんの迎えを頼まれました」

「えっ。トラブルって?」

「会社の上司のお子さんの具合が悪くなって、病院へ付き添ったらしいです」

「付き添い?」

「親しい上司のお子さんらしいですよ。その方、日帰りの出張中で直ぐに戻れないようでです。愛梨さん、丁度シフト明けのタイミングだったようです。自分が病院へ行きまでの間、息子さんに付き添ってやって欲しいと頼まれたんだそうです」

「それで藤木さんが愛梨さんの代わりに来たと」

「はい」

 藤木はそう言うと、何やらクンクンと鼻を動かして見せる。

「カレーですか?」

「確かにカレーの匂いですね。多分、夕飯はカレーなんじゃないかなぁ」

 藤木の腹が鳴った。

「お腹空いてます?」

「実は、昼を食べ損ねまして」

「一緒に食べて行かれたら如何ですか?」

「えっ。良いんですか?」

「カレーだし。多めに作ってると思いますよ」

「では遠慮なくご馳走に預かりたいのですが?」

「真央さんに聞いてきます」

 病室。

 愛梨は、点滴を打ってベッドに眠っている朗の寝顔を見ながら、彼を担当した医師から言われたことを思い出していた。

 

『朗君のお母さんでいらっしゃいますか?』

 医師は訝し気な眼差して愛梨を見て言った。

『いいえ。私はお母さんと職場が一緒の者でして。朗君のお母さん、今日は仕事で地方へ行かれていまして。戻るまで付き添って欲しいと頼まれました。それで、朗君の具合はどうなんでしょうか?』

『栄養不良に伴う疲労です。点滴を打ったので、しばらくの間安静にしていれば落ち着くと思われます。今日、家には帰れるでしょう』

『栄養不良ですか?』

 頷き、医師は答えた。

『虫歯も多数あって酷い状態ですから。物がよく噛めなくて食が細くなってるいる可能性はありますけど、この状態は度を越えていますね』

『…』

『歯の治療は勿論ですが、柔らかく、消化が良くて栄養価の高い食事を心がけるよう、朗君のお母様にお伝え下さい』

 

 …栄養不良…

 愛梨はショックだった。

 愛梨の知る限り、下田家は食事に困るような生活ぶりではない筈だった。夫婦共働きで、彼女の夫は海外へ単身赴任中。

経済的にはどちらかと言えば裕福で、夫婦ともに仕事で忙しいことを除けば何の支障もない生活を送れている印象だった。ただ、ご主人からの連絡があまり来ないことを愚痴混じりにボヤいていた事があり、愛梨は下田の意外な一面を目にしたことはあったが、彼女のあっけらかんと話す様子に聞き流していた。

…育児放棄…

朗の虫歯が酷く、育児放棄の不安があると真由美から聞かされた時も、愛梨はまさかそんなことがある筈がないと聞き流したが、今はその不安を拭えないまま朗に付き添うしかなかった。

 スマホ。

 下田からのSNSのメッセージが届いた。

 

『愛梨さん。今、病院?』

『はい』

『朗の具合は?』

『点滴打って。今は眠っています』

『点滴?』

『言いにくいんですけど、お医者様によると栄養不良による疲労だって』

『栄養不良?』

『はい』

 少し間があって、返信が届く。

『あの子、虫歯が酷くて。最近、食が細くなってたから』

 愛梨は少しイラッとした。

『お医者様は、栄養不良の原因は虫歯だけじゃないようだって仰ってました』

 下田、返信なし。

『下田先輩。今、どこに居らっしゃるんですか?』

 下田、既読スルー。

『早く病院にいらして下さい』

 下田、既読スルー。

『先輩』

 下田、未読スルー。

 

「一体、何を考えているのよ…」

 愛梨は苛立ち、ぞんざいにスマホを小机の上に置いた。

 彼女は眠る朗の手首を優しく握った。

 掌から伝わる痩せて細くなった手や腕の感触が、酷く痛々しく感じられた。

 坂本園。

 真由美が買い物から戻って、面々は真央の作ったカレーを食べている。

 そしてその中に今夜は、藤木の姿もあった。

 旨い旨いと言ってカレーを食べ続ける面々の顔を見ながら、真由美は思った。

 …うちは最近、息子や孫もあまり寄りつかないっていうのに何でこうなるんだい…

 ちょっと不機嫌気味な真由美に気づき、純太が話しかけた。

「真由美さん。食べないんですか。真央さんのカレー、絶品ですよ」

「分ってるよ」

「早く食べないと、お替り無くなりますよ」

 真由美、無言。

 …しかも他人ばっかり。何で毎日毎日、こうも増えるんだい…

 真由美、心の中でボヤキながら憮然。

 そして彼女は、純太の顔を見た。

 …この男に出会ってから、あたしは振り回されっぱなしだよ…

「ばぶぅー」

 想は意味不明な声を上げながら、手にしたスプーンで砂場遊びのようにカレーを口へ運んでいる。

「あらあら。口の周り。カレーだらけにして」

 仁美はニコヤカにそう言いながら、慣れた手つきで想の口の周りのカレーを拭取る。

 そんな二人を見ながら真由美は溜息を漏らすと、仕方なさ気にカレーを食べた。

 藤木のスマホに電話が入り、彼は席を立った。

 朗が目を覚ました。

「あっ。朗君。目が覚めた?」

 朗はキョトン顔で愛梨を見ている。

「ママは?」

 愛梨は朗の手を握り締めて言った。

「まだ、お仕事なの。でも、直ぐに来るからね」

「ふーん」

 朗は見慣れない病室を見回した。

「ここ、どこ?」

「お家の近くの病院よ」

「僕、どうしてここに居るの?」

「具合が悪くなって。お医者さんに診てもらったのよ」

「?」

「気分はどう?」

 朗は答えず、傍らに置かれたテレビを見て言った。

「愛梨おばちゃん、テレビ見よう」

「テレビ?」

「うん」

「何の番組が見たいの?」

 朗は幼児向けのアニメ番組を言った。

 愛梨はネットで朗が見たいアニメの動画を探し、それを彼に見せた。

 朗は両手で愛梨のスマホを持って、そのアニメを見続けた。

 愛梨はナースセンターの看護師に朗が目を覚ましたことを告げると、程なくして看護師がやって来て点滴を外した。

 アニメを無心に見ている様子を見て、看護師が言った。

「朗君。顔色も良くなりましたね。点滴が終わって、目が覚めたら帰宅しても構わないと主治医の先生がおっしゃってました。少し様子を見て、何も無ければご帰宅下さい」

「はい。ありがとうございます。まだ、この子のお母さんがいらして無くて」

「大丈夫ですよ。多少、遅くなってもウチは構いませんから。ご心配なく」

「ありがとうございました。助かります」

 愛梨は看護師を見送りながら『下田先輩、早く来て』と心の中で叫んだ。

「もしもし。愛梨さん?」

「洋輔さん。ゴメンね。電話するのが遅れちゃって」

「大丈夫だよ。想ちゃん、こっちで夕飯食べてる」

「そう。良かった」

「そっちは大丈夫なの?」

「それが、もう大変よ。病院」

「えっ?」

「付き添いで行ったのは良いけど、ワクチン打ったのとか、接種証明しろとか。煩くて。そうでないと付き添いを遠慮しろって。でも朗君を一人に出来ないじゃない。職域で二回ワクチン接種を打ち終えたって言っても信じてくれなくて、証明しろってよ。接種証明書を持ち歩いてたから、それを見せて。渋々OK出て。あぁ、面倒くさい」

「大変だったね。それで、朗君は?」

「さっき目を覚まして。元気になったみたい。アニメが見たいっていうからスマホで探して見せてたんだけど、先輩からSNSのメッセージが着て」

「お母さん、まだ来てないの?」

「そうなの。もう、とっくに出張先から戻っても良い時間なのに来なくて。その矢先に連絡着て。でも、ちょっと様子が変なのよ」

「変って?」

「朗君が目を覚ましたって連絡してから随分経って返信が来てね。病院に来るのかと思ったら、家まで連れて帰って欲しいって。それでちょっと腹立って、何度も電話を掛けたんだけど全然出なくて。様子、おかしいでしょう?」

「普通じゃないね」

「それで先輩の家へ様子見に行こうと思うのよ。洋輔さん、一緒に行ってくれない?」

「良いけど、どうして?」

「何だか嫌な予感するのよ。朗君が具合悪くなったのも栄養不良によるものだって。ちゃんとご飯食べさせてますかなんて、主治医の先生に言われちゃったし。その事を先輩に伝えてから返信がばったり途絶えて。様子が普通じゃない気がするし」

「朗君はどうするの?」

「それなのよ。一旦、坂本園で預かってもらって、私たち二人で様子を見に行きたいの」

「一緒に連れて帰った方が良いんじゃ無いの?」

「正直に言うと、下田先輩、育児放棄っぽいのよ」

「…」

「何でも無ければ良いけど、悪い予感当たっちゃうと」

「じゃあ。二人で行こう。向こうに何か言われたら、想ちゃんと遊んでてとか何とか言って誤魔化してさ」

「うん。そうする」

 坂本園。

 真由美は、愛梨の傍らに立つ朗を渋い顔で見つめた。

「二人で行くのは良いけど、一緒に連れて帰った方が良い気がするけどねぇ」

 愛梨が何かを言おうとした時、想の弾んだ声が響いた。

「あきらくんだぁ」

「あっ。ソウちゃんだ」

想は朗に駆け寄って手を取った。

「あきらくん。遊ぼう」

「好いよ」

 真由美たち三人が唖然と見つめる中、想と朗は奥へ走り去って行った。

「やれやれ。それで、その下田さんのお宅はここから近いのかい?」

「駅前にできたタワーマンションです」

「おや。随分と凄い所にお住まいなんだねぇ」

「それじゃあ、愛梨さん行きましょう」

 二人を見送って、真由美はボソリと独り言を口にした。

「まったく。ウチはお茶屋で、保育所じゃないんだよ」

 駅前のタワーマンション。

 下田の部屋の番号を押すと、無言でオートロックが解除された。

 二人は中へ入った。

 朗は想の隣に座って、真央の作ったカレーを食べている。

「よっぽど、お腹が空いてたんだねぇ」

 ムシャムシャカレーを食べ、あっという間にお皿が空になると朗は真央を見た。

「お替り?」

 朗は、こっくりと頷いた。

 部屋の前。

インターホンを何度か押すが返事がない。

二人は怪訝な表情で互いを見た。

愛梨が試しにドアノブを回してみると、鍵は開いている。

ドアを引くと施錠チェーンも外れていた。

「中へ入れるみたい」

「うん。そうらしいね」

 ドアを開ける。

 照明は消えて、部屋の中は真っ暗だった。

「下田先輩。いらっしゃいますか?」

 返事はない。

「下田先輩。いらっしゃるんでしょう。柏木です。中に入りますよ」

 愛梨はドアを開けて玄関に入り、廊下の照明をつけて唖然とした。

「えっ…」

 そして愛梨の背中越しに廊下を除いた藤木も思わず言った。

「うわっ。ゴミ屋敷だ…」

 

 放置された段ボール荷物やゴミで埋まる廊下の僅かな隙間をぬって二人がリビングルームに辿り着き、その部屋の照明をつけて二人は唖然とした。

 二十畳くらいのスペースはあろうかというリビングルームには、衣服とゴミが堆く散乱していた。

「先輩。下田先輩。どこですか?」

 二人はゴミと衣服を掻き分けて下田を探す。

「愛梨。こっち、こっち」

 キッチンから藤木の声がして、そこに言って愛梨は呻くように言った。

「先輩…」

 キッチンの一番奥で、下田は膝を抱え、蹲るように座ってブルブルと震えていた。

 愛梨が近寄ろうとすると、彼女は叫ぶように言った。

「こっ、来ないでッ」

「先輩。あたしです。柏木です」

「いや。見ないで」

 下田は二人に背を向けて拒絶する。

「あたし。あたし。ちゃんと、朗を育ててる」

「ええ。良く知ってますよ、先輩」

「ちゃんと、ご飯だって食べさせてるの」

「そう。先輩は悪くないですよ」

「でも、あの子、食べないの。あたし、一生懸命に作ってるのに。食べないの」

 愛梨は少しずつ下田に近づき、そしてやっと彼女の傍らにしゃがむと震える両肩を抱きながら背中を摩った。

「先輩は悪くない。絶対に悪くない」

「あたし。一人で。一生懸命やったの」

「大丈夫。先輩を悪く言う人なんか居ませんよ」

「あたし…」

 下田はボロボロと泣き始めた。

「良いの。何にも悪くないんだから。思いっきり泣いて。気持ち、全部吐き出して」

「朗のために。一生懸命頑張ったの」

「辛かった。不安だった。怖かったんですよね、先輩。相談できる人も居なくて」

「…」

「大丈夫。私、ずっと傍に居ますよ」

 下田は愛梨の胸に顔を埋めて号泣した。

「それでウチへ連れて来たのかい」

「真由美さん。済みません。ご迷惑をお掛けしてしまって」

「彼女を責めないでやって下さい。僕も見ましたが、どの部屋も凄い事になってまして。とても落ち着いて寝られるような状況ではなかったので」

 藤木をギラっと睨んで、真由美。

「それでウチだったって訳かい?」

「はい」

 愛梨と藤木の声が重なる。

「他に頼るところが無くて。先輩、ガンとして動こうとしないし」

「それで息子さんを坂本園まで迎えに行こうってことで、漸く連れ出せた訳で」

「ウチわねぇ。お茶屋なんだよ。下宿屋でも、ホテルや旅館でも無いんだよ」

 シュンとしている愛梨と藤木を庇うように仁美が言った。

「でも真由美さん。部屋なら余ってるんでしょう。みんな、寄りついてないし」

「煩いよ」

「まぁ、良いじゃない。先輩も人助けだと思って泊めてあげたら。それに口ではそう言ってるけど、本音は満更でもないんでしょう?」

「何だい、それは?」

「先輩。賑やかなのが好きでしょう?」

 真央、ニヤニヤ。

「そうですよ。愛梨ちゃん。気にしなくて良いのよ。真由美さんって、本音とは真逆の態度で振る舞うことで有名なの」

「それで、良く誤解されるんだけどね。根は優しくて、困ってる人を黙って見てられないのよ。だから今日は、あんた達も泊めてもらいなさい」

「えっ。ええっ?」

 素っ頓狂な声で驚く、真由美。

「だって先輩、想ちゃんと朗君。仲良く一緒の布団で眠っちゃってますよ。それをわざわざ起こして追い出すような真似しませんよねぇ?」

「しないよ。出来ないよ。そんなことしたら人じゃないだろう」

「いやー。僕までお世話になっちゃ、申し訳ないなぁ」

 真由美、藤木をギラッと睨んで。

「何で、あんたが泊まるんだい。愛梨さんと想ちゃんだけだよ」

「そんな。僕も関係者の一人ですし…」

「あんたは、自分の家に帰る。あしたも仕事だろう。帰れ、帰れ」

 藤木はガックリと項垂れた。

「あれ。そう言えば先生は?」

「帰ったんじゃないの?」

「夕飯は一緒に食べてたよ。帰るにも挨拶ナシかい」

 真由美、憮然。

 その時、真央が店の奥から真由美と仁美を呼んだ。

「何だい?」

 真由美、面倒くさ気な表情。

「先生。ここ」

 真央が指さした。

 純太は店の奥にある例のソファーに横たわり、鼾をかいて眠っている。

 彼の腹の上でキジトラキャットが身体を丸めて熟睡していた。

「先生。よっぽど疲れてたのね。よく寝てるわ」

 仁美は嬉しそうに小声で笑った。

「キビ助まで一緒に寝ちゃって。先輩、こっちも起こせないわね」

 真由美は顔を上げて天井を見ながら言った。

「いいかい。ここは坂本園。お茶の販売店なんだからね」

「はい。先輩」

「よく解かってまーす」

 真由美は二人の顔をじっくり見て言った。

「あたしは二階で休ませてもらうから。泊まるなり、帰るなり勝手におし。但し、自由に使って良いのは一階だけ。二階には上がって来るんじゃないよッ」

「ハーイ」

 二人の声が、再び重なった。

 二週間が経った。

 あの後下田恵美は会社へ長期の休みを取り、親子して真由美さんの厄介になって静養に努めた。

彼女は専門医のカウンセラーを受けて育児ノイローゼと診断された。

 ネグレクトに至った原因は、彼女の責任感の強さとプライド故だった。夫が単身赴任中の家庭を守り、朗の養育も完璧にこなし、会社の仕事も完璧にこなす。それらの精神的な負担が重く圧し掛かると同時に彼女を追い込んで疲弊させた。やがて家事の放棄に端を発して朗への育児放棄へと繋がっていった。

 ハンデミックで在宅勤務が増えて他人との交流が減ったことも、想像以上に彼女を孤立させたようだった。

「そんなに無理しなくても親やご主人に相談するとか、何か手立てがなかったのかい?」

 そう言う真由美に対して、愛梨は静かに言った。

「必至だから誰にも頼れなかった。誰に相談したら良いのか、誰を頼ったら良いのか。そんなことすら見えなくなっちゃったんだと思います」

「…」

「私には、下田先輩の気持ちがよく解かります。二宮さんや真由美さん達、それに洋輔さんに出会うまで、先輩と同じでしたから」

 この期間に純太と藤木の尽力で恵美の両親と連らが取れ、事情を知った恵美の母親が上京して彼女と朗の面倒を見る事になった。

 そして単身赴任中のご主人とも、やっと連絡が取れた。

 恵美の旦那は、ビデオ通話の向う側で悔しさと途方に暮れた感情の入り混じった表情で藤木や純太の話を聞き続けた。

 やがて、押し殺したような声で言った。

「どうしよう。直ぐに駆け付けたくても、恵美の傍に居てやろうにも、この状況ではどうにもならない」

 純太には、彼の頭を抱えた姿にサミーが言っていた言葉が重なって見えた。

 

 『それって滅茶苦茶辛い』

 

 純太は彼に言った。

「下田さん。どんなに離れていても、奥様とコミュニケーションとれる手段はいくらだってありますよ。一番大切な事は、大切な相手と触れ合おうっていう気持ちだと思います」

 下田は顔を上げた。

 そんな彼に、純太はにっこり笑って言った。

「一人で悩まないで。諦めないで下さい」

「時々でも、相談に乗って頂けますか?」

「もちろん。いつでも」

 オリンピックが終わろうとする頃、純太の元へワクチン接種券が届いた。

 中国語のレッスンの後、接種券をネタに純太は真由美たち三人と話している。

「皆さんは、もうワクチンを二回打ち終えたんですよね?」

「とっくの昔に打ち終わったよ」

「先生。これからでしょう?」

「早速打ちたいと思うんですけど」

「予約取れました?」

「取れないみたいよね。ニュースで連呼してるものね」

「騒ぐだけ騒いどいて、大した為体だよ。政府もだらしない」

「この調子だと、ワクチン打てるのって秋ごろかなぁ?」

「秋に打てるかしら?」

「ひょっとしたら年末まで行くわよ」

「ええッ。そんなぁ…」

「あんた達。不安を呷ってどうするんだい」

「不安を煽るなんて人聞きの悪い」

「そうよ、先輩。仁美さんの言う通り。煽ってなんかいませんよ」

「そうには…」

「えっ…」

そう言って仁美は口を噤んだ。

「あら…」

 真央は純太を指さした。

「えっ。何ですか?」

 その時、純太は背後から誰かに抱きしめられた。

「えっ。えぇッ?」

 戸惑う純太の耳元で中国語が囁かれた。

 

『You 打疫苗了嗎?』

 

 それまで緊張が走っていた純太の表情が一気に崩れ、笑顔に変わった。

「サミー?」

「対。小純太」

「えっ。あれがサミーさん?」

「画面で見るより数段イイ男だねぇ」

「先輩。それに滅茶苦茶背が高くないですか?」

「本当。まるでモデルみたい」

「スタイル良いよね。羨ましいよ」

 真由美はスマホを取り出すと、目の前にいる二人を撮り始めた。

「あら。先輩。ズルい。あたしも」

「私だって。撮る、撮る」

 三人、撮影に夢中。

純太が振り向くと、サミーが笑っている。

 二人は強く抱合った。

「サミー」

「うん?」

「やっと会えた」

「うん」

「嬉しいよ」

「三回分。嬉しいよ」

「三回?」

「隔離から解放されて。日本を自由に動き回れる」

「もう一つは?」

「もちろん」

「…」

「純太…」

 二人はキスをする。

 予想外の展開に三人はスマホ片手に目を離し、純太とサミーをガン見。

「サミー。愛してる」

「純太。僕も君を愛してるよ」

 再び二人は、唇を重ねた。

 そんな彼らを見つめる彼女の目には、ほとんど忘れてしまっていた遠い昔のある風景が映っているようだった。

 スポーツジムのスタジオで卓球台を挟んで純太とサミーが話している。

「純太。負けたら。わかってるな?」

「勿論。男に二言はない。サミーこそ、負けたらご馳走してもらうよ」

「あり得ないね」

 サミー、不敵な笑み。

「俺だって。二週間前の純太様じゃないからさ」

 純太、自信に満ちたドヤ顔。

「まったく。四十手前の二人が、ガキの喧嘩だね」

 真由美、呆れ顔。

 彼女の隣に座っている想と朗、ピンポン玉で勝手に遊んでいる。

「先生。頑張ってッ」

 仁美、黄色い声援。

 真央が吹くホイッスルの音がスタジオに響いた。

 そして、純太とサミーの卓球決戦の火ぶたが切って落とされた。

 

 

 

(END:「楽趣公園 ―You 打疫苗了嗎(Did you get the vaccine?)―」)

(次回作:「楽趣公園 ―HANABI―」)

(次回作アップ予定:2021.12.24予定)

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