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モイラの落涙 -失楽(4)-

            鱧椀

「うなぎ、ですか?」
 酒井は織部の角鉢に盛りつけられた肴を見て言った。
「焼き鱧でございます」
 クイント、穏やかに答えた。
「ほう。珍しい」
「えっ。ハモって何ですか?」
 内村は角鉢を覗き込むと酒井に尋ねた。
「うなぎ。どちらかというとアナゴの仲間だな。お前、関東の出身だったなぁ?」
「宇都宮です」
「それなら余り馴染みがないかも知れないな。関西、京都や大阪では、比較的よく食べられている魚だよ。うなぎ同様、ちょっと高めイメージの魚かな。関西ではスーパーでも売られているが、こっちではお目にかからない」
「余り獲れない魚なんですか?」
「獲れるよ。ただ小骨が多い魚でな。鱧切りといって、骨を砕きながら切れ目を入れる下処理が要る。切り方に技術を要するだけでなく、『鱧切り包丁』と呼ばれている専用の包丁が必要なんだ。だから家庭で扱い難い。関西だと鱧切りができる料理人や魚屋が多いんだが関東では少ない。そんな事情もあってこっちでは馴染みの薄い魚だよ」
「召し上がって」
 悦子は二人に焼き鱧を勧めた。
「それでは遠慮なく」
 酒井がそう言うと、二人は焼き鱧に箸をつけた。
「いただきます」
「お口に合いますかしら?」
 二人は、ほぼ同時に感嘆の声を上げる。
「良かった」
「まさか、この季節に鱧を食べれるとは思いませんでした」
「そうね。旬は夏ですからね」
 悦子はブランデーを一口飲むと言った。
「脂は少ないけれど、焼くと美味しさが増しますのよ」
「本当に美味しいです」
酒井は、クイントの顔を見ながら続けて言った。
「鱧切りも、あなたがなさったのですか?」
「はい」
「それは凄い。鱧切りは日本で習ったのですか?」
「えぇ。まぁ…」
 珍しく口を濁すクインを見て、酒井は更に尋ねた。
「クインさん。関西に住んでおられたことが?」
 悦子が二人の会話に割って入った。
「あたくしが教えましたの」
「奥様が?」
「あたくしね、両親を早くに亡くしまして。母方の祖父母に育てられましたの。鱧切りは祖父から手ほどきを受けました。あたくしね、鱧が大好きなんです。でも、こちらでは、なかなか食べれませんでしょう。だから、クイントに鱧切りを伝授しました。そうすれば、大好きな鱧をいつでも食べることができますから」
「そうでしたか」
「自分でも作れるのにと、思っていらっしゃるわよね。もちろんそうですけれど、お料理は自分で作るより誰かに作ってもらったのを食べた方が美味しいでしょう。だから、クイントに鱧切りを仕込みましたの」
「そうでしたか」
「そうだわ。今度、お二人を夏にご招待しましょう」
「夏ですか?」
「鱧の煮物椀をご馳走しましょう。クイントが作る鱧椀は絶品ですのよ」
「それも奥様が作り方を伝授されたのですか?」
「そうね。家庭料理を幾つか。この屋敷から外に出ることが少ないので、クイントに教えておけばいつでもだべられますから」
「松毬早苗氏。料理が得意だったようです。特に、和食が」
「あら。そうなの」
「海野満氏が彼女に惹かれたのも、彼女が作る手料理だったそうです。特に、彼女が作った鱧椀の味は格別だと。雑誌のインタビューで語っていました」
「鱧は美味しいものね」
「奥様は鱧切りをどこで覚えられたのですか?」
「故郷で」
「お生まれは敦賀でしたね」
「はい。私、祖父母の家で育ちましたの。生まれて直ぐに両親を亡くしましたから。祖母は料理の得意な人で、和食はプロ顔負けでしたわ。その中でも鱧料理は得意中の得意で、祖母が料理をするのを傍らで見る内に自然と教わったんです」
「そうでしたか。確か旧姓は宮森でしたね?」
「酒井警部は何でもご存知ね。結婚前の名前は宮森悦子です。何だか取り調べを受けているみたいね」
 悦子、苦笑。
「あぁ。失礼致しました。つい夢中になってしまいまして申し訳ありません。気になると確認したくなる性分でして。長年やっているデカの性という奴ですか。職業です」
 酒井、頭を掻きながら言い訳。
「ところで、松毬早苗氏の話に戻させて頂いても宜しいですか?」
「どうぞ」
「彼女が消息を絶つ直前を箱根で過ごしていたようです」
「箱根?」
「はい。単なる保養とは思えませんがね。ただ、それを境に彼女の足どりはぷっつり途絶えてしまう。近くに富士の樹海がありましてね。口さがのない当時のマスコミや週刊誌の記者連中は樹海で自殺したなんて書き立ててましたが、彼女が死んだのかどうかは分からず仕舞いのままです」
「そう」
 悦子、無関心にそう言ってプランダーを飲む。
            *
「(悦子の独白)ふと私は酒井警部がどこまで知っているのか。
あの日、クレイは自信満々に私へ宣言した。

『人なんて簡単に抹消できるさ。それは作り出す以上に簡単なことだよ』

そう言って豪語したクレイの鼻を明かせてくれるほど、酒井警部は『私』について存分に詳しく知っているのだろうか?
私自身もクレイから知らされていなかったこと或は、知りようも無かったことも含めて、彼はどこまで把握しているのだろうか?
もしそうだとしたら?
死んでクレイと再会した時に笑い話のネタぐらいにはなるかもしれない。
そして、私は笑って彼に言うだろう。

『完璧な仕事など、この世には存在しないのよ』、と。

あの日、私はクレイの言葉を信じなかった。
でも、信じたふりをすることにした。
そうでなければ、私はクレイ・悦子としてのスタートを切れなかったから。
一人の存在が消えて、一人が現れるだけのことだから。
それまで消えていた『誰』かの人生を、『私』がある日突然に何食わぬ顔で刻み始める。
その一刻一刻が確かな『私』であって、それを消し去る事など誰にもできないのだから」
            *
「鱧椀。楽しみですな」
 そう言うと酒井は焼き鱧の切片を箸で抓み、それを口に入れた。
 ブランデーと鱧の脂が、彼の口の中で溶け合って一つとなった。
            *
「(酒井の独白)謎は、松毬早苗だけじゃない。もう一人、女性がいる。

『宮森悦子』

それは、目の前に座り、ブランデーを飲んでいる悦子・クレイの結婚前の名前。だがどうしても悦子・クレイと宮森悦子が重ならず、調べる程に二人は離れていく。

『敦賀生まれ』
『生後間もなくに両親を亡くす』
『祖父母に育てられる』
『高校卒業直前に祖父母を相次いで亡くし天涯孤独』
『地元の高校を卒業後、大阪の大学に通う』
『ロシア語を専攻』
『卒業後、東欧諸国と取引のある貿易商社へ入社』
『クレイ・ノルダと交際』
『結婚を機に彼の故郷であるアリミア共和国へ移住』
『体制崩壊後、帰国。現在に至る』

海外移住と体制崩壊の混乱の中の帰国を除けば、さほどの不自然さを感じさせない経歴と言えるかもしれない。
だがそこに違和感を覚えずにはいられない。

『剥離』

そう、その違和感を形容するなら、この言葉が一番ピッタリくる。
でも全てが剥がれ落ちた時、何が目の前に現れるのだろうか。
それは松毬早苗なのだろうか。
本来繋がりようのない三人だが、悦子・ノルダと松毬早苗の容姿は重なって見えるのに、宮森悦子とは重なって見えないのは何故か。
そんな矢先、ふと頭の中を、あるフレーズが過った。

『成り代わり』

もし、そうだとしたら。
宮森悦子とは、一体何者なのか?」
            *
 悦子もまた焼き鱧を箸でつまみ、それを口にする。
芳醇にして甘い脂が舌を包むと、懐かしい情景が悦子の脳裏を過った。
 …クレイ。あなたも鱧が好きだったわね…
            *
 晩秋の箱根。
 滞在しているホテルの老舗の日本料理店で彼女は食事をしていた。
 カウンター席。
 彼女の他に客の姿はない。
 料理と酒は板前に任せ、出されるがまま、彼女は酒食を続けた。
 死を選択した彼女にとって、味は無意味なものになっていたのかもしれない。
 黙々と食べ、飲み続けた。
 死を前にして人は、何を考えるべきだろうかと彼女は思った。
 …いつ死ぬか…
 ふと、彼女の脳裏にそんなフレーズが過る

 …樹海に死を任す…
 …骸を貪る獣たち…
 …樹海に彷徨いて…
 …死に方を唯想う…
 …樹海に抱かれて…
 …自死を選択して…
 …樹海に迎えられ…

 無数の自問が過り言葉が重なる。
 そして、彼女はある帰結に辿り着いた。
 …死が身近でない…
 彼女は嘲笑混じりに苦笑する。
 焼かれた鱧の切り身を箸で口に入れる。
ゆっくり噛むと、口の中で油汁が広がった。
「焼き鱧ですか?」
 ストロトス語で囁く声が、彼女の耳に届く。
 顔を向けると、一つ空けた席に座る男と目が合った。
 ガッシリとした体躯に北欧の顔立ち。
「私も好きですよ。ここのそれ、悪くない味です」
 彼女は箸を置き、冷酒を飲んだ。
「でも絶品は鱧椀ですか。この時期は出していないから残念ですがね」
「鱧の煮物椀?」
「はい。他の料理は要りません」
「どうして?」
 彼女はストロトス語で尋ねた。
「美味しいとは思わないから」
 二人、苦笑。
「ストロトス語がお上手ですね。どこで習われました?」
「独習です」
「ほう。大したものだ。お仕事で使われるのですか?」
「いいえ。趣味です。それに…」
 そう言って彼女は男の顔をジッと見つめて言った。
「エージェントの方と内緒話をするに便利だし」
「…」
「イースト連邦。宗主国からのスカウトかしら?」
 男は微笑むと、彼女に問いには答えず言った。
「隣の席に移っても良いですか?」
「どうして?」
「料理の悪口を言うなら、隣の席での方が好都合かと」
「お好きにどうぞ」
 男は彼女の隣に座った。
 そして彼女に身体を寄せ、小声で話しかける。
「ありがとう。これで、おもっいきり料理の悪口が言えます」
「ストロトス語だから解らないわよ」
「同調性の強い民族だから。言葉が解らなくても、日本人は雰囲気で察しますよ」
「そうなの?」
「あなたのように…」
「私のように?」
「エージェントの人間と見抜かれた」
「あぁ。そのこと?」
「バレない自信あったんですが。後学のためにも教えて下さい。どうして判りました?」
「ニオイ、かしら?」
「漂ってます?」
「ほんの僅かだけど。自信はなかったから勘に任せて言ったけど」
「勘ですか。対策の打ちようが無いなぁ」
 彼女、苦笑しながら。
「あなたって、変わってるわね」
「そうですか?」
「だって、エージェントらしくないもの」
「そうですか?」
「今までアプローチしてきた誰とも、あなたは違う」
「変わり者ですから」
 二人、和やかに笑う。
「宗主国から?」
 その質問に答えることなく、男は言った。
「クレイ・ノルダ。それが僕の名前です」
「ノルダ一族。確か…」
「私の一族をご存知ですか?」
「アリミア共和国に古くから続く貴族の家柄」
「ご存知戴いてるとは光栄です」
「でも。もう一つ。あなたの一族には怖い異名が付けられている」
「…」
「皇帝の暗殺者」
「お詳しくていらっしゃる」
「好奇心。トリビアよ」
 男、穏やかな苦笑。
「はい。僕は、その末裔です。現在は、歴代の先祖たちが培ったノウハウを宗主国で活かしています」
「殺し屋なの?」
「そんな仕事に手を染めることもあります」
「私は、あなたに殺されるの?」
「時と場合によります」
 彼女は、クレイの顔をジッと見つめて言った。
「どうして?」
「あなたが望むなら」
 彼女の冷酒徳利を持つと男は、彼女の空いたガラスの猪口に酒を注ぎながら言った。
「自殺を考えてますね?」
「…」
「樹海ですか?」
「誰の目にも触れず、ひっそり死ぬのに相応しい場所ね」
「獣と蛆たちの餌となるだけの場所ですけど」
「そうね。でも、意味のある最後には違いないわ」
「意味?」
「獣や蛆たちの腹を満たせる」
 彼女は焼き鱧を食べた。
「美味しい」
 彼女は笑顔を男へ向けて、更に言った。
「久し振りに味を感じたわ」
 酒を注ぎながら男は言った。
「まだ、餌になる時期ではないと思いますよ」
「どうして?」
「ここの鱧椀をまだ食べてませんよね?」
「美味しいの?」
「絶品です。食べずに旅立ったら後悔しますよ」
「食べなければ後悔もないわよ」
「でも、もう知ってしまった」
「…」
「きっと。後悔なさいます」
「悪い人ね。止めても無駄よ」
「止めません。あなたの下された決断ですから」
「この時期に鱧椀は出ないわ」
「半年先になるでしょうね」
「それまで生きろと?」
「あなた次第です。いつ死ぬかは、あなた御自身が決める」
「私のこと、随分とご存知のようね」
「徹底的に調べました。あなたという人物を理解するために」
「どうして?」
「仕事ですから」
 彼女、気の抜けた笑い。
「仕事熱心な方なのね」
「はい。でも、今回は仕事を忘れて夢中になりました」
「何があなたを熱中させたの?」
「あなたです」
「?」
「あなたを理解し過ぎて、図らずも恋に落ちました」
「キザね」
「クサイ言い回しですが本心です。だから、死なせたくない」
「でも結局、殺すんでしょう?」
「場合によって。でも、あなたを始末する事。上司からの第一優先命令ではありません」
「あたしをどうしたいの?」
「スカウト」
「そう。やっぱり」
「依頼主サイドでは、あなたの才能を高く評価しています」
「依頼主って、誰?」
「宗主国」
「私に研究で宗主国へ貢献させたいのね」
「はい。しかしながら、お連れする先は宗主国ではありません」
「どこ?」
「アリミア共和国。極秘裏にお連れし、研究に携わって頂くことが第一優先命令です」
「拒否したら?」
「抹殺せざる負えません。まぁ、でも、あなたに関してその必要はないでしょう。私が手を下さなくとも自ら命を絶たれるから。だから僕は、それを見守るだけです」
「私。あなたの娯楽じゃないわよ」
「娯楽?」
「あたしが死ぬのを楽しんでるでしょう?」
「まさか」
「…」
「残念だなぁ。そんな風に誤解されるなんて」
「でも正解でしょ?」
「愛するあなたからの言葉でも傷つきます」
 二人、どこか打ち解けたように失笑。
「愛してるの?」
「はい」
「だったら…」
 彼女、男を見つめる。
「樹海で」
「はい?」
「一緒に死んでくれる?」
「好いですよ」
 男は、迷いも躊躇いもなく即答した。
 そんな彼を見て、彼女は苦笑しながら言った。
「ちょっと、軽くない?」
「まさか。あなたとなら喜んでお供します」
「あなた、やっぱりイカレてるわね」
「愛は人を狂わせますから」
 彼女、満更でもない様子の苦笑を浮かべながら首を振った。
「もう、愛はいいわ」
「僕との愛は、別腹にしましょう」
「どうして?」
「きっとぶっ飛んでて、とても楽しい愛をお約束します」
            *
「いやぁー、実に美味しいものですな。焼き具合が絶妙だ」
「そうでしょう。さぁ、遠慮なさらず。たくさん召し上がって」
 悦子は焼き鱧を乗せた皿を酒井たちの方へ勧めた。
            *
「(酒井の独白)元本庁捜査一課の刑事で警察に入りたての自分に捜査のイロハを叩き込んだ先輩の矢内泰三もまた、松毬早苗失踪を調べていた。だが何故彼が失踪調査をしていたのかについては、彼の死後に彼の未亡人から託された当時の捜査資料のコピーの中で何も語られていない。コピー機など無かった時代、コピーの多くは、秘密裏に彼が撮った白黒写真とネガだったが、数少ない書類資料の中に興信所による調査報告が含まれていた。
この調査は、上層部からの特命だった。矢内が選任され、極秘かつ単独で調査を進めたようだった。だが、ある日突然、その調査は打ち切られる。調査報告と関連資料は闇に葬られるはずだったが、そうとはならなかった。矢内は調査の打ち切りを少し前から察していたらしく、コピーを作成して手元に隠匿した。身の危険を感じての行動だった。却って危険な対処ではあったが、それ以外に対抗しうる手段がなかったのかもしれない。彼は定年退職後、故郷に戻って妻と二人で悠々自適の生活を送ったが、死を前にして彼女に遺言する。硬く封印された箱を妻に渡すと、絶対に開けるなと厳命したらしい。
そして箱のまま、俺に渡すように言い残して死んだ。こうした経緯から、松毬早苗と悦子・ノルダを結ぶ手掛かりの一端を手にした。矢内泰三の資料によれば松毬早苗は突然、この世から消えた。いいや、忽然と消滅したと形容した方がより正確な形容かもしれない。失踪の朝、ホテルをチェックアウトした後、彼女が樹海へ向かったことまでは分かっている。最期の目撃情報は、彼女を乗せたタクシーの運転手によるものだった。

『樹海越しの富士山を見たいから、一番眺めのいい場所へ行って』

彼女は運転手にそう頼んだらしい。その時、タクシーの運転手は彼女が死ぬつもりだと直感したようだった。目的の場所へ向かうまでの道中、彼女は無言で車窓の外を過る秋の景色を見つめていた。バックミラー越しに映る彼女の顔は疲れ切った様子だったが、死を思い詰めた風には見えなかった。
どんよりと圧し掛かるように重く感じる空気が二人の間を漂っている。

『お客さん。東京ですか。私が知ってますベストスポットへご案内しますよ』

無反応のまま、彼女は外の景色を眺め続けている。

『でもねぇ、天気も好いし。今日あたりは忍野富士の方が綺麗ですよ』
『…』
『今から向かえば、夕日の時間に間に合いますよ。どうです。如何ですか?』

バックミラー越しに互いの目が合う二人。
物言わぬ虚ろな憂いを帯びた眼差しは、運転手の提案に対する拒絶。運転手は、それ以上言葉を掛けることを止めて、運転に専念した。
それから十分ほど走った頃、突然、彼女が言った。

『ここで良いわ。降ろして』

そこは、樹海の入口に近い場所だった。
運転手は戸惑った様子で彼女を見る。

『良いの。降ろして』

彼女を降ろした後、運転手はバックミラー越しに彼女を見る。
次第に遠ざかる彼女は、歩道に佇んで富士山をジッと見つめていた。
薄く、力を失いつつある秋の陽だまりの中に彼女の姿がある。
彼女以外に誰も居ない。
彼女の周囲だけ、時の流れが完全に止まっているかのようにも見えた。
やがて車道は緩やかに左へカーブする。
右のサイドミラーに一瞬映った彼女はまだ、富士を仰ぎ見て佇んでいたようだ。
それが、この世に存在した松毬早苗という女性に関する最後の記憶となった」
            *
 悦子の脳裏を富士の樹海の景色が過った。
 …そう言えば、あの時、樹海越しに見上げた富士は何色だったかしら…
 焼き鱧のほんのり焦げた色味と富士の頂きが重なって見えた。
 …もっと色彩を失っていたようにも思えるけど、どうだったかしら…
 彼女は箸でつまんだ一枚を口に入れた。
            *
「(悦子の独白)歩道で佇んで、樹海から立ち昇るかのように聳え立つ富士山を眺め続けた。その山の名は『不死』からきていると聞いたことがあった。富士山に対する古からの信仰は不死を望んでのことなのだろうか。そんな山裾に広がる樹海へ目を移した時、不死の信奉篤い山の膝元を何故多くの人々が死に場所として選ぶのだろうかと思った。樹海に立ち入ると迷って出られなくなるという。故に、この地に人は滅多に立ち入らなかった。それを知り、この世から己の存在をかき消したいと思い詰めた人々にとっても、それが理由で聖地となったということか。不死の存在が作り出す影、闇が樹海なのだろう。富士と樹海が表裏一体の存在であるように、富士に『不死』を望む人々と樹海に『死』を希求する人々もまた、この世に欠くべからざる存在なのかもしれない。そして人は、そのどちらかに何時落ちるともしれない稜線を歩き続ける存在なのだ。だが、どちらの奈落も、その果てに『死』が待っていることに違いはない。ただ、唯一の違いは『不死』と思い込まれている死か、『消滅』と恐怖されている死でしかない。
一歩踏み出し、歩道を外れて樹海の裾の端に足を置いた時、足の裏で半ば枯れた草の掠れる音が耳にした。それを耳にして、それまで昂っていた気持ちが鎮まったのを覚えている。ザクッとも、ガサッとも、言葉で表現しようのない掠れ音だったけれども、音の感触だけは今でも鮮やかに蘇る。
そして風のにおい。冷気と合わさって身体に染入るあの時の感覚を、まだ忘れていない。
あの時は、まだ、松毬早苗だった。そして、彼女の存在はあの時を限りにこの世から消滅した筈なのに、今でも残存している。抹消されることなく存在し続けている。(老嬢、苦笑)
あの後、樹海を歩き続けた。腐臭とも死臭とも思える澱んだ空気。あの臭いも、今なお忘れることなく記憶に刻まれている。

『記憶』

松毬早苗としての最後の記憶は、クレイが提示した紙に書かれたルート図だった。樹海を抜け切る道筋。それを刻み込むように記憶し、彼が差し出した紙切れを灰皿で燃やした。あの時、彼は戸惑いの眼差しを、珍しく隠さなかった。記憶の感触だけを頼りに樹海を抜けようと決めたのだ。樹海を抜け出た瞬間から松毬早苗は消滅する。樹海を抜け出た先でクレイが待っている。そこから、それまで停まっていた『宮森悦子』という見知らぬ女の人生が再び動き始める。彼女を演じるのは『私』だ。でも、それは私がルートの指示通りに樹海を抜け出られての話だ。抜け出る、抜け出ない。それを選択するのは『私』だ。クレイではない。

『放棄』

でもあの時、私は、その選択権すら放棄した。そして抜け出られるか出られず樹海で死を迎えるかを『私』自身に委ねることにしたのだ。道を間違えればそれまで。抜け出れば違う生を受けるとしよう。

『彷徨』

歩き続ける。
無心で進み続ける。
ただひたすら歩き続ける。
森の終わりの開けた視界に先で。
クレイに抱かれた時、松毬早苗は消えた」
            *
「全て終わったのね」
「始まったのさ」
「私は誰なの?」
「君は君さ。ただ、名前は変わるよ」
「そうなの?」
「宮森悦子。これからの君さ」
「変わるのは名前だけ?」
「人生も」
「生まれ変わるみたい」
「アリミアに来てもらうよ」
「鱧椀。結局、食べ損ねたわね」
「埋め合わせしよう」
「どうするの?」
「もう一度、名前を変えようか」
「今度は、どんな名前になるの?」
「悦子・ノルダ」
「それって、プロポーズしてるの?」
 クレイ、頷く。
「アリミアに鱧椀は無いが、ナナカマドの花は見れる」
「ナナカマドの花?」
「秋の終り、夏の始まりを告げる花。君、好きだったよね」
「綺麗な花ね」
「僕も好きだ」
「意外ね。あなたも好きだなんて」
「町中に咲き乱れるナナカマドの花を見て育ったからね」
「私がナナカマドの花を好きとは限らないわよ」
「松毬早苗と宮森悦子。どちらもナナカマドの花が好きだよ」
「何でも知ってるのね。良い仕事ぶり」
「仕事じゃないよ」
「じゃあ、どうして?」
「愛する者のことは、何でも知りたくなるものさ」
「困った人ね」
 悦子、苦笑。
「夏。ナナカマドの花が咲き乱れるアリミアで僕たちの結婚式を挙げよう」
「まだ、OKしたつもり無いけど?」
「もちろん。承知してるさ。だから一緒に世界中を旅しながら、お互いを知り、理解し合わないかい?」
「半年間のモラトリアム」
「違う。半年間の婚前旅行さ」
「大した自信ね」
「君が僕を好きなことを知っているからさ」
「現在の宮森悦子がナナカマドの花が好きとは限らないわよ」
「好きに決まってる」
「どうして?」
「ナナカマドの花よりも」
「…」
「君は隠しているけれど」
「…」
「ぶっ壊れた人間のことが好きだと知っているから」
 彼女は、力みのない笑みをクレイへ向けた。
「だから僕は、君の伴侶として適任なのさ」
「どうして?」
「僕ほど、ブッ壊れた人間は他にいないから」
            *
「(酒井の独白)失踪した松毬早苗に関する調査結果をまとめた興信所からの報告書は、自分に託された資料の中で異彩を放っていた。依頼主は不明。報告書が依頼主へ提出されて間もなくに調査を行った興信所は経営不振により仕事を閉じた。調査員は、関根洋一郎。42歳。独身。本人と思われる写真が残っているが、皺の濃い猿顔ながら愛嬌があり、どこか人好きのする雰囲気の男だ。表向きは興信所の探偵だが、知り得た情報を矢内に横流して小遣い稼ぎをしている。ヘマをやらかして窮地に陥っているところに出くわした矢内が、上手く取り計らって救ってやって以来持ちつ持たれつの関係が続いている。その関根だが調査結果の報告直後、何者かによって殺された」

            *
「いやぁ。刑事さん。勘弁してください。何度も来られても、お話できることは何も変わりませんから」
 松毬早苗と思われる人物を樹海まで乗せたタクシーの運転手は、根を上げるように矢内泰三に言った。
「本当に彼女が樹海に入るところを見なかったのかね?」
「だから何度も言ってるでしょう。あの女のお客さんですか。歩道に立った姿しか見てないって。こんなに小さくなるまで、チラチラ見てましたから。でもね、最後に見た所で緩やかなカーブに入るんですよ。道なりに行ったら、見えなくなるんですよ。だから、何度も申し上げている通り、そのお客さんが樹海へ向かったのか、それとも何処か他の場所へ向かったのは分からないんです。頼みますよ。もう、勘弁してください」
 運転手は、尚も食い下がろうとする矢内を振り切るように車に乗り込み、ドアウィンドウを下ろして怒鳴るように言った。
「何度聞かれても同じだから。商売に差し支えるんだ。もう来ないでくれッ」
 彼の車は矢内を振り切るように走り去って行った。
 それを見送ると、矢内は天を仰ぎ見て溜息を漏らして苦笑いした。
「やれやれ…」
 上着の内ポケットから煙草を取り出して一服した。
 松毬早苗が止まっていたホテルに入って行く男を見て、矢内は心の内で呟いた。
 …あれ。あいつは…
 矢内は吸っていた煙草を足元に捨て足でもみ消すと、彼を追ってホテル―向かった。
「おい。関根のおっさんよ…」
 ホテルを出た所で声を掛けられ、男はビクッと身体を震わせて立ち止まった。
 矢内は、恐る恐る振り向く男と片組すると続けて言った。
「オッサン。随分と妙な場所で会いますねぇ」
 言いよどむ男。
「こんな場所で何の調査ですか?」
「い、いやぁー。矢内さんじゃありませんか。奇遇ですねぇ。温泉。観光ですか?」
 矢内、バカにした笑い。
「仕事だよ。オッサンもそうだろ?」
「はぁ。まぁ…」
「不倫調査とか?」
「調査内容は、ちょっとねぇ。依頼人の秘密は守らなきゃなりませんから」
 そう言って車を停めてある屋外駐車場へ向かおうとする男を引き留め、矢内は言った。
「実はさ。昼飯食ってないんだよ。オッサン、一緒にどう?」
「いいや。今日は…」
 矢内は、ガシッと関根の肩を組んで駐車場とは反対にある蕎麦屋へ連れ立って行った。
昼食時を過ぎているせいか二人以外の客はおらず、蕎麦屋はガランと静かだった。
ざる蕎麦に手をつけず、関根は黙ってそれを見つめていた。
「オッサン。遠慮せずに食べなよ」
「…」
「あっ。そうか。ビールだよね」
「あっ、あぁ。酒はちょっと」
「どうして。好きだろ?」
「今日は、車で来てますから」
「あぁ。忘れてた。こう見えて俺も警官だからさ。飲酒運転を幇助しちゃいけないよね。お腹空いてるでしょう。食べて、食べて」
 関根は溜め息交じりで箸を持つと、蕎麦に手をつけた。
「それで、見つかったの?」
 口へ箸を運ぼうとする関根の手が止まった。
「な、何がです?」
「そんな、穴の空くような目で見ないで。食べて、食べて」
 関根は蕎麦を口に入れる。
「松毬早苗。死んじゃったって確証を探してんだろ?」
 関根は咽て蕎麦を吐出しそうになり、箸を持つ手で口を押えた。
「おい、おい。オッサン。大丈夫?」
 矢内は、湯呑を彼に渡した。
「熱いから。火傷するから。慌てないでね」
 茶を飲んで人心地ついた矢内は、箸を置くと矢内をジッと見つめた。
「そんなに見つめないでよ。照れちゃうからさ」
 ずるずると音を立てながら、矢内はざる蕎麦を食べている。
「食べないの。美味しいよ」
「勘弁して下さい」
「何が?」
「ヤバいんですよ」
「ヤバいって?」
「だから。この調査。警察と一緒だってバレたら、相当ヤバいんですよ」
「監視でもされてんの?」
「どうでしょう。でも近頃、嫌な感じの連中がちょろちょろしてましてね」
「見た限り、この辺にそんな連中は居なかったぜ」
 関根は落ち着かない様子で、視線を泳がせている。
「依頼人。誰なんだよ?」
「勘弁してください」
「教えろよ」
「ヤバですって。俺、始末されちゃいますよ」
「…」
「マジでヤバい連中なんです。頼みますよ。もうこれ以上、何も聞かないで下さい」
            *
「(酒井の独白)松毬早苗が失踪した年の12月29日付の新聞の小さな切り抜きがある。それは関根洋一郎が事務所で殺されたことを伝えていた。その前日の28日の朝、彼の遺体は自宅兼事務所として借りていた雑居ビルの部屋で、出社したアルバイトの事務員の女性によって発見された。死因は前頭部の強打僕による脳挫傷。遺体の傍らに凶器と思われる電話機があった。部屋は荒らされ、金品が無くなっていた。犯人と争った形跡も見られ、その当時に現場周辺に出没していた事務所荒らしが帰宅した関根が出くわし、争った末に殺害に至ったと言うのが警察の見解だった。

 …記事になるような強盗殺人事件でも無い気がするが…

その記事を読んだ時、私が真っ先に覚えた違和感だった。記事と一緒に封筒が少し錆びたクリップで閉じられていた。封筒の表紙に書かれた住所は、その当時に矢内が勤めていた警察署のものだった。送り主の名前や住所は無かったが、封筒の中に駅名とコインロッカーの番号、『オッサン』と走り書きのあるメモ紙が入っていた。恐らく封筒の中にはコインロッカーの鍵が入っていたように思われた。封筒とメモ紙の一部に残っていた皺は、鍵のような皺が形だった。消印の日付は、松毬早苗が失踪した年の12月27日。関根が殺された前日だった」
            *
「オッサン…」
 現場検証に赴いた矢内は、関根の死に顔を見るなりそう呟いて手を合わせた。
「それにしてもヒドい荒らされようだ…」
 隣りにいた同僚の西村はそう言うと、矢内へ呟くように言った。
「仏さん。タレコミ屋だったんだろ?」
 矢内はそれに答えず、西村の顔を無表情に見た。
「あっ。悪い。余計なこと聞いちまったな」
 立ち去る西村を無視し、矢内はもう一度関根の顔を見た。
 署に戻ると、廊下でアルバイトの女性事務員から矢内は声を掛けられた。
「矢内刑事。郵便が届いてますよ」
 そう言って彼に封筒を渡すと、彼女は行ってしまった。
 差出人の住所と名前は無かったが角ばった癖のある字を見て、矢内はハッとした。
 …死者からの手紙かよ…
彼は咄嗟に辺りを見回す。
廊下には彼以外に誰も居なかった。
それを確認すると矢内は、部屋に戻らずトイレへ向かった。
彼は、トイレの個室で封を切って中身を見た。
メモ書きとコインロッカーの鍵。
 …オッサン…
矢内は口を塞いで嗚咽を抑えながらも号泣した。
年が明けて一月も終わろうとした雪の日の正午、彼は件のコインロッカーへ行った。直ぐに取りに行かなかったのは用心してのことだったが、恐ろしさから躊躇われたのも事実だった。年末、年始と家族と過ごし、団欒が彼をして関根から託された物を取りに行かせる勇気を挫けさせた。だが一方で、関根を殺した連中に対する怒りも日増しに強まった。そして漸く決心し、彼は関根の遺品を取りに行った。
コインロッカーのある新宿駅の西口は、行き交う人で賑わっていた。人通りの多いこの時間を敢えて選んだのには訳がある。指定されたコインロッカーが人目につく場所にあったからだった。この御所を関根が選んだのも、矢内が考えたのと同じ理由だったからに違いない。人混みは監視を特定するのに不適だが、逆に人目をくらますのにも好都合だ。特にこの時間帯は、指定場所のコインロッカーの利用客が最も多い時間でごった返すこともある。それを見越しての選択だった。
予想通りコインロッカー前は利用客でごった返し、その前を行き交う人も多かった。何食わぬ顔でロッカーに近づき、中身を取り出すと空かさず鞄に入れて矢内は立ち去った。
            *
「(悦子の独白)私が宮森悦子でいた時間は、本当に僅かの間だけだった。樹海から東京へ戻った翌日、クレイと私は結婚した。この時をもって宮森悦子も消えて、悦子・ノルダが誕生した。そして私は、クレイと共に日本を去った。離陸した搭乗機のファーストクラスの窓辺から遠ざかる日本を見ながら、もうここに戻ることは無いと思った。郷愁、惜別、名残りや覚悟。本当なら沸き起こってもおかしくない筈の感情は一切なかった。ただ冷静に眼下の日本を眺めた。夕日に染まる富士山を目にした時、数日前に居た樹海を思い浮かべ、窓ガラスの微かに映った自分の顔を見ながら思った。

 …あたしは、あたしなのよ…

私は窓の戸を閉じた。客室に視線を移した時、クレイと目が合った。彼のブルーアイはどこまでも深く、美しかった。そして私は、無意識の内に彼の手を握った」
            *
「これから私達どうするの?」
「二人で世界を旅して回るのさ」
「そうだったわね」
「行きたい所はあるかい?」
「そうねぇ。もし、行きたいとすれば…」
「うん」
「日本の真裏の国から行きたいわ」
「真裏?」
「私たちの旅行は、そこからスタートさせたいの」
「どうしてだい?」
「日本から一番遠いところにあるでしょう」
 クレイ、穏やかな笑顔を向けて。
「日本を捨てたんだね」
「いいえ。違うわ」
「違うの?」
「あたしが、そうしたいの。ただ、それだけ」
 クレイ、穏やかに笑う。
 悦子もまた、穏やかに笑った。
            *
 不意に酒井が立ち上がった。
「お手洗い?」
「あぁ。いいえ。その…」
 酒井はそう言いながら口元に指を当て、煙草を吸う仕草をして見せた。
「こちらは喫煙なんでしょうなぁ?」
 悦子はクイントへ目配せすると、彼は酒井の前に立って言った。
「酒井警部。喫煙できる場所へご案内いたします」
「えっ。喫煙。OKなんですか?」
「クイントも煙草を嗜みますの。ですから目の届かない所で見て見ぬふりをしてますのよ」
「どうやらバレてしまったようですよ、クイントさん」
「大奥様は、このお屋敷のことは全て知っておられます。私の喫煙のことも」
 クレイは酒井を促した。
「それでは大奥様、少々席を外させて頂きます」
 挨拶した酒井は、クイントに伴われて部屋を後にした。

(次回「失楽(5) 転生」へ続く)

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