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風花

      クロスポイント

 ある師走の午後。
繁華街の交差点で信号待ちする沙織のスマホが、突然震えた。

 SNS:藤木明美→梶原沙織。
『今週末のお茶のお稽古。休む』
『どうしたの?』

 何故かその時、彼女の脳裏に昔の夏の思い出が過った。
 それは、母親の雪乃が営んでいた茶道教室で沙織が一緒にお茶を学んでいた明美と彼女の弟の隆一へお茶を点てるという、ありふれた日常の一場面だった。
          *
 十三年前。
 盛夏の午後。
 沙織は冷茶を点てていた。
 氷の浮かんだ水指の水を、お茶を入れたガラスの茶碗に注ぐ。
 彼女が茶筌を振る度、水と一緒に入った氷がガラスの碗肌に触れて涼音が茶室に響く。
          *
『今、病院にいるの』
『病院?』
          *
 葦簀障子越しにクマゼミの鳴声が茶室に染入る。
「頂戴いたします」
 隆一の挨拶を沙織は受けてお辞儀をした。
 次客に座る明美へのお茶を点て始めた時、茶を一口飲んだ隆一が思わず言った。
「沙織さん。メチャ美味しいです」
「ちょっと、隆一。メチャなんて言葉。使わないでよ」
「だって、美味しいからイイじゃん」
 くすくす笑いながら、雪乃が言った。
「好いわよ。美味しかったんなら、素直な言葉で言うのが一番よ」
          *

『父が危篤なの』
 SNSは、そこで途切れた。
          *
 右折待ちのバスが止まり、彼女の視界がほんの少しの間塞がれた。
バスが動いて彼女の視界が開けると、その先に隆一の姿を見つけた。
 沙織は、彼に手を振った。

      ハワイコナ

 ノースショア。
 大波の頂上を捉えた瞬間、長沼隆一は快晴のオアフの空を掴めると錯覚し、その感覚を楽しんだ。
 波頭が砕け始めた。
 巨大な水の怪物の咆哮に先んじ、隆一は波に乗る。
 …好い感じだ…
 チューブ。
 抜け出せるか、怪物に呑み込まれるか。
隆一は、右掌のマリンブルーの感触が蛇の肌のようだと感じた。
 突然、隆一の視界に現れた等身大の魚影。
 …鮫か…
 一瞬、そう恐れた隆一だったが、魚影は彼に向うことなく並泳し続ける。
 …イルカだな…
 ホッとした彼はイルカと並んで遊ぶサーフィンを楽しんだ。
 …あいつから俺は、どんな風に見てるんだろう…
 呑気な隆一の空想を他所に、大波の怪物の口が閉じ始めた。
 それに先んじて加速する隆一。
 魚影の隣に隆一の身体が重なった時、彼は心の中で呟いた。
 …じゃ。またな…
 魚影を一気に追い抜く。
 そして隆一は、チューブアウトに成功した。
          *
 波乗りを終えて戻った隆一に、姉からのSNSが届いていた。
『父、危篤。直ぐに帰国して』
          *
 SNS:藤木明美→藤木隆一
『容態。安定してる』
          *
 ホノルルの国際空港のレストラン。
 姉からのメッセージを確認するだけで隆一は、それに返信しなかった。
          *
注文を待つ間に彼は、仕事とスケジュールの調整を終えた。

『帰国。いつになりそう?』
『直ぐに帰国できるの?』

 彼は、姉に返信することなくPCを閉じた。
          *
「お前。何を考えてんだッ」
 父は激しい気幕で怒鳴った。
「大学辞めてハワイでサーフィンだと?」
 手を上げる父を、母と姉が止めた。
「もう良い。出て行け。勝手にしろッ」
          *
 取り留めも無く昔のことを思い出している隆一の前に、食事よりも早くハワイコナが置かれた。
「サンキュー」
 ビッグサイズのカップからハワイコナが香り、それは隆一の鼻をくすぐった。

「先生。僕、今月で稽古辞めます」
 雪乃は優しく微笑んで言った。
「事情は、お姉さんから聞いてるわ」
「急で、すみません」
「寂しくなるわね」
         *
 ハワイコナの味に、隆一はホッとする。
         *
 雪乃は、俯く隆一に言った。
「自分の人生なんだから、ちゃんと楽しむのよ」
         *
 レアステーキから溢れ出る肉汁。
 食欲は乏しかったが、肉を無性に食べたかった。
 香り湯気立つ肉片を頬張る。
その歯応えに、彼は生きていると実感する。
 舌に纏わり絡む肉汁に、彼を快適にさせた。
 彼は肉を食べ続けた。
 ただ無心に、ステーキを貪り続けた。
         *
 曇天の夕刻。
 輪郭も曖昧な窓の外の風景。
 そこで街路樹の椰子の木が、普段より強いオンショアの風に煽られ激しく揺れていた。
 隆一を乗せた機体は、ゆっくりと動き始める。
         *
 機内アナウンスで隆一は目覚めた。
「当機は日付変更線を超え…」
 …冬の世界へ…
 隆一は、再び眠る。
         *
 東京羽田国際空港。
 窓に見える風景。
ハワイと曇天は同じでも、そこは冬の世界だった。
         *
 SNS:藤木明美→藤木隆一。
『いつ帰国できるの?』
『今、どこ?』
『お願い。返信して…』
 隆一は、姉に返信することなくPCを閉じた。
         *
 隆一は二十分後に出発する空港バスで、実家に最寄りの私鉄駅まで行くことにした。
 待合所で缶コーヒーを飲みながらバスを待った。
         *
 その日の稽古の生徒は、姉と沙織さんが休みだったので隆一だけだった。
 中学三年生の夏、興味本位とお菓子目当てで姉に付いての八木雪乃教室へ行った。それきりの筈が、隆一の性分に合っていたらしく、以来稽古に通い続けている。
 楽しさもあったが、そこは隆一の逃げ場ともなっていた。
 点てた濃茶を雪乃先生に出すと、隆一は炉釜の湯気から沸き立つ湯気を見つめる。
「美味しく頂戴致しました。お茶銘は?」
 隆一、上の空。
「隆一くん」
「えっ?」
「お茶銘のお尋ね」
「あぁ。先生。済みません…」
 隆一、慌てて答えた。
 雪乃は静かに尋ねた。
「お父様と喧嘩?」
「強引で。でも父の事業は継がず、自分の道を進みます」
「波乗り?」
「はい」
「両立は無理なの?」
「サーフィンを捨てることになります」
「そう」
 釜鳴が滲みる。
「我慢して嫌な事を続けるのは駄目よ」
「…」
「身体壊すわ」
「はい」
「あなたも辛いわね」
 雪乃は、穏やかな眼差しで隆一に言った。
          *
 隆一を乗せたバスは定刻通り出発した。
          *
 午前十一時の東京。
 隆一は、車窓を過る灰色の律儀な街並みをぼんやり眺めた。
 膝の上にPCの画面。

 SNS:藤木明美→藤木隆一
『今朝。6時42分。亡くなりました』

 画面タイムアウト、暗転。
 隆一、街を見続ける。
          *
 …町の雰囲気。随分変わったな…

バスを降りて駅前ロータリーに立った時、隆一は思った。
 8年振りだった。
 今回は父親の死だが、あの時は母の死に伴う帰国だった。

 …誰かが死なないと、俺は実家に帰れないのかな…

 当時は無かった商業施設で賑やかな駅ビルを見ながら、隆一は苦笑した。
 タクシーかバスに乗れば10分なで実家に着くことはできるが、彼は敢えてそうせず駅ビルを抜けて反対口にある繁華街へ向かった。
 クリスマスが近いせいか、繁華街は平日にも関わらず多くの人出で賑わっていた。
 旅行用のスーツケースを引きづって歩く彼の両脇を、見知らぬ人々が行き交う。
 人混みの中でふわふわと浮かんでいるような孤独感が心地よく、何にも増して彼の心を和ませてくれた。

 …何で疲れてるんだ。疎遠だった父親が死んだだけなのに…

 隆一は当てもなく、気ままに街を彷徨った。

          *
 繁華街の交差点の赤信号が、隆一に歩みを止めさせた。
 両側の商業ビルと歩道に縁どられた縦長の長方形に、突き抜けるようなトルコブルーの冬空があった。
 信号待ちの間、彼はぼんやりと空を見ながら昔好きだった絵を思い出していた。それは、ある日本画家がウォール街を描いた風景画だった。

 …横山操だったな…

 高校生の頃、隆一はその画家の描いた激しくも破天荒に見えながらも、俯瞰と超越にも似た寂寥を感じさせる日本画に惹かれていた。
 実家に横山操の画集があったのを思い出して、彼はそれを無性に見たくなった。

 …取り敢えず、実家に戻る理由ができたな…

 信号が赤から青へと変わり周りの人々が動き始めたが、一瞬、彼はその場で佇んだ。
このまま引き返して実家へ向かうか逡巡するうちに、信号は再び青から赤へと変わる。
空を見ながら苦笑し、彼は交差点の反対側で信号待ちをする人々に目を向けた。

 …えっ。親父かよ…

 人混みの中に彼は死んだはずの父の顔を見掛けた。
 その男性をもう一度見ようとした時、左折するバスによって視界が遮られた。
 バスが通り過ぎた後、開けた視界に林立する人々の中に父親の姿は無かった。
 代わりに自分よりも少し年上の女性と目が合った。
 見覚えのある顔だった。

 …ひょっとして、沙織さんかな…

 彼女は、隆一に手を振って見せる。
 歩行用の信号が、青へと変わる。
 彼女は小走りに、隆一の元へと向かった。

      折り返し点

「隆一くん。久し振りね」
「沙織さんも元気そうで」
「8年ぶりね」
「はい」
沙織は彼の旅行用のスーツケースに目を留めた。
「今朝。帰国したの?」
「はい」
「お父様。入院されたって?」
「はい。今朝方、父は亡くなりました」
「そう…」
 青信号が点滅する。
「ご実家へは、これから?」
「…」
信号は赤へと変わる。
自分の顔を見つめる沙織に、隆一は言った。
「沙織さん」
「はい」
「少しお茶しませんか?」
「えっ?」
「お願いします」
          *
 二人は、交差点付近にあるカフェに入った。
「ご注文は何になさいますか?」
 メニューから顔を挙げると、沙織は注文した。
「私、ハワイコナ」
 隆一は、壁に貼られた手製のお勧めメニューを見ながら言った。
「僕は、アイス抹茶ラテをお願いします」

      赤信号待ち

 4ヶ月前。
 繁華街の交差点。
 赤信号待ち。

 交差点の照り返しは激しかったが、沙織はその中に晩夏を感じていた。
 商業ビルの狭間の夏空。
 それは、彼女に1枚の日本画を想起させた。

 …あの絵の画家。横山操だっけ…

 画集の作品について沙織へ熱く語って聞かせる隆一の顔を思い出し、沙織は淡い昔の思い出に微笑んだ。

 …ウォール街の空の色。こんな感じだったわね…

 夏空に気を取られていた沙織は、不意に肩を叩かれて振り向いた。
「あらっ…」
 目の前に、沙織の夫の梶原隼人が居た。
「よっ」
「びっくりした」
「ボッとしてたからな。驚かそうと思ったのさ」
「もう」
 話している内に信号は、また赤に変わった。
「これって、初めて会った時に似てんな」
沙織と隼人は同じ高校で、同級生だった。
「交差点でナンパされた」
「ひどいなぁ。ナンパなんかじゃないよ」
「どうだか」
「ちょうど今の季節だったよな」
「ええ。夏休みの部活の帰り」
「学校の近くの交差点でさ」
「私たち以外、誰も居なかったのよね」
「沙織。ひとりぼっちでさ」
「いやだ。そんな、寂しい高校生じゃないわよ」
「話したことなかったから。声かけたんだ」
「だからそれを、世間ではナンパって言うのよ」
「そうかぁ」
 二人は笑った。
          *
 隼人は、夏空を見ている。
「何かあったの?」
「なんで?」
「普段なら、この時間帯。仕事じゃない?」
「今日は切り上げた」
「随分、早くない?」
「早退したんだ。たまには良いだろう」
「仕事の虫なのに。具合悪い?」
 隼人、苦笑い。
「そう見える?」
「いいえ。でも気味悪い」
「今日の晩飯ってなに?」
「カツカレー」
「おッ、好いね。でも困った」
「?」
「外食に誘おうかなって」
「良いわよ」
「俺は沙織のカレーが食べたい。だから今日は、お茶だけにしておくか」
「…」
「実は、話したいことがあるんだ」
          *
「ここ、感じの好いね」
 隼人、キョロキョロと店を観察する。
「明美と時々来るの。コーヒーが美味しいのよ」
「そっか。俺もそれが良かったかな?」
 申し訳なさそうに隼人は、アイス抹茶ラテを飲んだ。
「沙織。ハワイコナ好きだな?」
 彼女、幸せそうに頷く。
「隼人。冷たい飲み物が好きだった?」
「ううん。でも、これだけは特別だな」
「特別?」
「夏。雪乃さんの点てた冷茶が、今でも恋しくてさ」
「あぁ。冷茶ね」
 隼人は、小声で言った。
「味は遠く及ばないが、代用品ってとこだな」
          *
 窓越しに通りを行き交う歩行者たちを、ぼんやりと眺めている隼人に彼女は言った。
「ところで話したいことって、何?」
 隼人は彼女の目を見ると、ちょっと緊張した面持ちで言った。
「異動が決まった」
「どこ?」
「タイ。バンコク支店長だから栄転かな」
 前任者が急死し、急遽彼に白羽の矢が立ったらしい。
「おめでとう。いつ赴任?」
「来月の初め」
「二週間後じゃない」
「事情が事情だからさ」
 隼人は何だか淋しげにぼやいた。
「単身赴任かぁ…」
          *
「単身赴任したいの?」
 ちょっと悪戯っぽい沙織に、隼人はムッとする。
「バカ云えッ」
「えっ?」
「本当は、沙織と一緒に赴任したいんだ」
「…」
「あぁ、言わない積りだったのに。俺も、まだまだダメだなぁ」
          *
 隼人が赴任した翌週末。
 お茶の稽古場で夫の赴任を話すと、弟子たちとその話しで盛り上がった。
「先生。大丈夫?」
「えっ?」
「単身赴任。初めてよね?」
「ええ」
「ご主人。イケメンだしね」
「赴任先でモテたりして…」
 沙織、苦笑。
「あら。あたしの言っている心配って、そこじゃないわよ」
「あら。違うの?」
「違うわよ」
「じゃあ、何?」
「先生のご主人ロス。それを心配しているの」
「そうねぇ。ずっと一緒だったしね」
「それに、お二人とも仲良いから」
「先生。淋しくなって」
「追っ駆けたりして」
「えっ。先生、バンコクへ行っちゃうの?」
「お稽古なくなっちゃうの?」
「それ、困る…」
 弟子たちは、和気藹々と好き勝手に沙織をイジって楽しんでいる。
 そんな彼女達を見ながら、沙織は思った。

 …もう、私一人の稽古場じゃなくなっちゃてるから…

 8年前、両親が旅先の事故で突然亡くなった。
 当時の沙織は隼人と数年前に結婚して両親とは別居していたが、週末は実家で母の茶道教室を手伝っていて、夫婦ともども自宅と沙織の実家とを行き来する生活を二人とも楽しんでいたが、突然の事故によって終わった。
 沙織は途方にくれ、落ち込んだ。
夫の隼人は、そんな彼女に彼女の実家だった家に移ろうと提案した。

「あの家で暮らすのって辛いかな?」
 沙織、曖昧な表情。
「お義父さんと雪乃さんの思い出が詰まってるもんな」
「…」
「葬式の後、何日かをあの家で過ごしたろ」
「うん」
「二人が居るような気がしたもん」
「そうなのよね」
「だからさ。住んだ方が良いのかなって思ったんだ」
「…」
「その方が、どっちも淋しくないだろう?」

 沙織と隼人は、彼女の実家での生活を始めた。
 夫の言う通り、沙織もまた両親の気配を感じていた。
 母の雪乃のそれは特に強く、沙織は幾度となく彼女がフッと現れる錯覚を覚えた。
 沙織たち夫婦が実家に移り住んだことを明美から聞いたのか、彼女たちは   折々に連絡を寄越したり、仏壇に手を合わせるため遊びに来たりと、沙織に気を掛け続ける。
 そしていつしか、沙織の心は少しずつ癒されていった。
 半年が過ぎて、沙織は稽古場を再開した。
 一つには、お弟子さんたちからの強い要望だった。
 長年楽しみ続けたお茶から離れる淋しさに耐え兼ね、だからと言って他所の稽古場へ通う気にもなれず、彼女たちは折りに触れてその想いを沙織に伝えていた。
沙織も彼女たちと同じ気持ちだったが、母であり、師でもあった雪乃と言う存在が抜けてしまった心の穴を茶道以外で埋めることが出来ないでいた。自身で稽古はその穴埋めや母に対する供養孝行であると同時に、彼女自身の新たなるスタートでもあった。

 当初、稽古の指導は沙織をとひどく疲れさせた。
 慣れないということもあったけれど、お弟子さんたちが彼女に求める雪乃像に応えようとするあまり縛りにも似た窮屈さが、沙織を精神面でクタクタにさせた。
 自分のスタイルを確立し、それをお弟子さんたちがそれを受け入れて雪乃を意識せずに稽古をつけられるようになったのは母の七回忌を迎えようかという年になっていた。
 やっと自由を感じられるようになって沙織の心にある疑問が湧き始め、それは日を重ねるに従って大きくなっていった。

 …このまま続けて、良いのかしら…

 沙織は雪乃から茶道を強制されたことは一度も無かった。
 それは、自分にとって自然で当たり前のように慣れ親しみ、いつしか自分や人生の一部となっていたし、稽古を再開させることで心の穴も埋まっていたから、そんな風に疑って掛かることなど考えもしていなかった。

 …あたし自身は、稽古で何を教えたいのかしら…

 母からの授かりものを受け継いだ沙織だったが、自分の足で歩き回れる自由を得て沙織は、自分の想いと彼女たちが自分や稽古に求めることの間に生じたズレの蓄積に初めて気づかされたのだった。

 …きっと、このまま続けるのは、ダメで違うかもしれない…

 彼女は、ぼんやり漠然と捉え難い変化を求め始めていた。
 隼人のバンコク転勤を聞かされたのは、そんな矢先のことだった。
          *
「あら、先生」
 信号待ちの沙織に声を掛けてきたのは、田代宮子だった。
「あら。宮子さん」
 彼女は母の弟子の中で一番古いお弟子さんで、沙織のことは幼少の頃から知っている。
「お買い物?」
「はい。宮子さんも?」
「ええ。でも、お買い物はこれから」
 宮子は笑みを見せながら続けた。
「病院の帰りなの」
 彼女の夫は認知症で入院暮らしが長い。
「ご主人。お加減は如何ですか?」
 それには答えず、宮子は沙織に言った。
「先生。お時間ある?」
「ええ」
「少しお茶しましょうよ」
         *
交差点脇のカフェに二人は入った。
「ここ、美味しいわよね」
「ええ。ここにはよく?」
「病院の帰り。気晴らしと気分転換を兼ねて。先生は?」
「私も同じです。一人で来たり、明美を誘ったりですね」
 ジャズの歌声のBGM。
 それに耳を傾けていた宮子が、沙織に話し掛けた。
「主人ったらね」
 無邪気な笑顔の宮子。
「毎日。想い出を忘れてっちゃうのよ」
「…」
「だから、あたしのことも忘れちゃってるのかなって思って不安になるの」
 宮子、柔和な口調で話し続ける。
「だから病院へ行きのも、嫌なときが何度もあって」
 宮子、コーヒーを一口飲む。
「でもね。主人ったら。あたしの顔を見るとものすごく嬉しい顔するのよ」
「…」
「忘れてない。覚えていてくれたんだって」
 そして、宮子は穏やかに微笑んで言う。
「あぁ、この人と夫婦で良かったって。実感できる瞬間なの」
「…」
「沙織ちゃん」
「はい」
「夫婦って。夫婦として供に過ごせる時間って意外と短いと思うの」
 彼女は沙織の目を見つめて言った。
「だから二人で一緒に居る時間を少しでも長く、大切に過ごさなきゃいけないのよ」
          *
 稽古の後。
沙織は、自分で点てたお茶を飲んでいた。

 …自分のお茶を楽しみなさい…

 ふっと、母にそう言われた気がした。
 沙織は、稽古場を見回した。

 釜鳴りだけが響く静寂。

 その時、彼女のスマホが突然震える。

 SNS:隼人→沙織
『12月。一時帰国決定。頼むカツカレー』

 隼人からのSNSにクスッと笑みを漏らす。
 そして同時に、沙織は心が軽くなるのを感じた。
          *
 クリスマス近くのある日。
 繁華街の交差点で信号待ちをしている沙織のスマホが震えた。

 SNS:藤木明美→梶原沙織。
『今週末のお茶のお稽古。休む』
『どうしたの?』
『今、病院にいるの』
『病院?』
『父が危篤なの』
 SNSは、そこで途切れた。

 その時、それまで忘れていた明美の弟の隆一の顔が彼女の脳裏に浮かび、自分に何の相談も無しにハワイ行きを決めてしまった彼に拗ねたのを沙織は思い出していた。
 信号が、赤から青へと変わろうとしていた。

 …流石に今回、帰国するわよね…

 沙織は苦笑する。
          *
 信号が青へと変わった。
 歩き出そうとした時、沙織のスマホが震えた。

 SNS:隼人→沙織
『もう直ぐ搭乗』
『飛行時間は?』
『約6時間かな』
『禁煙。平気?』
『苦行。現在、吸い貯め中』

 アップされた喫煙コーナーでの様子を伝える画像。

『少し日に焼けた?』
『ああ。こっち夏だし』

 …ちょっと太ったかしら…

『男振り上がったろ』

 沙織、クスッと笑う。

『遅くなるけど、絶対食べるから』
『機内食は?』
『食べる。でもカツカレー、熱望』

 材料の入ったレジ袋の写真をアップする。

『OK』
『帰り。気を付けてね』
『ありがとう。沙織もな』
『うん』
 
          *
 赤信号待ち。
 向いの信号待ちの人々の中に母の姿を見てハッとした。
 再度見ようとするが右折の大型バスよって阻まれる。
 開けた視界の先に隆一がいた。
 沙織、彼に手を振る。

      それぞれの場所へ

「帰りたくないの?」
 隆一は答えず、彼女の脇のレジ袋を見る。
「夕飯の材料?」
「ええ」
「メニューは?」
「カツカレー」
「沙織さんの作るカツカレーって、絶品なんだよなぁ」
「隼人の好物なの」
「ふーん。あれっ。でも隼人さん、バンコクじゃないの?」
「一時帰国。今夜、バンコクから戻るわ」
「そっか」
 沙織、ハワイコナを一口飲む。
「彼。単身赴任が初めてなのよ」
「そっか。隼人さん、ずっと東京勤務でしたもんね」
「そうなの」
 隆一、アイス抹茶ラテをストローで吸いながら彼女を見て。
「沙織さん。行かないの?」
「えっ?」
「一緒に」
「…」
「隼人さんの本音。沙織さんに来て欲しいだったりして」
 沙織、頷く
「タイ。好いですよ」
「そう?」
「沙織さんも行っちゃえば良いのに」
 沙織、少し度惑い気味に隆一を見る。
「あっ。でも、教室が気になるか?」
「そうね」
「止めちゃえば?」
「もう、あたしだけの稽古場じゃないから。あたしの我が儘だけで決められないわよ」
「そうなんだ」
「まぁ、それだけでもないけど」
「?」
「独りって初めてだから。それを知りたくて」
「一人で過ごして、何か解りました?」
「ええ。色々と解ったわ」
「例えば、どんなことです?」
「料理」
「えっ?」
「一人分って、作るのが大変だなって」
「?」
「作り過ぎちゃうの」
「だから自然と外食が増えちゃいますよね」
「食べてくれる人が居るって、大切なんだなって実感したわ」
「隼人さんの元へ行く、好いタイミングだと思いますよ」
「そうねぇ…」
 沙織は曖昧に微笑み、続けた。
「日本に戻って来るの?」
「父が死んだからですか?」
「お父様の事業のこともあるでしょうし」
「…」
「明美もそうして欲しそうだったわ」
隆一は、ただ曖昧に笑って見せた。
「あなたも、迷ってるのね」
          *
「ハワイの映像を見たいわ」
「好いですよ」
隆一は、沙織の隣に座るとPCを立ち上げた。
「友人がアップした帰国直前の僕の波乗りです」

 大波。
 チューブイン。

「波の壁の向うにイルカがいて。そいつ、俺と並んで泳ぐんですよ」
 嬉しそうに語る隆一の様子は、昔と変わらない。

 チューブアウト。
 ガッツポーズ。

 隆一は、得意満面な笑顔の自分をジッと見つめる。

 彼の背後で崩れゆく波頭から、一頭のイルカが飛出す。
 宙に留まった瞬時のち、イルカは海中にダイブした。

 そのイルカを、沙織もジッと見つめた。
          *
 店を出て。
 交差点。
 赤信号待ちの沙織と隆一。

「あらっ。風花ね」
 二人の頬に粉雪。
「移ろう季節の兆しね…」
 沙織は微笑んだ。
 隆一は、寒さでブルッと身体を震わせて空を見上げた。
 自分の顔に降り下りては溶けて消える粉雪の感触を楽しんだ。
 そして、映像の中と同じ笑顔を沙織に見せて言った。
「寒ッ。やっぱり俺は、ハワイが恋しい」

 信号が赤から青へと変わる。
二人は、それぞれの道へと歩き始めた。
         *
 ノースショアのカフェ。
 隆一はハワイコナを飲みながら、SNSにアップされた沙織の写真を見ている。
 それは、沙織がタイの子供達にするお茶の稽古風景だった。

 SNS:梶原沙織→長沼隆一

『タイの子供たちに茶道を教えているの』
『沙織さん。すごく好い顔してますよ』

 沙織へのメッセージを送り終えると、彼はPCを閉じた。
 波は、途絶えることなく海原に現れては消えていく。
 隆一は、波を見続けていたが飲んでいたハワイコナを飲み干すと、サーフィンをしようと浜へ戻って行った。

(『風花』END)
(次回作アップ予定:2021.5.6)

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