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遠巻きの寛容(第4回「告白」)

      告白

 体調不良を理由に長期休暇を取った開斗が出社をしなくなると、祐平に対する妙な噂話が社内で一気に広がり始めた。
 そんな矢先のある日、祐平は若杉と飲んだ。
「島村と連絡は?」
「休暇届けのメールが最後です」
「メールってお前、一緒に暮らしてるだろう」
「彼とは別れました」
「いつ?」
「先週末です」
 祐平、若杉をジッと見つめる。
「何だ?」
「ご存知だったんですか?」
「何が?」
「彼が寛人の息子だと」
 若杉、少し間を置いて頷く。
「いつ頃からです?」
「就活で我社に来た頃」
「随分前からですね」
「彼の母親から我社への就職の件で相談されてね」
「島村香純?」
「古くからの友人。…学生時代に付き合っていた俺の彼女だよ」
「何故、黙っておられたんですか?」
「言う必要があったか?」
「いいえ」
「何かあるのか?」
「幾つかの噂は随分昔に関する物でした」
「そのようだな」
「情報の出所にお心当たりは?」
「無い」
 若杉は酒を飲み干して言った。
「桜井。俺は、お前に『慎重に』と忠告したはずだ」
「はい」
「今も昔も俺はお前の見方だ。それだけは忘れるな」
      *
 若杉と別れた後、祐平はシーモアで一人飲んだ。
「今日のお客さん、祐平さん一人なのよ。スマホは家で見なさい」
 シュンスケはスマホを見続ける祐平に言った。
「そうだな」
「早く仲直りしなさいよ」
「そう簡単でもない」
「まだ好きなくせに」
 祐平、失笑。
「どうしてそう思う?」
「過去から直前までのSNSを何度も見ているから。それって確認でしょ」
「?」
「自分たちは間違っていなかったって」
 祐平は静かに言った。
「感じの悪い店だ…」
      *
 深夜。
 自宅に戻った祐平は、書斎で星の王子様のページをめくる。
 溢れる涙を拭うこともせず、彼はページの一枚一枚を指先で撫で続けた。
      *
 病室で眠る、寛人。
祐平はベッドサイドから彼の寝顔を見つめた。やがて、ディスプレイ画面脇に置かれたサリンジャーの短編集に気づくとそれ手に取った。
 ディスプレイ画面に文字が、突然表示される。
『祐平』
 寛人、祐平を見る。
『どうした?』
「会いに来た」
『見舞いだろ』
 祐平、苦笑。
 ディスプレイ画面に『笑』の文字が表示される。
「笑?」
『文字でしか感情表現ができない。悪いが慣れてくれ』
「ネットでの会話と同じだな」
『SNSか?』
「知ってるの?」
『開斗から聞いてる』
「そうか。良い息子だな」
『惚れたろ』
「黙れ」
『笑』
「何があったんだ?」
『話すと長いよ』
「いいよ。時間はたっぷりある」
      *
『お前に捨てられた後、香純と結婚した』
「捨てられたって酷くないか?」
『笑』
「上司からロンドン発つ前に聞いた。お前、渋谷で若杉さんと偶然会ったろ?」
『偶然かぁ。そう言えなくもないか』
「違うのか?」
『まぁ、良いさ。香純と結婚して3年目に開斗が生まれた』
「うん」
『俺と香純のセックス。一度だけだった』
「えっ?」
『2度目の結婚記念日の夜。その時だけさ』
「開斗はお前の子だろう?」
『それは間違いない。俺のヒット率って中々だろう』
 祐平、苦笑。
「だったら、あの夜は?」
『彼女を慰めていた』
「?」
『当時香純は、不倫で悩んでた。相手は、若杉三郎さ』
「不倫の噂。本当だったんだな」
『彼女、精神的に不安定で放って置けなかった』
「何故、それを俺に言わなかった?」
『お前が信頼と尊敬を寄せる上司の事だからな』
「お前の言葉を信じないと思ったか?」
『無理だろうなって。自信がなかった』
「それで何も弁解しなかったのか?」
『うん』
 祐平、寛人の額に手を当てる。
『悔しい』
「うん?」
『掌の温もり。感じることが出来ない』
祐平は、彼の眉を親指で撫でた。
『会いたかった』
「俺も。やっと会えた」
      *
『あの頃。心を閉ざしてたな』
「無自覚だったけどさ」
『ゲイがバレたくないから心を閉ざすのが自然な振る舞いになる。俺もそうだったよ』
「常に何かに怯え、悟られまいと必死だった」
『そうだね』
「関係が壊れ、失い、存在を否定されるのが怖かった」
『だから、在りのままの自分を隠蔽してた』
「それに長け過ぎて自覚も麻痺してたさ」
『俺。心が蝕まれそうな祐平を救いたくて必死だったんだ』
「でも俺は、寛人を傷つけた」
『まったくだ。笑』
「星の王子様の意味にも気づけなかった」
『あれ。祐平の孤独への宣戦布告だったんだけどなぁ』
「スマン」
『近づくほどに祐平は心を閉ざし。俺、途方に暮れたよ』
「サリンジャーの短編集。最悪だったな」
『バナナフィッシュが面白いよって言われて、言葉失ったもん』
祐平、苦笑。
『眠っている妻の前で自殺する主人公が自分と重なって。もの凄く傷ついたから』
「ごめん」
『編集者失格だよ』
「まったくだ」
『笑』
 寛人、祐平を見つめる。
『でも、その短編集に救われたんだ』
「救われた?」
『うん』
      *
『開斗の誕生は物凄く嬉しかったけど、香純への気持ちはどんどん冷めていった』
「何故?」
『俺もまた、彼女に心を閉ざしたから』
「…」
『俺たち、一人ぼっちが嫌で結婚したんだ。香純は俺に寄り添うことで心の穴を埋められたけど俺はダメだった。祐平のことを忘れることができなかった』
 寛人の眼球が激しく動く。
『開斗が生まれて、俺はホッとした。これからは、開斗が俺の代わりとなってくれると。開斗は誰より大切で愛おしかったけど、俺にとって香純の寄り添いは負担で苦しかった。俺は家を空けることが多くなって、生きてるのが奇跡と思えるほど荒んだ生活を送った。見兼ねた香純の両親が離婚を勧めた。開斗の親権で揉めて。離婚調停で負け、親権者は香純と裁定されて離婚した。開斗が四歳の時だ。あの事故は俺が家を出た日に起きた』
 寛人、遠い眼差しで続ける。
『車で帰る途中だった。カーブが続く下りの山道で、ブレーキが急に利かなくなった。自分の車線は崖沿いで乗り上げる場所もない。加速で曲がり切れず崖下に転落した。目覚めると病院だった。車は大破したが爆発炎上はなく俺は幸運にも死なずに済んだが脊髄損傷で全身不随となった』
 祐平、寛人の顔を見つめた。
『一日が長いんだ。夜は特にそう感じる。だから昼間、眠らないように気をつけてる。昼の光は夜の闇よりも遥かに残酷でさ。闇は意識を溶かしてくれるけど、全てを見せる光の世界は、時が止った様に目に映る。辛いよ。変化が欲しい。停止の連続を忘れたい。それを叶えてくれたのが、開斗の成長とあの短編集だった』
寛人の目が光る。
『開斗は、生きる活力だよ』
「開斗は解かるけど、短編集は?」
『お前と別れた後、何度も捨てようと思った。でも出来なかった。時計とその短編集が、お前との唯一の繋がりだったから。あの事故で時計は失われてからは尚更だ。俺を傷つかせた一冊だけど、それだからこそ、その本を見ているとお前との日々が鮮明に思い出される。それを眺めているだけで、地獄を忘れることができた』
「ずっと病院暮らしなのか?」
『入ったり、出たりの繰り返しさ』
「病院以外でのお前の世話は誰が?」
『開斗と香純がしてくれてる』
「離婚したのに?」
『変か?』
「開斗は分らなくもないが、香純さんはどうなんだ?」
『あの事故がブレーキ欠陥によるものと判り補償が支払われることになり、それは今も続いている。入院費や開斗の養育費も全てそれで賄われた』
「介護は金目当てか?」
『どうかな。だが、彼女の介護は献身的だよ。誰が何と言おうと疑う余地はない』
「そうか」
『罪の意識を感じるよ』
「彼女や開斗にか?」
 寛人の視線が宙を泳ぐ。
『あれは事故なんかじゃない』
「うん?」
『ブレーキの効かない車に身を任せて突っ込んだのさ』
「どういうことだ?」
『自殺を図ったんだ。でも死ねなかったよ』
 寛人は続けた。
『天罰かな。自ら命を絶つことも叶わない身体に絶望した。だがブレーキ欠陥と補償の話を聞いた俺は、補償に自分の生存意義を見出した。俺が生き続ける限り香純と開斗の生活は保障される。だから、俺は真実を自分の心の奥底に隠蔽した。詐取かな。軽蔑したろ?』
「俺も同じことをしたさ。ただ一つを除いて」
『一つ?』
「俺なら。隠蔽を墓まで持って行く
『確かにそうだ。笑』
「でも嬉しいよ」
『何が?』
「二人だけの秘密が増えた」
『笑』
 祐平も笑った。
      *
『献身的だったから、介護は彼女の負担だった。他人に言えない悩みや葛藤も多く、いつしか彼女は心の内を開斗に聞かせて解消した。何気ない愚痴も、開斗にとっては母の苦しみと映った。やがて開斗の中でそれが、お前に対する歪んだ恨みへと変わっていったんだ』
「お前が開斗にシーモアを教えたか?」
『うん。あいつが高一の時にゲイだと打明けられた。大学に入り、ゲイバーに行ってみたいというからシーモアを紹介した。バイトを始めたあの子が、そこで出会った渉さんからお前のことを知ろうとは夢にも思わなかったよ。それが目的だったんだろうな』
「巡り合わせさ。お陰で俺は、開斗に出会えたけどね」
『嫉妬』
「息子に焼き餅妬いてどうする」
『笑』
 祐平、苦笑。
『あとはお前も知る通りだ。でもあの子は、かなり苦しんでいた』
「?」
『欺いて近づいたが、お前を好きになった。陥れたい気持ちと、お前に惹かれる気持ちの間で揺れて悩んでいたんだ。そんな息子を慰めることも出来ず、もどかしさと不甲斐なさで随分と苛立たされたな』
「諭して止めろよ」
『この身体でか?』
 祐平、苦笑。
『お前の書斎で開いた星の王子様はどのページも手垢で汚れていた。その時、お前の孤独や苦しみが解かったと。それで許せたと』
「星の王子様に救われたか」
『だが皮肉にもお前を許した時から、新たな苦悩が始まった』
「忙しいやつだ」
『お前を欺き陥れる目的で近づいた事実は消せない。真実を知ったお前に捨てられる恐怖であの子は怯えていたよ。お前との日々が幸せだったから、絶対に失いたくなかったんだろうな』
「…」
『お前や俺だから。あの子の怯え、隠蔽が明るみになる怖さがどんなものか解るだろ』
祐平、寛人を見つめる。
『お前が開斗に別れを告げた時、30年前の自分と開斗が重なったよ』
「起きてたのか?」
『うん』
「狸オヤジめ」
『笑』
寛人、祐平をジッと見る。
『今の俺たちに一番必要なのは、本当の寛容じゃないのか?』
 祐平、深いため息を漏らす。
「遠巻きではない本当の寛容か」
 見つめ合う二人。
『だから開斗を許してやって欲しい』
      *
 長い沈黙の後、祐平が言った。
「また会いに来るけど良いよな?」
『笑』
「いつでも会えるよな」
『祐平』
「…」
『俺の手を握って』
 手を握られた寛人は目を閉じる。
『昔のままだ』
「寛人もな」
『祐平』
「うん?」
『開斗を頼んだぞ』
 二人、唇を重ねる。
 長いキスのあと、祐平は溢れ出る寛人の涎を舐め取った。
 寛人の眦から一筋の涙。
「俺に任せろ」
 祐平は、彼の涙を拭った。
      *
 キッチン。
 祐平はシチューを煮込む寛人を背中越しに抱いた。
「美味そう」
 シチューをかき混ぜる彼の手を握り、祐平も一緒に混ぜる。
「ビーフ?」
「ポーク」
 祐平は彼の肩に顎を乗せて言った。
「ポークって、大抵カレーじゃねぇ?」
「だから試しに作ってみたんだ」
 祐平は寛人の首筋を愛撫する。
「あと10分煮込みたいんだ。我慢して」
「そんなに長く、我慢できないよ」
 彼の顔を自分に向け、祐平は寛人にキスをする。
「10分でもっと美味しくなるのに…」
「今だって美味し過ぎる。この瞬間を食べたい」
 二人、激しくキスを重ねる。
「火を止めなきゃ。また焦げちゃうよ…」
「大丈夫」
 二人、見つめ合う。
「もう誰にも止められない」
 寛人は、火をそっと止めた。
      *
 深夜。
 祐平、ガッと目覚める。
 …夢か…
 真っ暗な部屋で震えるスマホが灯る。
「はい?」
「島村香純です」
「何か?」
「主人が、先ほど亡くなりました」
「死んだ?」
「夢見て眠るような最期でした」
「…」
「主人からあなたへの遺言を預かっています」
「遺言?」
「葬儀に必ず参列して欲しいと」
「そうですか」
「日程決まり次第、お知らせします」
「お願いします」
      *
 祐平は駐車場でタクシーを降り、葬儀場の建物を見上げた。
                      (第4回『告白』END)

(第5回『寛容』アップ予定:2021.3.26)


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