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蟲魂2 -ガザミ(中編「婚礼舞」)-

 伊織とあさりは畳敷の回廊を歩き続けていた。
「あさり殿」
「もう。あさりって、呼び捨てで良いわよ」
「あぁ。では、あさりさん」
「…」
「会って間もないのに呼び捨てというのも気が引けるので…」
「まぁ、良いけど。何?」
「さっきから気になっているのですが、ずっと同じ所を歩いていませんか?」
「そうみたいね」
 あさりは立ち止まり、伊織の左手を見て言った。
「あたしも伊織っちのことで気になっていることがいるんだけど、聞いても良い?」
「何ですか?」
「刀。どうして腰に差さずに左手で持っているの?」
「あぁ。これですか」
「まさか。あたしのことをバッサリとか?」
 伊織は彼女に身体を向けると、左手に持った刀を差し出した。
「えっ?」
「刀。抜いてみで下さい」
 そう言って伊織はあさりに刀を渡す。
「でも…」
「良いから。抜いて見て下さい」
 あさりは柄と鞘を握って刀を抜き出そうとしたが、抜き出すことが出来ない。
「えっ。何これ。抜けないじゃない」
 伊織、焦るあさりを笑って見ている。
「刀が錆びちゃってるのかしら?」
 結局、彼女は刀を抜き出すことが出来なかった。
「抜けないんですよ」
「役に立たないじゃない」
「そうでも無いですよ。鞘が結構固いから相手を倒すには十分役立ちます」
「それで鞘ごと腰から抜いて、持ち歩いてるってわけ?」
 伊織、笑って頷く。
            *
「面を上げよ」
 日向守に言われ、平伏している伊織は顔を上げた。
「沼辺伊織と申したな」
「御意」
「大刀自の所縁の者と聞いておる」
「御意」
「若いな。幾つになる?」
「二十五歳となります」
「顔立ちが良いの」
「滅相もない」
「褒めておる」
「ありがたきお言葉」
 突然、下座の襖が左右に開くや部屋に乱入した数人の武士たちが伊織に斬りかかった。
 伊織、正座をしたまま動じない。
 一人の切っ先が彼の頭を襲うが伊織は難なく躱し、右に置いていた刀の柄頭で男のみぞおちを突いた。
 呻き声。
 男が伊織の隣に倒れた。
 間髪入れずに別の男が袈裟掛けに振り下ろされる。
 だが伊織は正座のまま男の小手を鞘先で打ち据え、激痛で放した刀を鞘で打ち払った。
 孤を描いて宙を舞った刀は、次に遅い掛かって来た男の足元に刺さる。
 残り二人が同時に襲い掛かるが伊織は刀を抜くことなく、二人を鞘で打ち据えた。
「そこまでッ」
 日向守が一喝。
 五人は部屋から出て行った。
 伊織、にこやかに日向守を見る。
「試すような真似を致した。許せ」
「お気遣いなく」
「流石。雷雹流の奥義を極めた者と大刀自より聞いていたが、見事な腕前。感服した」
「ありがとうございます。しかしながら雷雹を極めたというお言葉には相違がございます」
「うん?」
「まだ極めてはおりませぬ」
「はて。面妖な。大刀自からそのように聞いておるが?」
 伊織は、右脇に置いていた刀を前に置いて言った。
「月生の滝で得た刀『青斬り』でございます。お改め願います」
 用人が日向守に青斬りを取り次いだ。
 日向守は刀を取り上げて抜こうとするが出来なかった。
「抜けぬが?」
「はい」
 日向守は青斬りを伊織へ返した。
「この刀が抜けるが奥義を極めた時と、月生の滝の神から聞いております。故に、奥義を極めてはおりませぬ」
「左様か」
「人を斬れませぬ。故に、殿のお役には立てぬかと」
 日向守は穏やかに笑いながら答えた。
「人斬りを召し抱えたいわけではない。そちに異存なげれば召し抱えたいが?」
 伊織は廊下で座って控えている大刀自の顔を少し見てから答えた。
「御意。仰せの通りにさせて頂きとうございます」
            *
 それまで開けることが出来なかった障子戸が、突然開いた。
「どうやら、ここに入れってことみたいね」
「入りますか?」
「入るけど。伊織っち、怖いの?」
「はい」
「素直。可愛いっ」
「…」
「家中の凄腕五人をあっと言う間に追っ払ったんでしょう。大丈夫よ」
「しかし魔物相手は初めてですし、刀も抜けないから…」
 あさり、伊織の右腕に抱き着いて言った。
「大丈夫。あたしが守ってあげるから。さっ、行きましょう」
            *
 襖を開けた先は本膳、二の膳、三の膳が整然と並べて置かれている無人の大広間だった。
 上座、左右に並んだ二席の奥には、男女の婚礼衣装が宙に浮いていた。
「今日。誰かの婚礼なのかしら?」
「でも誰も居ませんよ?」
「そうね」
「蟲魂も祝言を挙げるんですか?」
「蟲魂だもの。挙げないわよ」
「そ、そうですよね。ははは」
 二人、上座に行く。
「どう見ても浮いちゃってるわるわよね」
「あり得ない光景です」
「だって蟲魂が見せている幻影よ」
「そうですね…」
 伊織はそう言うと、思わず白無垢に手を伸ばす。
 彼の仕草を見たあさりは、声を荒げ叫ぶように言った。
「それッ。触れちゃダメっ」
 だが時すでに遅く伊織は白無垢に触れる。
「伊織っちッ」
 彼の姿は消えた。
「ちぇッ」
 あさりは本能的にその場を飛び退きく。
 そして部屋の隅に身を置くと、自分の周囲に結界を張って身を隠した。
            *
「伊織。そなたに雷雹流の皆伝を許す」
 剣の師匠の藤玄斎は、伊織に皆伝の認可状を渡すと続けて言った。
「佐奈とのこと。誠に良いのか?」
 佐奈とは藤玄斎の娘で、伊織の許嫁である。
「月生(つきしょう)の神滝に行ったなら、無事に戻れるとは限らぬのだぞ」
「承知しております」
「だから、佐奈との祝言を挙げてからでも構わぬのだぞ」
            *
 伊織と佐奈は二人で池に映る月を見ている。
「佐奈殿」
「はい。伊織様」
「本当に祝言を挙げないまま、月生の滝へ行っても良いの?」
「はい」
 佐奈は伊織の顔を見ながらきっぱりと言うと、池に映る月に目を移した。
 伊織はそんな彼女の肩を抱くと言った。
「本当に?」
「…」
「祝言を挙げ、落ち着いてから奥義を極めに行っても良いと思うのですが」
「なりませぬ」
「でもさぁ」
「伊織様は無事にお戻りになられます」
「死ぬかもしれないんですよ。無事に戻れないかもしれないんですよ」
「佐奈は信じております」
            *
 伊織は黙ったまま、目の前にいる藤玄斎を見つめた。
 そんな彼に藤玄斎は、続けて言った。
「月生の滝とは、どのような場所なのですか?」
「天より水が流れ落ちる滝よ」
「滝?」
「滝の上流には雲が立ち込めておってな、何も見えぬ。雲間から水が滝のように降り注いでいるように見える」
「それが月生山の奥深くにあるのですか?」
 藤玄斎、頷く。
「あの山には修行のため幾度となく登りましたが、そのような場所はありませんでした」
「普段は見えぬ。皆伝の認可状をもっと者のみに、月生の滝へと通ずる大鳥居が現れる」
「この世とは別の場所にあるのですか?」
「恐らくそうであろう」
「厄介な所にありますね」
 伊織、苦笑。
「剣祖の御影斎様が月生の滝で雷雹剣の奥義を極められて神剣『青斬り』を得られた」
「青斬りかぁ。そう言えば、その剣を見たことがありませんけど?」
「御影斎様が亡くなると同時に消えたと伝わっている。恐らく月生の滝の神が奥義を得た者だけに授ける剣なのであろう」
「奥義のご褒美は、青斬りの剣なのですか?」
「数多くの皆伝者が月生の滝へ奥義を求めて参ったが誰一人として到達できた者は居らぬ。かく申す儂も、その一人であるがな」
 藤玄斎、煙草を吸う。
「奥義を求める者たちは、その大半が月生の滝で命を落とした。生き残って戻った者たちも手負うことなく無事に戻ることは無かった。ある者は正気を失い、ある者は四肢のいずれかを失った。儂とて例外ではなく両目の光を失った」
 藤玄斎は左右の瞼を開いた。
 光を失った両眼は白く濁り、闇に閉ざされている。
「どうして師匠は、戻れたのですか?」
「奥義を得ることを諦めたからじゃろうよ」
「へぇー…」
「生きて戻った者は皆、そのように申しておった」
「諦めれば戻れるのかぁ…」
「何かを失うがな」
 伊織、暗い顔。
「皆伝を許されて後悔致したか?」
「うーん。でも、佐奈殿が望んでるからなぁ」
「佐奈にも困った者よ」
「もう皆伝を許されちゃいましたから。今さら行かない訳にはいかないでしょう」
 藤玄斎、苦笑。
「お前らしいのう…」
「師匠。一つ聞いても良いですか?」
「何じゃ?」
「自分の腕が一番だって認識してますけど、他に皆伝を許された理由があったんですか?」
「まぁ、無くもない」
「それ。ひょっとして佐奈殿の頼みですか?」
「バカ。娘に頼まれたからといって皆伝を許すか」
「泰平の世ですよ。剣術なんて流行ってないし。佐奈殿が嬉しそうな顔をするから剣の修行をしてましたけど。いつの間にか一番になって。佐奈殿が喜んでくれるのは嬉しいけど、こんな気構えのない奴が皆伝許されちゃって良いのかと疑問なんですよね」
「佐奈と一緒になりたくないのか?」
「そりゃあ、一緒になりたいですよ。でも、佐奈殿が言うんです。奥義を得た暁には伊織様の夫婦になりますって。ひょっとして嫌われてるのかなって思って、実は嫌いななんですかって聞きました」
「お、お主。佐奈にそんなことを聞いたのか?」
「はい」
「返事はどうだった?」
「思いっきり引っ叩かれました」
 藤玄斎、頭を抱える。
「伊織よ」
「はい」
「その喧嘩のあと、佐奈と相談いたしたのか?」
 伊織、無言で首を左右に振る。
「口をきいてもらえません」
 藤玄斎、溜息。
 伊織、俯きモジモジ。
「皆伝が二人の仲を拗らせたか」
「そこまで揉めてませんけど」
「お前の剣の腕前が抜きに出ておったからのう。そなた以外に皆伝を許せる雰囲気ではなかった。まぁ、もっとも、お前が手抜きをしても、誰一人として勝てぬということ自体が最大の問題なのだが」
「仕方ないですよ。みんな、もうちょっと力を抜いて相手してくれればいい感じなのに、どうも自分に対抗心があるみたいで頑張り過ぎちゃうんですよね。だから動きが悪くなって負けてしまう。勝ったって良いこと無いですよ。恨み買うだけだし。結局、一番人気の佐奈殿まで夢中になられて、嬉しいけど、みんなから嫉妬の嵐。正直、辛いです」
「嫌味も自慢も無く、自然とそこまで言えるお主を儂は凄いと思うぞ」
「拙者。師匠のお言葉に嫌味を感じますが?」
「嫌味など、何を言う。誤解致すな。やはり皆伝を許したのは、お主のためにならなかったかのう…」
「皆伝を許してもらったのは良いんです。佐奈殿にとって皆伝は当然で、許されなかったら永遠に口をきいてもらえません。問題はその先で。奥義を得ることに関して二人に意見の相違があるわけで。佐奈殿は結婚前に取って来ることを望んでるし、私にはそんな拘りは無くて。歳をとって、もう死にそうだなって時になってからで良いかなと。ひょっとしたら、その頃までのらりくらりと逃げれれば、奥義なんてものを誰も彼も忘れてくれてるかもしれない。そんな期待もありで。でも佐奈殿はどうしても許してくれないんですよね」
「困った娘だ」
「師匠」
「うん?」
「皆伝を許した理由。腕前以外に何だったんです?」
「うーん」
「言いたくなければ良いですけど」
「伊織よ。お主、本心では皆伝など少しもを望んでおるまい?」
「はい」
 藤玄斎、伊織の素直な反応にイラッ。
「故に、許したのじゃ」
「屈折してますね」
「お主の、ゆるいというか、無欲というか、達観しているというか、飄々としているというか、醒めているというか、熱くならずに一歩引いて物を見る性格の持ち主というか。歴代の皆伝者からは全くかけ離れた性格の持ち主故に許したのだ」
「はぁ?」
「つまりお主は、これまでの誰とも違う逸材なのだ」
「あのぉー。褒めてますか、それとも貶してますか?」
「勿論、褒めておる」
 伊織、複雑な面持ち。
「お主しか居らぬと思った。万にも得難い変わり種のお前なればこそ、月生の滝へ送らずしてはもったいない。ひょっとして、お主なら。これまでと違う結果が生じるかも知れぬ。そう直感したのだ」
 藤玄斎、熱い。
 伊織、超冷静。
 …もったいないって。あんたが勝手に決めんなよ…
 藤玄斎は、身を乗り出して言った。
「伊織。もうお前しか居らぬのだ。奥義を極めて戻ってくれ」
 伊織は諦めきった表情で言った。
「わかりました。もうこれは避けがたい運命ですね。佐奈殿を好きになった瞬間から、こうなる運命になっちゃってたみたいですから。受け入れます」
 伊織、肩を落とした。
            *
 大広間の様子が一変する。
 武家の正装で身を包んだ男女が突然現れ、それぞれの膳の前で座った。
 上座に目をやると白無垢は無くなっていて、新郎が席についていた。
 あさりは、新郎席に現れた人物を見て驚いた。
 …えっ。伊織っち…
 彼女は思わず声を上げかけたが、懸命に押し殺して様子を伺う。
 …イヤだぁ。伊織っちが結婚しちゃう…
 だが伊織は目を閉じたまま、新郎の席で正座をしたまま動かない。
 やがて、身なりの良い奥女中に手を引かれた新婦が畳の回廊に現れた。
 新婦が席に座った。
 角隠しで彼女の顔はよく見えないが、生気が全く感じられない。
 それは祝言に招かれた客たちも同様だった。
 奥女中が袖口から玉のような物を取り出してそれを新婦の口に含ませると、それまで時が止まっていたかのように暗く、澱み、静まっていた大広間がパッと明るくなった。同時に、それまでが嘘のように生気に溢れた空間となった。
            *
「師匠。沙織殿は?」
「見送りをせぬと申してな…」
 伊織、ちょっと悲し気な表情。
「伊織よ。佐奈を許してやってくれ。昨夜などは、夜通し泣いておった。慰めてやるので儂も寝て居らぬ」
 藤玄斎、堪え切れずに大欠伸。
「佐奈殿。そんなに泣いて悲しんでくれたのですか?」
「あぁ。そうじゃ。大願成就して無事に戻ると信じておる故、見送りは未練と申してな」
 …ううーっ。でも、一目会いたかったなぁ…
「まぁ、泣き過ぎて顔が腫れてな。伊織に見せたくなかったのが本心のようじゃが」
 …師匠。せっかく感動してたのに雰囲気台無しですよ…
「ぐちゃぐちゃでも良いから顔を見たかったと。佐奈殿にお伝え願います」
「そう伝えよう」
「ああ、『ぐちゃぐちゃ』の所は伝えなくて良いですから」
「そこも含めて伊織の気持ちではないか。必ず伝える」
 …だから『会いたかった』だけで良いの。余計なこと言わなきゃ良かった…
 伊織、憮然かつ後悔顔。
「師匠」
「何じゃ?」
「旅立つ前にひとつだけ伺いたいことがあります」
「何かな?」
「滝壺での出来事についてお教え下さい」
「おう。その事であった。儂も言わねばと思うておった」
「お聞かせ願います」
「滝壺の畔に立って様子を伺っておった時じゃ、水面が何かの生き物のように動き始めたかと思うや、儂は滝壺の中へ引き摺り込まれた」
「魔物でございますか?」
「初めはそう思った。巻き付かれるような水のうねりの中で儂は刀を抜いて、見えぬ敵に抗うように闘い続けた。だが魔物の力は凄まじく、儂は気を失ってな。次に気がついた時は水底に浮かんでいた」
「…」
「目の前に祠があって、その前に一本の刀が直立に浮かんで見えた」
「青斬りですか?」
「恐らくな。手を伸ばしてそれを掴もうとしたが叶わず。その時、声が聞こえた」
「声?」
「女子の声であった」
「それで何と言っていたのですか?」
 瞼を開き、白濁した左右の眼球を伊織に向けて藤玄斎は言った。
「『奥義とは失っても得るべき物なのか?』とな」
「…」
「その時、儂の目の前に亡くなった妻と生まれたばかりの佐奈の顔が映った」
「お二人の顔?」
「左様。二人の顔が目の前に浮かんだ時、儂は死にたくない、奥義も何も要らぬから二人の元へ戻りたいと心底から思った。そこから先の事については、余り覚えておらぬ。次に目覚めた時には河原に居て、眼の光も失っていた」
 藤玄斎は、閉じた目を中空に向け、続けて言った。
「奥義を諦めて、失った物が自分の眼で良かった。光を失った代償は大きかったが、それが故に別の境地を切り開き、妻や娘と幸せに暮らすことができた。これで良かったと思う」
 …本当は、俺もそっちの方が良いんだけどなぁ…
 幸せを噛みしめたようなドヤ顔を浮かべる藤玄斎を見ながら、伊織は心の中でぼやいた。
「師匠。では参ります」
「そうか。行くか」
「はい」
「武運を祈る」
            *
 横嶋家。
 禄高四千石の名門旗本である。
 将軍の居住空間である中奥の要職を歴代の当主が勤めている家柄である。
 日向守家の禄高は三千石で新興の旗本なため、家格としては横嶋家に劣る。その横嶋家から嫁を娶り両家は縁戚関係となった。
 その日、両家の婚礼が日向守家の邸宅で催された。
 横嶋家の親戚縁者のみならず、幕府の主だった面々が祝いの席に招待され、本膳が給仕されると宴はいよいよ盛り上がる。
「御列席の御一同様。本日は誠に目出度い。まだ若輩者の婿でござるが、皆様のお引き立てを良しなにお願い申し上げる」
「これは目出度いッ」
 居合わせた面々は、歓声を上げた。
「婿殿。娘を頼みましたぞ」
            *
「確かに、こんな大鳥居を見たことがない…」
 大鳥居を見上げた伊織は、独り言のように感嘆を口にする。
 そして、中央の扁額に刻まれた字を見て苦笑した。
 そこには『皆伝』とある。
 …皆伝が許された者のみに見える大鳥居じゃ…
 師匠の声が頭の中を過る。
「何だか物々しいなぁ…」
 ふと、伊織の脳裏に佐奈の顔が過った。
「まぁ。頑張ないとね」
 そう言って伊織は、大鳥居の下を通って森の奥へと進んだ。
            *
 三の膳が給仕された。
 …あの女の人。どこかで見たことがあるような…
 指示をする奥女中の顔を見ながら、あさりは記憶をたどった。
「皆さま。お召し上がり下さい。酒飯が足らないようなことがございますなら、いつなりと御申しつけ下さいませ」
 奥女中はそうい終えると、宴席を後にした。
「いやぁー。これは美味、珍味の豊富なこと」
「流石は日向守殿。感服致した」
「横嶋様の縁戚となられ、お家の隆盛も益々盤石なことでございましょう」
 歓声が沸き上がった。
            *
 …これが、天より降り注ぐ滝かぁ…
 水煙の天空から滔々と流れ落ちる滝を見上げて、伊織は感嘆した。
 そして彼は、月生の滝壺に目を移した。
            *
 奥女中の立ち去り際の残り香が、あさりの鼻をついた。
 …この匂いつて、以前にどこかで…
 宴。
 …酔っ払いなんて、身分に関係なく誰も彼も同じね…
 飲食いで騒ぎ浮かれる面々を見て、あさりは呆れた。
 …あれ…
 結界の際に脱皮したばかりの網目蜉蝣がいた。
 …何でこんな所にいるのかしら…
 網目蜉蝣の成虫は、連客のいる席の方から来ているようだった。
 生臭い異臭。
 連客の膳を見て、あさりは絶句した。
 網目蜉蝣の幼虫が椀から溢れ出し、それらが次々に脱皮している。
 …一体、何が起きているのよ…
 連客を見た時、あさりは顔を歪めた。
 連客が嬉しそうに食べている全ての料理は網目蜉蝣の幼虫だった。
 そして、連客たちの身体全体から脱皮直前の幼虫が湧き出ると次々に脱皮をした。
            *
 一瞬、滝壺の水面が鏡のように静まりかえる。
 …来るな…
 伊織は刀を抜くと静かに構えた。
 水面が突き出る角のように立ち上がる。
 そしてそれらは、刀を持った人の姿となった。
 伊織、口元で笑う。
 水面上の男たちが、伊織へ一斉に襲い掛かった。
            *
 奥女中が再び、連客の前に現れた。
「おう。如何致した?」
 岳父の横嶋に尋ねられた奥女中は、動じぬ様子で答えた。
「鼓を持参致しました。御座興汚しに一曲奏でたいのですが?」
「おおう。それは一興、一興。御一同、如何か?」
 連客たちは賛同した。
「それでは…」

 鼓、一打ち。
 音が響く。
 調べに合わせて鼓の音が続き、奥女中は吟じ始めた。

『はかなきや』
 ぽんッ。
『夕べに生を受けし、蜉蝣の』
 ぽんッ、ぽんッ。
『闇に舞う』
 ぽんッ。
『月明かり』
 ぽんッ。
『逢瀬の恋いを』
 ぽんッ、ぽんッ。
『誰が袖ぞ』
 ぽんッ。
            *
 斬っては湧き出る武士たち。
 …キリがないな…
 伊織は刀を構えると、静かに言った。
「雷雹、一の太刀。『雷舞』」
 頭上に掲げ持った刀を一気に振り下ろすと、無数の雷が月生の滝壺を襲った。
            *
 ぽんッ。
 ぽんッ。
『今宵限りの儚き命の蜉蝣の』
 ぽんッ。
『誰がために舞おうぞ、ひと時を』

 呻き声。

 ぽんッ。
 ぽんッ。
 ぽんッ。

 重なり合う呻き声。

 ぽんッ。
 ぽんッ。
 ぽんッ。
 ぽんッ。

 居合わせた客たちの誰もが苦しみ、吐き、のたうち回る。

『命を燃やし』
 ぽんッ。
『尽きるなら』
 ぽんッ。

 吐血。
 そして客たちは、次々に突っ伏し痙攣する。

 ぽんッ。
『それより先は』

 呻き声。
 悲鳴。
 そして、連客たちは死んでいく。

『恋せし我のもの』
 鼓、最後の一打ち。

 その音と共に、命を奪われて連客たちの口から灰色の蟲魂が転がり出る。
            *
 あさり、灰色の蟲魂を見つめる。
 …あれって、ひょっとして『操りの蟲魂』かしら…
 彼女は息を呑んだ。
            *
 滝壺は静まった。
 だが伊織は構えを崩さない。
 そして、彼は言った。
「雷雹、二の太刀。『雹柱(ひょうちゅう)』」
 剣を振り下ろすと雹が乱れ降り、滝全体が瞬く間に凍りついた。
 水面に切っ先を突き刺すと水面が割れ、滝の奥にある祠が姿を現す。
 伊織がそこに行こうと一歩踏み出した時、左右の水面の氷が一瞬して溶けて彼を襲った。
「雷雹、四の太刀。『無雹停止(むひょうちょうじ)』
 左右の水が止まる。
「雷雹。三の太刀。『雷雹乱舞』」
 雷と雹の嵐で左右の敵は打ち砕かれ、静寂が戻った。
「ほう。若いの、中々やるな」
 祠の階段に腰掛けた年配の男は、そう言って手を叩きながら伊織を褒めた。
「?」
 男は刀を杖にして立ち上がる。
 そして天まで伸びる左右の氷柱を満足気な様子で見上げた。
「滝も雲も凍らせた奴は、お前が初めてじゃな」
男がそれぞれの氷柱を刀の鞘でポンと叩くと、氷が解けて滝を水が左右に分かれて流れ落ち始めた。
「無雹停止を使う奴も久し振りじゃな。無雹の型はどこまで極めた?」
「『森羅』まで使えますよ。ところで、あなたは誰ですか?」
「先ず、自分から名乗るのが礼儀じゃろう」
「ああ。そうでした。済みません。沼辺伊織です」
「伊織か」
「あなたは?」
「人は儂を、御影斎と呼ぶ」
 ドヤ顔の彼を見て、伊織は心の中で思った。
 …面倒くさいオヤジ…
「伊織よ。奥義を極めに参ったか?」
「はい」
「極めたいか?」
 熱く言葉を発する御影斎をポカンと見てから、伊織は静かに言った。
「まぁ。事情が無ければどっちでも良いんですけどね」
「事情?」
「奥義を極めないと佐奈殿が結婚してくれないので。極めたい理由はそれだけです」
「ほう」
「泰平の世の中ですから。剣の奥義を極めたからって、何かに役立つとも思えないし」
「極めたいとは思わぬのか?」
「結婚のことが無ければ思いませんね。極めちゃうと、これから先も厄介だろうし」
 御影斎、苦笑。
「伊織よ。お前、中々面白い奴じゃなぁ」
「師匠からも変わってるって言われてます」
「気に入ったよ。お前のゆるさが良い」
「?」
「どいつも、こいつも。皆、ギラギラしておってな。奥義に導くには、ちと危ない。奥義絶対等と正義のように振り回しそうでな。欲や野心と正義が結びつくとロクなことが起こらん。人の心の中にある邪に、奥義は利用されるがちじゃ。だがお前は、無欲で無関心」
 伊織、戸惑いの表情。
「奥義の型を授けよう。一度しかやらぬ。しっかりと目に焼き付けて覚えよ」
 御影斎、刀を抜く。
 青斬り。
 刀身が蒼光を放つ。
「雷雹、奥義の太刀。『無雹万象』」
「えっ…」
 そして伊織は、意識を失った。
            *
 …あの奥女中。蟲毒使い…
 あさりは、祖母から聞かされた話を思い出していた。
 蜉蝣の毒を使って人を意のままに操るという蠱術のことを。

『蜉卵(ふらん)の術と言うのさ。純白の網目蜉蝣の卵を食べ物に忍ばせてね。意のままに操りたい人間に食べさせるんだよ。食べた人間は昂揚と陶酔に酔う。相手の毒の回りを見計らって歌を聴かせると体内で孵化が始まり、蜉蝣の幼虫たちが巣食った人間の心を食べるんだよ。歌の幽玄の中で人間の心は蝕まれ、幼虫の体表から滲み出る毒が回って死ぬ。宿主の死後、体内の幼虫は羽化を経て蟲魂となって外に出て来るのさ。それらの蟲魂が蟲毒使いの手に渡るとねぇ、後に残った骸はその者の意のままに操られるようになるのさ』
『恐ろしい術』
『丹波の山中の奥深くに蟲毒を巧みに操る一族が居てね、太古から宮中の争いに力を貸し続けていた。ひっそりと暮らしていたんだがね、百年近く前にその一族の何人かが大名の家督争いに手を貸したんだ。肩入れした方が家督を継いだまでは良かったんだが、蠱毒使いとの関係が露見するのを恐れた大名家の家老たちは、里の者たちを虐殺したのさ。その時手を貸したのが、その一族たちと代々敵対し続けていた月生の里の手練れたち』
『月生の里?』
『月生の滝と呼ばれる聖地を代々守ってる一族が隠れ住む里さ。その里の者たちは、雷雹流と呼ばれている秘儀の太刀を使ってねぇ』
『月が生まれる里なんて、何だか素敵』
『名前を聞く限りはね。でも今は、里が滅び、滝の水も枯れたそうな』
『滅んだって。何があったの?』
『さぁね。丹波山中には良い虫が多いから奥深くへ行くのは良いけど、月生の里にだけは近づくんじゃないよ。呪われた不浄の禁断の地になっているそうだからね』

 初めて見る術式だが、それは祖母から聞かされた手順そのものだった。
 …あの奥女中は、昔滅ぼされた蠱術使いの一族所縁の者かもしれない…
 あさりはそう思いながら彼女の様子を見守った。
            *
「おう。やっと目覚めたようじゃのう」
 伊織が目覚めると、自分を見下ろす御影斎の顔が目の前にあった。
「中々見込みがある。実は数人の挑戦者に奥義の型を見せてはみたが、お主以外は全員死んでしもうた。生き残っただけでも有望じゃ」
「では、奥義を会得できたのですか?」
 伊織は上体を起こしながら尋ねた。
「ほれ。これをやる」
 御影斎は、伊織に刀を差し出した。
「青斬り。俺に?」
「ああ。型を教え、お前は生き残った。青斬りの所有は儂からお主に移ったということよ」
「じゃあ、奥義は…」
 伊織、ちょっと涙ぐむ。
「喜ぶのはまだ早い」
「えっ?」
「刀をぬいてみろ」
「?」
「良いから。抜いてみろ」
 伊織は御影斎の言う通りにするが、刀を鞘から抜くことは出来なかった。
「やはりな」
「どういうことですか?」
「奥義は、まだ極められておらぬということじゃ」
「極められてないのかぁ…」
「奥義を極めたかどうかは儂でもお主でもなく青斬りが決める。奥義の型を見せて死ななかったということは、お主が青斬りに気に入られたということよ。良かったな」
「え、ええーッ」
「精進致せば、そのうち奥義を極められよう」
 伊織、絶句。
「この地で精進するも良し。この地を出て精進も可能じゃ。だがお主も知っての通り、奥義を極められぬ者がこの地を出るとなれば、それ相応の代償を払う事となる。どちらを選ぶもお主次第よ。如何致す?」
 伊織、小首を傾げた後に答える。
「佐奈殿に会いたいから、里に戻ります」
「そうか。ならば、そうするが良い」
「お世話になりました」
「息災で過ごせ」
 背を向けた伊織を、御影斎が呼び止めた。
「伊織よ」
「はい」
「奥義とは失っても得るべき物なのか?」
 振り向いた伊織は言った。
「はい。佐奈殿と私の未来に必要なものですから」
 伊織、満面の笑み。
「そうか。では、行くが良い」
「はい」
 次第に遠ざかる伊織の背を見送りながら、御影斎は呟くように言った。
「修羅が始まるのう」
            *
 奥女中は畳の上の蟲魂を拾いあげては口に入れる。そして最後の一つとなった岳父の蟲魂を呑み込み終えるとぶるっと身体を震わせ、吐息を漏らした。
 そして、新郎の傍らに立った。
            *
 村には誰も居なかった。
 静まり、人の気配が全く無い。
 里の入口に差し掛かった時、流れ行く風の中に死臭を感じた。
「うん?」
 村に踏み入ってなお、微かな死臭が絶える事はなかった。
 戸口が開いている。
 伊織の中で不審と不安が膨らみ、止めようも無くなって彼はその戸口から家の中へ駆け入るなり息を飲んだ。
 腐乱で崩れた死体が転がっている。
「えっ」
 彼は外に飛び出すなら吐瀉した。
 …一体、何が起きた…
 目につく家々に入って様子を見たが全て同じだった。
「佐奈殿ッ」
            *
「旦那様。生まれ変わるのですよ」
 奥女中は新郎を愛しむ。
「全ては、春之助のためにございまから…」
            *
「師匠」
 館に入って最初に見たのは、藤玄斎の骸だった。
 伊織はスッと立ち上がり、館の奥へと向かう。
 家人たちの死体が点々と横たわる。
 そして、佐奈の部屋へ。
「佐奈…」
 そう言ったまま、彼は言葉を失った。
「佐奈。どうして。どうしてこんなことに…」
 伊織は佐奈の骸を抱きかかえると、部屋を出て行った。
 里の全ての建物を伊織は燃やした。
 そして、師匠の館の庭に植わっているあすなろの木の根元で、変わり果てた佐奈の亡骸を抱きながら燃え落ちる館を見つめた。
 幾日が過ぎただろうか。
 腐乱した佐奈の骸を抱く伊織の目から精気は失せていた。
 強い日差しが伊織の足元に掛かろうかという時刻。
 伊織の前に女が立った。
「お可哀そうなお武家様」
 女の同情の声にも、伊織は反応しない。
「生きていたくないのですね」
 伊織は少し顔を上げ、女の顔を刹那目にして項垂れた。
「さぁ。これを召し上がれ」
 女は懐中から孵化しかけた純白の網目蜉蝣の幼虫取り出した。
「楽になる薬ですよ」
「…」
「辛く、絶望の記憶をかき消せるのです」
「記憶?」
「そう。そして思い出も。楽になれますから」
 薄く開いた伊織の口へ、女は純白の網目蜉蝣の幼虫を入れた。
 伊織、呻き声。
「殺すなど勿体ない」
 伊織、悶絶。
「生きて、最強の傀儡となっておくれ。沼辺伊織殿」
 伊織は気を失った。
 そして間もなく、彼の口から若葉と桃の二色の綾なす蟲魂が吐き出された。
 女はその蟲魂を手に受け、満足気に見る。
「さぁ、私と参りましょう」
 女は伊織の手を握る。
 三人の姿か消えた。
            *
 奥女中は懐から若葉と桃の二色が綾なす蟲魂を取り出すと、ウットリとした眼差しで蟲魂を見続けた後にその一部分を齧った。
「なんと甘露で爽やかなる味でしょう」
 そして伊織の顔を指先で撫で、彼の耳たぶを甘噛みしなから囁いた。
「二人は夫婦となるのです」
「…」
 奥女中は薄く開いた伊織の口にその蟲魂を入れた。
「心の奥底に秘めた思いを遂げられよ、伊織殿」
 目を閉じたまま、伊織は少し咽た。
            *
「あっ。ダメっ」
 あさりは、うっかり声を上げてしまい慌てて口を塞ぐ。
            *
「誰じゃッ」
 奥女中は広間の片隅に張られた結界の中に潜んでいるあさりを睨んだ。
そして、一握りの網目蜉蝣の幼虫を結界へ向けて投げつける。
結界が破られ、あさりが姿を現した。
「ふん。蟲魂売りの女か」
「悪かったわね。蜉蝣オバサン」
            *
「どこだ。ここは…」
 伊織が目を開けた時、彼は館の大広間に居た。
 雰囲気からそこが婚礼の席だということは直ぐに解った。
「新郎は俺なのか?」
 伊織、戸惑い。
 隣りを見ると、白無垢姿の花嫁が俯き気に座っている。
「誰だ?」
 花嫁の横顔に見覚えがあるようだったが、伊織は思い出すことができない。
 花嫁だけではなかった。
 彼女の父親を初めとして、婚礼に出席している人間全てに会ったことがあるような気がしていたが、誰一人思い出すことが出来なかった。
 …頭が割れるように痛い…
 彼は激痛を必死に耐えた。
            *
「ちょっと。あたしの伊織っちに変なことしないでくれる」
「お前のだと?」
「そうよ」
「この傀儡がおまえのものだと言いたいのか?」
「そう。だから何?」
「この不甲斐ない死に損ないを助けてやったのは、わらわぞ」
「だからなによ」
「わらわが命の恩人。抜け殻同様のこやつをどう使おうが、わらわの勝手じゃ」
            *
「伊織様…」
 そう言い彼女と目が合った時、伊織は雷に打たれたような衝撃を感じた。
「さ、さな…」
「伊織様。佐奈でございます」
「佐奈」
            *
「勝手はあんたじゃない。命の恩人だから何よ。命を救った人間の言うこと聞かなきゃならないですって。そんなこと言ったら、皆が医者の言うこと聞かなきゃならなくなるじゃない。そんなバカな道理を言ってんのはオバサン、あんただけよ」
「わらわをバカと申したか?」
「そうよ。訳の分からないこといっちゃって。じゃあ聞くけど、世の中の医者は、将軍よりも偉って言いたいわけ?」
「医者が将軍より偉い。何でそうなるのじゃ?」
「あんたの言い分が成り立つならそうなるのよ。そんなことも分からないの?」
「???」
「あーーーーーっ。面倒くさい。あたしはねぇ、医者が大っ嫌いなのッ」
            *
「佐奈。本当に佐奈なのか?」
「はい。伊織様」
「佐奈」
「伊織様」
「会いたかったぞ」
「あたくしも…」
 二人、熱く抱合う。
「佐奈…」
            *
「ええええぃ。訳が分からぬ。その方の言い分、支離滅裂じゃ」
 奥女中、新郎の頬を撫でる。
「あっ。触るなッ」
「ふふふ。悔しいか。この木偶はわらわの物。好きなだけ触るぞよ」
「だから言ってるでしょッ。伊織っちは『物』じゃないって」
 あさり、蟲針を飛ばす。
 だが、それらは飛び交う蜉蝣たちによって防がれた。
「その様な子供騙しの術など効かぬわ」
 一群の蜉蝣があさりを襲う。
 彼女は、蟲針で応戦しつつ部屋の中を移動し続ける。
            *
「佐奈。この宴は、もしかして我らの祝言か?」
「はい」
 伊織、訝し気に顔をしかめる。
「如何なされました?」
「いいや。でも何か…」
「伊織様は、佐奈との祝言が嬉しくはないのですか?」
 伊織の顔をジッと見つめる、佐奈。
「まさか。そんなことは無いです。天にも昇る心地よさ、最高の感激です」
「嬉しゅうございます…」
 佐奈、伊織の胸に顔を埋める。
            *
「逃げてばかりでは、わらわを倒すことなど叶わぬぞ」
 奥女中、高笑い。
 あさり、蟲針。
「だから効かぬと申しておる」
 蟲針が畳の上に落ちた。
 それを見たあさりはニヤリと笑い、呟いた。
「結界。『蟲針の檻』」
 奥女中の回りに五芒星の結界が張られ、彼女の動きが封じられる。
 続けて、あさりは言った。
「蠱術。『寄生しぐれ』」
 あさりが何かを撒く仕草をすると、部屋に溢れ始めた蜉蝣が一斉に死んだ。
            *
 …奥義を極める…
 ふと、その言葉が伊織の脳裏を過った。

『本当に祝言を挙げないまま、月生の滝へ行っても良いの?』

 …月生の滝…

『祝言を挙げ、落ち着いてから奥義を極めに行っても良いと思うのですが』

 …奥義を極める…

『死ぬかもしれないんですよ。無事に戻れないかもしれないんですよ』

 …俺は今、ここに居る…

『伊織様は無事にお戻りになられます』

 …奥義を極める…

『佐奈は信じております』

 …奥義とは何だ…

「伊織様は、奥義を極められたのですよ」
 声にハッとして伊織は、目の前の佐奈の幸せそうな顔を見た。
             *
「ほう。天敵を寄生させて蜉蝣を一挙に始末するか。面白い」
 あさり、奥女中の動きを伺う。
「こんなもので、わらわの動きを封じたつもりか」
 結界はあっさり破られた。
「伊織っちをどうする積り?」
「願いを叶えてやっておる」
「願い?」
「恋い焦がれているこの娘との婚礼」
「?」
「婚礼を経て、二人は結ばれて子を生す。そして春之助が生まれ替わる」
「伊織っちを利用して、何を企んでいるの?」
「お主には関係のないこと」
「あるわよ。その女に伊織っちを取られるなんて承知できない」
「おやおや。恋の横車とは。フッフッフ。この女は、伊織の許嫁ぞ」
「許嫁?」
「命を救えなかった許嫁」
「…」
「初めてこの男に出会った時、己の業が故に許嫁の命が奪われ、剣の奥義を極められもせず、許嫁を救う事もできず。悲嘆と絶望で人としての体をなしておらなかった。誠に哀れであった。故に、我が救ってやった。あの日より、この男はわらわの傀儡」
「月生の里の虐殺」
 奥女中の表情が曇り。
「蜉蝣オバサンね」
「…」
「あんたが里の人たちを殺し、伊織っちの許嫁の命を奪ったのね」
            *
 違和感。
 …何かが違う…
「伊織様」
 …奥義を極めたのか…
「夫婦の盃を…」

『刀は抜けたのか?』

 …えっ。この声って御影斎様…
「さあ。伊織さま」
「…」
「佐奈と夫婦盃を交わしてくださいませ」
            *
 あさりが寄生しぐれで蜉蝣を殺すが、死骸が脱皮して再び彼女に襲い掛かる。
「ホッホッホ。いつまでその手が通用するかのう」
 蜉蝣は、一掃するごとに数を増しながら湧き出てくるようだった。
「ここまで抗するとは天晴な女子。気に入ったぞ」
「勝手なこと言ってんじゃないわよッ」
「今宵は目出度き祝言の夜。その方もわらわの傀儡に加えようぞ」
 足元に積もった蜉蝣たちの身体が突然溶け、あさりの足に絡みつく。
 一際ひどい異臭で、あさりの顔が歪む。
 同時に、あさりは動きを封じられた。
            *
 強烈な異臭が、伊織の鼻を突いた。
 …佐奈…
 腐臭を放って崩れ落ちた佐奈の骸が、彼の目に映った。
 彼は、目の前にいる佐奈を突き飛ばした。
「い、伊織さま」
「違う」
「あたくしでございますよ」
「違う。お前は佐奈ではない」
「何を申されます」
 伊織は、自分をジッと見つめている藤玄斎を初めとする面々の顔を見た。
「あなた方も違う」
「伊織様。私は佐奈でございますよ」
「違う。お前も、ここに居る全員は違う」
            *
 あさりの身体は、蜉蝣たちによって埋め尽くされようとしていた。
「伊織っちッ」
 彼女は声に限りをつくして彼の名を呼び続ける。
「目覚めて。伊織っち」
 口の中へ入り込もうとする蜉蝣で、彼女は咽た。
「ゲホッ。ゲッ。伊織っち。目覚めてッ」
            *
伊織の目の前に、腐敗で崩れ落ちた佐奈や藤玄斎たちの顔が迫る。
「佐奈も、師匠も。皆…」
 その時、伊織に傍らに青斬りが音を立てて倒れた。

 …青斬り…

『そうよ。あたしは青斬り』
『刀が喋った』
 伊織、妙に冷静。
『そうそう。それそれ。あんたの、その妙なゆるさ加減が気に入ってるのよね』
 伊織、苦笑。
『ありがとうごいます』
『さて、質問です』
『はい』
『あなたの目の前の顔が腐って崩れている女の人は佐奈さんですか?』
 伊織、首を振りながら答える。
『違います』
『どうして?』
『佐奈は…』
『うん』
『…』
『思っていることを言って』
『佐奈は、もう死んだから』
 佐奈たち、絶叫。
『伊織くーん。よく言えました。さぁ、私を手に取って』
 伊織は手にした青斬りをジッと見つめる。
『奥義の極め。取りあえず仮免許可ね』
『仮免?』
『まぁ、あたしを抜いてみて』
            *
 奥女中は白無垢を自ら羽織る。
 そこへ蜉蝣たちが集まり、大蜉蝣の姿へと変わった。
 大蜉蝣は、淡い草色の薄網模様の羽根で伊織の身体を包む。
 そして細長い触手を彼の耳の穴へ刺しこんだ。
 あさりの全身は、純白の網目蜉蝣で包まれている。
 彼女は死を覚悟した。
 だが最後の力をふり絞って、叫けんだ。
「伊織っち。大、大、大、だい好きーーーーーーーーーッ」
            *
「伊織っち。大、大、大、だい好きーーーーーーーーーッ」
 あさりの絶叫が、伊織の耳に届く。
 …あさりさん。助けなきゃ…
 伊織、青斬りを抜く。
 蒼光を放つ。
 それを構えると、伊織は言った。
「雷雹、奥義の太刀。『無雹万象』」
            *
 大広間が蒼い閃光に包まれる。
 大蜉蝣、断末魔の絶叫。
            *
 闇の中で光り、漂いながら向き合う伊織と佐奈。

「ごめんな。結局俺は、佐奈や皆を守れなかった」
 佐奈は首を左右に振った。
「束の間でしたけど伊織様と夫婦の夢が叶いました。思い残さず逝けます」
「佐奈…」
「嬉しい。あたくしのことをずっと、佐奈と呼び続けてくれましたね」
「…」
「でも、あさり殿が羨ましい」
「あさり?」
「あの方のように気持ちを素直に言えたなら、伊織様とまだ…」
 伊織は佐奈を抱締めた。
「俺も、一緒に逝く」
「伊織さま…」
 彼に身を任せていた佐奈だったが、やがて抗い伊織から身体を離すと彼の手をとって掌を開き、その上に若草と桃の色が綾なす蟲魂を置いた。
「あの奥女中より奪った蟲魂でございます。『忘れ魂』と言う物だそうです」
「忘れ魂?」
「飲めば、あたくしとの思い出が全て消えるのだそうです。あの大蜉蝣は、あたくしたちが夫婦盃を交わした後、これを伊織様に飲ませて意のまま操ろうと企んでおりました」
「…」
「伊織様。あなた様は、後の世を生きねばなりませぬ。佐奈とのことは、何もかも全て忘れて下さいませ」
 見つめ合う二人。
 伊織はフッと優しく笑い、忘れ魂を握り潰した。
「伊織様」
「佐奈とのことを全て忘れるか」
「…」
「そんな必要があるのかい?」
 何かを言おうとする佐奈の口を塞ぎ、続けて言った。
「佐奈。この後の人生をどう生きるかなんて俺に決めさせてくれよ。俺は佐奈を忘れない。残りの人生の中で俺に好い人ができるかもしれないけど、それでも俺は佐奈を忘れない。だってさ。俺は佐奈のことを愛してるから」
「…」
「そうしたいんだ」
 佐奈は、伊織の胸の中で消えた。
 暗黒の宙を見つめる伊織の前に、青斬りが現れた。
「何だよ。青斬り」
「伊織くんって、やっぱり面白い」
 伊織、苦笑。
「なぁ、青斬り。一つ訊いて良いかい?」
「なぁーに?」
「奥義って佐奈を失っても得るべき物なのか?」
 煙管で煙草を吸う女が姿を現し、伊織に答えた。
「奥義なら。もう極めちゃったじゃない」
「仮免だろ」
「合格で良いわよ」
「俺の質問に答えろよ。青斬り」
 青斬り、ニンマリ笑って答えた。
「もう手にしちゃったんだから、活かすことだけ考えなさい」
            *
「あさり。あさりッ」
 伊織は、彼女の名前を呼び掛けながら抱きかかえている身体を揺らす。
 彼の隣で、青斬りがあさりの顔をジッと見つめている。
「あさり。しっかりしろ」
 あさり、薄目を開ける。
「い、伊織っち?」
「気がついたか?」
「伊織っちーーーーッ」
 あさりは、伊織の首に抱き着くと泣きじゃくった。
「怖かったの。死ぬかと思ったの。伊織っちと、もう会えなくなっちゃうと思ったの」
「もう、大丈夫ですよ。大蜉蝣やっつけましたよ」
「ほんとう?」
「ええ」
 見つめ合う二人。
 だが突然、あさりは眉間に皺を寄せて視線の先を伊織の隣へ向けた。
「どなた?」
「ああ。青斬り」
「それって、伊織っちの刀の名前じゃ無かったっけ?」
「そうですよ」
「あの女性の名前もアオキリさん?」
「はい。彼女、刀の化身なんです」
 青斬り、穴が空くほどあさりの顔を見つめている。
 あさり、彼女の熱い視線にちょっと戸惑。
「青斬りさん?」
 青斬り、頷く。
「あたし、あさりです」
 青斬り、再び頷いて生唾を呑み込んでから言う。
「超かわいーーーーーッ」
「ええっ?」
「あさりちゃん。あたしと付き合って。お願いッ」
「え。えええーーーーーーーッ」


(中編『襲嫡男』へ続く)
(次回アップ予定:2021.8.21)


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