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モイラの落涙 -失楽(1)-

巻頭

 

淡々と、紡ぎ出されるような昔語りの不気味

失楽(1)

鴎よ。お前は、いつも海風に向かって飛翔する

プロローグ

 それは、ありふれた窃盗未遂事件から始まった。

 都心に近い閑静な高級住宅街。

 老夫婦が昼下がりの買物を終えて帰宅した時、庭先で植木の割れる音がする。

 様子を見に行った妻と侵入者が鉢合わせする。

 侵入者は彼女を突き飛ばして逃げる積りだったが、そこへ夫が駆け付けたことから侵入者は妻を人質にして逃走を図ったことから騒ぎが大きくなる。

 警察による非常線が張られ、侵入者の捜査が始まった。

 妻は一時間後に無事発見されたが、侵入者を発見することが出来ないまま日数だけが過ぎていく。

 捜査の状況は連日のワイドショーの格好にネタとなり、警察を揶揄する格好のネタとしてテレビを賑わせた。

 消息を絶って9日後、所轄の警察署に高級住宅街に隣接する自然公園でホームレスが暴れているとの通報が入った。

 署員が駆け付けると、通報のホームレス公園のベンチに項垂れて座っていた。

 凶器は所持しておらず通報の内容とは一転して至って静かな様子を見て、署員は職務質問をする。

 見上げた顔に常人の面差しは無かった。

 虚ろな眼差し。

 歪んだ口元からダラダラと流れ落ちる唾液。

 ブツブツと呟き続ける意味不明の言葉。

 時折、意味もなく笑い出す。

 薬中患者かとも思い身構えた署員だったが杞憂で終わり、廃人同然と化しているホームレスに抵抗の意志は完全に消失しているように思われた。

 身柄を拘束した署員は、そのホームレスの顔が手配中の逃走犯に酷似していることに気づき所轄へ連絡した。

 どこで聞きつけたのか、所轄署の前にマスコミが殺到している。混乱を避けて拘束されたホームレスは署の裏口から中へ入った。

 『空白の九日間』

 マスコミは事件をそうネーミングして格好のネタとした。

 犯人から薬物反応は見つからなかったが精神に異常をきたしていたこともあって、空白の9日間の真相は謎のまま終わるかに思われた。

 だが事態は意外な方向へと展開を見せる。

 その十年前に発生してから未解決のまま現在に至っている通り魔殺人事件と今回捕まったホームレスとの関り浮上したからだった。

 『白昼の通り魔殺人事件』

 勝手にそう名付けられた通り魔事件は、犯人が逃走した高級住宅の近所で発生した。

 セレブ一家三人が、白昼路上で通り魔によって惨殺された事件。

 警察による必死の捜索にも関わらず、通り魔犯は見つからなかった。

 発生から十年が経ち、事件が風化し始めた矢先に、その事件の首謀者目されていた男と今回捕まったホームレスが同一人物だという可能性が強まり、縮小の一途を辿りながらも維持され続けてきた捜査本部が色めき立った。

 極秘扱いと指定されていたにも関わらずその情報がマスコミへ漏れ、沈み始めていた報道攻勢が一気に再急騰する。

 世間の騒擾とは裏腹に、その後について警察は沈黙を守り続けた。極秘を徹底する警察の動向に対して世間の関心は否が応でも高まり続けるが、警察は頑ななまでにその要求に答えることは無かった。

 やがて犯人の身柄は検察へと送られるが精神耗弱により不起訴処分となり、その身柄は政府系の精神医療センターへ移された。

 そして、十年が過ぎた。

「すごいお屋敷ですねぇ」

 後輩の内村が溜息混じりに言った。

「都心に森に囲まれたの中にこんな馬鹿でかい洋館があるなんて知らなかったですよ」

「ほら。感心してないで運転に集中しろ」

 助手席に座った酒井は内村を嗜めると煙草を吸った。

 内村がそう言うのも無理はなかった。

 この洋館と敷地の所有者は世界的な医薬品メジャーの一角を担っているレミノフ社が所有している。表向きには同社の日本法人の管理不動産だが、実際にはスイスにある本社の許可なしでは敷地内に立ち入ることすら叶わない日本であって外国のような場所だった。

「今どき車寄せの玄関に車を止めるなんて。初めての体験ですよ」

 内村は軽口を叩きながら車を止めた。

 玄関の大扉が開き、中から執事のクイントが現れた。

 酒井は窓を開けてクイントに話し掛けた。

「クイントさん。ご無沙汰でしたがお元気でしたか?」

「はい。お陰様で。酒井警部もお元気そうで。奥様がお待ちかねです」

 内村は窓を閉めた。

「あの人。日本語を話せるんですね。北方系の方ですか?」

「さぁな。多分そうだろう。どこの生まれだったかな。聞いたが覚えておらんよ」

「誰です?」

「クイント。この館の執事だよ」

「執事。それってBL系とかによく出て来るキャラだと思ってましたけど、実際にその職業の人っているんですね」

「つまらないことに感心していないで、早く降りる支度をしろ」

 酒井がそう言っていると運転席側の外に別の若い男が立ち、窓ガラスを叩いた。

 内村が窓を下げると、その若い男はにっこり笑って詫びた。

「急かすようで申し訳ありません。お降りになられましたらキーを頂けますか?」

「えっ?」

「駐車場へは私が移動させますから」

「あっ。ああ。そうですか」

 二人は車を降りる。

 内村が車のキーを若いに男に渡すと車は二人の前から発進した。

「酒井さん。あれ、ちょっとマズくないですか。警察の車ですよ」

 酒井は笑って答えた。

「ここではあれが普通だ。上の許可も取ってあるから心配するな」

 クイントが二人を館内へ案内した。

残糸

「この応接間。映画のセットか美術館みたいですね」

 内村は豪華な調度と装飾に包まれた広い応接間をキョロキョロ見回しながら言った。

「時間が止まったような感じですよ」

 続けて言った内村の一言に、酒井は苦笑した。

「時間が止まったか。確かに言い得てるな。十年前に初めて来たときから、この部屋にある殆ど全てが何も変わっていないからな」

「殆ど何も?」

「あぁ」

 応接間の片隅にある写真を飾ってあるテーブルへ酒井は目を向けた。

 …あそこで見た若夫婦と子供が映った家族写真を除けばな…

 応接間のドアをノックする音。

 扉が開くとクイントが押す車椅子に乗った老嬢が部屋に入って来た。

 酒井が立ち上がり、それに続いて内村が立って二人は挨拶した。

「お座りになって」

「恐縮です。奥様」

 二人はソファーに座った。

「大した貫禄だぁ…」

 老嬢のひざ掛けを整えながら甲斐甲斐しく世話を焼くクイントのしゃがんだ背中を見ながら軽口を叩いた内村を、酒井は睨んで窘めた。

 クイントが老嬢の支度を整えると、彼女は微笑みながら酒井へ言った。

「酒井警部。お目にかかるのに少し間が空きましたね。お元気でした?」

「はい。御陰様で息災に過ごさせて頂いております。奥様もお変わりなく」

 老嬢は屈託なく笑いながら答えた。

「末期がんの余命宣告されている年寄をからかってはいけませんよ。私なら日に日に衰え、あの世へ旅立つ日を待つばかりの毎日ですから」

 酒井は返答に窮した。

「ところでお隣の若い方はどなたかしら?」

「新任の内村刑事です。香取が異動になりまして、彼の後任です」

「あら。香取刑事さん、異動なされたの?」

「はい。三ヶ月前に本庁へ。急に決まったので、奥様に挨拶できず今に至りました。申し訳ありませんでした」

「こんな年寄りに挨拶なんて。お気遣いなく。香取刑事さん、通り魔事件の捜査本部に長く所属されていたわねぇ?」

「十年ですか。彼の着任は、例の空白の九日間事件の直前でしたから」

「あぁ。そうでしたわね。あの時、酒井警部と香取刑事さんが、この館に初めていらしたのでしたわねぇ」

 十年前。

 逃走犯人が見つからないまま三日が経過した。

 厳しい非常線による警戒にも関わらず、当局は犯人の足取りはおろか手掛かりするつかめずにいた。

 現場周辺には、閑静な高級住宅街と自然保護区に指定されている山林公園とそれに隣接する広大な邸宅がある。犯人が逃げ込む余地は限られており、捕捉は容易と考えられていたが予想外に難航する。山林公園での徹底した山狩りと周辺住宅地への聞き込みを人海戦術で行うも全て空振りに終わった。残るは山林公園に隣接する広大な邸宅だけだったが、この敷地は国際的な医薬メジャーのレミノフが所有しており、スイス本社からの捜査協力に対する回答が遅れていた。そして、漸く許可が下り、酒井と香取が事前の挨拶と操作説明に向かった。

「凄いですね、この邸宅。車寄せ付の玄関なんて初めてですよ」

 車を運転する香取の表情は呆れ気味だ。

「まったくだ。人が住むには広すぎる住居だよ」

 酒井は皮肉混じりで笑った。

「人が住んでいるんですか?」

「悦子・ノルダ。77歳。クイント・エストという初老の執事と二人暮らしだそうだ」

「この館にたった二人ですか?」

「邸内の管理や庭師などが通いで来てるらしいが、平素は二人きりらしい」

「悦子・ノルダって何者ですか?」

らしい」

「アリミア共和国って黒海沿岸の国でする。体制崩壊で独立した小国ですけど、風光明媚で近頃は観光業に力を入れてて景気良いみたいですよ」

「お前、随分と詳しいんだなぁ?」

「黒海沿岸が好きで、アリミアも大学の頃に行った事があります」

「どんな所なんだ?」

「えぇ。自然が豊かで、料理も美味いし。最近は、欧米の資本もかなり投下されて高級リゾートとして開発されているみたいですね。体制崩壊前とは一変してますね」

「体制崩壊前?」

「地勢的に交通の要衝で薬の原料を多く産出する土地柄で、製薬業が盛んだったんです。その関係で体制側の製薬企業が多く集まっていました」

「それでか。レミノフ社もスイスに本拠を置く以前は体制側に主力拠点があったみたいだからな」

「あぁ。そう言えばレミノフの研究機関が集結してましたねぇ」

「館の女主人の亡くなった旦那。クレイ・ノルダと言って、レミノフ社の創業メンバーの一人で研究機関のトップだ。夫の死後、レミノフの株を相続して主要株主の一人らしく、この館を我が家同然に使えているらしい」

「へぇ。随分と大物なんですね」

「レミノフが国際メジャーにのし上がる切っ掛けとなった海野製薬との合併。その時にも一役買ったらしい」

「わぁお」

「上の連中はおろか、この国の雲の上の連中にも顔が効くらしくてな。お偉方の連中、かなりピリピリしているみたいだ」

「それで捜査許可が下りるのに時間が掛かったんですか?」

「らしいな…」

 香取が運転する車は玄関前に到着した。

「香取刑事さん。ご栄転されたのかしら?」

「さぁ。どうでしょう。公安一課ですから栄転の部類に入りますか」

「まぁ。何だか怖そうな部署に行かれたのね」

「所轄のデカとは毛色の違いそうなイメージがありますか。あいつに勤まりますか」

「最後にお目に掛っときは貫禄ありましてよ。香取さんなら大丈夫ですよ」

「そう願います」

 二人、和やかな笑い。

「酒井警部さんと香取刑事さん。御苦労さまです。私、悦子・ノルダと申します。私の右に控えているのはクイント・エトス。この家の執事で全てを取り仕切っています」

「クイントです。宜しくお願い致します」

 クイント・エトス。

 背が高く190センチは優に超え、鍛え抜かれた体躯であることは一目瞭然だった。肌が白く、ブルーアイに金髪。北欧でよく見かける彫りの深い端正な顔立ち。若く見えるが自分より少し年上、五十歳前後だろうかと酒井は直感した。柔和な表情を崩すことが無いが隙を見せることがない。有能な執事というよりは、極めて優秀な兵士のようにも思えた。

「日本語が堪能でいらっしゃいますね」

 香取が尋ねた。

「日本に住んで二十年以上になります。母国語のように話せるようになりました」

「お生まれはどちらですか?」

「ウクライナです。18歳まで住んでいました。その後はモスクワ。奥様と来日した時は37歳でした」

 酒井から渡された捜査の協力要請を記した書面を読み終えると、悦子は言った。

「解りました。捜査には全面的に協力させて頂きます」

「ありがとうございます。明日、お屋敷の内外を捜索させて頂きたいのですが、宜しいでしょうか?」

「あら。明日で良いのかしら。犯人捜しは一刻を争うのではありませんか?」

「実は、奥様に御即断頂けるとは考えておりませんでしたので、準備の方がまだ整いきっておりません。後手続きで申し訳ありません」

「構いませんわよ。捜査の対応窓口はクイントにさせます。何でも申しつけ下さい」

 クイントが頭を下げた。

「ご協力感謝いたします。ところで奥様、このお部屋は素晴らしいですね。内装といい、調度といい。いやぁー、敵いませんなぁ」

「警部さんはアンティーク等にご興味がおありかしら?」

「いやいや。その方面はからっきしダメでして。しかしながら、このお部屋の物は全て価値のあるものなんだろうと感じましてねぇ。少し拝見させて頂いても宜しいですか?」

「どうぞ。お好きなだけ」

 酒井は立ち上がり、応接間を逍遥し始めた。

「刑事さん、お若いわね。警察にお入りになられたばかり?」

 突然自分に話題が振られ、香取は戸惑い気味に答えた。

「大学を出て警察に入り、三年になります」

「そう」

 場つなぎの会話に窮していると、酒井が悦子に話し掛けた。

「奥様。このお城は?」

 酒井は岬の先端に建つ城の写真を指さしながら尋ねた。

「あぁ。それは海鴎城ですわ」

「カイオウ城?」

「アリミアに古くからあるお城ですの。国の名門貴族のノルダ家が所有した城ですわ」

「ノルダ家?」

「亡くなった主人はノルダ家の末裔ですの。体制崩壊以前に私と主人はその城で暮らしておりました」

「そうでしたか。しかし、旧体制でよく所有できましたね?」

「表向きは国家の財産でした。でも夫は旧体制でも主要幹部の一員でしたし、アリミアの製薬産業分野における重鎮でしたから、国家への貢献大と見なされていました」

 クイントが紅茶を給仕した。

「さぁ。お茶でも如何かしら?」

 悦子に即されて踵を返そうとした時、一枚の写真が酒井の目に留まった。

 …ここに映っている若い親子。見覚えが…

 酒井は写真を手に取り、改めてそれを見て絶句しながら心の内で呻くように言った。

 …これは。白昼の通り魔殺人事件で犠牲になった親子…

 ふと彼女を横目で見ると、悦子も写真を手にしている酒井を見つめていた。

「奥様。お尋ねしても良いでしょうか?」

「はい。何でしょう?」

「こちらの写真のご家族は、奥様の息子さんご夫婦とお孫さんでいらっしゃいますか?」

「あら。どの写真?」

 悦子はソファーから立ち上がり、酒井の傍らに立って写真を見た。

「どうしてこの写真がここに混じっているのかしら。クイント、これは仕舞っておくようにと言ったでしょう」

「奥様。申し訳ありません」

 クイントは悦子の傍らに立つと恭しくお辞儀をしながら詫び、彼女から写真を受取ると応接間から出て行った。

「奥様」

「はい?」

「写真のお三方。奥様との関係は?」

 悦子はニッコリ笑うと静かに答えた。

「存じません」

 酒井は眉間に僅かな皺を寄せて彼女の顔を見つめ続けた。

「…」

「時々。この館の噂を聞きつけて、是非見学させて欲しいと仰られる方が居られましてね。あのご家族もそうして、この館にお越しになった見学のご家族だったと思いますわ。お子さんの男の子が、とても可愛らしくて。一緒に写真を撮りたいと私がせがんだのですよ。私、主人との間に子供が居りませんから、幼子を見ると一緒の写真に納まりたくなるの。普段は少しの間、ここに飾って楽しんでからクイントに片付けさせるのですけど。あの人、きっと忘れたのね」

 悦子は澱みなく答えた。

「あれっ。あそこに掛かってある写真の城。アリミア共和国の海鴎城ですか?」

 内村がそう言うと、居合わせた全員の視線がその写真へ向かった。

「あのぉー。あの写真。近くで拝見させて頂いて宜しいですか?」

「おい。内村。奥様の前で失礼だぞ」

「構いませんよ」

 悦子がそう言うと、内村は写真を見るのに立ち上がった。

「いやぁー。申し訳ありません。近頃の若い奴ときたら何を考えているのやら」

「宜しいじゃありません」

 穏やかな笑みを湛えながら悦子は酒井へそう言い、紅茶一口飲んだ。

「確かに海鴎城ですね。いやーァ、感動だな」

「何が感動なんだ?」

 酒井はバス悪そうな顔つきで内村に言った。

「奥様。これは、勿論オリジナルの城の写真ですよねぇ?」

「そうですよ」

「貴重だなぁ。この写真…」

「内村。そろそろこちらに戻らんか」

「貴重な写真?」

「はい。奥様。この写真は貴重ですよ。何しろ燃え落ちる前の海鴎城の姿の写真ですから」

 悦子の感心な下げな表情とは裏腹に、内村は饒舌に語り始めた。

「アリミア共和国の海鴎城と言えば、ヨーロッパの美しい城の五本の指に必ず数えられるほど有名なお城だったんです。ところが残念なことに、三十年前に起きた体制崩壊とそれに伴う内乱で焼失してしまったんです」

「内村刑事さんは、海鴎城に関して随分と詳しくていらっしゃるようね」

「彼は城マニアでして。世界中の城を見て回るのが趣味のようなでして…」

「アリミア共和国へは大学生の時に旅行で行きました。その時、再建された海鴎城を観てきました」

「あら。再建されましたの?」

「はい。現在は、ホテルと三星レストランが入っています。結構人気でしたよ」

「ホテルには泊まられましたの?」

「一泊だけできました」

「如何でした?」

「素晴らしかったですよ。ラッキーなことに歴代の当主が書斎として使った部屋に泊まることができたんです」

「黒海へと向かう入江に通じる石造りのテラスを供えた部屋ね」

「はい。そうです。良くご存知で…」

「夕陽はご覧になれた?」

「はい。見ました。黄金色の波頭の煌めきは忘れられません。振り向いて、白亜の壁に夕陽が柔らかく当たって…」

「頬を赤めたように染まるのよね」

「は、はい。えっ。どうしてそれを?」

 悦子は悪戯っぽく笑いながら答えた。

「だって私、海鴎城に住んでいましたもの。気がつきませんかしら。夫や私の名前で」

「悦子・ノルダ。クレイ・ノルダ。あぁ。アリミアの名門の末裔ですか?」

 彼女は静かに頷いた。

「いやーぁ。感動ですよ。あの城で実際に住んでおられたなんて。しかも焼失前にあった正真正銘の海鴎城にですか。凄い。スゴ過ぎますよ」

「内乱の直前に国を出ましたの。その時、既に主人は亡くなっておりましたから、私だけがスイスへ逃れましたの。ですから、海鴎城の最後は存じません。全て焼け落ちたとは聞いていますが、何もかも燃え尽きたのかしら?」

「酷かったようです。地上だけでなく地下も含めて何もかも燃え落ち、一部では凄まじい爆発が起きて跡形も無くなったみたいですよ」

「入り江に通じる階段も壊れてしまったのかしら?」

「そこの損傷が一番酷くて。爆発ですっかり埋もれ再建は断念したみたいですよ」

「そう。もう、あの入り江に下りる事は出来ないのね」

「別口のルートを新たに作ったので、入江へ降りる事はできますよ。私も下りて見ましたが、湖みたいに静かな場所でした」

「ボートハウスや桟橋は残っているのかしら?」

「それも、現在はありません」

「そう。残念ね。もう何も残っていないね」

「奥様。あまりご無理をなされない方が…」

 気落ちする悦子へ、クイントが気遣いの声を掛けた。

 だが彼女は、やせ細り、骨と血管の浮き出た腕を上げて彼を制しながら言った。

「大丈夫よ。今日は、何だか気分が良いの。だから休めなんて言わないでね」

 クイントは軽く頭を下げ、身体を少し引いて彼女の背後に立った。

「酒井警部。ごめんなさいね。随分と長く、世間話をしてしまいましたわね」

「いいえ。こちらこそ。内村。ここに座れ」

「今日は、何かご用件があっていらしたんでしたよね」

「はい。二つほど」

「何かしら?」

「一つは、私個人のことでして」

 悦子、紅茶を一口飲む。

「私、『白昼の通り魔殺人事件』の捜査本部から外れることになりました。時効までは、まだ間がありますので捜査本部は維持され、私の後任が内村刑事となります」

「あら。そうでしたの。お疲れさまでした。捜査本部を離れられた後はどうなさいますの?」

「定年退職です」

「そうでしたの。お疲れさまでした。警察をお辞めになられたら、もうお目にかかることもないわね。寂しくなるわ」

 酒井、苦笑。

「でも。ホッとなさいましたでしょう?」

「少々肩の荷は下ります。ですが、私が関わった『白昼の通り魔殺人事件』と『空白の九日間』の二つの犯人を、自分の手で逮捕できなかったことは心残りです。幸い、優秀な後任が来てくれましたから、彼に託して勇退しようとは思いますが」

 内村、少し渋い顔つき。

 そんな彼に構うことなく酒井は続けて言った。

「引き続き宜しくお願いします」

「はい。警察の方には協力しますからご安心なさい。それで、もう一つのご用件は?」

「実は奥様に見て頂きたい写真がありまして、今日はそれを持参致しました」

 

(END:「モイラの落涙 -失楽1-」)

(次回作:「モイラの落涙 -失楽2-」)

(次回作アップ予定:2021.12.15予定)

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