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楽趣公園(ルーチー・コンユァン)-HANABI 中編-

それぞれの不機嫌

 

 夜中、雷鳴混じりのにわか雨が降った。

 朝、純太とサミーが公園へ行こうと外に出た時、路面は乾いていたが公園のグランドは所々ぬかるんでいた。

 そのせいで太極拳体操は、普段と逆の配置で行われていた。

 二人はグランドを見渡せるベンチにグランドに背を向けて隣り合わせに座って話していたが、体操をする面々の視線が背中に突き刺さるようで妙に居心地が悪かった。

 二人の前のコンクリのテーブルにキジトラがひょいと飛び乗り、ミャーオとひと鳴きすると腹ばいで横になった。

「おはよう。キビ助」

 純太はキジトラに挨拶をし、サミーはキジトラの背中を撫でた。

「イー、アー、サン」

 参加メンバーに相対して体操する江津子もまた、今朝は何だか落ち着かなかった。

 …目にする景色が変わったかしら…

 自分の立ち位置は、普段と180度変わっているから、その違和感が落ち着かない原因だと思っていたが、やがてそうではないと気がつく。

 …みんな。何をキョロキョロ見ているのかしら…

 メンバーがチラ見する先で何が起きているのかを、それへ背を向けている彼女には伺い知ることができない。メンバーのソワソワが自分に伝搬していること、加えて何が起きているの確認のしようがない状況の二つが彼女のイライラの原因だった。

 そして彼女は、そんなイライラを振り払うように声を上げて言った。

「さぁ。皆さん。体操に集中してッ」

 体操が終わってメンバーが三々五々に家路へ向かう中、江津子は仲睦まじく語り合う純太とサミーたちの後ろ姿を見上げて舌打ちする。そして彼女は、苛々を鬱積させた顔つきで二人が居る高台の広場へ通じる石段を足早に昇って言った。

 背中をサミーに撫でられてご満悦のキジトラの奴、突然ビクッと震わせて二人が背を向ける方へ顔を向けて何かをジッと見つめた。

「キビ助。どうした?」

 純太が言い終えるより先、江津子が二人の前に仁王立ちした。

 えらい剣幕。

 彼女の気迫に押され、二人は口をポカンと開けたまま彼女の顔を見る。

「あんたたち。朝だっていうのに公園でイチャイチャしてるんじゃないよッ」

「…」

 突然の不条理な批判にムッとする純太。

「…」

 発言の意味は解らないが彼女が怒っていることだけは理解し、ただニヤニヤ顔を向けるしか他に手立てが見つからないサミー。

「あんたたち。どっちも男だろッ」

 気押されて思わず頷く二人。

「朝っぱらからブラブラして。イチャイチャして。働いたらどうなんだいッ」

 純太、切れる寸前。

 だが堪えて、静かに返す。

「僕ら働いてますよ。リモートだし」

 頷く、サミー。

 彼女がキレた。

「冗談じゃないよ。ゲイだかオカマだか知らないけど。あんたたち、目障りだよッ」

 純太、頭の中でブチっと何かが切れる音。

「うるせえッ」

 彼女に手を上げようとする純太をサミーが必死で止める。

 騒ぎを聞きつけて太極拳体操のメンバーが集まる。

 その中には、恵美と真央もいた。

 普段の純太からは想像できない彼の怒りに二人はオロオロする。

「シャオジュン(小純)…」

 サミーは、純太を強く抱きしめる。

 純太は怒りと興奮で身体を小刻みに震わせ続けた。

「何だい。男同士で抱き合ってメソメソしてんじゃないよ」

 プラスとマイナスの感情を帯びた視線が、江津子へ集まる。

「だから。だから…」

 涙を流しながら彼女は二の句を継ごうとするが、思うように声が出ない。

 やがて彼女は絞り出すような声色で純太へ言葉を放った。

「だからオカマは…」

「江津子。お止めッ」

 真由美の怒声が彼女にそれ以上言わせることを阻んだ。

 そして真由美は、自分をもの凄い形相で睨んでいる妹へ言った。

「お願いだから。もうそれ以上、言うのは止めておくれ…」

 手の甲で涙を拭うと江津子は、その場から立ち去った。

 

 

家族写真

 

 チャッ、リーーーーーン。

 真由美、不機嫌表情で仏壇の前で正座をするなり八つ当たりのように鐘を叩く。

 手を合わせ、目を閉じ、苛々を解消するかのように般若心経をブツブツ。

「…色即是空、空即是色…、…、…、般若波羅蜜多ッ…」

 手を合わせたまま開けた彼女の目に、文庫本と殆ど同じサイズの額縁の中で呑気に笑う連れ合いの遺影が目に入る。

 手を下ろし、亭主の顔を見て溜息をついて、彼女はポツリと言った。

「まったく、どいつもこいつも…」

「いらっしゃい…」

 店に姿を現したのは愛梨親子と藤木だった。

「おや、お揃いで。どうしたんだい?」

 キジトラは想を見るなり駆け寄り、想はキジトラを抱き上げた。

「今日は、会社を休んだんじゃなかったのかい?」

「はい」

 そう言って藤木を見る愛梨の表情は何だか楽し気でソワソワしていた。

「好い事でもあったのかい?」

「実は僕たち、さっき役所へ婚姻届を出して来ました」

「えっ?」

「あたしたち、結婚しました」

「そっ、そうかい。そりゃあ、おめでとうだね」

 真由美の返事は、どこかぎこちない。

「まぁ。お座りよ」

 藤木と愛梨のラブワールド。

 そんな二人を横目に見ながら真由美は、二人にお茶を入れた。

「随分と急だったね」

「はい。でも、何となくお付き合いはしていて」

「何となく察してはいたけどね。それで、式とかはどうするんだい?」

「少し先にしようかって二人で決めました」

「二人でね」

 真由美、お茶を二人にふるまう。

「ハンデミックもしばらく続きそうですし。籍だけ入れて暮らし始めようって」

 嬉しさを隠すつもりもない愛梨。

「想も彼に懐いてますし。好いタイミングかなって」

 藤木、デレデレにこにこ。

「新居は決まったのかい?」

「あぁ、それはまだ追々。当面の間は、僕のマンションで一緒に暮らします」

「そうかい。お幸せにね」

 頷く二人、お茶を啜るタイミングもバッチリ。

「それで、真由美さん。一つ、お伝えしなきゃならいことが有って」

「何だい?」

「想のことなんですけど」

「想ちゃん。あぁ、うちは大丈夫田だよ。あんたたち二人も何かと忙しいだろうから、これまで通り預かるのは構わないよ」

「あぁ。いいえ。そうじゃ無いんです」

「えっ?」

「保育園。やっと空きが出て。そちらへ預けられることになったんです」

「おや。そうかい…」

 平静さを装う真由美だったが落胆は大きく、そう言いながらキジトラと戯れる想の愛くるしい顔を見つめた。

「良かったじゃないか。ちゃんとした所に預けられるんなら、その方が安心だよ」

 真由美が二人へ笑顔を向けると、藤木と愛梨はホッとした表情を見せた。

「それで、保育園いつからだい?」

「明日からです」

「明日…」

「はい」

「それも随分と急な事だね」

 白々とした空気が場を支配する。

「まぁ。時々、想を連れて遊びに来ますから」

「あ、あぁ。そうだね。近くに住んでるんだし。今生の別れって大袈裟なことでもないしね。実家だと思ってさ、いつでもおいでよ」

「はい。真由美さんには本当にお世話になって」

「嫌だよ。止めておくれ。想ちゃんは、孫みたいなもんなんだから」

 でも真由美、ちょっとホロリ。

「真由美さん。一緒に写真を撮りませんか。家族写真」

「家族写真かい?」

「撮りましょう。撮りましょう…」

 真由美の膝の上に想が座り、彼の膝の上にはキジトラ。

 彼女の背後に藤木と愛梨が並んで立った。

「ハイ。チーズ」

「真由美さん。時々、想を連れて遊びに来ますね」

「何時でもおいで」

三人は店を出ると振り返り、見送る真由美に挨拶した。

「バァーば。またね!」

 手を振る想。

 真由美は三人の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。

「まったく、どいつもこいつも」

 妙にガランと静まり帰った部屋の殺風景が、久々に真由美の心に沁みた。

 そして彼女は、朗の顔を思い浮かべた。

 …あの子も来なくなったら、もっと寂しくなるのかねぇ…

 キジトラが彼女の脇に座り、背中でスリスリした。

「キビ助かい」

 そう言いながら背中を撫でながら彼女は、少し前に愛梨が送って寄越した『家族写真』を見つめながら呟いた。

「家族でも何でも無いのにね」

 フッと顔を上げ、穏やかな笑顔で連れ合いの遺影を見つめた。

 

 

それぞれの普通

 

 あの騒動があってから、純太は広場で太極拳体操の行われるいる時間帯に公園へ出向くことを避けるようになっていた。

 少し情緒不安定気味の純太を心配して、サミーは彼の傍を片時も離れようとしない。

「サミー。俺、大丈夫だから。仕事に戻って」

「仕事。今日の分はもう終えてる。リモートにフレックス。ありがたい制度だよ」

 笑いながらそう言って、純太の心配を取り合わない。

 そんなサミーに少なからずの申し訳なさを感じつつも、純太は彼の存在ありがたさを痛感していた。

 コンクリのテーブルの上にひょいと飛び上がって、キジトラが二人の前に姿を現した。

 最近のキジトラはサミーのことがすっかり気に入ったらしく、二人の前に姿を現すと必ずサミーにすり寄って甘える。

 甘えるキジトラを笑って見ながら、純太は少しばかり奴に嫉妬した。

 そんな純太の気持ちを知ってか、知らずか。

 サミーは笑いながらキジトラを優しく撫で続けた。

 犬が吠えた。

 キジトラが犬の方へ顔を向け、それに応えるようにミャーオとひと鳴き。

 でも両者の間に敵対はない。

 むしろそれは、顔馴染み同士の挨拶といった風情だった。

「ここに座っても良いかしら?」

 何度か見掛けたことのある犬連れのご夫婦。

 話しかけてきたのは、奥さんの方だった。

「あっ。どうぞ」

 純太とサミーの対面に二人は腰掛けた。

 長い年月を共にしてきたご夫婦には違いないのだが、純太は二人に何かの違和感のような物を覚えていた。

「お二人。カップルでしょう?」

 ストレートな物言いだったが、不思議と嫌な感じはしなかった。

「はい。彼はサミー。僕は二宮純太です」

「私は柴田市太郎と言います。彼は、伴侶の奈緒子です」

「?」

「?」

「イチコ。ややこしいよ」

 旦那がそう言うと、彼女は悪戯っぽく笑った。

「二人とも性同一性障害というやつでしてね」

「あぁ…」

「まぁ、結婚した時は市太郎と奈緒子だったんですけど、途中で本来の性で生きたくなってね。市太郎は彼女に、僕は彼になりました。僕は彼女のことをイチコと呼んでますし、彼女は僕のことをナオさんって呼んでます」

 ナオはサミーに通訳する純太に言った。

「彼は台湾人?」

「はい」

「二人とも英語は大丈夫?」

「大丈夫です」

「それじゃあ、英語で話しましょう」

 何とも珍妙な展開だが、四人は屈託なく笑った。

「お二人とも英語、上手ですね?」

「僕ら、普段はアメリカに住んでいるからね」

「あぁ。それで…」

「サミーさんとは結婚されているの?」

「恋人です。僕は日本人だから、彼と結婚するとなるとクリアーしなければならないことが色々とあって」

「国も国籍も、愛に対しては時として厄介だから」

 ナオの発言に三人はそれぞれに笑った。

「お二人は帰国されたんですか?」

「一時帰国ね。グリーンカードも取得しているから、現在は二人とも米国人よ。今回の帰国が、ひょっとして最後になるかもしれないわね」

「最後?」

「イチコのお母さん。義母が亡くなりましてね。その後始末ですよ」

 後始末という言葉に純太はちょっと引っ掛かったが、イチコは気にする風もない。

「ねぇ。この間『オカマっ』て言われていたわね」

 イチコ、何だか楽し気に言う。

「はい」

「侮蔑を込めて『オカマっ』て言う人を久し振りに見たけど、ショックだった?」

 純太、力なく頷く。

 そんな彼の肩をサミーは優しく抱いた。

「私もそう言われて、昔よく罵られたわ」

「僕は『オカマ』じゃなくて『レズ』とか『おなべ』だったけど」

「どっちも煮炊きの道具ね。ゲイって、台所用品なのかしら?」

「なら、家の中で少しは役に立ってるってことだね」

 四人、互いの顔を見て失笑。

「でも、お二人はゲイとかじゃないでしょう」

「まぁ、そうだね」

「見た目がこんなだから好きになる相手は同性と思われているけど、自分自身に従うなら同性愛じゃないわ」

「何ともややこしいけどね」

 ナオは飄々と話す。

「私たちが出会ったのは中学生の時だったけど、その時はどちらも『オカマ』とか『おなべ』とか呼ばれる存在だった。僕は女子が好きだったし、イチコは男性に惹かれ」

「人は外見で判断するでしょう。どちらも内面に従えばごく普通のことなんだけど、外見に基づいた行動様式としては同性愛としか見られない。だから怯えて、違和感に嫌悪し、とても辛かった」

「そんな二人が恋に落ちた?」

 サミーがそう言うと、二人は嬉しそうに笑った。

「恋に落ちた。素敵ね」

「一目惚れっていうのかな。僕らの普通なら惹かれるはずないのに抑えられなかった」

「私は戸惑ったわよ。何で女子を好きになるんだって」

「そうだったの?」

「彼から好きだって告白されて、私は正直に全部打ち明けたのよ。そうしたら、彼も同じだって判って」

「へぇー」

「高校も大学と一緒で。同じ大学の医学部に入ったのよ」

「お医者さんなんですか?」

「研究医だね。二人とも性同一性障害の研究をしてる」

「えっ、それ何年前ですか?」

「四十年近く前。研究者が米国かヨーロッパにしか居なくて。何でそんな研究を二人で熱心にやってんだって変な目で見られたわよ」

「医局でも僕たち、変わり者扱いだったなぁ」

「あたしは違うわよ」

「気づいてないだけだよ」

 四人、和やかな笑い。

「ご結婚されたのは?」

「米国へ留学する直前。とても祝福されたわ。特に、どちらの親もね、同性愛が治って良かった、孫の顔が見られるって、どっちの親も手放しの大喜び」

「次は子供の期待なのかって、ちょっと複雑な思いだったけど」

「お子さんは?」

「二人。娘と息子」

「姉と弟だね」

「下の子はね、日本の大学院に留学中なのよ」

「アニメが好きでね。この近くに住んでますよ」

 ナオは少し改まった表情で二人を見ながら続けて言った。

「最初の子が出来た時、本来の自分達になろうって二人で決めたんですよ」

 ナオはそう言うと、膝の上に前脚を乗せて甘える犬の頭を撫でた。

「本来の自分、ですか?」

「そうよ。あたしは市太郎であることを捨ててイチコへ」

「僕は奈緒子からナオへ」

「周りの反応はどうでした?」

「大騒動よ。生まれて間もない娘を連れて帰国したんだけど、あたしの母泣き出すし、彼の母親は気を失っゃって。初孫との対面なんかどっかに吹っ飛んじゃったわよ」

「そりゃあ、そうさ。娘が息子へ変わり、息子が娘になって、孫連れて米国から帰ってきたんだからさ。何が起きたのなんて通り越したパニック状態。当に修羅場でしたね。その後はどちらも勘当みたいになって、音信拒絶でした」

「米国ではどうだったんです?」

「丁度タイミングが良くてね。LGBT運動が盛んになり始めた頃だったから。周りにもそんな感じの友人や知人も多くいて。だから色々とサポートしてくれました」

「二人の子供の教育の点では良かったわね」

「そうだね」

「日本だったら…」

「暗い仮想ばなしは止めましょう」

 四人、苦笑。

「一時帰国は息子さんに会うためですか?」

「いいえ。実は、あたしの母から突然連絡が着たの。会いたいって」

「余命宣告受けたようです。僕の場合は、もう二人とも亡くなりましたが、勘当されたとは言っても気持ち的な蟠りはあって。今となっては解消も叶いません。イチコにそんな思いをして欲しくなかったから。会うことを勧めました。実は、今回こんな展開となったのは息子が尽力しましてね」

「こちらに留学中の息子さん?」

「ええ。日本に着て直ぐ、会いに行ったみたいです。初めの内は門前払いで会ってもらえず。でも少しずつ打ち解けていって、今回の連絡に至ったわけです」

「でも気持ちの整理がつかなくて。帰国を先延ばしてたの」

「それで、直接お会いになれたんですか?」

「ギリギリ。パンデミックが酷くなる直前だったわ。本人の意識がしっかりしている内に会うことができた。会話ができる最後のタイミングだったわね」

「どうでした?」

「親子してずっと泣いてましたね。何度も詫びられたし」

 ナオがイチコの手を握った。

「あたし。母から一度だけ、『オカマッ』て言われたことがあるのよ。だから、母はそのことについて何度も何度も詫びてた」

「…」

「母、ずっと悔やんでいたみたい。私も、その時の母のことが忘れられなかった。だからその時に、あの当時の正直な気持ちに伝えたの。そうしたら母が急に泣いて詫びて。もう良いから、もう大丈夫だからって、私も言い続けて。母の手を握ったの。自分が知っていた母の手なんかより小さく痩せ細って。でも母の手の温もりだけは昔のままだった」

 ナオは、更に強くイチコの手を握った。

「母は安心した様子で眠ってしまって。寝顔を見続けている内に、心の中でモヤモヤしていた蟠りはすっかり消えて無くなってたわ。母も思わず口にしてしまった侮蔑の言葉だったけど、母の負った心の傷は私以上に深かったのかもしれないわね」

 イチコはニッコリ笑い、続けて言った。

「あなたに侮蔑の言葉を吐いた彼女も、きっと母と同じだと思うの。だから、もし彼女があなたへ許しを乞う機会に恵まれたら、受け入れてあげて。それは、彼女のためではなくて、あなた自身の為になることだから」

 純太は何も言わず、ただ頷いて見せた。

 クラクションが鳴った。

 その音に向かって夫婦の愛犬が吠えた。

 公園前の道路に横付けされた乗用車。

 その前で若い男が手を振っていた。

「息子ですよ。戻るのが遅くなったから迎えに来たんでしょう」

 夫婦は腰を上げた。

「もう行かないと。お二人の邪魔をして済まなかったね」

「とんでもない。楽しかったです。少し元気になれました」

「そう。良かった。どんな時も、二人で乗り切ってね」

「はい。そうします」

「さぁ、行こうか。自慢の息子がお待ちかねだ」

 純太とサミーは、ナオとイチコ夫妻を見送った。

 

 

ターニングポイント

 

 坂本園の柱時計が、夕方五時の時を告げた。

 仁美が朗の相手をしている。

 キジトラキャットは朗の膝元で居眠り。

 奥のキッチンで真央が夕飯の支度。

 普段と変わりない光景。

 …そろそろお迎えの時間かねぇ…

 彼女はそう思いながら何気なく外を見ていると、坂本園の扉が開いた。

「いらっしゃいませ?」

 真由美はそう言って挨拶はしたものの、開いた戸口に立つ男に見覚えがなかった。

 初めてのお客さんかと思っていると、朗の声が店内に響いた。

「パパっ…」

 朗は、その男の許へと駆け寄った。

 突然の異変に目を覚ましたキジトラだが目をパチクリさせながら辺りを見回し、駆け去る朗の背中を見るとミャーオとひと鳴きし、再び目を閉じて眠りに落ちた。

「朗っ」

 男は朗を抱き上げた。

 久し振りの再会に歓喜し、父親に甘える朗。

「恵美さん…」

 消えて無くなってしまいそうな気配で控えめに佇み、父と子の様子を少し不安気な様子で見ている彼女へ、真由美は更に声を掛けた。

「ご主人?」

 恵美、無言で頷く。

「下田です」

 男が差し出した名刺には『下田誠也』とあった。

「しもだ、せいやさん?」

「はい。家内と息子が大変お世話をお掛けしました」

「お世話だなんて。大したことはしていませんよ。ねぇ、恵美さん」

 恵美は誠也の背後で俯くだけ、ひたすら影が薄い。

「まぁ。ご主人が帰国なされて良かった。これで、ちょっと安心だねぇ…」

 恵美は、ぎこちない笑顔を真由美へ向けた。

 真由美は、下田親子にお茶を出した。

「どうぞ。遠慮なく召し上がって下さい」

「うわ、美味しい」

 真由美のお茶が本当に美味しかったらしく、誠也は無邪気に感動しながら飲んでいる。

「ホッとしますよ。日本に戻って来たって身に沁みて実感です」

「大袈裟ですねぇ。でも、お世辞でも褒められると嬉しいですよ」

「お世辞なんかじゃありません。このお茶、本当に美味しいですから」

 対照的な夫婦だった。

 いいや、あの日を境に二人の関係はこうなってしまったのだろうか。

 恵美に初めて会った時、彼女は颯爽として自信に満ちあふれていた。でも、彼女が発するあの輝きの影で彼女は苦悩し、不安と恐れの海に漂いながら救いを求めていたのかもしれない。誠也とは恵美のネグレクトが露見した直後にネットを介して話してはいたが、実際と当人と話す機会を得て、真由美は一抹の不安を覚えた。一見、快活を思わせる彼の明るさの中に、形容しがたいガサツさと無神経を感じたからだった。同時にそれは、誠也が望む『恵美』を彼女が演じ続けなければならない一因だったようにも思えた。

「暫くの間、日本にいらっしゃる感じですか?」

「二週間程ですか。日本に戻れるよう会社に掛け合っているんですが、後任が決まる迄は会社も配慮しづらいようで。帰国すると空港での留め置き含めて一ヶ月は空けることになるので。まぁ、今回は出張という扱いです」

 誠也から二週間と聞いて、真由美は内心ホッとした。

 それは恵美にとって誠也が傍に居ることが反って重荷となるのではないかという勝手な思い込みからだったが、何気なく目にした恵美の顔にも安堵からくる表情の緩みを感じたから、自分の洞察は案外間違ったものではないと真由美は思った。

「二週間ですか。お仕事。お忙しいのですね」

 言ってしまって真由美は嫌味に聞こえやしなかったかと後悔したが、誠也は気にする風情も無く笑顔を見せながら膝に乗せた朗の相手をしている。

「朗ちゃんのことはご心配なく。うちは全然構いませんから、お気になさらず」

「あぁ。その件なんですが。すっかりお世話になってしまって。感謝しております。ただ、幸い保育園に空きが出まして。朗を預けられるようになりました」

「おや。それは良かった。保育園、いつからですか?」

「明日から通うことになります。今日は、私と恵美で入園の手続きに行ってまして」

「明日から。そ、そうですか…」

 真由美、朗の顔をジッと見つめる。

「そう。明日から…」

 朗、父親の膝の上から離れて真由美に抱き着いて甘えた。

 そんな彼の頭を撫でながら真由美は、朗に話し掛ける。

「明日から保育園だね」

「ほいくえん?」

「お友達、いっぱいできるよ」

「バァーば…は?」

「バァーば、ここに居るよ。いつでも遊びにおいで」

 朗はフッと父親の顔を見てから言った。

「来ても良いの?」

「おいで。キビ助も待ってるよ」

「うん」

「ママも一緒に来て良い?」

「もちろんだよ」

 恵美は真由美の一言にハッとし、顔を上げて彼女を見た。

 そんな彼女の顔を見ながら真由美は言った。

「朗ちゃんのママとバァーばとは、お友達だよ。いつでも二人の傍に居るよ」

「バァーば。またね!」

 手を振る朗。

 真由美は、三人の後ろ姿が夜の街に消えるまで見送った。

 

 

それぞれのモヤモヤ

 

 朝、九時。

 真由美は、シャッターを上げて店の外に出で身体を伸ばした。

 店の前に広がる茶畑は夏の朝日に照らされ、葉の朝露がキラキラ輝いている。

「イー、アー、サン」

 公園の広場から微かに聞こえる太極拳体操の掛け声。

「そろそろかねぇ…」

 掃除をしようと箒を手にし、店の前の通りを眺めて普段通り呟いた彼女だったが、ハッとして手を止めて溜息を漏らした。

「二人とも、今日から保育園だったね」

 二人が通うはずの保育園の外観を不機嫌に見ながら、真由美は店の前の掃除を始めた。

 朝、九時。

江津子は、公園の広場で太極拳体操をして身体を伸ばしていた。

彼女の面前の参加者たちは木陰に散開し、無表情だが体操に精を出している。

「イー、アー、サン」

 蝉の声に混じって太極拳体操の掛け声が広場に響く。

…今朝も、あの二人来てない…

広場から公園への階段を上ったところにあるテーブルベンチ。

毎朝そこにあった二人の姿は、あの騒ぎ依頼途絶えていた。

…ふん。清々するよ…

そう強がってみるが、彼女の心は言葉とは裏腹にスッキリしない。

 朝、九時。

 寝起きの純太は、バルコニーに出て朝の町を眺めている。

 傍らに居ない純太を探し、バルコニーに彼を見つけるとサミーもベッドを出る。

「イー、アー、サン」

 公園の広場から微かに届く太極拳体操の掛け声。

「早安(ザオアン:おはよう)」

 サミーは純太の越しに手を回し、背中越しに彼を抱きながらそう言った。そして彼の首に口づけをすると彼の肩に顔を乗せて言った。

「公園。ゆっくりで好いんじゃない」

 純太、安堵の嘆息を漏らすとサミーの手に自分の手を重ねて握った。

 太極拳体操が終わって。

 高台のテーブルベンチに座って仁美と真央は話している。

「先生。今朝も来ませんでしたね」

「あんなことがあったから。来難いわよ」

「あたし、先生に連絡してみようかしら」

 スマホを取り出そうとする仁美を真央は押し止めて言った。

「そっとしときなさいよ。サミーさんもいるんだし」

「そうですね」

 二人の前を保育園児たちの一団が通り過ぎる。

 その中に想と朗の姿もあった。

「あら。想ちゃんと朗ちゃん」

 仁美がそう言って二人を見ていると、彼らも気がついて手を振る。

 彼女たちは、彼らに手を振って見送った。

「最近、先輩も公園に姿見せないわね」

「あの子たちを保育園に取られちゃいましたものね」

「先輩。落ち込んでるのかしら?」

「えっ?」

 仁美、小首を傾げながら真央を見る。

「大丈夫だと思いますよ」

「えっ?」

「心配されているんですか?」

 真央、仁美の顔をマジマジと見つめて言う。

「午後。様子見に行ってみるわ」

「静かな朝だね、キビ助」

「ミャーオ」

 真由美、茶を啜る。

「寂しい朝だね、キビ助」

「ミャーオ?」

「どうして誰も来ないんだろうね、キビ助」

「ミャーオ…」

 真由美、突然キビ助を抱き上げる。

「みゃーおッ」

 真由美、キビ助に頬ずり。

「み、ゃーーーぉ…」

「みんな。どこへ行っちゃったの?」

「みャ…ォ…」

 真由美が余りにも強く抱きしめるので、キビ助は苦しくなって唸りながら鳴く。

「本当は、あたしだって寂しいんだよ」

「…ゃ、…ぉ…」

 真由美、キビ助に頬ずりハラスメント。

「キビ助。あんただけは傍にいてね」

「…、…、み…、ゃ…お…」

 柱時計が、午前十時の刻を告げる。

 ボーン、ボーン、ボーン…。

 その音に真由美は驚き、キビ助を抱締める力が抜けた。

 キビ助はひょいと真由美の抱擁から抜け出し、床の上へ飛び降りるなり大きな背伸びをした。

 そして、真由美の顔を見ながらミャーオとひと鳴きした。

「キビ助。お前まであたしを捨てるのかい」

 その時、ドアが開くと顔馴染みの宅配業者が店に入って来た。

「おはようございます」

 彼と入れ替わりにキビ助は外に出た。

「何だいッ」

「あっ。その、荷物です」

「間の悪い」

 突然小言を言われ、宅配業者の若者は苦い顔。

 ガラス戸の向うで、キビ助は毛づくろいをしている。

「キビ助。戻って来ておくれ」

「だから坂本さん。お荷物ですって」

「ミャーオ」

「あっ。キビ助。行かないで」

「坂本さん。ハンコお願いします」

「行かないで。あたしを一人にしないで」

 キビ助の後ろ姿を見送るしかない、真由美。

「ハンコ。あっ、そこじゃぁ…」

「えっ?」

 ふと我に返り、宅配業者の顔を見て真由美は当惑した。

 憮然とする宅配業者の若者。

 真由美は、彼の額にハンコを押していた。

 午後、坂本園。

 閉じたシャッターの貼紙を見て、真央は呆然と立ち尽くす。

 

『午後、休みます。店主』

 

 足元で身体をスリスリさせながら甘えているキジトラキャット。

「キビ助。あんた、先輩と一緒じゃなかったの?」

真央の不安、増々募る。

 貼紙を写真に撮ると、それを空かさず仁美へ送る。

 だが、いつまで経っても返事はない。

 彼女の不安は更に募る。

「先輩の身に何か起きたんだわ」

 勝手に空騒ぎの真央。

「どうしよう。どうしよう。どうしたら良いの?」

 彼女はキジトラの奴を抱き上げる。

「ねぇ。キビ助。どうしたら良いか教えてよ」

 もがき、動き回って逃げようとするキビ助。

「頼むから。キビ助。私、どうしよう」

 居心地の悪い彼女の胸の中でキジトラキャットは一際大きく鳴いた。

「ミャーーーオッ」

 

 

ここから始める

 

 駅ビルのスーパーで買い物中の純太とサミー。

 そこで二人は、買い物途中の江津子にバッタリ出くわした。

「あっ…」

 純太は小さく声を上げ、思わず立ち止まった。

 目の前の江津子も気まずそうな顔つきで立ち止まり彼の顔を見たり逸らしたり、純太と目を合わせたり背けたりと落ち着ない様子。

 目のやり場に困った純太だったが、彼女が右手に下げるエコバックから顔覗かせている花束に目を留めた。

 江津子は、彼の視線を気にしてかエコバックを背後に回す。

 純太が彼女へ話しかけようとした時、彼を後ろから呼ぶサミーの声が届いた。

「シャオジュン」

 純太が振り返るより先に隣に立ったサミーだったが彼もまた江津子を見て顔色を変え、

純太を庇うように彼女と彼との間に立った。

「サミー」

 そう言ってサミーの顔を見上げ、彼は恋人の右手を握った。

「いいよ。行こう」

 サミーは黙って頷き、純太の手を強く握る。

 そして二人は、江津子に背を向けて歩き出した。

「待って」

 江津子の声に二人は足を止める。

「朝のこと…」

「…」

「本当にごめんなさい。謝ります」

 二人が振り返って彼女を見ると、江津子は深々と頭を下げていた。

 互いの顔を見合わせる純太とサミー。

 レジ待ちしている数人の買い物客の視線を感じ、純太は言った。

「もう良いですよ。解りましたから。頭を上げて下さい」

 そう言われても、彼女は下げた頭を上げようとしない。

 困り顔で互いを見合わせる二人。

 見かねたサミーが彼女の肩に手を置くと小刻みに震えていた。

 サミーは当惑気味に純太を見る。

 純太、溜息。

「ところで、お墓参りですか?」

「えっ?」

 純太は、彼女が下げているエコバックから顔を覗かせている仏花の束をゆび指した。

「あぁ。これ?」

 ちょっと間が空いて、江津子が答えた。

「今日。息子の命日だから」

「そうですか。では、僕たちはこれで…」

 立ち去ろうとする二人を江津子が再び呼び止める。

「もし、良かったら」

 振り返る二人に彼女は言った。

「もし良かったら、お墓参りに付き合って戴けないかしら?」

 二人、当惑顔。

「ごめんなさいね。ご迷惑なのは承知の上でのお願いの」

「僕たち。息子さんのことを存じ上げませんから。参る理由がありませんよ」

 冷やかに純太は告げた。

「そう、そうよね…」

 項垂れて肩を落とす彼女へ、サミーは穏やかに言った。

「どうして僕たちに?」

「サミー」

「詫びたら受け入れてあげるんだろう」

 サミーが諭すと純太は従った。

「どうして僕たちに、一緒に墓参りをして欲しいんですか?」

「それは…」

 江津子は意を決したように二人へ告げた。

「息子はゲイで、それが理由で自ら命を絶ってしまったんです」

 江津子が二人を連れて行ったのは寺ではなかった。

そこは駅ビルから歩いて十分くらいの住宅地の中にあって、ブロック塀に囲まれ鉄の扉を供えた一族の墓所地だった。吉村家と坂本家の墓所地が隣り合わせにある。

「一族の立派な墓所地ですね」

 純太が尋ねると江津子は素気なく答えた。

「坂本家が本家で吉村家は分家。どちらの家も、この一帯の開拓民の末裔」

「開拓民って、ご先祖は江戸時代ですか?」

「吉村家は鎌倉時代。坂本家は平安時代よ」

 純太は溜息を漏らした。

 江津子は吉村家ではなく坂本家の墓所に入って行った。

「あれっ。そっちじゃないんですか?」

 振り返り、純太の顔を見ただけで江津子は何も答ええず墓所内へ入って行った。

「こっちです」

 墓所内には、大小の幾つかの大理石の墓石が連立していたが、それだけを取って見ても坂本家の歴史を感じるに十分だった。だが江津子に案内された先にある墓石は、周囲とは対照的な自然石の墓標だった。

 その表裏に墓に眠る主の名前は刻まれていない。

 その無名の墓の前で身を丸めて屈め、江津子は手を合わせて祈っていた。

「これが、亡くなった息子さんのお墓ですか?」

 純太の問いに江津子は顔を上げなかったが、泣きながら何度も頷いているのは二人にも見て取れた。

「えっ。でも、どうして坂本家の墓所にあるんです。吉村家の…」

 江津子か堰を切ったように泣き出した。

「分家の墓所に葬ることを一族が拒んだからだよ」

 二人が振り向くと真由美が居て、江津子に代わって答えた。

「ゲイであることを苦にして自殺した。世間体が悪いってね」

 真由美は江津子の傍らにしゃがみ震え続けている彼女の両肩を抱いて顔を上げさせた。

「どうしてよ。あの子の何が悪いのッ」

「悪くないよ。江津子。何も悪くないよ」

「でもお姉ちゃん。悪くないあの子を私も主人も責めた。悪いと言い続けた。病気だって責めて。『オカマなんて止めなさいッ』て何度も言ったの。でもそれは、それは、そんな事を信じたくなった。そんなはずが無いって自分に言い続けて。だって。だって、だってそうでしょう。周りの男の子たちは女の子を好きになって、結婚して、家庭を持って。あたしだって、あの子がそうなって孫が生まれて、孫に色々なものを買ってやったり、お小遣いをあげたりして、吉村の家が代々続いて。そんな夢を見ていたのに、どうして私だけ夢を見ちゃいけなかったの。諦めなきゃならなかったの。ねえ、どうして。どうして。どうしてよ。どうして、あたしだけが、そうしちゃいけないの。どうしてダメなの?」

「…」

「あの子には両想いの人がいたの。でも、彼には絶対会わせなかった。あの子を家に閉じ込めて。連絡の手段も絶って。その人からの手紙も全部処分して。そうすれば、あの子はきっと思い直してくれるって。考え直してくれるって。そう信じてた」

「江津子。もう良いから…」

「あの子が亡くなった朝。朝ごはんを部屋へ持って行ったの。ノックをしたけど返事が無くて。声を掛けたけど、何度もあの子の名前を呼んだんだけど返事が無くて。ドアのノブを回すと、ほんの少しだけ開いて。その隙間から、あの子のパジャマが見えて。あの子、ドアの前に座ってて。何度押してもドアが開かなくて。あの子の名前を叫んでも返事が無くて。隙間に手を差し入れてパジャマ越しにあの子の腕に触るけど冷たくて。何度押しても、ドアが開かなくて。あの子が死んじゃったの。死んだんじゃない。あの子を、あの子を私が殺したの。私のせいで死んでしまった。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめん…」

「もういいよ。もう、十分苦しんだ。だから、好きなだけお泣き。辛かったんだね」

 江津子は、姉の胸に顔を埋めて泣いた。

「あの日からずっと、江津子の時間は止まったままなんだよ。悔やんでも、悔やみきれない。どんなに自分を責め続けても失ったものは取り戻せない。そんな妹に追い打ちをかけたのはお墓のことだった。分家の一族が埋葬を拒絶してね。お骨は行き場を失った。途方に暮れた妹を救ったのが、うちの亭主だったんだよ。あの人の一言で、ここに埋葬することになってね。本家の惣領の決定だから誰も文句は言えなかったけど、くちゃくちゃいう輩は少なからず居てさ、無記名の墓石だけになったんだよ。でもさ。これって故人に対する存在否定じゃないか。この子に対して何もしてやれなかった無力さが、妹を一層傷つけてしまった。毎月、命日が来ると江津子はここに来て我が子に泣きながら詫び続けてね」

「そんな。なんで。江津子さんが、そこまで苦しまなきゃならないんです?」

「そうせずには居られなかったんだよ。心を閉ざして、いいや殺して、自分を責め続けるとしか他に思いつかなかった。でも辛いから、他のことで気を紛らわすしかない」

「それが太極拳体操だったんですか?」

「そうだよ、サミー。あの体操のリーダーを務めることで、自分が世の中から存在を認められてる、亡くなった息子のことを忘れられる時間を持てたんだよ。ずっと落ち着いていたんだけどね。二人を見掛けるようになってから、妹の心が動き始めた」

 純太とサミーは互いの顔を見合わせた。

「ごめんなさい」

 そう言って、江津子は涙を拭いながら顔を上げて二人を見た。

「あなた達が悪いんじゃないの。憎しみとか侮蔑とかでもない。ただ悔しかった」

 二人、それぞれの思いで江津子を見る。

「誰の目を気にするでもなく。自然に、幸せに振る舞っているあなた達を見て、息子も生きていればあんな風に誰かと幸せになれたかもしれない。二人のように笑って暮らせたかもしれない。そう思うとやり切れなくて。悔しくて。その権利を奪ってしまったのは他ならぬ自分だと思うと無性に腹が立って。ムシャクシャして。忌々しくて。口を突いて出た罵声が『オカマッ』だった。ごめんなさい。でも、これは言い訳にしかきいてもらえないかもしれないけど、本当は、あの侮蔑の言葉はあなた達二人へ向けたんじゃないの。あれは、私自身に向けた言葉だった。だから、本当にごめんなさい」

 純太はサミーの顔を見た。

 サミーはニッコリ笑うと、励ますように純太の背中を押した。

「江津子さん」

「えっ?」

 彼女の前にしゃがむと、純太は江津子の目を見て言った。

「僕たち二人にお線香を上げさせて貰えませんか?」

 サミーもまた、純太の隣にしゃがんで江津子へ微笑みかけた。

 お墓の前で手を合わせる二人。

 細く、ゆっくりと立ち上る線香の煙。

 二人の背中を見守る江津子と真由美。

 墓前で百合の花が、晩夏の夕風で心地好く揺れた。

 翌朝、中国語レッスンが再開された。

「ええっ。先輩、お休みなんですか?」

 真央の顔色が変わった。

「真由美さん。午前中、用事があるとかでレッスン休むって聞いてますよ」

 純太は、真央の不安をどこ吹く風といった様子で真由美の欠席を伝えた。

「ええっ。ええええっ。だ、だって。先輩。昨日の午後、お店も休んで…」

「真由美さんからは、私の所にも連絡着ましたよ」

 仁美も普通に話す。

 

「大丈夫じゃないですか?」

「先生の言う通りだと思いますけど、真央さんは何を心配されてるんですか?」

 仁美、キョトン顔。

「だっ、だって。先輩だけじゃないのよ。太極拳体操だって。リーダー、休んでるし。あの姉妹に何かあったのよ」

「真央さん。かーん考え過ぎですよ」

「何かあったか。まぁ、確かにあったかもしれないなぁ…」

 純太、含み笑い。

「ええっ。先生。あのお二人に何かあったのを知ってるんですか?」

「別に何もないと思いますよ」

「そうですよねぇ。真央さんの考え過ぎに決まってますよね」

 純太、悪戯っぽく小首を傾げる。

 そんな彼の様子に真央の不安はクライマックス。

「えええええええッ。先ぱぁーーーい…」

 佐和子が点てた茶を飲む江津子の表情がふっと解れ、彼女は思わず気持ちを口にした。

「美味しい…」

「そうですか。それは良かった」

 飲み終えて、茶碗を体の前に置くと江津子は佐和子に尋ねた。

「純太さんには、大変失礼なことを申し上げました。お詫びします」

 佐和子は、江津子の隣に座る真由美の顔をちょっと見る。

真由美は穏やかに頷いて見せた。

「江津子さんに比べたら私なんかは幸せな方だけど、息子のことでは私だって辛かったんですよ」

「…」

「私だって思い描き続けてきた大半を諦めなければならなかったから。それに自分自身を随分責めましたしね。でも、何よりも辛かったことは心の内を誰にも言えなかったこと」

「先生も?」

 静かに頷き、佐和子は言った。

「誰かに亡くなった息子さんのことを話すことから、先ず始めてみては如何ですか?」

 江津子の表情がパッと華やいだ。

「だって私もゲイの息子の悪口を誰かに言いたくて仕方ないんですもの。でもね、同じ悩みを持った人でないと解らないじゃない」

「…」

「江津子さんならきっと、息子に関する愚痴を山ほど聞いてくれそうだわ」

 思わず江津子が笑みを漏らした。

「だから、ここで」

「ここで?」

「ここから始めましょう。あたし達が笑顔になれる人生を」

 

 

それぞれの朝

 

 真由美は店の外に出ると、大きく背伸びをして深呼吸をした。

 …今日も一日が始まるねぇ…

「想ちゃんッ」

 朗の声を耳にして真由美はハッとする。

 声のする方へ目を向けると、愛梨に手を引かれて保育園へ向かう想に駆け寄る朗の姿を目にした。

 そんな息子を小走りに追い駆ける恵美。

 保育園の前でじゃれ合う想と朗を挟んで、カジュアルスーツ姿の愛梨と恵美か談笑を始めた。

 ふと恵美が自分たちを見ている真由美に気がつき、二人は彼女へ会釈した。

 真由美も軽く手を振って二人の挨拶に答えた。

 …元気そうで何よりだよ…

 保育園に入って行く想と朗。

 息子を送り届けて職場へ向かう愛梨と恵美。

 真由美は四人を見送り、店のシャッターを開けると店の中へ姿を消した。

 朝。

 公園へ向かう純太とサミーの傍らに車が停まった。

 開いたドアウィンドウからイチコが顔を覗かせる。

「おはよう」

「あっ。おはようございます。お出かけですか?」

 純太の問いにイチコが笑って答えた。

「今日、帰国なの」

「あぁ。そうでしたか」

「お二人とも、またね」

 そう言いながらイチコは二人へ名刺を渡した。

「米国に来た連絡して。歓迎するわ」

 走り去る車を二人は手を振って見送った。

「イー、アー、サンッ…」

 純太とサミーが公園に着いた時、太極拳体操は始っていた。

 普段利用しているベンチと備え付けのテーブル。

 数日振りに目にした光景だったが、純太の目にそれは新鮮に映った。

 テーブルの真ん中でキジトラキャットが寝そべっている。

 二人がベンチに座ると、眠そうに欠伸をして眠り始めた。

 サミーは、そんなキジトラの背中を指先で優しく撫でる。

 キジトラは喉をゴロゴロ鳴らしながら目を閉じ、上機嫌。

 ぼんやり体操を眺めていたが、二人は江津子と目が合った。

 純太とサミーを見て、江津子がウィンクしてみせた。

 予想もしないハプニング。

 二人の表情は固まり、サミーの指先も停止。

 そして彼らは互いの顔を見合わせて言った。

「ウィンク。してたよね?」

「対、対。ウィンク」

 二人は思わずもう一度、江津子を見る。

 そこには仏頂面で太極拳体操に励む、普段と変わりない彼女が居た。

 純太たち四人が座るテーブル付のベンチ。

 そこへ真由美が姿を現した。

 ホッとした表情の真央が何かを言おうとした時、真由美はキジトラをギラリと睨むと溜息混じりで言った。

「朝から姿を見掛けないと思ったら、こんな所に来てたのかい。まったく。気ままな猫だよ。明日から、朝ごはんは要らないね」

 物憂げに目を覚ましたキビ助、立ち上がってサミーの手をすり抜けるとテーブルの上から真由美の脇に飛び降り、身を摺り寄せながら横になった。

 調子の好いキジトラを撫でながら、真由美は溜息混じりに言った。

「まったく。キビ助の奴。調子の好いよ」

 中国語のレッスンが始まった。

 

 

(END:「楽趣公園 ―HANABI 中編―」)

(次回作:「楽趣公園 ―HANABI 後編―」)

(次回作アップ予定:2022.2.15予定)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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