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楽趣公園(ルーチー・コンユァン)-Long Distance-

 SNS:純太と老板によるビデオ通話

『老板。久し振り』

 老板(ラオバン)。
 台北郊外の猫空(マオコン)にある茶園の主人。
 向うでは、店主のことを老板と呼ぶことが多い。
 茶園で親しく話しかけてきた時、名前が分からないからそう呼んでいる。
 彼にも本名はあり、僕も当然それを知ってはいるが、彼のことをそう呼んでいるうちに馴染んでしまった。

『純さん。元気だったかね?』

 老板は僕をいつもそう呼んでいる。
 僕は二宮純太。
 三十二歳。
 ネット稼業の個人事業主3年目の独身男。

『元気です。しばらく連絡出来なくて済みませんでした』

 僕がネット通販の仕事を始めたきっかけは老板だった。
彼の茶園で作られている烏龍茶の金泉茶の味が忘れられず、僕は台北へ行く度に買って帰り自分で飲む以外を友達へ土産代わりにあげたりしていた。そうする内に金泉茶の評判が口コミで広がり、老板から仕入れてネットで販売するようになった。
 老板は顔が広く、彼の紹介で台湾関連の品揃えが充実するようになりパンデミックで台湾ロス(台湾のリピーターにも関わらずパンデミックで行くことができず、台湾文化に飢えてしまっている状態)の人々にとって、僕の通販サイトは癒しの場となった。
 三年前に独立した時は多少の不安が無くもなかったし、開始当初のパンデミックによる消費需要の落ち込みで青ざめたけど、何が幸いするか分からない。

『お父さん。ご愁傷様。落ち着いたかね?』

 半年前に癌で父が他界した。
 四十九日が過ぎるまでは実家メイン、それ以後は自宅の往復生活を送っていた。
 何だか大変そうな生活に聞こえるが実家は同じ市内にあって自転車で10分、歩いても三十分と掛からない距離にある。一緒に生活するかという話もあったが、母親が気ままな一人暮らしを望んだので彼女の意思を尊重した。
 日々の自分の仕事に加えて父の死に伴う手続きや相続、その他諸々の対応に追われ、老板への連絡がすっかり遅くなってしまった。

『お陰様で少し落ち着きました。でも人が一人、この世から居なくなるのに手続きがこんなにも大変なのかと、しみじみと実感させられましたよ』
『お父様は幾つで亡くなられたのかね?』
『70歳でした』
『おや、随分と若かったねぇ。俺より2歳も若いじゃないか』
『えっ。老板。72歳なんですか。知らなかった。でも若いなぁ…』
『そうかい。嬉しいねぇ』
 老板、ニヤニヤ。

 台湾の一人旅を始めたのが十年前で、以来毎年一回行っている。
 だが今年と去年はパンデミックの影響で海外旅行が封印されて行けなかった。

『70年も生きていると浮世のしがらみが多くなるからね。あの世へ旅立つにも、色々と手続きが要るのさ。海外旅行するにもパスポートとか必要だろ。あれの複雑版だね』
『冥土へのパスポートですか?』
『俺の時も、息子や娘たちから後始末が大変だって思われちゃうのかなぁ?』
『老板、若く見えるから。当分の間はそんな心配しなくて良いんじゃないの。それに死んだ後のことまで心配しても始まらないでしょう』
『それもそうだ』
 二人、笑う。
『佐和子さん、気落ちされてないか?』

 佐和子とは僕の母のことだ。
 母にせがまれて台北旅行をした折、老板の茶園を案内した。
 その時は、老板の太太(タイタイ。夫人のこと)も店にいて、茶道の先生をしている僕の母親と妙に馬が合ったらしく、茶の話で盛り上がっていた。
 それ以来、母もちょくちょく台北に行っていらしい。
 僕が茶園を訪れた時に老板から「この前、佐和子さんが友達と一緒に来たぞ」と言われて驚くことも一度や二度ではない。

『夫婦。仲が良かったから心配だったんですが、むしろ今の方が元気そうです』
『それは、一人息子に心配掛けないよう気を張ってるのさ』
『そうですね』
『大事にしてあげな』
 老板は惚けた雰囲気があるが、中々鋭いところがある。
『太太はお元気ですか?』
『日に日に元気だよ。亭主の俺がびっくりするくらいね』
『それは何より。好いことですよ』
『女房が元気過ぎるというのも考え物さ』
『どうしてですか?』
『パンデミックの影響で日本や外国へ行けないだろう。国内旅行は飽きちゃってる人だからストレスが溜まってね』
『喧嘩が絶えないとか?』
『逆だよ』
『えっ?』
『構われ過ぎて困ってるよ』
 老板、トホホ顔。
『昔、日本で亭主元気で留守がイイなんてフレーズが流行ってましたが、老板の場合は逆ですね。太太元気で留守がイイ』
『アッ、ハッハッ。それだよ、それ。本人の前じゃ、絶対に言えないフレーズだけど』
 二人、苦笑。
『でも。太太の気持ち解るような気がする。実は、僕も台湾ロスで禁断症状始まってます』
『台湾ロスかね?』
『はい。ひどいもんですよ』
『おや。どれだけ病んでるんだい?』
『今日。こっち梅雨の雨模様なんです。窓の外を見ていて、しっとり濡れる町の様子とか街路樹の葉っぱから落ちる雨の滴に台北の景色が目に浮かんで…』
『そりゃあ重症だね。大変だ』
『そちらも梅雨でしょう。雨ですか?』
『いいや。今朝の天気はバッチリ良いよ』
 僕、溜息。
『まぁ、元気出しなさい。パンデミックも長く続かんさ』
『そうですね。老板の店の茶油麺線が恋しい』

 茶油麺線とは中華スープに素麺を入れたシンブルなヌードルだ。薬味はネギだけで茶の種から絞った油が風味づけに入っている。初めて見た時、あまりのシンプルさに何じゃこれはと不安になったが口にするなりファンになった。
 以来、台北に来る度に必ず食べている。

『ありゃあ美味いよ。特に、太太の作るのが一番旨い。二日酔いの朝なんか絶品だね』
『林森北路(リンセンペイルー)も懐かしい』
 老板、含み笑い。

 林森北路とは林森公園沿いの通りの名前だが、公園付近は台北市の中心に位置し繁華街として有名だ。バーとか飲み屋の多くもこの界隈に集結している。

 インターホンが鳴った。
『老板。何か届いたみたいです。ちょっと待ってて下さい』
 僕は席を立った。
            *
 母からの宅配物を受取って戻ると、老板と一緒に小玲(シャオレイ)が映っていた。
 小玲は高校二年生になる老板の孫娘だ。
 初めて会った時、彼女は小学二年生だった。
 彼女が相棒と呼んでいた飼い犬の阿財(アツァイ)との散歩から店に戻って来たところに丁度僕が居合わせた。
 数学と水泳が好きな女の子だったが、背がすらりと高い美人になった。高校で結構人気があるらしい。

『おう。小玲。元気かい?』
『元気、元気』
『阿財は残念だったね』

 彼女の相棒の阿財は今年の春に死んだ。
 十八歳の大往生だった。

『うん。でも、今は富富(フーフー)が居るから大丈夫』
 彼女は膝に載せていた子犬の富富を見せた。
 富富は阿財の孫で今年生まれた。
『可愛いね。それに少し大きくなったかな』
『そうなの。阿財の生まれ変わり』
 そう言われると、阿財の面差しに似ていた。
 小玲が学校へ行くと老板が荷物のことを聞いてきた。
『佐和子さん。何を送ってきたのかね?』
 老板に即されて箱を開けると真新しい下駄があった。
『あっ。下駄だ』
 老板にそれを見せると、彼はニコニコしながら言った。
『あぁ。知ってるよ。日本の履物だね』
 下駄を見つめている僕に老板が話しかけた。
『面白いね』
『下駄が?』
『違うよ。佐和子さん』
『お袋が?』
『佐和子さん。家が近いのに宅配で送る。直接届ければ良いのにね』
『年に一回。年末に来る以外は、ここに来ないって決めてるみたい』
『一人っ子の自立の為かね?』
『ちょっと違うかな。来るとあれこれ目について、お節介焼きたくなるのが目に見えているから嫌らしいよ』
『佐和子さんらしいね』
 二人、苦笑。
『好いお母さんだ』
『そうかなぁ?』
『息子に干渉しないからね。太太も少し見習って欲しいね』
『太太が聞いたら怒るよ』
『ダメだよ。太太には内緒。二人の秘密ってことにしておいてくれ』
 二人、再び苦笑。
            *
 僕は、母親へ電話をした。
「どうしたの?」
「下駄。届いたよ」
「そう」
 普段通り素っ気ない返事だ。
「買ったの?」
「お父さんが履きたがって買ったのよ。靴はサイズ合わないでしょう。留守番用に置いておく一つを除いて全部捨てようと整理したら、靴箱の隅にそれがあったのね。何だか知らないけど急に下駄を履きたいってお父さん言い出して、一緒に買いに行った時の事を思い出しちゃったわよ。結局履かず仕舞いで終わっちゃて。それ、結構高かったのよ。捨てるのもったいなくて。下駄なら履けるんじゃないかと思って送って見たんだけど、どう?」
「うーん。どうかな?」
「引籠りみたいな仕事なんだから下駄を履いて散歩したら。下駄って健康に良いそうよ」
 実家の玄関の引き戸が開く音が微かに聞こえた。
「あら。お弟子さんみえたわ。切るわね」
「うん」
「身体気をつけなさい」
 母は、普段通りあっさりと電話を切った。
 僕は苦笑気味に箱の中の下駄を眺めている。
            *
 数日後。
 梅雨の晴れ間の朝。
 僕はぼんやりと、爽やかに見える朝の空を空調の効いた部屋の窓越しに見ている。
「好い天気だなぁ…」
 見たまま気持ちを思わず独り言。
 日射しは強くて、明るくて、夏の兆しを感じる。
 四十年以上愛用し続けている木机の上に例の下駄が綺麗に並んで鎮座し、僕は
それを横目で見る。
 窓の外の街路樹の枝葉は梅雨の長雨に洗われてキラキラ輝いているけど、ピクリとも動いていない。
 …無風かぁ。きっと蒸し暑いに違いない…
 ネガティブな自分が心の中でそう呟く。
 溜息。
 僕は席を立ち、逃れるようにリビングルームへ向かった。

 テレビをつける。
 ニュースが流れる。
 オリンピック開催反対の民意を伝える報道。
 反対の世論が強い割りに開催するらしい。
 オリンピックやパラリンピックに無関心な僕だけど、民意に向き合わない政府の姿勢に何となく怖さを感じつつ欠伸をした。
 昨日、一日の感染者数が初めて千人を超えたらしい。
 専門家の予想では二千人越えは時間の問題で、暫くの間この勢いは止まらないらしい。
「ステイホーム。皆さん、不要不急の外出は避けて下さい」
 溜息。
 僕はテレビを消して仕事部屋へ戻った。

 木机の上の下駄が僕を出迎えた。

『引籠りみたいな仕事なんだから下駄を履いて散歩したら。健康に良いわよ』

 やれやれ、母親の言葉が耳に響く。
 僕は試しに部屋で下駄を履いてみた。
 …うん…
 木肌に触れる足の裏の心地よさ。
 …えっ。好いかも…
 何だか心がウキウキしてきた。
 …散歩。行っちゃおーか…
 下駄を履いたまま玄関に出て、ドアを開けた。
 陽光。
 身体に染入る日射しの心地よさ。
 でも湿度は高く、汗が流れ落ちた。
 …まぁ、好いか…
 僕は鍵を閉めて散歩へ出掛けた。
            *
 僕の部屋はマンションの二階の角部屋だ。
 ここは七階建てのマンションだからエレベーターもあるけど、普段の昇り下りは階段を利用している。
 …今日はエレベーターを使うべきか…
 履き慣れない下駄履きが僕の気持ちを揺さぶったけれど、普段通り階段を利用することにした。
 下駄は三千年前からあるらしく田圃で履かれた田下駄が起源らしい。日本では稲作の伝来と共に入って来て弥生時代の遺跡からも見つかっている。下駄という名称が使われ出したのは戦国時代に入ってからで支配者層の履物だった。庶民が履くようになったのは江戸時代後期らしい。昭和三十年代をピークに履かれなくなった。昭和の東京オリンピックを境に団地や高層ビルや住宅が増え出し階段を利用しての昇り下りの機会も増えるから下駄が履かれなくなった一因になっているかしれない。
 僕も下駄で階段を利用してみたが、昇りは良いけど下りは気をつけないとちょっと怖い感じがして慣れるのに時間を要した。
 下駄で歩いていると音がなる。
 いわゆるカランコロンというやつだ。
 意外と耳について最初の内は何だか気恥ずかしかった。周囲に目立つと言うか、日常と違うことをしている感覚が僕の心を支配するようで、初めの内は他者目線に気負わされたのが気恥ずかしさを独りよがりに意識していた。
 だけど人間は得てして図々しいというか、鈍感力に強いと言うか、その手の羞恥は最初の内だけで時と共に気にならなくなる。
一週間も下駄履き散歩を続けるうち僕も気にならなくなった。
 パンデミックの影響なのか人通りが少ない。丁度一年前の春から今の時期に掛けては恐怖と他者監視も相まって僕の住んでいる界隈もゴーストタウンよろしく、人気が全くなくなったが、今回は流石にそこまでのことはなく人の姿をチラホラ目にする。一年も経つとパンデミックすら慣れてしまうのかもしれない。
 あの時の無人の町は理由もなく不気味で怖わかった。
 でも、それすら想い出の風物とし、日常化したパンデミックと上手く付き合って暮らす人間の逞しさにも敬服させられる。
            *
 町内掲示板があった。
 市の公報に混じって個人のお知らせなんかも張ってある。
 目についたお知らせは二つ。

『太極拳体操。参加者自由。無料。日曜祝日を除く朝九時から。南台公園にて』

『オスのキジトラ猫、探してます。情報をお知らせください。(写真)。年齢:四歳です。(西暦で二週間前の日付)に(某マンションの八階)から脱走しました。見掛けた情報でも構いませんので一報をお願い致します。(連絡先のメールアドレス)』

 太極拳体操やキジ猫探してますに興味も関心も無かった僕だけど、好奇心と文中フレーズに心惹かれた。

 …太極拳。カンフー。道衣での体操…
 幼い頃に父と観た香港のカンフー映画を思い出して、僕の好奇心が疼く。
 …『脱走』。ひどい目に遭う…
 そんな勝手な想像が脳裏を過るのだが、このフレーズ表現に僕は惹かれてしまった。
 宅配か出前の受け取りで飼い主がドアを開けた機に隙間から外に出て、一気に駆け去ったに違いない。『脱走』の二文字から、そんな鮮烈なワンシーンが目に浮かぶ。
 …自由を求めて逃げちゃったのかな…
 ふとそんなことを思いながら僕は散歩を続けた。
            *
 次の日から三日間、雨が続いて四日目に快晴の朝がやってきた。
 下駄履き散歩スタート。
 太極拳体操や脱走したキジトラ猫のことをすっかり忘れていた僕だったが、近所の交差点を前にして僕の足が止まった。
 …脱走したキジトラキャット…
 その猫とは立ち止まって僕のことをジッと見ていたが、やがてプイッと顔を前へ向けると歩き去って行った。
 …どこへ行く。キジトラキャット…
 僕は奴の後を追った。
            *
 やっと追いついた時、歩行補助を兼ねた座れるショッピングカートに座るおばあさんに撫でられながら身体をクネクネさせていた。
 何気ない風情で僕は近づく。
 …めちゃ懐いてる…
 キジトラは警戒心が強く中々心を開かない。
 …意外と気難しいんだよなぁ…
 機嫌の悪い時に迂闊に手を出して撫でようものなら引搔かれるか噛まれる。鈍感さ故に負傷した友人たちを僕は数か限りなく見て来たから、他人にあれ程懐いている光景を久し振りに見た。
 …うわ。腹まで見せちゃって…
 奴が脱走したキジトラキャットだとすると、飼い主は相当嫌われていたのだろう。
 …むしろ飼い主の顔を見てみたい…
 自分の下世話な好奇心に僕は苦笑した。
 ちなみに僕は、何もしなくてもキジトラに懐かれることが多い。
 …純太。ネコよりのゲイだから同類と思われているんじゃない…
 口の悪いゲイ友にそういってイジられて久しい。
 残念なことにキジトラたちに懐かれても、猫アレルギー持ちの僕としては困るのだが彼らは忖度してくれない。
 …奴も懐いてくれるだろうか…
 愛に飢えてるなと、最近シミジミ感じることが多い。

 僕には付き合って三年になる2歳年上の彼氏が台北に住んでいる。
 名前はサミー。
 外国人のような名前だが、れっきとした台湾。
 容姿も東洋人。
 本名は、陳柏睿(チン・ボウルイ)。
 一生を通して賢く聡明な人という意味の名前らしいが、実際にはそうでもなくてかなりの天然だ。
 一緒にいるとホッとする。
 ここ2年の間リアルに会えていないこともあって、僕らの関係にちょっと微妙な感じの空気を感じることが出始めていた。
 僕は、サミーと十日前にビデオ通話をした。
 いつもそうなのだが、ぎこちないのは最初のうちだけで通話を終える直前になるとお互いに恋しくなる。
 台北と日本での遠距離。
 昔と違って顔が見えるし、お互いの表情も読み取れるから助かるけど、それでも二年間もリアルに会えないでいると切ない。

『パンデミックが僕らの愛の邪魔をする』

 彼にしては珍しく、そんなことを言っていた。
 付き合い始めてから一緒に過ごせた時間は圧倒的に少ないし、いつでも会える期間よりビデオ通話でしか顔を見れない時間の方が多くなってしまっている。お互いに口に出して言わないけど我慢するしかないやるせなさは、きっと同じなのだと思う。
 でも、あまり考えないようにしている。
 今は二人にとって、こういう時期なのだから。

 キジトラの奴と距離を縮めようと歩く。
 カラン、コロン。
 腹ばいのキジトラキャット。
 キッとこちらを見る。
 僕は足を止めた。
 見つめ合う僕とキジトラキャット。
 もう一歩踏み出す。
 カラン。
 奴はくるっと身体を回して起き上がるやハンティングポーズ。
 更にもう一歩。
 コロン。
 奴はプイッとソッポを向くとスタスタと歩き出して公園前のT字路に姿を消した。
 どうやら完全には嫌われてはいないようだ。
            *
 奴の後を追って公園前のT字路に着いた時、奴はブルドックと見合っていた。
 肩をちょっと落として警戒ポーズ。
 それに反してブルドックは、弛んだ頬や肥満気味の腹のぜい肉を震わせながら息づき、キジトラキャットの奴を見たり無視ししたりと忙しい。
初対面ではないらしく、互いに気にはなってはいるように思えた。
そんな両者の緊張を打ち破ったのは、ブルドックの飼い主らしい大学生らしいカップルたちだった。
「あら。キジちゃん。可愛いッ」
 彼女はテンション高く絶賛。
 キジトラキャットに駆け寄り撫でようとするが、奴はするりと躱して去って行った。
 彼氏は、そんな彼女をにこやかに見守る。
 二人の様子に呆れ、小馬鹿にしたようなブルドックの眼差しに僕は苦笑した。
 …まぁ、引掻かれなくて良かった…
 無邪気に燥いでる二人とすれ違いながら僕は安堵した。
 …でもあいつ、案外賢い奴なんだな…
 奴が止まり、僕の顔を見ている。
 僕は下駄の音を響かせながら奴との間合いを気にしながらゆっくり歩きながら思った。
 …でも。結構すれっからしだな…
 僕の心の声が聞こえたらしい。
 キジトラキャットはプイッとソッポを向くと公園の中へ入って行った。
            *
 南台公園。
 昔からある太い幹の樹木に囲まれた公園だ。
 半分は砂場や遊戯施設からなる高台で、残り半分は低地に広場。
 僕はキジトラキャットを追って高台側の入口から公園に入った。
 早朝ということもあって人は疎ら。
 散歩途中の休憩でベンチに座る高齢の男女と砂場で子供を遊ばせている親子。若い母親に見守られて砂場で楽し気に遊んでいる一歳くらいの男の子。しゃがんでシャベルで砂を掘る男の子に寄り添っている猫を見て僕は呟いた。
「あっ。キジトラ。完全に懐いてる…」
 足を止め、その予想外の光景に見入る僕。
 キジトラの奴、男の子のぶっきらぼうな撫で撫でにウットリするだけでなく、甘えた泣き声すら奏でている。
 …女子大生には拒絶モードだったのに…
 男の子に身体を擦り擦りさせて甘えん坊全開である。
 …あいつもゲイか…
 猫のゲイの存在の有無は不明ながらキジトラと男の子の仲睦まじい姿に見入っていた僕のことを、男の子の母親が眉間に皺を寄せて警戒モード全開に注視した。
 …ヤバい。不審者だと思われているか…
 男の子の母親と目が合わなよう顔を前に向け、僕はグランドに向かって歩き出した。
            *
 グランド。
 近づくに連れて、僕はエッと思った。
「イー、アー、サン、スー…」
 中国語で一、二、三、四。
 気のせいか思って聞き流していると、悠久の歴史を想起させる胡弓の音色と旋律。
 広場へ近づくほど音は大きくなる。
 そこへ通じる石造り階段の最上段に立って僕は目を瞠った。
 …太極拳体操…
 瑞々しい樹木に囲まれた広場いっぱいに体操をするお年寄りたち。
 ただ残念ながら誰一人としてカンフー道着の人はいない。
 普段着かジャージ姿だった。
 …ひょっとしてCDラジカセか…
 参加者の前面に立つリーダーの女性の近くにかなり大きい発泡スチロール製の箱が置かれていて、その中に箱の大きさに見劣りしないCDラジカセが収まっている。
 そこから太極拳体操放送が流てれいる。
 発泡スチロール製の箱の口は参加者へ向けられているから、きっと音の拡声装置として機能しているのだろう。
 中々のアイディアだと感心しつつ、発泡スチロール製の箱にこんな使い方もあるんだなと新鮮な発見だった。
「イー、アー、サン、スー…」
 四、五十人くらいの高齢者たち。
 胡弓の調。
 梅雨の長雨で湿った地面から湧き上る湿気。
 木漏れ日。
 瑞々しくきらめく樹木の枝葉。
 どこかで見た光景に似ている。
「イー、アー、サン、スー…」
 リーダーの掛け声に合わせて乱れることなく全員が動く。
 動きやすい普段着姿のお年寄りたち。
 平均年齢はきっと、七十代後半。
 …台北でいつも泊まるホテルの近所の公園…
 フラッシュバックさながら蘇った場所と目の前の光景が重なる。
「雙臂高擧(シュアンピーカオチュー/両腕を高く上げて)」
 リーダーの足元に置かれてカセットデッキから中国語で発せられたそのフレーズを耳にした時、僕は単純に思った。
 …ここは、きっと台北の朝に違いない…
            *
 それから二日、雨が続いた。
 散歩出来ない日々は、それを恨めしく眺める僕を嘲笑うように雨を降らせ続けた。
 三日目の朝は快晴。
 逸る気持ちを押さえつつ下駄を履き、僕は南台公園へ向かった。
 公園の中には入らず道を歩きながら太極拳体操を遠巻きに見ることにした。
「イー、アー、サン、スー…」
 …うわぁ。やってる、やってる…
 今朝は日射しが強い。
 お年寄りの面々は直射日光を避けて木陰に広がって体操をしている。人数に変わりはないからちょっと密気味。
 ゆったりとした身のこなし。
 身体が固くて曲げきれない人もいるけど息はピッタリ合って、全体に美しい。
 ラジオ体操とは違った雰囲気がある。
 二つ目の角を曲がると僕とお年寄りたちの距離は一段と近くなった。
「イー、アー、サン、スー…」
 …やっぱりこの雰囲気、台北でよく見かけた風景に似てるわ…
 幻想とはいえ台湾ロスが一時癒される。
 僕はふと立ち止まり、この様子を映像に記録しようとスマホを構えた。
「イー、アー、サン、スー…」
 ズズズ。
 広場の砂利の擦れる音。
 突然、お年寄りたちが一斉にこちらを向き右手を前へ突き出した。
「ウー、リュオ、チー…」
 …うわっ。見られている…
 お年寄り全員の視線が僕へ振り注がれた。
「はい。ゆっくり前を向いて」
 女性リーダーの掛け声と共に広場の砂利の擦れる音。
 機械仕掛けのように、お年寄りたちはゆっくり前を向いた。
 何となく固まっていた僕もまた、スマホをポケットにしまうと前を向いて歩き出した。
            *
 僕の話を聞いた老板はカッカッカと高笑い。
『太極拳体操かね』
『そうなんです。結構な人数のお年寄りたちで』
『そういえば最近、太太も友達に誘われてたなぁ』
『太太も?』
『本人曰く、あたしは参加するにはまだ早いって。やんわり断ってた』
 僕が送った映像を見ながら老板は続ける。
『純さんも参加したら?』
『四十年後に考えます』
 二人、苦笑。
『でも、マジで台北の朝を思い出しましたよ』
『これでかい?』
『違いますか?』
『うーん。似たような体操している人たちはいるけどね』
 老板、ニヤニヤしながら続けて言った。
『純さん。かなり重症だね』
『何がですか?』
『台湾ロス』
『やっぱりそう思います?』
『今の状況が、もう一年続いたら死んじゃうかもね』
 僕は窓の外の空を何となく見た。
『そうなんですよね…』
『まぁ、心配ないよ。ここにも日本ロスは大勢いるから』
『太太ですか?』
『太太もそうだね。でも少なくとももう一人、猛烈な日本ロスが身近に居るよ』
『えっ。誰ですか。僕が知ってるいる人ですか?』
『多分ね』
『えっ。誰だろう?』
『言わないで置くよ』
『えっ。そんなぁ。益々気になるじゃないですか』
 老板、ニヤニヤしながら言った。
『ロスを超えて、あれは既に禁断症状だね』
『ええっ。誰誰誰?』
『きっと、そのうち解かるよ。この後に仕事が入っていてね。今日のところはこの辺でお開きにしよう。またね』
『えっ。らっ、老板ッ』
 老板の画面、ブラックアウト。
 …えっ。ちょっと。もう気になる…
 瞬時、呆然とする僕。
 画面の片隅に表示された時間が目に留まった。

 09:03

 …あっ。散歩。太極拳体操…
 下駄を履き、玄関ドアのノブを握る。
 向こう側で待っているバーチャル台北の朝に、僕の心はウキウキしている。

(END :「楽趣公園 -Long Distance-」)
(次回作:「楽趣公園 -台北早晨(Taipei Morning)-」)
(次回作アップ予定:2021.10.22予定)


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