見出し画像

自分でかんがえること;『定義集』アラン

ふらっと吸い込まれるように古本屋に立ち寄った。車で行ったから「ふらっと」というのは正確ではないのだが、まあそれはそれ。

予定外に立ち寄った古本屋で目にとまった、見知らぬ本。こういう出会いは嬉しい。

アランって、あれだ。なんか有名な人だ。『幸福論』とか。読んだことないけど。

アランは学校教師でもあり、教室で、即興で定義を書くことを生徒たちに課していたそうな。そんな授業っておもしろいかも。自身でも、言葉ごとにその定義を綴った厚紙カード数百枚を遺しており、それらが死後にまとめて刊行されたのがこの『定義集』だという。

まだ、パラパラめくって、気になるところをつまみ食いしているだけだが、なかなかおもしろい。

「ばかなこと」
まさしく、われわれの動物(獣)である人間(われわれの身体)が訓練されていない場合、ひとりでに為してしまうこと。ばかなことは、行動においてよりも言葉において人をより不快にする。(後略)

Twitterで反射的にリプしてしまうヤツだ。


「無頓着」
魂の偉大さの通常の結果。なぜなら、魂の偉大さは、小さなことにはほとんど頓着しないから。(後略)

ゆってぃは偉大な魂だったのか。わかちこ。


「哲学」
ほとんどすべての善が、またほとんどすべての欲望がむなしいと考えることによって、失望や屈辱に対して自らに警戒をうながす魂の按排(あんばい)である。

「按排」は「案配」と同義で、「物事のぐあい・ようす・程合いを考えて、程よく並べととのえたり処理したりすること」(デジタル大辞林では)とのこと。

アラン独自の定義だと思うが、人間はなぜ哲学的なことを考えるのかという1歩も2歩も引いた視点からみていて、驚かされる。


「寛容」
狂信を、ある真理への恐るべき愛を、克服した一種の叡智。

すぐには何を言っているかわからないけど、何度も読み返してジワジワきている。自分が信じていることを否定する者を、許し受け入れるというように読んだが、それだけではない気がする。どんな経験がこの言葉の奥にあるのだろう。


ひとつの言葉について、その定義を辞書で引いて調べてみること。まずそれは、基本だろう。特に書き物をするときには。

しかし思考訓練としては、アランのように、自分の中に落とし込んで、考えて、自らの言葉で定義するということが相当なトレーニングになりそうだ。

ググらないで自分で考えろということだな。どこかで似たようなことを読んだ気がした。

これだ。