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【児童虐待】「二度と親に心身を殺される子どもたちが出ないように」 被害当事者に聞く必要な行政支援とは

ーー本紙7月5日号で、被虐待児童の支援者に現状を聞いた。行政の支援策は当事者に届かず、児童相談所などへの通報数は増える一方だ。今回は虐待を受けて育った当事者2名に、何を思い、何に憤っているかを聞いた。(編集部 かわすみかずみ)

「自分を認めてほしかった」‐こうさん(40)

 こうさん(40)は、物心ついた時から母親の過干渉や過保護に悩んできた。こうさんのすることが気に食わない母親は、ことあるごとに「どうせできないから」「触ると汚れるから」などと、こうさんに何もさせなかった。こうさんは自信を失い、何も経験しないまま成長した。一時はニートになり、どうやって社会に出ればいいのかわからなくなった。母親に精神病院まで連れて行かれた。検査の結果は異常なしだったにも関わらず、母親は「やはりおかしい。(医者は)わかっていない」とこうさんへの支配をやめなかった。
 こうさんは区役所に相談に行き、家庭の実情を話した。担当職員は「子どもを愛していない親はいないんですよ」と言った。さらに「(家族が)嫌なら家を出たらどうですか?」と言われ、こうさんは理解してもらえないと思ったという。
 児童虐待の被害の多くは、身体や精神への暴力と同時に経済的に自立できない状態にする。こうさんが家を出たくても、お金はなかった。仕事ができる精神状態でもない。履歴書も買えない。家を借りる方法もわからない。どうしたらひとりで家を出られるというのだろうか?
 こうさんは自立支援施設があると知り、入所を希望した。母親は反対はしなかった。外面がいい母親は、入所に際し、施設職員に「息子がご迷惑をおかけします」などと丁寧に挨拶した。施設利用料も支払ってくれた。だが、外部から施設内のこうさんをコントロールしようとする場面が増えた。施設側は母親をシャットアウトし、こうさんの自立を支えた。
 施設では、午前中に集会所で勉強し、午後は体力作りの日々。掃除も当番制で回ってくる。時には、先輩の入所者から叱られることもあった。でも、こうさんにとって、親から離れられたことは喜びだった。自分を認めてもらえたこと、自分のために本気で叱ってくれる人がいること、自分にもできることがいっぱいあることがわかった。施設で、社会生活に必要なマナーや協調性も学べた。
 母親は、こうさんを支配できないとわかると、施設利用料の支払いを拒否し、施設をでなければならなくなった。施設職員の勧めで、住み込みで新聞店で働くことにしたこうさんは、初めて働くという経験をした。同僚は訳ありの人や、社会に馴染めない人も多かったが、皆優しかったという。
 施設を離れても、職員が月に一度様子を見に来てくれる。暖かい思いが、こうさんの中にひっそりと湧く。現在、警備員として働くこうさんは、もっと自立支援施設を増やしてほしいと政府に対して訴える。また、きちんと対応してもらえなかった行政にも、憤りが消えない。
 自分の虐待経験を語りながら、時に言葉をつまらせたこうさんに、筆者は深く共感した。筆者も被虐待者として、こうさんと同じ思いをしてきたからだ。一人でも多くの被虐待者が救われることを願ってやまない。もう二度と、親に心身を殺される子どもたちが出ないようにと、願っている。

「近所に預けてほしかった」‐そらさん

虐待は連鎖すると言われている。被虐待者が、自分のこどもに虐待しないよう必死に自分に向き合う姿を知る人は少ない。当事者への取材を通して、その姿を追った。
 そらさんは、母親から心身への暴力を受けて育った。日常的に父親の悪口を聞かされ、「馬鹿」「のろま」などと言われた。兄弟姉妹たちも母親の言動を信じたのか、そらさんを罵るようになった。兄弟姉妹と比較されることも多く、自信を失くしていった。誰も話を聞いてくれず、相手にされなかった。
 物心ついた時には、母に宗教に入信させられた。宗教的価値観の押し付けと人格否定で苦しんだ。母親に何かと「なぜこんなことするの?」と問われ、答えようとすると「言い訳するな!」と殴られた。
 それでも結婚し、子どもを2人授かった。母親は「お前が過保護に育てたからわがままになった」とそらさんを非難するなど、育児にも口出ししてきた。元夫は子育てに関心はなく、追い込まれる中で子どもを怒鳴ることが増えた。自分の子どもを怒鳴りながら、母に怒鳴られた記憶が蘇る。母親の鬼のような形相が浮かび、そらさんはパニックになった。このままではいけないと思い、必死に虐待関連の本を読んだ。自分が変わらないと子どもたちは救われない。だが離婚の際も、話し合いに介入する元夫の母親にブチ切れ、「もうあんたとは関係ないから」と絶縁した。
 離れて住むそらさんの父親に、孫を見せたいと会いに行った。そらさんの父親はそらさんの子どもの頃の話を教えてくれた。病弱でよく熱を出すそらさんを置いて、母親は飲みに行っていたという。父親が会社の休み時間に、そらさんを病院に連れて行った。その話を聞いた時、そらさんの中でストンと腑に落ちた。「自分は虐待を受けていたんだ。私はいらない子だったのかな。なら近所に預けてほしかった」。
 今は生活保護を受けながら、子どもたちと暮らす。子どもたちとは、今は仲良く暮らせていると思うという。大人になった被虐待者には、行政からの支援はない。生保で受けられる範囲のメンタルクリニックに通うだけだ。

「こども家庭庁」への名称変更 「家庭」の押し付けに被虐待者も憤り

 政府の支援策は、全く足りず、自治体の独自の支援策もない。虐待通報ダイヤルを増やし、児童相談所を増やしているが、虐待は減らない。学校で9年あまり学んでも、虐待を受けたらどこに相談すればいいかもわからなかった。自分が虐待を受けていることにも気づかなかった。「学校でもっと権利や政治、虐待について教えてほしい」とそらさんは言う。
 国会では、「こども家庭庁」創設の審議が続く。自民党の若手議員が虐待当事者を招いて20回以上の勉強会を開いた末にできた「こども庁」法案は、少数の年配議員の意向で「こども家庭庁」に名称変更させられた。そこには、年配議員が抱える票田からの圧力がないとは言えない。
 当事者が、昨年末から「Change.org」でネット署名を約30万筆を集めて、各政党に「こども庁」に戻すよう要望したが、名称は果たせかった。そらさんはこの名称変更問題について、「結局、表面だけいいことを言って、中身はない」と言った。家庭の中で育たないといけないという考えは変だし、施設や里親の元で育つ子もいる。家庭が怖い子もいる。「現実を知らない議員が多いことに絶望した」とそらさんはうつ向いた。
 こども庁創設の本来の目的は、「危機的状況にある子どもたちへの支援」だった。だが内閣府のHPに掲載されているこども家庭庁の政策で、被虐待児支援は数行だけだった。
 また、大阪府で行われている虐待防止政策は、保護者への生活指導や育児相談などが主体となっている。被虐待児の支援で最も重要な、早期発見、早期保護へのアプローチや、心身のケアへの支援策は打ち出されていない。一方、兵庫県明石市では、児童相談所、警察、学校などと連携し、保護された子どもたちが地域の学校に通えるように支援している。これは全国初の試みで、市長に権限を持たせることでスムーズに支援ができる。離婚した養育者に代わり、養育費を市が負担する制度もあり、貧困により追い詰められやすい一人親家庭を支援している。市長権限は両刃の剣だが、明石市では有効に利用されている。
 泉房穂・明石市長は、国会のこども家庭庁審議に参考人で出席した際、「これらの制度は諸外国では当たり前ですが、日本では行われていない。私は明石市の制度を誇ってはいない。むしろこどもたちに申し訳ないと思いながら行っている」と発言した。庁の名称を変更させた議員たちは、どう思うのか?
 明石市は今、人口30万人超となり人口増加が続く。おむつや遊び場の無料化など、暮らしやすい街に人々が集まる。一方大阪市は、都構想やカジノ、万博に公費を注ぎ込み、公務員数を削減した。結果市民サービスは低下し、人口流出が起こった。地元企業は大阪府から転出し、主要産業が減っていった。「こどもまんなか」政策を行っているのは、どちらの市かは問うまでもない。

(2022年8月5日号掲載)

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