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【重信房子さんに聞く・日本赤軍の教訓】夢見た革命 自己変革できる党めざして

昨年12月、重信房子さんにインタビュー。1月5日号に獄中生活の様子や20年ぶりの日本の印象を掲載した。今号では、後編として「日本赤軍の教訓」について掲載する。岸田政権による軍事大国化に対し重信さんは、人民主体の民主主義を深める活動に参加したいと語った。(編集部)

編集部:国会が始まりました。岸田政権については?
重信:アルジャジーラ・アラビア語版は、岸田首相が欧米訪問で署名した軍事協力の内容を報道していました。トマホーク配備に始まる日本を前線とする戦争準備の軍拡路線が既に本格化しているばかりか、有事には米軍のみならず、英軍も日本領土で展開することが、今回英国との合意署名で可能になったことも報じていました。英国も含めて日本国憲法違反の集団自衛権の行使である、という報道には驚きました。こうした転換が、日本のテレビではきちんと語られていないからです。
 世界から見える岸田政権下の日本は、歴史上かつてない好戦的な軍拡に突き進んでいると喝破されています。
 日本は米の植民地なのか? 米軍指揮下で敵地攻撃する自衛隊。米軍需産業の武器を最大化する国防予算の増額など、岸田・バイデン(米大統領)・スナク(英首相)会談の危険な内容の報道があまりに小さく扱われさらっと報じられています。一方で目眩しのようにウクライナの戦況を詳しく語り、ウクライナ国営放送のようにゼレンスキー発言を細かく解説する日本のTV報道には、呆れてしまいます。
 ウクライナの人々が侵略に抵抗する英雄なら、パレスチナの人々もまたイスラエル侵略に抗して戦う英雄です。テロリストではありません。新しく発足したネタニヤフ連立政権は、占領地併合とパレスチナ人追放の民族浄化推進を宣言しており、毎日のように侵略と占領に抵抗するパレスチナ人が虐殺されています。
 ウクライナ報道は、戦争準備の洗脳です。危機を煽って「軍拡やむなし」と国民が考えるようにと。軍事予算増大のために東北大震災復興予算を減らし、増税する。一方で、お座なりの子育て支援は大宣伝しますが、国民生活を改善する政策がありません。
 この物価高にやるべきことは消費税廃止です。財源は軍縮で賄えます。アジアでの紛争を仲裁する地政学的位置にある日本が軍縮してこそ、非戦仲介の役を担えます。大企業ばかりかカルトの利権とも結びついた自民党は、もはや日本の障害物と化しています。米政府従属を深める岸田政府は、その典型です。

占領下イスラエルの獄にいるPFLP議長らパレスチナ政治犯支援の国際イベント
(ガザ・2023/1/24)

「戦後民主主義」の形骸化に抗し、大学闘争・街頭闘争へ

編:60年代の戦いからどうアラブへ向かったのでしょう。日本赤軍はどんな戦いの教訓を得ましたか?
重信:わたしが大学に入学した60年代は、「戦後民主主義」の形骸化を実感する時代でした。50年代、東京・立川米軍基地拡張に反対した砂川事件で、東京地裁・伊達裁判長は「日米安保条約とそれに基づく駐留米軍は、戦力に当たり憲法9条に違反する」と判決。米軍基地に入った学生らを無罪としました。しかし最高裁は、これを破棄して差し戻しを命じました。「日米安保条約のような高度に政治的な問題は司法審査になじまない」という「統治行為論」の詭弁を発明して、在日米軍や自衛隊をめぐる憲法判断を封じる司法の流れを決定付けたのです。
 その結果、憲法よりも日米安保が優先される社会が常態化しました。最高裁判所長官、外相、米大使が謀議して差し戻したことは、米国の公文書公開で明かになっています。
 高度経済成長とともに、大学教育は産学協同路線へと大きく変化し、授業料の値上げも始まります。憲法が守られず、法律は権力の道具として使われていました。だから異議申し立てとして街頭に出て、大学にバリケードを築いてストライキをしました。
 大学紛争に国家権力が介入するようになると、学生も反撃。最初は棒を持っての抵抗ですが、勝てるはずもありません。
 1967年の10・8羽田闘争で、権力の弾圧が激しくなり、機動隊も盾だけだったのが完全武装になっていきます。こうした流れが、武装闘争を要求する時代背景にありました。
 そうしたなか、68年に中央大学で行われた「国際反戦集会」は、大きな転機となりました。アメリカからはブラック・パンサー(アメリカの黒人解放組織)、ウエザーマン(アメリカの左翼組織)、キューバからはラテンアメリカ連帯機構OLAS、フランスからは5月革命を闘ったトロツキスト系グループ、ドイツからは社会主義学生同盟などが集まり、「NATO(北大西洋条約機構)と日米安保に対して、共同で闘う」と宣言したのです。
 わたしはその時、「世界は一つになれる」、「国際主義こそが、世界の革命を一つにつないでいく力なんだ」と実感しました。集会の最後に、各国語で「インターナショナル」を歌ったのも感動的でした。後で考えると、この集会がパレスチナにつながるきっかけにもなっています。 

国際反戦集会と党の武装

 この国際反戦集会をリードしたブント(共産主義者同盟)は基調講演で、「過渡期世界論」を提起して、「武装闘争こそが突破口だ」と主張。ブントの中から赤軍派が登場します。赤軍派は、「武装闘争」を組織の結集軸としました。
 でも、武装闘争のやり方なんて誰もわからない。「東京戦争」、「大阪戦争」、「霞が関占拠」などとぶち上げますが、公明正大というか無知というか、機関誌に書いて事前に宣伝したりする。だから当局に前日に拠点校に踏み込まれ、火炎瓶は押収され、負け続けたわけです。
 69年には、山梨県・大菩薩峠で軍事訓練をしていた53人が逮捕されました。こうした失敗は、赤軍派の考え方や路線の誤りを気づかせてくれる材料だったのに、当時の私たちは武装闘争路線を疑えないまま、失敗を状況や自分の弱さのせいにし「決意」で乗り越えようとしたのです。
 その後、連合赤軍が引き起こした山岳ベースやあさま山荘での一連の事件も明らかになります。
 手段であるはずの武装闘争を自己目的化し、負け続けてもなお堅持しようとしたことが根本的な誤りでした。

パレスチナ 生存のための武装闘争

 負け続ける根拠を問うなかで、70年=「よど号ハイジャック事件」の後、国際根拠地づくりをめざして、パレスチナ行きを決意します。当時スローガンのように使っていた「武装プロレタリアート」って本当にあるのか? とにかく外へ出て考えてみよう、という問題意識です。
 70年にはヨルダン内戦が始まり、それまで国家間戦争と報道されてきたアラブとイスラエルの対立は、パレスチナ問題=イスラエルの占領問題であることを知り始めました。パレスチナを知れば知るほど、同地が解放されない限り、世界革命はないと思うようになりました。
 パレスチナに来て、武装闘争に対する考えが変わり始めます。祖国を追われ民族浄化にさらされて生きてきた人々の生存の闘争として武装闘争が生み出され、祖国解放闘争として全人民の支持を得て戦っている姿は、感動的でした。イスラエルの占領によって土地や家を奪われ、シオニストによって母親がレイプされたという話を聞きながら、人々が望んでいる祖国解放を武装闘争として実現している姿は、「武装」が小難しい話ではなく、日々の生活と直結しているのです。
 パレスチナ解放勢力は、民兵が主力です。民兵とともに訓練をしていると、統制も規律もいい加減という第一印象を持ちました。しかし彼(女)たちは、必要な時には一致して行動します。空爆や夜間攻撃にも備えて生活を作りあげ、戦闘を行っているのです。こうした彼(女)たちの闘い方を見て、「革命とは待つこと、次に勝つように如何に日常を過ごすかだ」、「革命とはスタンバイだ」と思いました。
 一方、私たちの「武装闘争」を振り返ると、人々の生活や希望と無関係に、自分たちの観念的な思いだけで行動してきたという姿に気づくのです。日本で地を這うような人々の戦いに目を向けず、世界革命のためとして武装闘争に価値を置いてきたが、それで日本の革命をどう描けるのか? 一緒に訓練した世界の仲間たちが、自国に戻って戦い勝利していくのも見ました.どうしたら勝利できるのか? と考えるようになりました。
 人々が何を望むのか?をスタートにして自分たちの闘い方を決めないといけない。自分を変えることなしに世界は変えられない、と実感し、まず、自分たちが変われる主体になることが大きなテーマとなりました。
 70年代の戦いの失敗の中で、武装闘争が必ずしも主体を強化しないことも学習しました。日本共産党も新左翼も、党の唯一性に拘泥し、無謬(誤りのない)の党を主張し続けてきたことは正しかったのか?それが、他党派との競争や内ゲバを生んできたのではないか。唯一の党である必要もなく、無謬の党観を捨てて、間違わない党ではなく、過ちを常にただす党を目指そうと考えました。「無謬の党」に代わり、「自己変革できる党」を目指すことになります。
 こうして、これまでの在り方を70年代総括として捉え返しながら、社会変革の責任を引き受ける決意を込めて、77年5月、人民新聞に日本赤軍の自己批判総括を提起しました。

パレスチナ自治区ヨルダン川西岸のジェニン難民キャンプに対し、
イスラエル軍が急襲作戦を実施。パレスチナ人9人が殺害された。

実践の中から政治をつかむ

 80年代も、国際主義、国際連帯を第一義的な活動としながら、実践のなかから政治をつかむやり方で、路線や政策を理論化しながら進みました。
 私たちの望む社会は、人間がカネの価値から解放された社会、搾取や差別のない自由な共同体です。そのためには人々が主体となれる「人民権力」を育てる必要があり、「主権在民」の徹底に人民権力への糸口があるのではないか。
 社会革命の目的を実現するプロセス・キーワードとして、「民主主義」という言葉をもう一度自分たちの概念として使うことにしました。「人民本位の民主主義」です。
 武装闘争も見直しました。武装闘争は、パレスチナのような暴力支配の過酷な被抑圧環境においては、解放闘争として正義性を持ち、民衆が支持参加して戦いを前進させますが、当時の日本において武装闘争は不必要であり、正しい選択ではなかったと。
 フィリピン、ラテンアメリカなどの経験を聞いても、武装闘争が社会革命の中に位置づけられ必然性と知恵に満ちています。また非暴力直接行動のような、地域に根差した陣地戦・ゲリラ戦の多様で楽しい闘い方を実践しています。そうした世界と違い、欧米など先進国で当時存在した武装闘争路線は、「革命を持続的に発展させえない」と、転換が問われました。多くのそうした人々は、NGOや政治グループとして非暴力直接行動に転じて戦い続けました。ドイツ「緑の党」に加わった人の中にも、当時武装闘争から戦いを転じた人々もいます。新しい戦い方は、そうした試行錯誤の中で生まれた側面があります。
 私たちは、新しい世界を創ろうとしたわけですが、育ってきた経験に基づいた母斑を避けがたく背負っています。武装闘争のために連合赤軍を創った時も、日本の天皇制軍隊を知らず知らずのうちに内在させていたのかもしれない、と思っています。
 こうして権力問題を問い直した時、かつては批判した「敵の出方論」は、有効な考え方ではないかとも論じあいました。「革命する」という思想的主導性と戦略をもったうえで、敵=権力の政策や暴力性に応じて戦術を変化させる、という考え方です。
 国際的条件の中で武装闘争路線をおろしたわけではありませんでしたが、民間人を巻き込むような戦いはしない、当時の日本での武装闘争は過ちだったと総括。そして①人民を主体とする社会形成に向けて、民主主義の徹底から社会主義へ、人民権力樹立を政治路線として、国内の後方として支援する。かつ②国際的な共同支援体制を強化しながら、一個二重の準備をめざしました。
 82年、イスラエルによるレバノン・ベイルート侵略。89年から90年代のソ連・東欧の崩壊と湾岸戦争。パレスチナのアラファト路線による、オスロ合意(93年)の混乱など。時代を経るなかで、パレスチナの戦いも厳しい時代が続きます。
 90年代に入ると、日本の中に変革主体の基盤を作ろうさまざまな努力を続けてきました。それは、生産・流通・消費の総過程で搾取・収奪されている人々の、くらしの陣地である地域を軸に社会変革しようというものでした。
 その途上で00年に私が逮捕され、さまざまな希望を破壊してしまいました。22年経た今も、当時を思うと痛恨の思いに駆られます。「総括できた」とか分かったつもりになっても、私がそうであったように慢心すれば後退します。人民を盾にする戦い方はしないと決めながら、旅券盗用してしまう過ち、自分たちを優先する活動をしていた過ちを犯しています。
 間違いを正し続けることは、希望を開く生き方であり新しい出会いを作るものだと信じてきました。だからそのような姿勢で多くの人々と出会い、望まれれば私なりの教訓をこれからも返していきたいと思っています。

「分離壁」は、「アパルトヘイト・ウォール」とも呼ばれている。絵は、バンクシー作。

経験をとおして歴史から学ぶ

編:最後に今後の抱負や予定をお願いします。
重信:まだ身体も本調子ではないし、何か責任を引き受けるほど体力、能力もありません。まず生活基盤も作りながら、ネットや交流誌をと考えていますが、まだ学習が必要です。それでも市民、国民の一人として、自民党政府を早く終わらせることに貢献したいと思います。
 また、私のことを全く知らない若者たちと出会う機会があったのはとてもうれしく楽しい経験でした。若い人たちに自身の教訓を語りたいし、若い人には経験をもっと広げてほしいと思っています。
 「愚者は経験から、賢者は歴史から学ぶ」と言いますが、私は経験こそ大切にしたい。経験があって初めて歴史から学べ、世界、日本が見えるようになると思っています。若い人にはどんどん自身の生活圏を出て、新しい出会いを作って欲しいと思っています。
 私自身は、まだ会うべき人や会おうと約束した人にも会えていないのです。新年は、会おうと誘ってくれる人たちのところへスピーチに出かけたり日本を巡ろうかと、ちょっと楽しい夢を描いています。 

(人民新聞 2023年2月5日号掲載)

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