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植物のスピリチュアル的な役割:人間と植物の関係性

僕の実家は植木生産業。
僕が中学生で不登校だった頃、親はなんとかして僕に跡を継がせようとしていました。その時に親がよく言っていたのが「植木は自然相手の仕事だからいいよ」という言葉。
この言葉を聞くたびに強い違和感を覚えました。

除草剤で雑草や虫がいない畑に等間隔に植えられた植木。松などは意図した形になるように縄で固定されて余分な枝は刈り取られてすべてが画一的な形にされている。これのどこが「自然」なんだろう?と。

僕が学校に行けない理由がまさにそれと同じ画一化教育でした。
同級生からのいじめや教師の理不尽な体罰やパワハラも原因の一つですが、とにかくあの学校という画一化の閉鎖空間に閉じ込められることが耐えられないほど辛かったです。特に中学校に入ってからはそれが顕著でした。

植物にも、人間や動物の意識とは形態が違うものの、意識のようなものがあると僕は思っていて、管理された植木は自らその意識を閉じてしまっている気がします。
植木は植木でも苗の時から子供のように大切に育てられていたものは違うと思いますが、街路樹のように「モノ」としてしか扱われてこなかった植木は意識を閉ざしていると思います。

僕が苦しめられた事と同様の行為を植物に対して行うことを仕事にしても続くはずがない。だから絶対に植木生産業を継ぐ気はありませんでしたね。

もっと言えばこの人間社会そのものが僕には不自然な恐怖の対象でしかなく、この社会で生きていくために僕自身も「意識をとざして」無理やり適応してきた。しかしそれももう終わりにして、本来の自分に戻って自分が生きたい生き方を模索することにしました。

植物と人間の関係性

植物というものの本質について考える上で貴重なヒントになり得る、平安時代の蹴鞠にまつわる興味深い話をひとつ紹介します。

当時、蹴鞠はただの遊びの域を超えた儀式的な側面があり、たとえば雨乞いの代わりにも蹴鞠は行われていました。

蹴鞠の達人で「蹴聖」と呼ばれた藤原成通という人がいました。成通は、常人には理解できないくらい寝ても覚めてもひたすら蹴鞠の練習に明け暮れていたようで、その姿からはなにか神秘的な雰囲気を感じ取る人も多かったと言います。
当時の書物「成通卿口伝日記」には、成通がある日「鞠の精」と出会ったという記述があります。

修験者のように、千日間、一日も休まず蹴鞠を続ける「千日行」を成通が満願した日の夜、日記を書こうとしていると、顔は人間だが身体は猿という異様な姿の子供が三人、気付いたら成通のそばに立っていた。
「お前たちは何者だ」と問うと、子供は「鞠の精です」と応えました。

「昔からあなたほど鞠を好んだ人は見たことがありません。あなたさまといろいろ語りたいと思い、こうして出てきた次第でございます」

成通は冷静を装ってこう聞きます。
「鞠は人が蹴鞠をするときには鞠の精は生きているということもできるが、人がそれをやめてしまえば、そのときには生きているとは言えないだろう。お前たちはそうなったときにはどこに住んでいるのかね」

「人が蹴鞠をやめてしまえば、私たちは柳の林に戻って住むことにしているのですよ。人々が蹴鞠を愛好している時には、国も栄え、後世にも影響を与えると申されます」

「蹴鞠が現世に良い影響をもたらすというのはわかるが、後世にまで影響を与えることができるのかね」

「人の心はたえず思い乱れ、一日のうちに心に浮かぶ思いのほとんどが、罪の種子となっています。しかし鞠を好む人は、いったん庭に立ちますと、それからあとはただ鞠のことの他には何も余計なことを思わなくなります。蹴鞠をすれば功徳を積むことになるのですから、ますますこの道にお励みなされますよう。蹴鞠をなさるときには私たちを呼んでくだされば、木を伝ってすぐに参上します。ただしまわりに懸木のない場所で行われる庭鞠は、ご遠慮のほどを。木から離れてしまいますと、私たちはご奉仕することができません。私たちはたえずあなたを守護し、ますます蹴鞠の道に上達することを約束いたしましょう」



僕は成通のこの経験は、植物と人間との関係を知る上で貴重な情報の一つだと思いました。結論から言うと、植物は、人間の意識と目には見えない世界の意識をつなげる媒介役を果たしていると僕は捉えています。

釈迦は大きな菩提樹の下で悟りを開いたと言われています。菩提樹が、目に見えない世界を見る(知る)ための媒介役として必要だったのだと思います。

弥生時代以後、植物をモノとしてしか考えなくなくなり、伐採して田畑や更地に変え、それと共に媒介役の自然の植物もその多くが失われたため、人間が目に見えない世界と繋がる能力も失われていったんじゃないでしょうか。自然と共生していた縄文人はその能力を確かに持っていたし、自然と人間の関係性についても本質的に理解していた。

成通の場合は蹴鞠でしたが、なにも蹴鞠に限った話ではありません。絵画や音楽、舞踊などの芸事など、「人が無心でなにかに没頭する事」すべてに当てはまるはずです。

マントラ修行や写経などもそう。
マントラは真言と訳されますが、その文字や言葉にどんな意味があると思いますか?
実は意味なんて無いんですよね。というより「意味があってはいけない」です。言葉のなかに意味があると、それについて思考してしまう。思考しないように、ただ無意味な言葉の羅列を頭の中で繰り返すという作業に没頭する。その行為によって無心になり、さらに変性意識状態となり、目に見えない世界を感じ取る、という手法です。
言葉は別になんでも良いので「キャベツ、キャベツ」とひたすら無心で唱えるだけでもマントラと同様の効果があります。

鞠の精が成通に言った「人が蹴鞠を愛好しているときは世は安泰」。
この言葉の意味は、目に見えない世界の存在や世界の本質を感じ取るために無心になる事の重要さを説いているのだと思います。
それができて初めて人間は自分の立ち位置や向かうべき方向が定まります。

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