「死」の無い世界で。

元来、人間には「死」というものがあり、それに恐れていたと言う。今の我々には理解が及ばないものだ。その「死」にも大きく分けて3種類あり、自然死、他殺、自殺と分類される。自然死は病気や老衰によって、つまりは人間が干渉しない結果に死ぬことであり、それに対して、他殺は他人によって殺害、自殺は自ら死ぬことであり、自他を問わずに人間が干渉した結果による「死」である。ふむ、わたしは、この中だと自殺が最も合理的と判断できる。自然死と他殺はいかなる場合においても人生に悔いを残すだろう。その点、自殺はそうでなく、自らで人生の区切りをつける、苦しみから逃れる、今が1番楽しくその後の人生は幸福度が下がる一方であるから「死」を選ぶ。そうわたしは考えた。しかし、調べてみるとどうも自殺はそんなに喜ばしいものでもないらしい。わたしが読んでいる書物にはこう書かれている。-「自殺と他殺の違いは無い。どちらも対照的なポイントが存在するものの、全体で見ればそれらは同じ意味であり、それらを比較するすることは無駄であろう。」-はて、自殺と他殺の差異はないと、ふぅむ。わたしは、もう一度考えて、その意味を推測した。つまり、こうだ。わたしは、自殺と他殺の共通点は自他を除いて考えると、人間が関与していることだと上記で述べた。この書物では、自分と他人を区別していないのだろう。他殺において、他人がわたしを殺そうとするとき、他人はわたしについて関心を持つ。それが例え無差別殺人だとしても完全に無意識でわたしを殺すことはできない。そのときから、そのときと言うのは、他人がわたしに関心を持ったときから、他人はわたしになり、わたしがわたしを殺す自殺となる。自殺においても、わたしが死ぬと決意した瞬間に、わたしは自らに殺意を向け、わたしは他人になり、他人がわたしを殺す他殺となる。なるほど、あらゆる場面においても、ある刹那を切り取れば自殺と他殺は同義となるのか。
わたしは、わたしが読んだ書物が出版されてから、途方もない年月が経った世界に生きている。そしてまた、生きているという表現も間違っている程に途方もない年月を生きている。それはわたしだけでなく、わたしが認知している人間全てが、多少の誤差はあるものの、わたしと同じくらいの年齢である。ここで多少の誤差と言ったが、その誤差は、人間が誕生してから、「死」が無くなった年月よりも大きいらしい。「死」が具体的にいつから無くなったかは、未だ研究されてはいるものの、研究者によると、ある3つの仮説うちどれかが正しいということは全員一致していると論文には示されている。わたしが、「死」に興味を持ったのは、ある授業中のことだった。それは、民俗学の授業であり、そのときは神話がテーマとなっていた。中でも興味を持ったのは北欧神話である。北欧神話では、神ですら不老不死ではないらしい。よっぽどわたし達のほうが神ではないかと、それは驕りでもなく、本当にそう思った。わたし達未満の神は不老不死になるために金のリンゴを食べなければならず、最終的にはラグナロクという戦争でほとんどの神はいなくなり、2人の人間が残ったという。もしかして、わたし達は、争いのない平和な世界で金のリンゴを食べた結果でこうなったのかもしれない。
そうなると、争い、つまりは「死」に対して興味を持つのは必然とも言える。しかし、この世界では、なんとなく「死」について調べることは忌避すべきという雰囲気がある。別に法律で禁止されているわけでもなければ、研究に対して批判があるわけでもない。なんといか、マナーとして、ダメだよね、みたいな。わたし達と「死」の間には漠然とした、しかしそれはそれは立派な壁がそびえ立つ。考えてみれば、当然とも言える。わたし達には、楽しいことが沢山あり、嫌なことからは逃げてもいい。それどころか、覚えてる限りでは、嫌なことはあったものの、いつだったかはもはや忘れた。そんな世界では、「死」は特段の意味をなさないのだろう。その結果、世界は「死」を拒絶まではしないけれど、わたし達からは、離れた場所に存在するものとして扱うことに決めたのだろう。わたしは、その壁に真っ向から立ち向かい壊そうとは思わない。こそこそと回り込んだり、頑張って上に登ってみようという程度の心持ちである。

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