一昨日のこと。②

「ありがとうね。俺、前に脳梗塞ばしとるけん転んだら立てんとよ」

脳梗塞だったのか。

それで呂律が回らなかったのか。

おっさんをただの酔っ払いと決めつけ、色々ためらってしまった私は心が汚れすぎているのか。


男性は道路を横切った時と同じように、またのろのろと歩き始めた。

由巳姐さんが

「おうちは近所ですか?大丈夫ですか?救急車呼びますよ」

と何度も声を掛けたが、男性は

「よか、近くやけん」

としか言わない。

気を取り直し、私も

「雨も降りよるし救急車乗りましょう。倒れたし病院行きましょう」

と言ってみるが、男性は

「よか」と拒み続けた。


男性は麻痺のない右半身でもたれるようにビル壁を伝い、フェンスを伝い、

左手に握らせたショッピングカートの車輪は何度も側溝の穴にはまり、

雨は更に激しくなり、

男性の歩みに合わせて傘を差し掛けていた私もずぶ濡れになってしまった。


由巳姐は歩き始めてからずっと「おうちはどこですか?ここから近いですか?ご家族とは一緒に住んでますか?」などと声を掛け続けている。

ようやく男性は、家族と「そこの角ば曲がって韓国料理屋の向かい。ナナマルロクゴウ」に住んでいることが分かった。

目と鼻の先ではあるのだが、私たちにとっても長い道のりに感じられた。
それより、男性の服装からして家族と住んでいるとは到底思えないし、その角を曲がったら本当に家が現れるのかどうかも分からない。

いつになったら私たちは車に戻れるんだろう?

不安が煙のように広がって、私は男性に向けていた傘を自分に戻し、小走りで曲がり角の向こうを見に行った。

「韓国料理屋の前?クリーニング屋の横にあるビル?」と大声で尋ねると、男性は「そう」と答えた。

良かった。ゴールは近い。

私は男性の隣に戻り、また傘を向けた。


男性と住まいのあるビルの向かい側に立った。

やっと解放されるのだ。

「先にカバン、置いて来るけんね」と言うと、入口の手前にある3段ほどの階段を駆け上がり、グリーンの取っ手のトートバッグをエレベーター前に置いた。私、ずっと持ってあげていたんだよ。

あとは男性と、杖代わりのショッピングカートがビルの中に入れば、私たちの任務は終了する。

由巳姐はご家族に事情を説明してくる、と言い残して一足先に7階へと昇って行った。

数十年は経っていそうだけど、掃除の行き届いた鉄筋のマンションで、入口は自動ドア。

だけどその瞬間、すごく嫌な予感がした。


また転んだ!!
そんな気がしたんだよ!!
ジジイいい加減にせえよ!!

階段手前で転びやがったから、ジジイに「階段に手ぇ付いて!!体起こして!!」と叫びまくった。

ビル街の闇から、スーツ姿の中年男性がこちらに歩いて来るのが見える。良かった、一緒に抱えてもらおうか。
中年男はジジイと私をガン見しながらも風のように通り過ぎて行き、振り返ることもなかった。

ジジイ、あいつにも起こしてくれって言えや!!

図々しくも、ジジイはもう両手を突き出している。

私はまたこのジジイの手首を掴んで引っ張り上げなければならないのか!!

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