副代表挨拶:大江創平

前々から再三書くように言われていた「副代表挨拶」をとうとう書かなければいけなくなってしまった。しかし私にはありがたいお言葉も書けそうにないし、代表や副代表が書いた挨拶と被らない内容の京論壇紹介もする自信がないので、自分と向き合う時間に使う。どんな結果になるかは私自身わからない。読んで後悔しても不満は受け付けない。

唐突だが、最近常に焦燥感に駆られている。自分はこんなんじゃだめだという気がしている。ただ、その不安はとても漠然としたもので原因はわからない。

そして、その漠然とした不安の正体を明らかにするために自分と向き合うことにも抵抗がある。おそらく、それを言語化して正体を明らかしてしまうと、もやもやとベールを被っていた不安が自分をえぐる刃に様変わりすることを無意識のうちに感じ取っているからだろう。

心の中を探っていくと、僕の不安の根源は将来に向けた今の時間の使い方に関するものだという気がする。高校生の時にはなかった類の不安だ。そしてこの不安は、自分が立てた目標に対する自信のなさに根差したものだ。

高校生の頃を思い返すと、僕がした決断は文理の選択くらいだった。文系だったら官僚、理系だったら医者と考えていたが官僚の方が向いてると思った僕は文系にした。

だが、いざ大学に入ってもうちょっと真剣に考えてみると職業は官僚か医者だけじゃなかった。それどころか多くの優秀で人格的にも魅力的な周囲の人たちは起業も視野に入れつつガイコンやガイギンに就職するみたいだった。もちろん官僚を目指している人たちも公共精神にあふれていて魅力的な人が多いが官僚の待遇はもとより、ワイドショーやSNSを見る限り昨今の社会的な評価ははるかに劣るようだった。このようなことに対する違和感、否、このような現実に直面した僕の自分自身の気持ちの変化に対する違和感があった。

筆が進んでいくうちに気づいてきた。
僕の悩みは大きく分けて二つ
・自分軸で生きていると思っていたはずの自分が、社会的評価や金銭面の待遇といった俗な評価を気にしてしまっていることが受け容れ難いこと。
・司法予備試験に向けて勉強するという「決断」のもとにモラトリアムを延長しているだけであること。

僕の自己認識において、僕は非常に自信家でそれでいて自分の信念がありその信念に概ね忠実に生きている人間だ。そしてその信念とはとてもざっくりしているが「よりよい社会の実現のために少しでも貢献すること」だ。「平等」や「正義」、「幸福度」という軸でもって「よりよい社会」の解像度を高めることを大学における勉強の際の目的にもしている。
そんな崇高なはずの僕の人生目標が待遇や他人の評価という俗なものを前に簡単に動揺してしまったことを自分自身恥じているんだと思う。(これは間違っても、先ほど列挙した職業を選択された方が俗だという発想の言説ではない。)

次に私事になるが、つい最近僕は法律を勉強し司法予備試験を受けることを「決断」した。
大学に入って様々な職業に関する知識が広がると、圧倒的な選択肢の前に、自分が問題意識を持つ課題をどうやって解決すればいいのか、少なくとも職業レベルではどれが最適解か、という問いに直面した。周りの人たちは続々と道を決めていく。そんな中で焦りもあり、自分も道を選び取らなければならないというある種の強迫観念があった。
そうして法律を選び取ったようにも思われるが、実際のところは以下のようなところだろう。「法律の知識はビジネスにおいても役に立つ上に、公務員試験法律区分を受験するにも有利になるし、そのまま弁護士になってもそこそこの生活を送れそう。」
けっきょく、僕は積極的に「決断」を下し、道を選び取った訳ではなく、ただ現状の選択肢から導かれた最大公約数的な分野を消極的に進んでいるだけに過ぎなくはないか。しかも予備試験の勉強はそれなりに大変で時間を拘束してくれるから、しばらくはこの永遠に答えの出ないように思われる問から合法的に逃れることもできる。

漠然とした不安の正体は
①主体的な選択をしたようで、結局はモラトリアムの延長に過ぎず、根本的な解決になっていないこと。
②人生選択に直面して、自分の中で小賢しくて俗な部分が膨張していることに対する戸惑い。
であった。暴いてしまった以上、ちゃんと受け容れて生きていこうと思う。

以上が本気で自分と向き合ってみた結果になるが、挨拶と銘打ったとんでもない随想に付き合わせてしまって申し訳ない。自由なコミュニティという京論壇の数ある魅力のうちの一つを恥を晒しつつ体現したものだと考えていただければ幸いである。

大江創平

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