医療技術と死生観分科会コラム②、杉浦有香

こんにちは。医療技術と死生観分科会からのコラム第2弾を担当いたします、杉浦有香です。やばい!!コラム?!何書こう?!?! と悩み出して約2週間、やはり私を京論壇へと誘ってくれたテーマである、生命倫理について書こうと思います。


そもそも、生命倫理を議論する上で何を大切にしたらいいのでしょうか。正解はありませんし、時と場合によって答えはどんどん変わるでしょう。その中で私は、京論壇で議論するにあたって、どうにかして人の気持ちを考慮に入れてみたいのです。
とはいっても、定量化なんて簡単にはできないし、下手をしたらその場の気分に振り回されてしまうことになってしまいます。現に私も、当事者の方々の心情に寄り添った記事を見ては、その論調に引っ張られ…ということも多く、反省しきりです。


「気持ちを考慮してみたい」といっても色々なやり方が考えられますが、私がやってみたいことは主に2点あります。

まずは、ある技術や概念について聞いたときの直感のわけを探ってみること。安楽死、中絶、臓器移植などのテーマや、それらの詳細な事例に直面したときに、強い感情が呼び起こされるかもしれません。もちろん、このような感情や直感は、知識を得ることや議論をすることを通して変化していくこともあるでしょう。そのような議論の過程で、それぞれの人の中で初めの直感がうまれた背景まで探っていけたら興味深いと思うのです。近いバックグラウンドの人から真反対の反応があるかもしれないし、その逆もあるかもしれない。直感のわけを探ることで、人や自分が無意識のうちに重視している考え方を発見できたら、議論もさらに深まるのではないでしょうか。

そして次は、議論の中でさまざまなケースを扱う際に、当事者の立場からの気持ちを考えに入れること。結果だけ考えたら不合理に見えても、心情を考えたらとてもよい判断だった、というようなケースもあると思います。また、例えば臓器移植におけるドナー側とレシピエント側のように、立場の違いで対照的な心情になることもあるでしょう。自分が完全な当事者ではないテーマについては、勝手に共感するなんてことはもしかしたら傲慢なことかもしれません。それでも私は、ある個人的な経験から、生命倫理を考えるうえで気持ちを考えることは欠かせないと信じています。議論の中でうまく気持ちを扱う方法を、少しずつ見つけていきたいです。


具体的な例をあまり出さずに書いたら、ぼんやりした内容になってしまいました。
ここで書いたようなことは、勝敗がつくディベートではなく、議論をする場である京論壇だからこそ追求できることだと感じています。自分自身の未熟さゆえになかなか上手くまとめられないこともあるのですが、このようなことに耳を傾けて一緒に考えてくれる仲間が京論壇にいることが、本当にうれしいです。

杉浦有香


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