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パリ―麗しき

美しいパリは、こうした精神的、肉体的苦痛に喘ぐ蒼褪めたひとびとに頓着しない。パリはまさしく大海なのだ。その海原に測鉛を投げ込んだところで、けっしてその深さを測ることはできないだろう。その海を網羅し描写しようとするならば、どれだけ注意を払っても足りない。どれほどたくさんの人間が心惹かれてその海を探検しようとも、そこに行けばいつだって手つかずの場所、知られざる洞窟、花、真珠、怪物が見つかるのだ。

バルザック『ゴリオ爺さん』,光文社,2016

人間の歴史は下水溝渠の歴史に反映している。…パリーの下水道は古い恐るべきものであった。それは墳墓でもあり、避難所でもあった。罪悪、知力、社会の抗議、信仰の自由、思想、窃盗、人間の法律が追跡するまたは追跡したすべてのものは、その穴の中に身を隠していた。
十四世紀の木槌暴徒、十五世紀の外套盗賊、十六世紀のユーグノー派、十七世紀のモラン幻覚派、十八世紀の火傷強盗、などは皆そこに身を隠していた。百年前には、夜中短剣がそこから現われてきて人を刺し、また掏摸は身が危うくなるとそこに潜み込んだ。森に洞穴のあるごとく、パリーには下水道があった。

ユゴー『レ・ミゼラブル(四)』,岩波文庫,1987

僕はまずここで見ることから学んでゆくつもりだ。なんのせいか知らぬが、すべてのものが僕の心の底に深く沈んでゆく。ふだんそこが行詰りになるところで決して止らぬのだ。僕には僕の知らない奥底がある。すべてのものが、いまその知らない奥底へ流れ落ちてゆく。そこでどんなことが起るかは、僕にちっともわからない。

ーマルテ,静かなしんとした部屋で
リルケ『マルテの手記』,新潮文庫,1953

歯医者の家から出て(火曜の朝だと思うが──あるいは、木曜の朝だったかもしれない)、W……街の方へあがってくるとき、奇妙な体験をした。この奴隷の身であるわたしが、どうしてこんなバスに乗ることができるのだろうか。ほかのだれかれと同じ資格で、一二スー出して、バスを利用することができるのはどういうわけだ。これこそ、尋常でない恩恵ではなかろうか。

ヴェイユ『工場日記』,筑摩書房,2014

「そうか、パリから来たのか。では、きみたち学生諸君は、パリで、どうやって時間をすごしているのだい?」と、パンタグリュエルは聞いた。
「われら黎明よりセーヌの流れを渡河いたし、都邑の岐路追分けを徘徊、ラチンの咳睡を泡となし、恋愛予備役として、一切合切の形状性状の婦女をば、好意もて獲得いたす。して折節には、妓楼に登り、ウィーナス的法悦にて、いとも親愛なる傾城の羞恥の淵の深遠にまでも、われらが魔羅をば沈
潜せしめて、爾後、金をば取りし有償居酒屋、それすなわち、《松毬亭》《城郭亭》《ラ・マグダレーヌ亭》《牝驟馬亭》などにて、パセリをば挿入せしめた、美味なる羊の肩肉を食す。 しかるに、たまさか、われらが財嚢に金子が過疎にして払底をかこち、錆びたるメタルが枯渇せし折は、勘定代わりに、典籍ないし弊衣をば質草として差し出して、父祖の地なる、家の神、竈の神よりの使いを待機するものなり。」

ラブレー『パンタグリュエル』,筑摩書房,2006

今や、私にとってこうした散歩は至福のとき である。だが、かつて、私がつかの間の栄光を味わっていたころには、こうした孤独な散歩が面白みのない退屈なものに思えた。
栄光と散歩は相容れない。孤独であってこそ、自身との純粋な対話が実現する。
…だが、今のように穏やかな幸福感を味わうことはなく、サロンでの議論に興奮した頭で、くだらない考えに気をとられたまま歩いていた。サロンに残してきた人たちの幻影が散歩先までついてきて消えなかったのだ。ひとりになっても、利己愛の高ぶりや世間の喧騒が私の目を曇らせ、木立の瑞々しさが見えていなかった。

ルソー『孤独な散歩者の夢想』,光文社,2012

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