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【絵画読解】山谷深くして気韻生動す

中国の画家たちは、自然の秩序がみずからその姿を明らかにしてくれることを願いつつ、何年も山水をさまよい歩いた。自然の秩序は、宇宙の秩序が人間の目に見えるかたちをとったにすぎないからである。

『中国山水画の誕生』マイケル・サリヴァン,青土社,pp. 15-16

もはや恒例の、絵画読解記事。今回もCasieで借りた作品、あきこ屋《The Story of the Monkey King》を題材として、さまざま思いを巡らせてみたい。

あきこ屋《The Story of the Monkey King》

西遊記を題材にしているらしい動きのある作品を一瞥して、立ちどころに浮かびあがるイメージがある。それは、中国奥地に屹立する山々の原風景である。千年以上の歴史が脈打つ水墨山水画が描いてきた雄大な自然である。

なによりもまず、この絵は山水画を強烈にイメージして描かれたものと推測される。まずはこのあたりを確認して行こう。

中国山水画とはなにか

豊かな水系と1億年に及ぶ岩石の侵食が形作った断崖絶壁の峰は画像で見てすら圧巻の一言である。鋭く切り立った彫刻のような山、そのむき出しの岩肌に樹木がへばりつき、山あいには青々とした河が横たわっている。黄山や桂林をはじめとしたおびただしい数の霊峰は、今も昔もかの国に固有の景観であり続けている。

このいわゆる山紫水明の風景が、そこで暮らす人びとの精神性と密接に繋がらないわけがない。中国では古来より、これらの山々に霊的なものが宿ると考えてきた。それを絵に表す画家は仙人でもあり、自然を型取る=象ることはこれすなわち神を顕すことであった。


山水画は直接には6世紀ごろの唐の時代に体系化されたといわれる。しかしその源流には漢代からの壺の装飾や石窟寺院の壁画、風景画があり、唐代以前に盛んになった道教-タオイズムの自然主義もこの芸術表現を内奥から支えている。荘厳な巨視的自然のうちにポツリと置かれる人物像としての点景は、人と自然の融和、隠棲の思想の表出としてこの画法の際立った特徴となる。

展子虔《游春图》-Wikimedia
巨然《萧翼赚兰亭图》-Wikimedia

この様式は日本にも早くから渡って狩野派などにも影響を与えている。奈良の正倉院にある琵琶に付された唐絵《騎象奏楽図》は、遊山的な世界観を端的に表す山水画の典型である。

これら作品の画題や構図、構成要素と描かれ方をみていけば、今回取り上げる作品はこの画法がかなり直接的なモチーフとなっているように思われる。こんなに言葉を並べずとも「山水画」でググってみれば一目瞭然であろう。

「画の六要」と「気」の概念

さて、山水画との類似性を念頭に置きながら、《The Story of the Monkey King》を読み解いていく。

山水画の重要な要素として山(岩)、水、樹木、霧/雲、人物画といったものがあり、本作にはこれらのほとんどが網羅されている。加えて、ビビッドで異様な彩色がさながら仙界のような作中世界を幻想的に立ち上がらせている。中心上部でひときわ目立つ悟空の造形も大きな特徴である。

大きな曲線でふち取られた俯瞰的な深山幽谷の只中にそっと配置されている幾つかの家屋からなる村落と、天然橋を渡る3人の点景。画面中央でそれらをぶった切るような大きな白滝と悟空の躍動感が強い印象を与える。

村落
西遊記御一行

山水画では、気の流れの表現がもっとも重要視される。この「気」というのは中国古代思想である易経や陰陽五行などから受け継がれてきた複雑な概念で、宇宙の秩序が自然のなかに反映されたものとも、生命のエネルギーとも、さらには道教におけるタオの実在的な形といった意味をも含む。このような生命のエネルギーたる気の流れが、具体的な形象として表現されてくる。

五世紀末に南斉の謝赫しゃかくがまとめた中国絵画の「六法」において、「気韻生動」が第一の項目として登場している。気が大気の流れとして絵の中でいきいきとしたリズムを持って表現されている重要性が、ここではじめて明言される。水墨山水画の創始といわれる十世紀の荊浩けいこうが、これをより思想面で洗練させる。

荊浩の注目すべきもうひとつの芸術上の業績は、気の理論の山水画への導入である。"気"は、『筆法記』のなかで不思議な老人から授かった“六要"の第一にあげられている。
気の概念は、中国古来の自然・人文科学の根底にある理論で、気は第一に大気として空中に充ち、風雨雲霧などの気象をはじめ、四季や朝夕の変化をもたらすとともに生気として人間や鳥獣草木すべて森羅万象のうちに内在して生命活動の淵源となる。大気と生気は本質的には同一のものであり、呼吸によりたがいに循環すると考えられていた。

『山水画とは何か』新藤武弘,福武書店, p. 36

気の流れとは生命の気運あり同時に大気の流れとしてもある。これが画家を通して実在的な線として描かれる。体内を流れる呼気もまたこれに即応し、《The Story of the Monkey King》においては必死に先を急ぐ孫悟空の流れるような輪郭線としてだけでなく、鑑賞者にまで漏れ聞こえそうな息遣いとして、キャンバス全体を駆け巡る。


本作全体にあふれる躍動感はまた、幾つもの重層的な対比によってサポートされてもいる。まずは高い山と深い谷の圧倒的落差。そして手を伸ばせば右足に触れられるかと見紛うほどの手前にいる悟空と、はるか遠景の峰々がなす壮大な遠近感。金色の夕暮れと空の上部に迫りくる夜の帳。

さらに画面左右の対比も明瞭だ。右側高所には寂寞として険しい山道、そこに葉の落ちた寒々しい鹿角枝の木が置かれている。右側低部谷底の人里の温かさやそこへ向かう3つの"人"影。

これらすべての拮抗した関係が、どこかほのぼのとした三蔵一行の静と、悟空の動の対比がもたらす躍動感と緊迫感を力強く支えている。そういえば、雄大な自然と人事の些事の対比もまた、山水画の精神の核であるのだった。

日記としての『西遊記』

さて、悟空はなぜ急いでいるのだろうか。『西遊記』は中国四大奇書に数えられるほど荒唐無稽な物語で、つねに事件が起こりっぱなしである。するとこの主人公は、なにか風雲急を告げるような不穏な知らせを持ってくるのだろうか。あるいは、度重なる蛮行ゆえに三蔵から何度も破門宣告されており、置いていかれたところから謝りに疾走しているのやもしれぬ。

上部に夜が迫っているのを見ると彼らの方でもすでに夕刻、険しい山道ではこの後いくらも進めまい。この日は十中八九向こう岸に見えている村に宿を求めるしかないだろう。山間の行脚で疲れた足を休めるための憩いの場へと赴かんとする一行に、他の理由の有無はどうあれ、日暮れ前にはなんとしてでも追いつかんと急いている猿一匹なのである。それゆえに、かほどの高所からも飛び降りる。

山水画はその興りに際して、各地に遊行した詩人たちの絵日記のようなもの~「行旅図/行程図」として発展してきた面がある。詩を綴り、その余白に同じ筆で絵を描く。一流の詩人が一流の画家でもあった。これが山水画をめぐって「書画同根」と言われる所以である。

そして奇遇にも、今回の画題である『西遊記』の「遊記」とはこれまた旅行記という意味である。天竺へと仏教経典を読みに行く旅の、本人たちによる記録(というテイ)の物語である。有名どころだと、日本の仏僧河口慧海『チベット旅行記』が全く同じ目的でチベットへと赴く道中の記録であり、死にゲーライクな壮絶な旅路を克明に記したノンフィクションの傑作である。

すると、西遊記×山水画というこの絵は、実に三蔵法師の手によって旅行記の一部として描かれた(というテイの)作品と解釈することもできる。旅をしながら記録を残す文人の役は、この人妖混在チームの中では当然ながら三蔵が担うしかないであろう。その場合、作品全体の持つ意味にまたひとつ面白みを加えることができる。

三蔵が自らの行程を俯瞰して描いたとして、このときの悟空を実際に彼自身の目であんな低所から克明に捉えていたとは信じがたい。なのであれば、必死の形相で空を駆ける悟空の形象は、三蔵によるイメージである。その想像は、悟空が再びこの旅路に加わるために「急いていた」、いや、急いていてほしい―望むらくは、破門されるに至った蛮行を心底悔いて、そして気持ちを新たにして―という希望をつよく投影した絵日記に顕現したのだ。

もちろん上記はこの絵の数ある解釈の道筋のうちのひとつに過ぎないのだけれど、ひどく個性的で御し難い妖怪たちをなんとか束ねながらインドを目指す三蔵法師の我慢づよくも苦労あふれる道行きに同情しつつ微笑んでみても、それほどバチは当たるまい。賑やかなれど人間一匹、実は孤独な旅情、なのである。

東西様式の妖しい混淆 

行旅図(絵日記)としての山水画は、とはいえわりとマイナーだったらしい。本丸はむしろ、冒頭で触れたような自然と融和する山居者の描出であり、山奥の秘境での隠棲の図像化である。儒教的な高邁さと礼節を持って人と交わり生きることが求められた都市部の政治空間において、決して叶わぬ望みとしての仙界が描かれ、知識人たちの部屋に飾られた。理想の象徴としての桃源郷である。

ジャンルの興隆期には『楚辞』『太公望』などの故事や神話的モチーフが幻想的な自然のうちに描かれたものの、いつしか現実に行きたい土地が描かれた実景山水画として、あるいは西洋の宮廷芸術よろしく肖像画的機能を併せ持つ文人山水画のほうへと流れていった。

これらを踏まえたとき、実は本作品の面白さは一層際立ってくる。

天竺への到達を目的とする西遊の旅において、途中の行程はすべて手段にすぎない。いま描かれている遊行の場面はそれ自体理想ではなく、むしろ遠方にある理想へと赴いていく運動のいち場面にすぎない。作中に表現されている躍動感は、ここではない場所へと突進する力であり、はるか西域へと飛翔する精神の、刹那の現実化である。

その意味では、山水画という画法の持つ精神性と西遊記の物語構造は端からボタンが掛け違っているとも言える。理想化する力と、べつの理想へと逃れていく力の拮抗がそこにはある。かたや、脈動する線がロゴス的自然の形を証し、臨在する神を写すべく紙面いっぱいに充満する気のエネルギー。かたや、その額縁の内部には見出しえない輝く普遍へと引かれ、そこへ動くはたらきそれ自体が自らの普遍=作用の本質を現実態としてあらわすダイナミズム。


実のところ、あからさまに中国山水画の構図を採用する《The Story of the Monkey King》には、しかしその伝統にクリティカルな画法である皴法がほとんど見られない。

出典:「皴法」-百度百科

また空のグラデーションの付け方など、明白に西洋画の技法が採られている部分も散見される。意識的にせよ無意識的にせよ、観念的な理想主義を空疎な形式にすぎぬと突っぱねる気配が、作中にひそかに漂ってはいる。

しかし他方では、中国文学の碩学、中野美代子が『西遊記の秘密』のなかで、物語を彩る数多くの要素がタオイズムや陰陽五行と密接につながっていると指摘していたりする。『西遊記』の方もむしろ、仏教的な写経/布教物語という単一の主題に収まりきらない土着性にまみれているということか。これは未読だけれど面白そうで、今度読みたい。


本作が見るものを圧倒する勢いと迫力は、単にその外面的な疾走感だけから来るものではない。そうではなくて、画面一体に渦巻く気の流れと、理想の行方をめぐる手に汗握る主導権争いに依っている。それら重層的な変転そのものが宇宙の秩序であり、これが実在の線をなして読者の視界に流動してくるのである。山谷深くして、気韻生動するのである。


参考文献

『山水画入門』王学仲,2003,岩波アクティブ新書
『中国山水画の誕生』マイケル・サリヴァン,2005,青土社
『花鳥・山水画を読み解く』宮崎法子,2018,ちくま学芸文庫
『山水画とは何か』新藤武弘,1989,福武書店


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