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裏も表も印刷だけの年賀状なんて

裏も表も印刷だけの年賀状なんて、インク代もハガキ代も切手代ももったいないので、どうぞわたしには送らないでいただきたい。

そんな気遣いをしてもらうのが新年早々申し訳ない。
というよりも、宣伝ダイレクトメール以上に意図がわからなくてもやもやするから、本当にご遠慮申し上げたい。
なんのため? どうしてほしいの? としつこく考えてしまうのをやめたい。考えさせないでほしい。
こんなにも、もらってうれしくないハガキは、年間通して他にないだろうと毎年毎年思うぐらいに要らない。

生存報告だろうか。
わたし、生きてるよと教えてくれているのだろうか。でも印刷だもの。それが本当にそのひとの手によるものかどうかわからないじゃないか。
いや、ほとんど本人であるとは思うけど。
そのひとのひととなりなんて、このぺとりと均一にインクがのせられた裏表のハガキのどこにも見当たらないじゃないか。

わたしの生存を確認したいと思ってくれているのだろうか。
宛先不明で返ってこないから、あ、生きてるのね、的な。

惰性だろうか。
なんとなく、やめるきっかけがないから、とりあえず送っておくのだろうか。
一言書くほどの労力は費やしたくないけれど、やめるほうがエネルギーがいるから。だから続けているのだろうか。

もうそろそろやめましょうと、わたしから一筆書いたらよいのだろうか。それは相手を傷つけるだろうか。
わたしも、かなり傷ついているけど。
毎年毎年じわじわ傷ついているけど。
一年ぶりであっても、わたしには何ひとつ言うべきこともないのかとかなしくなってしまうんだけど。去年書いたわたしの何某かの一筆は、あっさりとなかったことにされてしまったのだろうかと、むなしくなっているのだけど。

それとも、こちらが返事を出さないという無礼を、あえてしなくちゃいけないのだろうか。そうしたら、向こうはほっとするのだろうか。
それを待っているのだろうか。
あのひとからやめたのだからという大義名分が欲しいのだろうか。歪んだチキンレースをしているのだろうか。

じゃあやめるか。
大人だけど。それとも大人だから、そうすべきなのだろうか。
返事を出さない無礼を、自分に許せばいいのだろうか。
でもわたしには罪悪感が残ってしまって、それならと返事をまた返してしまうから、それがいけないのだろうか。

もしかしたら、本当に。
体が、もしくは心が不調で、文字を書くことはままならなくて、でも精一杯の力を振り絞ってこれを送ってくれたのだろうか。
そんなことに力を注がず、どうぞゆっくりなさってほしい。

あーいやだ。
もやもやする。
ハガキ一枚のために、なんだって新年から。
あーやめたい。
もういっそこのハガキの住所に会いに行って、よ、久しぶり!って言いたい。
元気?
わたしは元気だったー!
ところでさ、年賀状なんだけど。そうそう、あれ。もういいよね、だよね、わたしも思ってた!困るよね、日本人のかなしい性だよね、うん、じゃあそういうことでいいよね!
元気でね。バイバイ!
ってお互いさわやかに手を振って、おしまいにしたい。

でもそんなことをしては、絶対にいけなくて。いきなり行ったら向こうだって怖いだろうし、わたしもそんなことまでやりたくないし。

結局毎年毎年この新年のもやもやと対峙しなくてはならない。
あーいや。

と昨日あたりまで、わりと強い気持ちで思っていたのだけれども、この裏表印刷しかないハガキの、住所のフォントとか、選ばれたデザインとか、余白とか、なんだかそんなところに、わたしと年賀状を交わすこととなった、わたしの知っているそのひとがあるように思った。そういえば、あのひとはこういうひとだったと懐かしく思った。

あのひとが、この印刷だらけのハガキを出すときにわたしのことを思い出したかどうかはわからないけれど。
わたしは一年ぶりにそのひとのことを思い出した。
そのひとの声とか、たたずまいとか、昔かわした会話のふたことなんかを思い出した。

一年に一度、まったくもうあのひとは、と思い出すのもいいのかもしれない、わたし、大人だから、と少しだけ思った。

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