京都と鎌倉

鎌倉時代について久し振りに記事を書きます。

源頼朝が鎌倉に政権を樹立して以降、東国が中心の世の中であると思われている節があります。
これは間違いです。
京都には天皇がいて朝廷が存在している。
頼朝は朝廷に任命された征夷大将軍であるから当然朝廷に仕えている身分である。
諸国守護権を1190年に認められたことが画期的な出来事!
歴史で習う守護・地頭の総まとめの存在として諸国守護権。
つまり日本全国の国に対して守護を任命し、そこに命令する権利を有するのが鎌倉将軍なのです。

ここまで読まれて私が一度も「鎌倉幕府」と書いていないことに気付かれた方はいらっしゃるでしょうか。
歴史の授業で「鎌倉幕府の出来た年はいつ?」という設問必ず出てきてみんな覚えますね。
実は幕府という言葉、政権を表す言葉ではありません。
出陣した将軍の陣地の幕のことを幕府と呼んだので、少なくとも政権を表す名称ではないのです。
それゆえ厳密に私は以前から鎌倉もしくは鎌倉政権と呼ぶようにしています。
政権所在地の名称を使用しての呼び名です(室町や江戸と同じ)

中世史の黒田俊雄先生が提唱された「権門体制論」。武家・公家・寺社などの諸権門がそれぞれ相互補完しているのが中世国家だと発表され、ものすごい反響だったと聞いています(私はその頃まだ生まれていないので伝聞情報になります)
現在すべての権門が黒田さんの言われる権門体制かどうかは疑問が呈されていますが、少なくとも中世国家の大枠を把握するために用いて問題はないと私は思います。
(黒田俊雄先生の権門体制論についてはいつか記事にします)
天皇・朝廷の京都と、頼朝以下御家人の鎌倉が相互補完して国を動かしていたのが鎌倉時代であったのです。
ですから鎌倉だけを見るのではなく、京都と鎌倉の公武関係を見ることが鎌倉時代をとらえるということなのです。

後鳥羽上皇は鎌倉将軍源実朝と懇意でした。実朝の命名をしたほどで彼の官職が飛躍的に上昇するのは、上皇の意向が働いていたからでした。
その実朝が暗殺されると上皇には北条氏が率いる鎌倉と協力していくことが出来なくなり、北条義時を排除するという形での承久の乱に至るのです。
征夷大将軍の部下の執権北条氏と共になんて考えは上皇には存在しなかった。ゆえに北条義時を討てと乱を起こしたわけです(北条義時の排除が目的なので倒幕ではない)
承久の乱以降鎌倉が京都に干渉する事例が増えいかにも鎌倉が日本を動かしていたように見えますが、それでも朝廷は存在していたし鎌倉は日本国王には対外的にも国内的にもなれなかったのです。

今回はかなりの内容になりました。細かい話題は記事として今後書いていきます。
鎌倉幕府ではなく鎌倉と呼んでほしいと(武士の都鎌倉でもいいです)いう想いを込めた記事でした。

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