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芸術大学ってなに

最近大学を諦めることになったので、大学で芸術を学ぶってどういうことなのか自論を残しておこうと思います。

私の考えは、芸術とは勉強するものでも、誰かに評価されるためにするものではないと思います。だから大学を諦めたとしても、自分の人生で絶対に芸術を諦めたくはありません。とはいえ、今の自分を肯定するための考えでしかないので100%正しいとは思えていませんが、私の卒論ならぬ、中退論として楽しんでもらえたら幸いです。

ここからは、「芸術を勉強する」、「芸術を評価する・される」の二点を順に話していこうと思います。

芸術を勉強する
まず芸術を勉強するということは、学問として美術史であったりデザイン史を学ぶということとします。うちの大学では数少なかったですが、私はこのような座学の授業が好きでした。特に、図書館で机に画集を山ほど積んでレポートを書いてる時、私ハリーポッターみたい!ってわくわくしてました。元々ド文系なので歴史などの知識を覚えて自分のものにするという作業が好きだったのもありますね。

はじめに芸術は勉強するものではないと言いましたが、やはり制作する上で知識があればあるほど幅は広がります。過去の作品をリスペクトしてみましたというお洒落や自分の手法の裏付けにもなります。

ですが、これは大学で芸術を学問として学ぶ利点ではありますが芸術をするために必須ではないと思います。案外苦しいのですが、芸術とは結局自分の中から新しいものを生み出す作業だからです。だからこそ、過去のものに縛られすぎない必要もあるし、無知が故になにかを生み出すこともあったりします。

でもやはり、大学に入っていなかったら自分の興味関心の範囲でしか勉強しようと思わなかったでしょうし、大学で勉強できて知らないことを沢山学べて幸せだったなと思います。

私は映像専攻なので、西洋美術史や東洋美術史を全く知らなかったし、興味を持ったことがありませんでした。芸大生なのに。しかし、1年生の時に必修科目で履修させられたおかげで、美術館に行くのが楽しくなりました。これ授業でやったやつだ!が嬉しくて仕方ないのです。

私は大学で芸術を学問として学ぶことほど贅沢なことはないと思います。芸術の知識は、もちろん就職の役に立ちませんし、お金にもなりません。(学芸員の資格まで取ってしまえば別かも)
でも、生きる上で絶対に必要なわけではない教養をひたすら浴び続けることで、人生が少しキラキラしてみえるようになります。花火についてる魔法のサングラスみたいにね。

芸術は勉強するものではない。勉強しなくてもできる。とは思いますが、やっぱり私は勉強が好きです。貧乏のくせに貴族のようなことを言いますが、教養で溢れる人生でありたい。自分以外の誰か発の情報を無差別に浴びたい。そこからなにか新しいものを生み出したい。こんな欲望を満たすためには芸術大学はあまりにも恵まれた環境だったのだなと思います。

大学という環境を出ると途端に勉強できる範囲が小さくなります。全部が自分の努力量になり、必然的に自分の作品制作において優先順位の高い情報から得ようとするようになるからです。こんなこと勉強して何になるんだよという気持ちになれないのが寂しくなりますね。変な授業たくさんありましたから。西川貴教になったこともあったな。

芸術を評価する・される
芸術大学には基本的にテストがありません。代わりに学期末に合評というものがあります。合評では、自分が作った作品をお披露目し、主に制作意図をプレゼンします。そして教授やクラスメイトに評価してもらいます。

私はこの合評という制度で成績が決まることにずっと疑問を持っていました。正直いうと、私の作品のクオリティは技術的には低かったと思います。ただ、異常にプレゼンが得意でしたので割といい成績をもらえていました。物は言いよう。

どのくらい得意かというと、大学受験を面接だけで特待生として合格してしまうくらいです。ハイスクールマンザイはガクチカになります。
もちろん合評のために作品を作る時に、明確にコンセプトを決めて効果的に魅せる努力をしてはいましたが、圧倒的べしゃりです。

さすがに違うだろと思ったのは、1年生の時に絵画コースの人やイラストレーションコースの絵を専攻としている人達と合同の授業になった時のことです。

夢をテーマに絵を描く授業があったのですが、私は高校時代一切絵の勉強をしていなかったのでとても絵が下手くそで恥ずかしいなと思っていました。みんな下描きの段階から線が美しいし、絵の具の使い方があまりにも上手い。私はそもそも画材なんて持ってなかったので、家にあったクレヨンでベタベタ塗って折り紙でちぎり絵風にし、その日見た具志堅とダチョウの夢をヤケクソで出しました。悪夢。戒めで晒します。

下にいる焼きそばヘアおばけが藤原清司の良いオマージュだと褒められるラッキー


クオリティの高い作品が並ぶ中、小学生の図画工作のような私の絵は浮いていました。それでもクラスメイトの投票で今回の合評の1番の作品になってしまいました。

なぜなら私の喋りが上手いから。

家にあった画材がたまたまクレヨンと折り紙だったのに、あえてそれを選んだかのように話し、夢のストーリーを少し盛って話したところ、思いのほかウケてしまったのです。

いい成績を貰えることは助かるのですが、自分の作品にだんだんと自信がなくなっていきました。何がよくて何が悪いのかが分からなくなってきました。とりあえず合評でウケたら作品のクオリティは問わずいい成績をもらえてしまうからです。だから私は、人の作品を評価することも評価されることも、芸術品の価値を定めることも苦手になりました。まっすぐ作品だけを見て評価するべきなのに、作者の話し方次第で左右される脆さがある合評になんの意味があるのだと思います。自分より圧倒的にいい絵を描いている人が沢山いるのに、評価されてないことがなんだか虚しくなりました。

だけども現実問題、芸術は価値が決められるもので、人が評価してはじめて芸術とされます。

わかりやすい例えで言うと、マルセル・デュシャンの「泉」という作品です。

この作品は現代アートの始まりの作品で、レディメイドという手法が使われています。ざっくりと説明すると、既製品の男性用小便器にサインをしただけのものです。自分でなにかを作るのではなく、日常にありふれているものの中から選び、これは芸術だという価値をつける。選択する意思を芸術とした作品です。しかも造形的に美しいとされていない小便器に。まさに芸術という言葉の脆さを表す作品だと思います。だから、現代アート分からないという意見は正解です。なにでもないものにコンセプトという看板を貼りつけて作品に仕立てあげているのですから。

人間は言葉の力に弱い。どんな物でも誰かがこれは芸術だ、素晴らしい作品だ、と言い始めたら本当にそうなってしまう。影響力のある人間の発言なら尚更。芸術に限らず人間はそういうものなのでしょうけど。

私は、芸術は誰かに評価されるためにするものではないとはじめに言いましたが、結局自分が評価されるのも、評価することも苦手だからだと思います。芸術大学を出たら、自分の作品を評価される機会を自分で設けない限り無くなります。それでは、なんのために自分は作品を作るのか、誰にも評価されないものは芸術と呼べるのか。結局正解は分かりませんが、自分は自分のためだけに作品を作りたいと思います。そして、たまたま誰かの目に止まった時になんかちょっと好きだなと思ってもらえたら1番で、これが純粋な芸術なのではないかと思います。芸術家として成功している人は、トップレベルのビジネスマンです。甘えかもしれませんが、私は自分の作品でビジネスをしたいとは思いません。自分が1番好きなもの、自分が見たいがために創った世界を独り占めしたいからです。そこに誰かが関与して欲しくはないのです。

だから私は、大学で芸術をするのに合ってない人間だったのかもしれません。評価し、評価される世界。大学を出たあと私はどうなるのか分かりません。でもいつか、孫に死んだおばあちゃんのUSBから大量の作品が出てきたんだけど!みたいなツイートをされてバズれたら本望かなと思います。死後作品が評価されたいとかではなくて、私という人間は映像作品を作ることが好きな人間だったんだなということがちょっと残ってくれたら嬉しいです。

これからどうする
ここまで長々と大学で芸術を学ぶとはどういうことか話してきましたが、これから私はどうなるのか。何をして生きていくのか少し考えてみようと思います。とりあえず大学に居れる間に、卒業制作ならぬ、中退制作をしてみようと思います。大学の設備が使えるうちにね。そして、中退制作展をどこかで場所を借りてできたらいいなと思っています。自分が大学で学んだ3年間の集大成を見てみたいです。その先はどうなるか分かりませんが、作品を作り続けたいので、カメラを買うために一旦ちゃんと働いてみようと思います。お金がないと何もできない。

この先誰にも評価されず、純粋に自分の為だけに作品を作れるようになることにワクワクするし、少し怖くもあります。餓死だけはしないように真っ当に働きつつ、作家として精神的に満たされた人生を送れたらいいなと思います。

私は自分の人生で絶対に芸術を諦めません。


〜大学生活完〜

〜芸術家人生続〜


すきな曲

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