幸せ、持ち寄り。

昨年12月第一週にリハビリ病棟から退院し、無事に高齢者サービス住宅への転居を果たした母。
前回のnoteに書いた、「きっと母が気に入ると思う」と期待した、あの場所。
母の住居となる個室は、トイレに一番近い場所。室内にトイレがあるよりも、しょっちゅうドアの外に出て、誰かに姿を見てもらえる環境のほうが、社交的な母が喜ぶという私の意見を採用してもらった。
ドアはスライド式・窓から外がよく見える・廊下が広く天井が高い・デイサービスが活発・自由が利く・利用者とスタッフの関係が良好という兄のこだわりも、全部叶った。

転居当日、私は同伴できなかった。
でも部屋の番号プレートに母の好きなお相撲さんの人形をぶら下げたり、リハビリ病棟で母が描いた絵を額に入れて飾ったり、衣装ケースに分別の絵を書いたり。
姪っ子たちは「おばあちゃんはテレビが好きだから」と、テレビの前にリクライニングチェアと、いつも使っていたクッションとブランケットを用意してくれたり。
新しい場所に移るのは、誰だって不安。だからこそ不自由や戸惑いがないよう、あったとしても最小限で済むように、みんなで考えて準備して工夫した。
だから、きっと気に入ると信じていた。
「こんないい部屋、用意してくれたん? ありがとなぁ」と母が何度も繰り返していたと兄から聞き、安堵した。
両手を合わせ、亡き父に報告。「お母さんに喜んでもらえたよ」と。

私の高校時代の、唯一いまでも連絡をとりあう友人のお母様も、なんと一週間前に入居していらした。いまでは互いの部屋を行き来して一緒に庭を眺めたり、おやつを食べたりする仲らしい。
奇跡のような偶然に感謝するばかり。

年末年始は、母も実家へ戻れたそうな。
私は東京で息子たちを迎えるため帰省せず、また、自身の体調も万全ではなかったため混雑の新幹線に乗るのは避けた。私が体調を崩して、帰省先で兄に迷惑をかけたら本末転倒だから。

年末年始を実家で曾孫たちと賑やかに過ごした母が、高サ住へ戻るのを嫌がるのでは……という兄と私の懸念は、母自身が払拭してくれた。
兄曰く「心を鬼にして送っていく」とのことだったけれど、母は「そういうもの」とわかっていたかのようで、素直に車に乗ったという。
内心を思うと切ないけれど、周りの愛情が母にしっかり伝わっているから、不安がないのだと解釈したい。

そして今日、久々に直接ビデオで顔を見ながら会話した。
母の顔はツヤツヤしていて、まぁ驚くほど元気!
ずっと笑顔で、声も大きく弾んで、よく笑い、よくしゃべる。元気そのもの。
「ちょうど昨日、みかん食べたい〜て友達に言うとったとこ。そしたらお兄ちゃんが、みかん持ってきてくれたんさ」とニッコニコ。
ご飯も美味しい、おやつも美味しい、仲のいい友達もいる。
そんな報告をしてくれながら母が頬を染め、目尻を下げる。
「私は幸せ者や〜」と。
泣けてきた〜と笑う母に、私もつられて泣き笑い。
よかった、よかった、よかった。
何度でも言う。本当によかった。
よかったーっ!

母とは、過去に大層なケンカをした。
断絶と言っても過言ではない関係を修復できたのは、まだ十数年前のこと。
私が母へ、幼少期からの苦悩を全部ぶつけ、号泣した。
母が私へ、これまた大号泣で、すべてを謝罪してくれた。
いい大人がふたりして、キッチンで立ったまま、しゃくりあげて泣いた。

そのうえで「仲良くしたい」「大切に思っている」という本心を確認しあい、「唯一無二の母と娘」であることを互いが言葉で伝えあい、たくさんの「ごめん」と「ありがとう」を交換した。
昨年6月、母が認知に支障をきたすまでの年月を、数日に一度の電話で繋いできた。電話の締めくくりは、いつも同じような言葉。
「そしたら、またな。元気でな、また電話するわな」と母が言えば、
「はいはい、大好き大好き」と、私が茶化す。そして爆笑。
「あー、私は幸せ者や」と微笑む母の声に安心して、通話を終える。

週末ごとに母の顔を見にいってくれる、兄と姪たち、その子供たち。
みんながちょっとずつ愛情を持ち寄り、それを週末ごとに受けとる母。
高サ住で暮らす母の、「私は幸せ者やなぁ」の言葉と笑顔が、
私たちをも幸せにしてくれ、大いなる安心で包んでくれる。




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