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ポール・セザンヌがやろうとしたことのごくごく一端に接して


はじめに

 中学生になりしばらくのあいだはポール・セザンヌの描く絵はよくわからなかった。まちがいなく油絵だけど、それまでの古い時代の画家の描く実物に忠実に描く絵とはちがうし、印象派のモネやルノワールたちとはちがうなと思っていた。

描く対象は身近な静物や風景、そして人物。なぜ「こんなふうに」描いているのかその意図がわからなかった。それらの絵にあじわいを感じるようになったのはずっとあとのこと。ごく最近といっていいかもしれない。

きょうはそんな話。

ひとあじちがう

 印象派以降の画家のひとりとしてポール・セザンヌは避けて通れない。のちの著名な画家たちにまちがいなく影響を与えたと思う。絵画の表現にはあらたな要素が確固として存在し、それが幹へと育つことを再認識させた功績は大きい。

彼自身も取り組んでいた印象派の絵の表現が追求されればされるほど、ものの形よりは光線のうつろぎや空気など曖昧模糊とした作品になりがちで、いきづまりとも言える状況に。

そんなときは対極のものが出てくると言えそう。まさにもののかたちへのこだわり、画面への位置づけへのこだわりを追求して打開しようとしたのがセザンヌ。それを新しい風としてそののちの画家たちは受け入れさらにその方向へ絵の世界がひろがる。

なんでこんなふうに描くのか

 高校生の頃もまだこんなだったと思う。画集をひらいてポール・セザンヌのくだものや花瓶が机の上にならんだ絵を見た。なんかこのりんごは机の上からころころところがり落ちないかなと思った。かたちや面も単純化してむしろいさぎよい。美術の先生が言うには彼にはこう感じ取れたんだという。

形や配置を追求した結果、この位置にりんごはあり机の上面はこうで、花瓶の口はこんなふうに向いて歌い出し個々に主張するかのよう。たしかにそれぞれが存在を宣言しているようだし、わたしはここにいると言い張っているように見える。

その微妙な配置とバランスの結果でこの絵が成立するんだ、緊張感があるほどだと先生はつづける。

見れば見るほど

 サントヴィクトワール山を何度も描いている。どうしてこんなに荒々しい山なんだろうと思った。たしかにこの山の写真をみると、絵の対象としてきっとセザンヌはその異様ともいえる存在感に興味を示したんだと思った。かたちへのこだわり、興味関心があるならば絵にしたい対象といえそう。

一種異様な印象をのこすこの山をなんども描いている。岩山なので木々のみどりにほとんどじゃまされずに巨大な岩体がそびえたつ。そのごつごつした岩肌の大きな対象をキャンバスの画面に収めようとするときどんな思いで描いたのだろう。もともとこの山のもつ存在感をキャンバスの上に表現したかったのだと思う。

木々のあいだから見える位置にイーゼルを立ててスケッチしたようすが思い浮かぶ。何枚もある作品から判断するとおなじ位置からたびたび描いているようすがみてとれる。

かたちへのこだわりと色

 これだけおなじ対象の作品があるとやはり色をくらべたくなる。室内で静物を対象にするときにはとてもあざやかな暖色の色使いの作品がめだつ。もちろん暗めの落ち着いた同系色にまとめてりんごの明るい暖色を効果的にアクセントとして用いて、申し分のないバランスをとっている作品もある。赤やオレンジが効果的。

その一方で上にしめした山の風景画ではいかにも現地でスケッチし、さらさらと早描きによりわりとかぎられた同系色(寒色がめだつ)でまとめられたかのように見える。

描いた時期によってその関心がどれほど色へ傾いたのかよくわからない。もちろんもともとは印象派のながれのなかにいた画家のひとりにちがいない。それでもセザンヌの描く絵画が独特なのはまちがいない。それはわたしにとって若い頃よりもずっと自然に受け入れやすくなった。

おわりに

 さまざまな画家がその絵を描いた年齢と自分の年齢をくらべてみることがある。何に興味をしめしていたのかやはり気になる。

セザンヌの絵はのちのキュビズムなどへと派生していく。それまでの絵画に規定された平面よりもより実体を立体としてとことんまで追求しようとするとそれは抽象化にむかう。そこで具象として画面上で再構築をおこなう作業となる。これをこころみた画家たちへ影響をあたえたといわれる。

たしかに高校の美術の授業でキュビズムの形式で友人を描いたがとてもおもしろかった。はまり込むとときりがなさそう。当時はまりこんだ画家たちがいたインパクトがまちがいなくある。

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