農水省の食料自給状況のデータに目をむけるとみずからやさいを育てたくなる
はじめに
昨今の状況や戦乱により、さまざまな人々の交流の機会や流通のとどこおりが生じている。この先には世界的には食料(食糧かも)の供給面で危惧されることも想定の範囲に入れておいたほうがよさそう。
いざとなったら、食料の確保は自己責任になるだろう。とりあえずは将来をになうこどもたちへの食べものさえ確保できればよいのだが。そこでこれまでのどの時代あたりの食料生活をクニのお役所は想定しているのだろうか。
しのぐとしたら過去のどの時代ならばありえそうか照らし合わせてみた。
(注意)わたしはここで引用したいかなる団体とも利害関係をもちません。あくまでも個人の考えです。
農水省では
かなりふるいデータではあるがしかたない。この農水省の食料自給率に関する主としてカロリーベースでのデータをおもな根拠としつつ、わが家の現状とくらべてどれほどのものか照らし合わせてみたい。
するとこんなふうになる。昭和40年ごろにはすでに全国おしなべてならすとこんなものを食べていたんだなと感じた。40年代といえば小学生のころ。昭和20年代から30年代に米国やユニセフなどからの脱脂粉乳をはじめとするさまざまな配給を受けていた時代につづく。
主権回復後の40年代に小学生だったわたしは、配給の停止後にもかかわらず脱脂粉乳の給食がつづき、ようやくビン牛乳と脱脂粉乳が半々、ぜんぶ牛乳にかわり、そしてテトラパックにうつりかわろうかとする時期だった。
なまぬるい脱脂粉乳は、今の市販のスキムミルクとはほど遠く苦手な飲みものだった。それにくわえてクジラ肉がよく登場していた。
わが家では
わが家で食べていたものを思い出すのはむずかしい。親はがまんしてこどもにはましなものを食べさせようとしていたから。
わたしがこどものころの食生活を思い起こしたとしても日本の平均像は得られまい。そこでふたたび農水省の登場。こちらには昭和50年代の食事を紹介している。
これをみるとうなづける点が多い。やっぱり同級生のうちでもこうしたものを食べていたんだろうなというあたらずも遠からずという感じ。
食料の輸入がとどこおりこのあたりの食生活にもどるならば、わたし自身はこども時代からの経験から支障なくもどれそう。健康面からもバランスがとれていそう。
いまからでも冷蔵庫に頼らないで済んでいた昭和50年頃の生活を思い出しすこしずつ実践していっている。
だが、いまのこどもたちはどうだろうか。激変ではないだろうか。
ましてや
ことはそうなまやさしいものでないとすると、それはもうたいへん。下の図では米すらじゅうぶんでなく、いものほうが多いぐらいの想定。そうなるとさすがにわたしでも経験がない。わたしの親の世代が子供時代に経験し辟易した食生活にちかい。
国民ひとりあたり2020kcalをおぎなえたとしても、その内容はじつに質素なもの。味噌汁が週2回だけ、たまごは1週間にひとつ。これは家庭ではこどもにまわるだろう。
こうなるとこども優先はまちがいない。給食はなるべく変えずにすくなくとも昼食で不足気味の栄養をおぎなってほしい。そのしわ寄せはおとなたちが負う。したがってそれ以上にそまつなものを口にせざる負えない。
じつは現実はさらにきびしいのでは
もし、いま上の状態におちいるならば危惧することがある。一例をあげよう。じつは西南日本ではサツマイモのもとぐされ病が数年前からまん延しつつあり、満足にイモがつくれない畑が出没、いまも日本を北上しつつある。
場所によっては生産量が激減している。ベテランのイモの生産農家ですら多数項目の対策をしっかりおこなわないと数年で全滅してつくれなくなった例すら報告されている。
この状態でイモにたよる生活をといわれても生産すらおぼつかない。現状でもその疾病に耐性を持つ品種への変更や、圃場の管理の徹底などでようやくしのごうとしているが、その疾病のひろがりをおさえられているとはいいきれない。
こんなことひとつとっても縦割りのシゴトは相変わらず。たとえば諸外国からの食料の輸入が止まる事態とは、同時にエネルギーとなる石油や天然ガスの輸入もとどこおることだと認識されるはず。
すると、現在は稼働している全国の食料保冷庫の稼働もあやしいし、流通すらおぼつかないだろう。もちろん家庭の冷蔵庫もいずれは電気の供給がおぼつかず、いずれはつかえなくなりそう。
そしてビニルハウスなど重油をつかう加減温での生産がむずかしくなり、旬の時期にしか野菜は生産できないことになる。それ以前に大量に輸入している肥料原料の供給もストップ。
国内にあるものだけで畑の養分をまかなわないとならないが、それもおぼつかない。耕運機のディーゼルエンジンすらうごかせない。
農水省の最悪と考える事態すら、現状では困難な点が予想できそう。
おわりに
農水省の省益のバイアスがかかっていたとしても事態はよいほうには出ないだろう。カロリーベースであろうと生産額ベースであろうと自給率が諸外国とくらべて低いことに変わりはない。
どこの省庁がさまざまな指標をたしたうえで算出したとしてもそんなに大差はないと感じる。その理由は自分の身のまわりをみわたすとよくわかる。はたして国産といえるものがどれほどあるだろう。一見、国産とみえる卵や牛乳でもその生産には飼料もいれば、畜舎の維持には燃料もいる。
これですら楽観的すぎるかもしれない。憶測になってしまうがこうだろう。じわじわと事態がわるくなる状況下でも、野菜などの食料生産はおぼつかない。転作しようにも生産技術がないからだ。
果樹や高級の野菜生産にかたよっている現状では基幹となる野菜への転作が急遽必要になるだろうが、それを担う生産者はすでに枯渇。卵の生産や魚の養殖には餌となる飼料の国内での調達が急務になる。
上にあげた飼料や関連する燃料だけでもいまはかなりの部分を輸入に頼っている。こちらも止まるとなれば、もう手のほどこしようはない。したがってすくなくとも食料に関しては、緊急事態を想定しどんな状況になろうとも最低限の体制がとれなくてはたちゆかないのはだれの目にもあきらか。
おそらく、クニは最後には国民への自己責任での食料の確保のおねがいの要請となるのだろう。地方へ買い出ししようにも鉄道もうごかない。戦中戦後よりも食料に関する基本的な確保の技術を身につけていない大部分の現代人にとっては事態がより深刻かもしれない。
このクニに頼れないとなるともはや個人の問題に帰着する。多くの方々から笑われそうだが、中学校技術家庭科で習う程度の、最低限の野菜づくりと常温での保蔵技術の取得と、野菜の種子などはストックすべきかも(わたしはまじめに提案し一部を実践しているつもり)。
大胆に悲観的にものごとを考えておいても支障ない事象だと考える。わたし自身は、せめて自分と家族の食べものの確保のためにやさいづくりの技術だけは維持しておこうと思う。
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