肉に置き換わるものをすでに無理なくとりいれた生活になりつつあると気づく
はじめに
地味な食生活がつづいている。これはわたし自身の選択の結果であり、人様に勧めるべきものでないことはたしか。したがって駄文として読みすてていただければと思う。
ただし、想定外のことにこれは今後に活かせるのではと思うようになっている。その気づきについて。
肉がいずれ食べられなくなる?
肉が食べられなくなる日が近づいている気がする。わたし自身はべつに焼肉屋が林立していても、テレビでステーキ食べ放題の旅番組が流れていても食指は動かないし、べつにつねづね不安にかられているわけではない。
ただ、ばくぜんとした段階から一歩すすみ、どうやらその方向にむかいそうだぞという段階。ようやく気づいてこの文章を記しているという次第。
店に出はじめた代替肉、昆虫を利用した加工食品などの存在を知ったこともあと押しした。
最初は食に対する執念はついにここまで来たかとべつの意味、すなわち一時の流行を追った商品かと思っていた。
大豆ミートが出はじめて
しかし、長女が「これ、食べてみ。」とさしだした「大豆たんぱく細切り」なる商品を何日かかけて味見した結果、これは飽きずに食べつづけられると感じ、冒頭のとおりに思った。
食べ物に敏感な買い手たちを迎え入れる店に自らの意思でつとめる娘が、すでに興味をもって肉のかわりにチャレンジしている。さきを越された。
日ごろなにげなく食肉を買って料理して、さまざまに感謝しつつ食べていたつもり。しかし最近昨今の状況もかさなり「肉は買えないなあ、じゃあ、かわりは…」と店のなかを見わたしてみた。
すると自分の背中をちょんちょんされたように感じてふり向くと、食肉の棚のななめ前にそれらが山と積まれていた。
すでに食べていた
その山積みの商品たちを見て、「あっ、そうか自分は日本人だった」と再認識。ふだんからよく食べているものがならんでいる。しかも肉を買えないときは「こっちでいいか。」と何気なく「お買い上げ」していたものだ。
ひっぱっても仕方がない。それは大豆製品のならぶ棚。豆腐にはじまり、厚揚げ、油揚げ、ゆば、がんもどき…。棚に置かれた量は食肉にはおよばないまでも、かなりの広さを占めている。豆乳やそのヨーグルトなど比較的新参者もある。こんなに大豆をさまざま加工しているなんて。
これらの大豆加工品はいにしえの時代に類似のものが大陸から伝わり国内で作られ、そして連綿と口にしてきた。すでに千年以上の食経験がある。肉食をしないといわれてきた人々のあいだで、精進料理などの食材として活用された。
そして人間としての寿命を全うできている。「そうか、『代替肉』はすでにあったんだ。」早合点しがちのわたしのなかでスイッチが切り換わる感じがした。勘違いしてほしくないが、現在の油揚げなどは代替肉として定義されているわけではないので、念のため。
「和風代替肉」として
大豆のタンパク質として栄養バランスはどうかと、アミノ酸組成表をひもとくと問題なしだ。肉のみならず、卵や牛乳とくらべてもだ。「畑の肉」といわれるゆえんである。もちろん、納豆、豆乳、きなこなどほかの加工品もたしなむ。
畜産のさかんな場所に住みながら、声高に述べる気はない(ここに記載する矛盾はある)が、ひそかに大豆の「和風代替肉」になじんでおこうと思う。なにより腹を満たせて経済的だし。
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