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NFT上に置かれたアートなるものの価値についての深夜のつぶやき


はじめに
 1年半ほど前にはじめてNFTという概念を知りました。そののちこの世の中にはNFT上にさまざまなアートが存在するようです。ひところのホットな状況からおちつきをみせている状況のようで、概観するつもりで文に記します。

世界遺産を例に
 NFTアートを語るまえにあえて横道にそれます。「世界遺産」(ここでは文化遺産)というものをここではひきあいに出してみましょう。

NFT上のアートと世界遺産。なんのつながりもないと思える両者を「価値」の観点からみつめると、ある博物館に勤務経験をもつわたしには一晩ねむれないくらいの興味が湧きました。そのつぶやきをしたためます。

世界遺産は「価値」のオリジナル
 世界遺産は唯一無二である時代に成立し、現在までそこにあり(つまり移動できない不動産)「人類が共有すべき顕著な普遍的価値をもつもの」とユネスコでは定義されています。ここでいう普遍的価値ってなんでしょう。

わたしにはおおかたの民族・国の人々であっても、これってよくできてるなあとか、いったいどのくらいの手間と時間と金をかけたのかなとか、自分じゃまねできないわとか、おそれいったといった自分(自分たち)が追いつけない、実現できない何かをそこに内包するもの、そして時代を超えて、さまざまな感情をよびおこすものといえるでしょう。

より多くの人々にそうした感動なり、想念をいろいろと与えうるものこそ、それにふさわしいといえるし、残したいと思えるものかもしれません。こうした「普遍的価値」の例はわかりやすいものといえるでしょう。

世界遺産ほどではなくても
 わたしたちの身のまわりにはそうした「顕著な普遍的価値」なるものよりは「ごくそこいらへんレベルの価値」なるものがいっぱいころがっています。ものにあふれています。未来人が21世紀初頭をふりかえるときっと、「ああ、ものをいっぱいもっていた文明ね。」ということでしょう。

そうした雑多なものに囲まれつつ、そいつらにわたしたちはそれなりの価値をおいてぬくぬくとしています。ここが興味深いところ(わたしにはですよ)。

価値の重みづけはそれこそ千差万別、ヒトそれぞれちがいます。それで骨董なんか鑑定士がいるんですね。そうしないとスムーズに取引できない(といわれてますが)。

鑑定士と小学生
 でもその鑑定士ってなにを鑑定しているのでしょう。本物と偽物のちがいを見わける?おおかたはそうかもしれません。でもなかには鑑定士だって自信のないときがあるようです(なんでも鑑定団をみているとそうですよね)。でも生活のためにそれなりにふるまう。

博物館の職員だってそうです。相談に来られたってわかるわけではありませんし、万能ではありませんよ。いまだにわたしには窯変天目茶碗なんかに値をつけることなんてできやしません。

でも、小学生が学校帰りに道草してひろった石。おもしろい石だなとだいじに手にとりつくえのひきだしのおくにしまったり、おやじさんがストッパーにちょうどいいやとか言いつつひとつの石を家にもってかえり、ドアのおさえにつかう。それぞれ所有して満足しているわけです。価値を認めたことになる。

はたからみるとどっちもなんの価値もない「ただの石」です。道端にあまたある石ころとなんらかわりはない。

すると、のちのち小学生の拾った石が新発見の鉱物だったり、ドアストッパーとして何年もはたらいた重い石ころが、貴重な太陽系の外縁からはるばる訪れためずらしい隕石だったりして、わたしのはたらく博物館の展示ケース(これってお高いです)のなかにちょこんと鎮座することになるわけです。

何が言いたいかというと「価値」っていったい…ということです。

NFTアートの存在
 最近、なんか気になるものがあるなあ、でもあとでゆっくり見るからねと棚に置いておいたものがあります。そうです、NFTアート。博物館ではたらき、美術関係者とも仕事をするなかで、さまざまな作品や情報に接してきましたし、趣味でもさまざまなサイトを訪れています。

そのなかで気にはなるけれど、触れるとやっかいなことになりそうと、まさにおでこにできた吹き出もの的存在がNFTのアート作品。

いったい何なんでしょう。こちらが聞きたいほどです。「あっ、オマージュか。」とか、「あれっ、柄がちがうだけじゃん。」とか、「前にみたような…。」とか膨大な数がネット上に掲載されつづけています。

考えさせられました。相対的な価値と、絶対的な価値とのちがい?そうか、NFTのアートは相対的な価値をイーサリアム単位で置き換えただけかも。じゃあ、絶対的価値っていったい…。きりがありません。

1万円札の価値との差
 新橋駅のガード下に落ちている紙くず。おや、ひろう人。ああ、ごみ箱にいれたのね。価値を認めたわけではなく、駅のガード下の店の価値をさげないためにこの紙くずをひろったのでしょう。でもおちている紙くずが、1万円札だったらどうでしょう。

その先の交番に届けようか、どうしようか。良心と悪魔の葛藤がはじまります。このサラリーマンが迷った理由はもうおわかりのとおり、このひとが1万円札にそれなりの「価値」を認めているから。あれっ、道ばたの壁にバンクシーっぽい絵が…。もうきりがありません。ほんとうに「価値」っていったい何なんでしょう。

わたしたちが最近、目にすることがなくなってきた福沢諭吉の肖像画のついた紙きれを、未来人は果たしてごみ箱に入れるか、交番に届けるか興味が増しています。まだ見たこともない自らの特殊ウォレットにだいじそうにしまうかもしれません。

NFTのアート作品については一晩寝ずにかんがえてもきりがなく、自分がもちつづけてきた「価値」の概念や定義についてとことん考えさせてくれます。というか睡眠妨害です。

読んでも「価値」がないかもしれない文章になってしまいました。

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