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はやく終わらせたのしむためにひとりでもそうじをするほうだった このまま要領のわるいままでいいわたし


はじめに

 むかしから要領のわるいほう。こどものころからそうだった。たとえば学校のそうじの時間。ひとりでもさっさとおわらせて先にすすみたい、ほかのやりたいことをはやくしたいとおもうほう。

さっさと済ませてたのしいことをやろうよ。ほんとうはそんなきもちではちきれんばかり。でもクラスメートに声をかけることは一度もしなかった。

べつにひとが言うように「まじめ」なほうではない。じぶんのしたいことをはやくやりたい自分勝手なだけ。

こどものころから

 小学校以来、さまざまなところでそうじがあった。いずれもじぶんたちでそうじをするところだった。クラスメートたちはそうじの時間となるといつのまにかどこかに雲隠れしてしまう。とおくの特別教室のそうじやグラウンドのすみの体育倉庫の裏などが担当のときには、わたしをふくめてひとりかふたり。

しかたがないのでそれでもさっさと済ませてしまう。教室のそうじはいつもつくえといすを教室のうしろに下げて、あいた前のスペースをほうきで掃き、ぞうきんで水ぶき。なぜかわたしと女子生徒がちらほら。どのがっこうでもどの学年でもそう。

そのあとつくえといすを前にもってきて、うしろを掃いて水ぶき。すくない人数でやるので、その頃にはほかの場所に散っていたクラスメートがもどりはじめている。さっさとやるとのちにはたのしいことが待っている。

放課後の公園で日が暮れるまで三角ベースをやるか、中学・高校では卓球の部活が待っていた。練習用のユニフォームに手早く着がえ、先輩たちのために卓球台をセットしておかないとならなかった。けっこういそがしくバタバタ。

いまになっても

 時代はいっきにすすみガラリと内容は変わる。2年前までやさいづくりと販売を学習サポートと兼業していた。文字どおりの晴耕雨読。

ご近所さんの同年代の方は従来農法。道路に接した畑でトラクターや耕運機をつかってたがやし、農薬をふつうにつかい栽培。そのやさいを販売所にだしている。

一方、わたし。道路に面していない坂の上のはたけへ農具とペットボトルの水をのせた一輪車を押しつつむかう。いまごろならばくわで秋作のための畝づくりをはじめる。そしてじゃがいもの植えつけ。すべて手作業。日が昇るまえの気温の低い時間にしかできない。

5月下旬のさといもの植えつけのためのクワ入れは1年をつうじてもっともつらい作業。ふかくたがやすため息があがる。

父から「じいさんがいつもそうしてた。」と一輪車に収穫物をこぼれんばかりにのせ、畑からの下り坂をもどるわたしをみつめてそう言った。親子、まごのわたしともども要領のよくないのは3代親ゆずりかもしれない。

じいさんは牛馬をトラクターや軽トラがわりに、父は耕運機や軽トラをつかう。そしてわたしは燃料をつかわず絵空ごとのような牛馬耕のはじまる鎌倉時代以前の人力にたよる農作業のよう。わたしのようすを周囲はあきらめ顔でみる。

べつに理想に燃えているわけではない、基本的にズボラなだけ。牛馬はもちろんだが、耕運機や草刈り機のエンジンの管理や油の出し入れやメンテナンスは面倒。道路にめんしていないのでトラクターはもともと入れない。いずれもコンパクトな電動になることを夢見ている。

ズボラが根っこにある

 わたしはこどもに食べさせるので基本的にくすりを使わず、手作業で虫をとるほう。雑草はすべて手作業でとっていく。しかも収穫後のやさいのおおくは日持ちがしない。防カビ剤や殺菌剤をかけないから。すべてが非効率で労働としてヒトにはぜったいにすすめないし、笑われる。

きれいなものは夜明け前から収穫、売るぶんは湧き水で手であらう。ふくろづめをするとあっというまに9時、10時。あわてて販売所へ。ならべたときの鮮度はよいのだが、すぐに見ためが多少わるくなる。極端な例では朝ならべたやさいが夕方、店員の判断で捨てられることがあった。

選別してそれよりも傷んだやさいばかり家でたべているじぶんにとってこれはなかなかかなしい。でもだまっている。もちろんそういったやさいを生産者は持ち帰れる販売所もある。

規則でくすりを使わずにつくることは表示できない。しかも見ためはそれほどでなくふぞろい。そのためねだんを安くしかつけられない。もっと安くつけろと店員にいわれることもある。これでもだまっている。

ある知り合いの方をつうじてこうした作業でつくられたやさいをほしいとおっしゃる方へ宅配で何年かお送りした。丁重なお礼をいただいていたが、それでもしいたけにつく虫に関してはさすがにクレームをいただいた。おいしいのだがみつけてにくくどうしようもなかった。

おわりに

 結局なにがいいたいのか。まとめてふりかえるとほんとうに要領が悪い。不器用だということ。手先は器用なんだけど。じぶんでもわらってしまう。

研究のパートで兼業している。ここでも泥くさい作業で成果の得られる基礎研究。落穂ひろいのよう。わたしのしごとはどれもそう。ヒトがどう言おうとこれがじぶんに合っているんだな。勝手にいわせておけばいいさ。つくづくおもう。

そんな人間だから、効率をもとめるヒトはそばには来ない。なにも積極的にうごかなくてもしぜんと考え方の近い方々がおのずとじぶんの身近にいる気がする。

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