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現在の100円の価値と重みを切実に感じる 30年前と今の生活では明らかにちがうと意識してしまう


はじめに

 なかなか生活に余裕がない。ただ何とかしごとがあり日々の米にはありつけている。それはとてもありがたい。周囲に感謝しないと。

とくに金銭感覚はバブル真っ只なかの30年前を比較の例にすると、おなじ国だろうかと思えるほど格段に変化していると感じる。両方の時期を経験してきたので記憶をたどりつつようすを記したい。


昼に何を食べるか

 昼食での比較がわかりやすい。30年前について思い出しつつ示したい。職場の食堂、もしくは同僚とともに配達弁当(職場内でつくっていたもの)、あるいは連れ立って近所で外食。いそがしいときには職場内の売店など。もちろん3日に1度は健康のこともあり家から弁当をたずさえていた。

なかでも職場の食堂の利用がもっとも多い。ここで食べれば400円ほどでおさまっていた。配達弁当であればワンコインの500円。職場の外からの出前弁当ならば650円ほど、外食であれば1000円でおさまるぐらいだった。いずれにしてもとくに何の意識もせずに財布から1000円札を出していた。

1週間に千円札4枚あれば昼食はなんとかなっていた。というよりお札の枚数をそれほど意識せずに使っていた。なくなれば職場内のATMまで行き、引き出して財布へ。たばこを吸うわけでもないのでその都度財布にはそのくらい。

外食の頻度は月に2,3回ほどだっただろうか。したがってとくに食べる費用がかさみどうしようと考えることなどなかった。


転職して自営に

 ところがその仕事をやめ自営に。ATMは魔法の箱ではなくなった。つまりいつでも好きなだけ引き出せる状況ではなくなり、それまでの生活を見直すきっかけになった。外食をまったくしなくなり、ATMは年に数回だけ現金取引の店相手のために利用するだけとなる。

そうなると財布の中身がとたんに乏しくなる。むしろ財布自体を利用しなくなっていた。昼食はすべて自宅で準備した弁当のみ。車さえしばらくは手放した。

必要最小限のものすら買わない、もしくはどうしてもという場合のみ中古で済ます生活に。それとて品選びを楽しみ半分でやっていたし、とくにつらいと思わずに暮らしていた。根っからの楽天家だろうか。

さて、その生活もそろそろ20年にちかづく。ふりかえると経済感覚は大幅に変わった。30年前の前職当時にはとくにものの価格をそれほど見ずに買っていた日用品ですら、転職後には細かく計算してから手にとるようになった。


100円の価値

 最近、とくに食料品に関して100円のラインは大きい。ものの値段には100円前後のものと300円前後のところにラインがあるように感じている。もちろん主として手にとるのは100円を前後する商品。300円台の商品は高くてそもそも自分の眼中にない。

しかもおなじ100円台ならば量の多いもの、重さの大きいものを選びがち。すでにその性向が定着している。価格に敏感になり10円の上下に一喜一憂している自分がいる。


おわりに

 どうやらわたしだけかと思いきや、わが国全体がそうらしい。昼食にそんなにかけられない、食べられるだけでもありがたい状況らしい。いつの間にそうなったのか。自分だけと思ってきたことがじつはこの国全体で起こりつつあったとは。

サラリーマンだからとか、自営だからといったところよりも働けるか、職にありつけるかといったレベルになりつつある。国内でしかも地方の自営で仕事に何とかありついている自分は運がいいだけ。そもそもそんなことになっているとは…。

スーパーに行くと、100円台の品物を見つめるのが自分だけでないことに気づきつつある。周囲に同じような状況にある人々がたむろしているようだ。いやその100円のものが買えるだけまだいいほうかもしれない。そして運が巡ってきづらい方々へもっと関心や視野を広げないと。

世情にうといわが身を反省した。さっそくできることはないか周囲に目をむけつつある。


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