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自分の感覚を信じていいのなら。

もう2年前のことだが、プロセスエコノミーなるものがあるらしいことを知った。
完成されたものへの直接的な価値ではなく、プロセスに価値を見出すことだ。
プロセスに価値を見出すとは具体的に対価が発生しているということで、目の前のモノゴトが経てきた時間、一見しただけでは分からないような不可視の価値が「新しい」と思われたようだ。
今はその動向がどのように進化したのか知る由もないが、正直いうと私としては今更感が拭えなかった。

そもそもプロセスに着目することで私は蓄積という行為を始めたのだ。

「提示された作品から時間と身体性を感じ取れれば、翻って己という存在への実感が得られるだろう。その実感を得られれば、少しは自分自身を包含する世界に対し愛と丁寧さを持つことができるのではないか。そうすれば、今より少しはマシな世界になるんじゃないか。」

20代の私はそんなふうに考えた。

あまりに大人がだらしがなくて自分のことしか考えないから。年齢を重ねただけで何かを得たのだと勘違いしているから。会社人と社会人の区別もなく、給料や税金の意味すら考えることなくただ流れてくる情報で時代や社会を判断するその受動的な生き方に怒りを覚えていたから。
そして、あまつさえ若さをただ馬鹿にして上からくだらない価値観を押し付けてくるその傲慢さに、私はただただ毎日怒っていた。

本当の意味で「イマ・ココ」に集中することができたなら、人は自身を包含する世界としての「イマ・ココ」に至る歴史的プロセスに心から感動し、その感動をどうにかして自身の小さな行いに託し人類社会に、ひいては地球に、宇宙に還元したいと望むはずなのだ。

しかし、いまだ我々の社会はそのような連鎖を生んでいない。
殆どの人が何も気づかず、見ず知らずの他者にも世界にも関心がなく、ただただ近視眼的な意味での「イマ・ココ」を消費しているに過ぎない。

とはいえ、そんな怒りに満ちた私も大学院を修了してから来年で10年経つ。
いつしか怒りは憐れみに変わり、希望を捨てずに諦観するという器用さを身に付けた。
それに、どうやら少しずつだが「気付き」が社会に生まれてきてもいるようだ。

「プロセス」の価値に気付き、社会的価値が形成されたのもその一環だろう。
企業が戦略的に構築し独占し蓄積されてきた知も少しずつ社会に解放されシェアされ始めてきた。

人類は少しずつ、また共感と共有を取り戻しつつあるのかもしれない。

2010年にいち早く「プロセス」に反応した私の感覚にもし先見性があったのなら、今私が感じていることにも近い将来、社会的価値が生まれるかもしれない。
そんな考えから以下に現在私が考えている希望的未来像を記してみたい。

しかし実際、我々は人類社会に対しお気楽に構えてはいられない。
既得権益を貪る輩が新世界の萌芽を摘むのに躍起になり、戦争をちゃぶ台返しに使いたいと望み、それに乗っかる軍需産業、そもそもの大義を忘れ人の不幸で飯食う製薬業界などに世界はすっかり飲み込まれている状況だ。
こうしている間にも、地球は刻一刻と傷付き、我々人類の存亡自体も光を失いつつあるのが現状である。

全ては我々、一人一人の大人による、感受性の衰退と無関心の蔓延、正しい情報を取りに行く主体性を発揮しないばかりに自ら進んで受けに行く洗脳によるものなのだ。

それでも私は、常に人類を信じ、未来に希望を託したい。
たとえ誰とも共感できないのだとしても。

さて、そんな希望的観測を以下に記す。

まず人類社会は数値やビジュアルで可視化された”波動”により、”波動”の認知が進むだろう。

そうすると、波動を通して世界を見るようになり、自然とより良い波動を求めるようになる。
つまりそれは、嘘がつけなくなるということだ。嘘をついた状態や嘘が混じった情報は”悪い波動”を持っていると認知されるだろう。誰かに都合の良い偏った情報も同じことになる。これは情報が最高の価値を持ってきた時代からの世界観、価値観の大転換を意味する。

その大転換は”心”の重視を促す。科学技術と縄文的世界観のハイブリッド世界が展開されるだろう。

波動と共に高次元存在が認知される。私が“知性のスープ”と表現する、「意識体(魂)の次元」だ。
その次元を感じること、触れることのできる人間が長い歴史の中で特別視されてきたが、ついにそれは限定された個人の職能を離れ、「意識体(魂)次元」へのアクセスの解放に至るのだ。

もしかしたらそれはラジオのように周波数を合わせて音声や画像で認知することになるかもしれない。既にラジオやTVの砂嵐に現れていたら驚きだ。だとすれば、アナログ技術への需要回帰が起こるだろう。近未来では各家庭で皆うっとりと蓄音機で音楽を聞いているかもしれない。

事実、現にカネ持ちの音楽好きはごく少人数で蓄音機を囲んで陶酔しているという。音にこだわった結果、最も心地良いと感じたのが蓄音機だったのかもしれないし、ただ単にその貴重さに酔っているだけかもしれないが、そこまで興味のあることじゃない。
カネ持ちでもなければ俗世間にも嫌気を感じる私は、ただただ孤独な人間粒に過ぎないのだ。彼らに加わることもなければ、嫉妬する一群に加わることもない。

一瞬、アナログ回帰の方向を見せた”次元ラジオ”だが、すぐに既存の技術との併合が為されよりスムーズに高次元と繋がることができるようになるだろう。

嘘が無くなり、心配や不安が無くなり、どこかの誰かが流し人々が受け取る既存情報の価値が無くなり、世界観と価値観の大転換が行われた世界では、人類は共通の真実を共有するようになる。

情報源は”知性のスープ”たる「意識体(魂)の次元」だ。
比喩だが、ラジオがあるなら電話もあるだろう。アクセスが限られた場や個人の独占ではなく解放されるのだから、いつでも、誰でも、まるで受話器をとれば繋がるように、常に直接的に本質に触れることができるのだ。

不安性の人もそこにアクセスすれば常に確実な安心を得ることができる。長らく人類が縋ってきた宗教の役割が人類社会に再びインストールされるとも言える。
ただし、これまでの宗教と大きく違うのは、神(本質)とのアクセスが限られた者だけに独占されたものではなく、お布施や修行という対価を求められることもなく、あまねく全人類に解放されている点である。

そうなれば、戦争も悪意も嘘も不安も不破も無くなり、人類が皆一つになって、より善い未来へと協力して生きていけるようになるはずだ。

無論、そんな本質までも疑い破壊しようとする社会的ノイズは絶えず発生するが、きっともう人類は揺るがない。
ノイズも包摂しながら存在の昇華を成し遂げていくのだと私は信じている。

最悪の未来なんていくらでも想定できる。

大事なことは、希望を失わないことだ。

空と落日のあいだより、遠くの雨を見晴かす。

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