見出し画像

note十発目。Jin HASHIMOTO - Lift off

ついに10発目。"Lift off"... 自分の中ではSpace oddityのイメージです。

宇宙船と共に宇宙を漂い、やがて月の彼方へと消えていくトム少佐.. 事実は全て聞こえてくる無線の向こう側...

"Planet Earth is blue and there's nothing I can do"...

「地球は青いそして僕にできることは何もない」

無線越しの地球管制塔を尻目に2度とは戻れないと知りながら未だ見ぬ"向こう側"へと消えていくトム少佐。「妻に心から愛していると伝えてくれ」と言いながら。。。

未だ見ぬ向こう側。未だ来らざるもの。彼岸と此岸。既に起きた未来、未だ起きぬ過去。未知のあちら側...

人間はそうしたものに思いを馳せ「夢」を想像(創造)し語ってきました。

最近、Artは発明品だとある人が言っていました。それは未だ見ぬモノへの驚きこそがArtなのだということだと思いますが、Artの歴史上そうした側面もあったでしょう。

Artにルールはありません。しかし批評家がいて市場がありそれぞれに価値が付けられています。

昨今ではアーティスト自身がプロモーションをすることでコレクターなどとダイレクトに結びつき、社会にArtが溢れることで批評家の判断は大幅に遅れをとり時代的な傾向やストーリーがますます捉えられなくなってきています。市場の速度が加速し誰もが考える時間を持てずにただただ「新しいもの」を探しているのです。

とはいえアーティストがHPやSNSを通し自身でプロモーションできるようになったのは良いことだと思います。なぜならArtの価値とは自然発生的なものではないからです。誰かが意図的に価値を設定し市場の変動を作り出しています。つまり、所詮は日本の芸能界と変わらずキーパーソンの胸三寸なのです。

今や政治も社会も歴史認識も経済も、どこを切っても金太郎飴のように腐った患部が露出しています。しかし、そんなくだらない忖度と癒着にまみれた世界でもArtをやっているのは、海外で名だたるビッグアーティストやお金持ちになるような夢を抱いているからではなく、現在の人間存在そのものに語りかけたいことがあるからです。

日本の美術の授業で行なっているような個性の発露としての表現行動と、人間存在に語りかけるための行動とは全く別のものです。

前者は前記のような「なんでもいい」ラフな自由さであり、後者は「無私であり全に身を埋没せるような構え」を制作者に求めます。

欧米における昨今のアートマーケットで見られる一つの方向としてルネッサンス的な方向性があります。簡単に言えば古き良き時代を再考しようということですが、大きな文脈上に現代があるということを再認識させたいのかもしれません。

ヴィジュアルを言葉にすれば単に歴史を踏襲し現在のストリート感をコラボレーションさせたようなものですが、もっと簡単に言えば「具象に現代の速度感をマッチさせたもの」と言い換えることができるでしょう。

それに追随するように一部の日本人アーティストは江戸時代の浮世絵などの切り貼りに現代の速度感をマッチさせたネオ日本画のようなことをやって儲けています。

別にそれが悪いのではありません。大いに稼いでもらって構わないのですが、それが「正解」になってしまうと「その他」にいるアーティストは困ってしまします。我々、日本人は果たして侍、忍者、歌舞伎、能、茶道、武士道などの文脈上に本当に立っていると言えるのでしょうか?現代庶民のリアルな「生活」にそれらは溶け込んでいるでしょうか?現代に生きる私たちの精神に、それらは根付き価値観を構成しているでしょうか?

はいはい、日本人ですよー、お侍さんですよー、忍者ですよー、切腹しちゃうし特攻もしちゃうし死を恐れない残忍な民族ですよー、と、自ら分かりやすい「日本」の着ぐるみを着て欧米人にサービスをすることは、私たちの「本来」を安売りし傷つけることにはならないのでしょうか?

むしろそこにこそ、私たちが現代に持つ日本人としての問題が潜んでおり、Jpanese Contemporary Artとしての本当の価値があるはずだと考えています。

とはいえ、大抵の日本人はお金持ちだろうが血統が良かろうが、自分で考えることが苦手で人の話も聞けないため議論もできません。前例があることを踏襲して何かをレベルアップさせることは得意ですが、リスクをとって新しい何かを生み出すことが社会構造的にできなくなっています。それはポジション取りに保守的なイエスマンほど重宝される社会のためであり、企業でも役所でも大学でも機構となっているもの全てが前述の金太郎飴のように部分的もしくは全体的に腐敗しています。

そのため、日本で売れる美術作品の傾向として間違いなくあげられるうちの一つが「具象」であり、「欧米の現代アートの傾向を持っているもの」です。つまり分かりやすいか既に価値があると判断できるものしか選べないのです。

また、映像的な速度感を持ち、立ち止まって考えるような思考性を持たない人ほど視覚的で分かりやすい作品を好みます。映像的な速度感とは「人間の人間による人間のための社会」から生み出されているもので、太古からある地球のリズムとは大きく乖離しています。

既存の社会の中で順応していればいるほど次から次へと流れ去るような時間感覚の中で生きており、それは個人の所得と比例します。なぜなら既存社会への順応度が高いほど利潤を生み出す仕組みにコミットでき所得が増えるように社会が作られているからです。

私はここで安易な資本主義批判をしているのではありません。私とて、作品を売ってモノを買い支払いをし生活しているのですから。むしろ、価格については本気でArt一本で生活するんだという気概を持たない制作者達によって値崩れを起こしていることに憤りを感じています。

純粋な材料費や制作時間に、日本で作品を売った所得だけで生活していくにはどれだけ必要かを計算した上で価格をギリギリのラインで設定しているのにもかかわらず、固定収入がありながら趣味的に作品制作をしている制作者と同じ土台で価格勝負をしなければいけないのはとても難しい戦いです。

そのために他の追随を許さないクオリティーを保ち、さらに毎回新しいビジュアルを生み出し続けなければならない熾烈な争いがArtの側面にはあるのです。

この競争原理は資本主義とセットです。なぜならこの競争原理を勝ち抜くことと所得の上昇は比例するからであり、競争原理における勝ち抜きは社会への順応化ということができるからです。

競争を勝ち抜く上で市場に忖度と癒着があることは前述しましたが、無論のこと残念ながらそれらとの迎合も社会順応のうちに入ってしまいます。

つまり、アーティストが既存社会で生きていく課題のうちの一つは社会との順応をどの程度はかるか否かというスタンスを当初のうちに定めておかなければならないことで、低価格と装飾的無害性により意図せず持ち上げられてしまったアーティストが所得の上昇と反比例し当初の純粋な気持ちを失っていく自分に傷つき病んでいくというのはよくあることです。

誰もが持つ「純粋な気持ち」について私の話をすると、私は何かを表現したいわけではありません。何かを表現しようと思ったこともありません。当初から、私を包括する「リズム・速度・長さ」の翻訳をしたいとしか思ったことがありません。なぜなら、それこそが現代に最も必要なことであり急速に忘れ去られていっていることだと感じるからです。

人間はますます「人間の人間による人間のための社会」の中で地球人としての「リズム・速度・長さ」を失いつつあります。

豊かな生活がしたいという欲求は生命全てに共通することです。でなければ何千キロもの旅や命を賭したヒマラヤ越えなどするはずはありません。私たちとて同じことであり、豊かさを求めるから努力でもって社会への順応化を図ろうとするのです。

しかし、その順応化が得意な人と不得意な人との間で決定的な格差が生まれそれは競争原理の上で是認されています。得意な人はますます加速度的に地球人としての「リズム・速度・長さ」を失い、その価値観と感覚に合わせるように権力を振るい社会を変革していきます。

たまらないのは順応化が不得意な人たちで、嫌々ながら引きずられるようにして社会の中で生き続けていくよう強いられます。仕事を「嫌なこと」と言い、「苦しい、やめたい」という人はたくさんいます。その全ての人たちがそもそも社会順応化に不得意な人たちであり、社会順応化に得意な人たちが変革を進めてきた社会に使役されています。

私は新自由主義的な弱肉強食原理により弱者は死ぬか使役されるべきなのだという考え方に賛同することができません。要はバランスが崩れているところに人類の現代社会における問題があると考えます。

そのためには、文化的ルネッサンスではなく、「包括された私たち」という目線が必要であり、そこで見直されるべき課題は自然との関係、地球との関係、そして私たち含め一つ一つの生命が生物機構として一つの宇宙そのものであるという認識なのです。


最後に、前述の表現についての補足をしてこの船出の回を締めたいと思います。私は無私の上でプロセスに埋没し結果として作品と認識されるものをArtとして提示していますが、それは「技術の進歩と経済成長」を旗印にますます多くの人間を不幸にし、便利さと引き換えに過程を失うことで根本を見失っている現代社会において人類に提示すべき一つのスタンス、生き方であると考えた結果です。

それとは別に、もし私が無私の方向に向かわず何かしらの発露として表現したいことがあるとすれば、それはもう既に宮崎駿がナウシカの中でやりきっていることです。

極小の営みに飲み込まれた人間存在。その存在自体が孕む傲慢さ。しかしそれを批判したとて自分がその人間であることに変わりはない。また、そんな人間の未来にさえ希望があるわけではない。むしろ大きな絶望が横たわっている。しかし、それでも、我々は生きて紡いでいくしかないのだ。それは希望があるからでも夢があるからでもない。それでも前に進み、生きるということ自体が生きる力そのものなのだ。

私はナウシカに込められたメッセージを以上のように理解しています。私の祖母を見ても、戦争を経験している世代は現代の私たちと比べ、「生きる」ということに対して言葉にはならない強烈な思い、意思の強さを持っていると思います。

生まれた頃から生命の危機に直面したこともなく餓死の危険性も経験せず、理不尽な死や暴力も目にしていない我々が彼らと同じ生の根源的な強さを持つことは不可能なように思えますが、それならばせめて生きるということに愛情を持つべきであると考えます。ここで愛という使い古され陳腐で薄っぺらく磨耗してしまった言葉をそれでも敢えて使うのは、愛があるから優しさが生まれ良心が育ち、それらは行動として現れ、そしてその愛から生まれた行動の積み重ねがやがて愛に溢れた社会を構築するはずだと信じているからです。

私は私にとって世界を愛することができる方法として、流れる時間と身体性を現在に刻み、生き、呼吸し、大地と交わるために耕し、育て、食べ、排泄し眠ります。

制作をし、大地を耕すライフスタイルを提示することで、私は上記の長々とした思いを社会に表現していると言えるのかもしれません。

画像1


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

最新の動向はsnsで、作品や展示のアーカイブは順次HPにて更新して参りますので、もしご興味を持っていただけた方は下記リンクよりアクセスしていただけたらと思います。またメルマガも配信し始めましたのでご希望の方はHPより「メルマガ希望」と題しご連絡くださいましたら幸いです。

Instagram: jin_777

HP: http://hashimoto-jin.com


記事を読んでいただきありがとうございます!ARTに命を捧げています。サポート大歓迎です!現在の地球に生きる同士としてよろしくお願い致します◎