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note六発目。JinHASHIMOTO

毎度政治的なことばかりお話していると気が滅入ってきますから、、今日は一つ自分のアートの馴れ初めについて語ってみたいと思います。

私は日々、上の写真のようなことを行なっています。木彫です。左の無垢材(ブナ)から彫刻し一番右端の完成に至るまでは約3時間ほどかかります。この小さな木彫をできるだけ作りまくることで、自身の持つ「リズム・速度・長さ」を記録し蓄積させることができると考えています。

「リズム・速度・長さ」とは、私が紐理論に出会った時に「全てが振動する紐だというのなら、今目に見えている固有性などまやかしに近い」と思い、万物の固有性を一から考え直した末に思い当たったのが「リズム・速度・長さ」の三点でした。

故に、「私という個人」など本質的には無いに等しく私は私という「リズム・速度・長さ」に他ならないので、私に成しうることは私に固有の「リズム・速度・長さ」を可視化し、世界や他者のそれと比較することで、言ってしまえば「こんなもんだよ」と提示するくらしかできないのが表現活動の本質、ひいては人間存在の限界に当たると思い至り早10年になります。

当初はこんな具合でただひたすらに鉄パイプを潰し蓄積するところから始めました。

これで、私はなんとなくホッとしました。あぁ、ようやくこの世界に存在の証明ができたのだと思ったのです。

思い返せばそもそも美術の道を歩み始めたその動機はもちろん「なんとなく」といういわゆる現代っ子特有の薄弱な行動原理であったのは否めないのですが、学校で行う美術の授業は好きでした。高校でも美術、音楽、書道とあれば迷うことなく美術を選択しました。

私の高校は都内にある私立の高校で、偏差値は真ん中より少し下あたりでしょうか。主にスポーツに力を入れている高校でしたがその成績もまずまずといった、つまりは中途半端な都立のすべり止め校であったわけです。しかし当時の私は学力テストで偏差値が38くらい。付け焼き刃で受験勉強をしてみても時すでに遅く51までしか上げられず、内申点は大変に低いものでございましたので埼玉の片田舎に住まう15歳の選択肢としては近場のゴミ溜めのような公立高校へ進学するかどこぞの丁度いい私立に行くより他はありませんでした。

しかし、運命の出会いはここにこそあったのです。反発心にちょいと捻れた心を持った無気力な若者は毎日遅刻をし果ては停学まで食う始末。担任には「あの子はもう駄目です」と末期癌のような宣告を受け、他のクラスの担任には「クズ」だの「最低な奴」だのと言われ先輩には影で「ダメ君」とあだ名をつけられました。また職員室では「あいつは毒を吐く」と言われ全く関わりのないサッカー部の顧問にまで嫌われ、通りすがりには必ずメンチを切ってくる同級生もいたものです。いやはや何でそこまで目立つほどに憎らしいのかわかりませんが、私は別に不良ではありませんでしたし、人より少しばかり声が大きく落ち着きの無いところはあったかもしれませんが、ただただ毎日が眠くてつまらなくてしょうがなかったことだけはよく覚えております。おそらく不良でもないのに著しく不真面目であることが中途半端な型破りと眼に映り誰からも嫌われるに至る理由だったのではないでしょうか。まさに中途半端な私立高校を体現するような良いサンプルであったと自負しているのですが、まぁ、なんでしょうか、日々、江戸時代ならば遠島送りで極悪人のような扱いを受けておったわけです。

そんないわゆる「しょうもない」私でしたが、無事3年間通い上げいよいよ卒業という段になります。その前に進学について語っておくと、私立高校はどんな馬鹿でもそれなりのレベルの低い大学とのマッチングをし、なんとかして進学率を上げるのが経営の定石でございまして、停学時にぶち込まれた資料室の棚にも「どう生き残るか私立高校」という切実なビデオテープを目にしております。私立高校の生き残り。誠に世知辛い世の中でございます。とはいえできることは限られており、生き残りには共学、学力向上、高進学率、制服撤廃などあるわけですが、硬派のスポーツ志向である男子校にはできることがさらに限られているわけでございまして、学力の向上と高進学率に絞った対策が行われるのでございます。

よって行われましたのは入学の年に特進クラスを設ける代わりに不良の吹き溜まりであった商業科を無くし、有象無象の輩のための推薦枠を大量に獲得をすることで学力向上と高進学率を確保したのでありました。大学側からしましても、名ばかりの大学において目的はただの金儲けでございますから適当な教授でも囲っておいて適当に授業っぽいものでもやっておけばどのみち講義など受ける気なく入ってくる連中ですので文句が出るはずもなく、また学生も放任されバイトとサークルで紋切り型の青春を謳歌できるのでありますから、まさにウィンウィンなのでございましょう。

当の私はと申しますれば無論のこと推薦枠などにもありつけるはずもなく、かといって担任もどこかに押し込まないと校内の責任に関わる。さてどうしたものかと考えたのでしょうな。あぁ、こいつは寝ている以外は落書きをしておった!と思い当たったのでありましょう。担任からは異次元レベルでどうしようもない生徒でございましたので美術部の顧問に丸投げもできまさに一石二鳥!そのような具合で私は美術部の顧問のところへ進路相談へ伺うのであります。

コンコン。「お入り」「失礼します。先生、かくかくしかじかで、、」「ふんふん、なるほど」と、担任に言われた通り進路相談をしましたところ前後の繋がりは忘れてしまいましたが「君のような人が美術をやるのだ」と言われたことをよく覚えております。嬉しかったんでしょうな。「お前のような奴」の後には必ず罵詈雑言が付け加えられ大人から頭ごなしにクズ呼ばわりされてきた自分が、初めて人から自分という個性、本質を認めてもらえたような気分になったのでございましょう。

当時の私からすれば、美術なんぞは図書館通いの根暗野郎が好んでやるようなイジイジとした内向的で弱々しいものだという認識でございましたから、二重に驚いたものです。自分のような人間にも向く世界というものがあるのか、それになんと美術というのは職業としての幅があり、なるほど、デザインというものが世の中にあるのか!なんとなくかっこいい!ということで予備校に通い始め現役受験はデザイン科で受けたのでした。

ここから2007年に東京藝術大学の工芸科に入るまで4年間の浪人生活を経るわけですが、一浪目の夏にどこぞの美術館で徳川家の姫君の嫁入り道具として漆塗りの豪華な化粧箱のようなものを目にしたのがきっかけで工芸科に転身しました。当時はデザインというものが一体なんなのか、絵を描くということは一体なんなのか自分でも全くわからず、また自分には才能がないのではないかと思い悩んでいた時期でもありました。そうした中で、厳然と佇む歴史の重み、実感、豪奢なその世界観に惚れ込み、工芸科に入ったのです。

工芸科は常にデザイン・工芸としてセットで扱われ、デザイン科に比べ人数も少なく地味な人がほとんどでございましたが、そんなことは一向に構わずいつしかデッサンと彩色と立体制作の深淵にどっぷりとハマっていったのでございます。

はてさて長くなりました。一気に書ききってしまいたいところですが、他の作業もありますし今日のところはこれまでということで、御開きにさせていただきたいと思います。

それでは、「橋本仁 Artの馴れ初め」如何でございましたでしょうか。次回は「橋本仁…」お題は書き終わってから考えます。


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