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世界一周をやめた。僕には要らない。

世界"一周”ってなに?

世界一周をしようと旅を始めてから1か月が経ち、旅先での思い出が増えていくにつれ、自分の中に「世界一周という言葉で自分を縛り付けてしまっていないか?」という疑問が湧いてきた。

世界中を旅しているといっても現地の文化や言語に全く精通していない。
観光地の周りをぐるぐるしているだけ。地図に線を結んで世界一周だと叫んでも、実際はほんの数日、数週間すごしただけの街同士を線を結んでいるにすぎない。もちろん移動している時に楽しい思い出や経験がない訳ではないですが、その線の端と端を結び世界一周だ!と叫ぶためにもっと大事な経験を無駄にしていると感じてしまいました。

世界を一周することが悪いわけではない

これは決して世界一周をしている方々を貶したいわけではない。ただ私自身が「自分のしたい旅は世界一周だ!」と誤認していたに過ぎない。

普段の生活に疲弊して自由気ままに海外を旅したいのに、世界一周というパッケージ旅行を「させられている」気分になってしまっていた。実際私が行きたかった場所はユーラシアに集中していた(アフリカにも行きたいのですが行きたい国が尽く治安が悪いのです…)というのも大きな理由です。

不安から自分を守る言葉が欲しかった

この旅のために1年間休学をするという大きな選択をしました。人から遅れを取りたくないという思いから勉強を続けて来たのに、休学をして1年遅れで卒業するというのは自分にとってかなり不安が付きまとう決断でした。しかし旅に出てみれば1年の違いを恐れているのが馬鹿馬鹿しくも思えてしまいました。学校と違い、幅広い年齢の人たちが同じ宿に泊まり、そこからまた世界各地へと散っていくのです。

19歳の大学生と行動することもあれば64歳のおっさんと一緒にドライブで旅をすることもありました。同じ年齢でも人の生きざまは多様。
振り返ると、世界一周をしたと言えば友達にも自慢できるし、自分を不安から守る一番楽な方法だったように思います。

楽しければそれでいい

半年の旅を終わってみれば、旅に対して多くのことを求めすぎていました。先のことを忘れてその地の文化や喧噪に飲み込まれてみるのも旅の醍醐味だったりする訳で。そもそも予定を立てるのが得意ではない私にとっては世界一周をして西回りで日本に帰らないといけない事自体が苦痛だったのかもしれません。

旅はまず楽しくなければいけない。苦痛をどれだけ味わったかで旅の価値が決まる、なんてことはなくてその価値は自分で与えるものなのだから楽しく旅を過ごそう!と思い1か月半すごした東南アジアを去りました。


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