太平洋戦争はアジア解放だった?!
「日本が起こした戦争は、アジアを独立させるためのものだった」
という言説は近年、ネットを含め、散見されるようになった。
肯定派の主な主張。
◆主張(1)植民地だったアジアの国々を欧米列強国から解放のため、戦った
◆主張(2)ABCD包囲網で経済制裁されたため、やむを得ず、自存自衛の
ため戦った
肯定派の主張(1)
植民地だったアジアの国々を欧米列強国から解放のため、戦った
反証1:太平洋戦争を起こした理由は、2つある。
理由(1):東南アジア一帯を支配下におき、重要資源を自給すること。
理由(2):日中戦争に勝利するため、中国への軍事援助ルート
(援蒋ルート)を遮断すること。
反証の前に、まずは、世界情勢を見る必要がある。
1940年5月~6月には、東南アジアに植民地を保有していたオランダ
フランスがドイツ帝国に敗退する。
オランダは本国軍が降伏、政府はイギリスに亡命、フランスも北部をドイツに占領され、南部はナチス干渉下の政権(ヴィシー政府・ペタン政権)が支配した。
このとき、日本は日中戦争が泥沼化しており、こうした情勢をみて
何を考えていたかは、以下の資料でわかる。
1940年7月 「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」提案理由
原文:国立公文書館アジア歴史資料センター Ref. C12120200900
このように、ヨーロッパの戦況に乗じて、インドの近くまで版図を広げることを考えていた。これを実現するための具体的な要綱が以下の資料である。
1940年7月27日 世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱
原文:国立公文書館アジア歴史資料センター Ref. C12120237300
第3条では、時機をみて、南方進出のための武力行使が明記されている。
イギリスとの交戦を計画し、アメリカとの開戦も視野に入れ、準備をする
ことも明記されている。
この要綱では、日中戦争で勝利するため、援蒋ルートを遮断すること
ヨーロッパの戦況に乗じて、ドイツ、イタリアと同盟を組むことを考え
領土を拡大し、資源を自国で確保するため、イギリスとの交戦を計画し
アメリカとの開戦も視野に入れつつ、南方進出することが目的だとわかる。
植民地を解放する気がないのは明白である。
反証2:占領後の方針は、資源確保が目的。独立運動は抑える
よう指示していた。
開戦直前に、占領後の処理方針を指示したのが以下の資料。
何を目的に攻め込む事にしたのか、この文書をみればはっきりする。
1941年11月20日 南方占領地行政実施要領
原文:国立公文書館アジア歴史資料センター Ref.C12120152100
占領体制を固めた後は、国防資源確保の話で「要領」のニから五までは
資源確保と輸送の話で占められている。
七では「民生に及ぼさるるを得ざる重圧は之を忍ばしめ」とあり、資源確保や占領軍の自活(食糧等の現地調達)のため、現地住民の生活に及ぼす
苦痛は我慢させろと指示。
八では住民を、現住土民などと表現し、独立運動は当面抑えるよう指示。
このように、資源の確保収奪が目的であり、アジアの解放など全く関係が
なかったことがわかる。
反証3:占領地の最終的帰属は、日本領土への編入だった。
開戦し、東南アジア各地に占領地域を広げた後、これら占領地を
どう取り扱うかにつき決定した資料が以下である。
1943年5月31日 大東亜政略指導大綱
原文:国立公文書館アジア歴史資料センター Ref. C12120193700
太平洋戦争で獲得目標とした石油・金属資源の宝庫であるマレーシアや
インドネシア主部は日本の領土に編入するとし、当分隠そうとしていた。
フィリピンは独立させるとしているが、もともと戦前からアメリカとの間で
1946年7月4日に独立する約束だった。
ビルマも独立させるとあるが、緬甸独立指導要綱をみれば、諸々の条件付き
であり、傀儡政権だった。
独立させるつもりはなく、アジア解放とは真逆で「資源確保のため植民地を
争奪すること」だった。
◆日本の方針は、日本領編入、傀儡政権、現状放置の三択。
フィリピン「傀儡政権樹立」
ベトナム「フランス領」
マレーシア「日本領に編入」
シンガポール「日本領に編入」
インドネシア「日本領に編入」
ビルマ「傀儡政権樹立」
中国「日中戦争で交戦中、汪兆銘傀儡政権」
朝鮮「植民地」
台湾「植民地」
満州国「傀儡政権」
このように、「アジアを解放するため」というのは、虚偽のプロパガンダ
だといえよう。
肯定派の主張(2)
ABCD包囲網で経済制裁されたため、やむを得ず、自存自衛のため戦った
反証の前に、まず、主張(1)では、アジア解放と謳い、自発的な開戦
だったのに、主張(2)では、やむを得ずといった受動的な理由になる。
主張(1)と主張(2)では、論理的矛盾を抱えている。
反証:経済制裁される前から、重要資源を自給するため(自存自衛)
南進政策を進め、目的のためなら、対英米戦を辞せず考えだった
1941年7月2日 情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱
原文:国立公文書館アジア歴史資料センター Ref. C12120183800
この要綱では「世界の情勢変転の如何に拘らず大東亜共栄圏を建設」と唱え
イギリスに加え、アメリカとの戦争も辞さないと明記されている。
これに従い、1941年7月28日に、南部仏印進駐が行われ、これに対し
対抗処置が行われる。
アメリカから「対日石油輸出禁止、在米日本人資産凍結」
イギリスから「日英通商航海条約廃棄」
オランダから「日蘭石油民間協定の停止」
といった厳しい制裁措置を受けた。
また、日ソ中立条約を1941年4月に締結したにもかかわらず、独ソ戦が
枢軸有利に推移すれば「北方」へも武力行使するとしている。
実際、満州国の北部で、ソ連を対象とした関東軍特種演習の実施を
発令し、約1カ月にわたり、約85万の将兵が参加する演習を実行した。
南進政策の基本方針は、前年の1940年7月に決まっていたこと
「対英米戦を辞せず」として、南部仏印進駐を決行したことから
その後に、行われた経済制裁をABCD包囲網などと称し
「日本はやむを得ず自衛のために開戦した」などと、いい訳の通る
余地はない。
日本は「(経済制裁など)わかっていて、先に手を出した」
ということが、これら一連の内部文書から明らかである。
開戦は1940年7月の段階で、方針決定で視野に入れていた。
1941年の対日石油禁輸などを理由に「やむを得ず開戦に追い込まれた」
というのは時系列が逆で、明白な嘘だというのがわかる。
また、ここで「自存自衛」の言葉が出てくるが、当時の「自存自衛」とは
資源の自給を指しており、現在の言葉とは異なることもわかる。
まとめ
◆ヨーロッパの情勢に乗じて、版図を広げるつもりだった
◆アジア解放は偽のプロパガンダで、重要資源の自給が目的だった
◆目的のためなら、イギリス、アメリカとも戦争するつもりだった
◆経済制裁を受ける前からの計画で、「やむを得ず」ではなかった
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