捨てられたハングルを日本が再発見した?!

肯定派の主張(1)
朝鮮は漢文だけで、ハングルは使われておらず、日韓併合によって
再発見され、使われるようになった


肯定派の主張(1)

朝鮮は漢文だけで、ハングルは使われておらず、日韓併合によって
再発見され、使われるようになった

反証1:諺解(げんかい)作業にハングルを使用していた

漢文をハングルで書き、解釈することを諺解といい、ハングルが作られた
初期には、王室主導で、儒教の経典と仏教の経典を諺解しており、以降も
このような形でハングルを使用していた。

反証2:ハングルの書物は15世紀以降も残されている

1527年:漢字学習書である『訓蒙字會』(崔世珍)
1576年:漢字辞典『新増類合』(柳希春)
1585年:ハングル訳の中国経書『七書諺解』
1598年:武器の使い方を書いた『武芸諸譜』
1610年:『武芸諸譜翻訳続集』
1686年:疾患や飢えから生き残る方法を記した『救荒撮要』
1790年:『隣語大方』 日本語と朝鮮語の学習書 (写本)
1880年:『韓仏辞典』 リデル司教によって刊行
1881年:東学の教義を伝える経典『龍潭遺詞』 崔済愚によって刊行
1897年:『韓英字典』 HQアンダーウッドらによって刊行
1909年:今田束の『実用解剖学』を金弼淳がハングル訳にした
『解簿学』を刊行(国立病院の済衆院[1885年設立]) 

これらは一部だが、このようにハングルで書いた文献などが残されており
公文書は漢文だったが、ハングルを使っていたことが伺える。

反証3:ハングルの小説などが存在した

ハングルで書かれた小説『ホンギルドン伝』(1607年) や『春香伝』
韓国の古典小説をハングルで書いた『옥쥬호연(玉珠好縁)』(1851年)も
存在する。また、東学の基本的な教えを広めるために作成された
『龍潭遺詞』は、庶民、女性、子供たちが読めるように、ハングルで
記されている。

反証4:朝鮮と外交していた対馬藩

江戸時代中期に、日本人の雨森芳洲が朝鮮語の学習書として『交隣須知』を作成している。中身は日本語とハングルで書かれ、国会国立図書館デジタルコレクションで確認できる。

交隣須知 著者 雨森芳洲

雨森芳洲は対馬藩にて、朝鮮との外交を担当。雨森は朝鮮語を学ぶため
釜山に留学し、そこで朝鮮語を習っていた。
また、1727年に朝鮮語通詞養成機関韓語司」を開設。朝鮮語通詞の養成を行っており、朝鮮語の学習に『交隣須知』や『隣語大方』を使用していた。

明治になり、廃藩置県によって、対馬藩が消滅したため、朝鮮との外交は
外務省が引き継ぐ形になったが、もちろん『交隣須知』を利用している。
1881年に外務省から改訂された『交隣須知』が出版され、1883年にも外務省から再刊された『交隣須知』が出版されている。

このように、学問を学ぶにも、ハングルで諺解したり、小説や辞典などが
存在し、日本が朝鮮との外交を行うため、ハングル文字を使用して朝鮮語の
学習を行うなど、「ハングルが捨てられていた」「日本が再発見した」などという事実はない

公文書に漢文しか使ってはいけなかったからという理由だけで、勝手に捨てたと考えているだけに過ぎない。

まとめ

◆漢文を解釈するために、ハングルを用いていた(諺解作業)
◆15世紀以降、ハングルの書物や文献が多数にわたり存在する
◆ハングル小説や宗教の普及などで、ハングルが活用されていた
◆朝鮮と外交していた対馬藩はハングル文字を認識しており、朝鮮語学習書
『交隣須知』はハングル文字で書かれ、明治政府はこれらを引き継いでいた
◆ハングルは捨てられてもいなければ、継続して使われており、外交を
通して、日本人もハングル文字を認識していた。
◆西洋の宗教普及のため、外国人もハングルを認識していた。