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私のための哲学記1 〜大人になるってどういうこと? ④責任の雲を払う〜

こんにちは、じんです。

「大人になるってどういうこと?」の4回目です。今日も”大人”の本質について考えていきます。

前回の記事はこちら。

前回は”抽象の雲”の一つである、常識・良識の雲をはらいました。今日は、責任の雲についてはらっていきます。

自分の責任を自分で負えるとはどういうこと?

哲学記を書き始めるまで、私はずっと”大人になる”って自分が取らなければならない責任の幅が広がっていくことなんだろうなとぼんやり思っていました。

子供の時の責任は、”生きること”。それだけが個人が持つ責任だったと思います。それが小中学校に入ると日直とか○○係の仕事をやるという責任が増えます。高校生・大学生になってバイトを始めると、自分の仕事に対してお金を払ってくれる人への責任が増えます。社会人になると、、、のように成長するにつれて責任の幅は広がっていきます。

でも、じゃあどこまでの責任が負えるようになったら大人って言えるのでしょうか?っていうか”責任を負う”って具体的にどういうことなのでしょうか?

…なんだかこれだけで哲学記が1テーマ書けそうなくらい深そうですね。実際まったく思考が進みませんでした。ちょっと切り口を変えます。

私達はどういうときに”責任”という言葉を使うのでしょうか?

・自分の仕事を最後までやりとげるとき
 例)最後まで責任を果たす
・自分の仕事が失敗した時
 例)責任をとって辞任する

どうやら責任には、”仕事”が絡んでそうに見えます。

”仕事”というキーワードだとビジネス的な思考に引っ張られそうなので、”やるべきこと”に表現を変えます。

人が”やるべきこと”を果たそうとするとき、その過程と結果に対して”責任”が生じてそうです。

私だったら、”やるべきこと”を果たす過程では、何をどうすれば上手くできるか必死になって考えると思います。また、”やるべきこと”が失敗した後は、何をどうすれば失敗を取り返せるか必死で考えます。

どっちも自分の”やるべきこと”を必死で考えてますね。これがつまり”責任を負う”っていうことなのかもしれません。

冒頭に戻って、成長に従って責任の幅が広がっていく話をしましたが、多分これは自分の”やるべきこと”の行為の対象がどんどん広がっていったということではないでしょうか。

子供の時は、自分のため・親のためにただ生きるだけでよかった。
小中学生の時は、自分のクラス・部活・学校のために役割をこなせばよかった。
高校生・大学生の時は、バイト先に来るお客さんが喜ぶにはどうすれば良いか考えていればよかった。
私は社会人になってようやく、自分の仕事はどうやら社会全体に影響を与えうるんだということを知った。

つまり自分の責任を負える人の最終系は、

「社会全体に対して自分の”やるべきこと”を考えられる」

ではないでしょうか。”やるべきこと”ってその時の自分の立場によって変わると思います。だからやる内容は何でもよいのだと思います。ただ、その行為を自分で必死になって考えられているかどうかと、その行為の行き先が”社会全体”に繋がっているという意識を持てるかが大事なんだろうなと。

「”大人”ならば、社会全体に対して自分の”やるべきこと”を考えられる」なんか必要条件っぽくないですか?

また1つ”抽象の雲”が晴れました。今回はだいぶ苦戦しまして、ちょっと強引な払い方だったかもしれません。いつか私のための哲学記のテーマとして”責任”とは何だろうにリベンジしてみたいです。いつかね。

次回は気遣いの雲に取り掛かります。引き続きお付き合いください。


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