『ピンクの猫』は「なう」と鳴く
「ジャグラー」が、その本質的な性質としては言葉を持たない生き物であるとしても、 僕たちは、ジャグラーであるのと同時に/同様に、言葉を持つ生き物でもありたい。
長い時間をかけて、海を泳ぐか、森を歩きまわるかして、
孤独だが透き通っている精神をもって、
透明人間が住む世界の言葉を探すこと
こちら『ピンクの猫』です、おーばー。
『ピンクの猫』については、かつてのnoteでも書いたし、ジャグリング論集の始めでも書いたが、ジャグリングマーケットを終えて改めて『ピンクの猫』としての声明をきちんと出しておく必要があるな、と感じたのでここに書く。
『ピンクの猫』とは何か
論集の第零部と重複するが、『ピンクの猫』の紹介をする。
『ピンクの猫』を紹介しよう。
『ピンクの猫』とは、《ジャグリングにおける「良さ」と呼ばれる「“それ”」へたどり着くために、言葉からアプローチしていく活動をする集団》である。
私は(ジャグラーは皆、と言ってもいい)ジャグリングがもっている価値を、言葉にならないような「それ」の魅力を、感覚的に知っている。「それ」は、「良さ」とか、少し違うが「エモ」とかいう語で呼ばれている。
私の中に「それ」を追い求める者は二人いる。
一人は「ジャグラーとしての私」(ジャグリングを“する”私、ジャグリングルーチンを“作る”私)である。
ジャグラーとしての私はジャグリングをすることで、作品(ルーチン)を作ることで、「それ」に辿り着きたいとおもっている。「ジャグラー」全員が、《ジャグリングにおける「良さ」と呼ばれる「それ」へたどり着くために、ジャグリング/運動からアプローチしていく活動をする集団》と言って良いかは分からないが、少なくとも、ジャグリング作品(ルーチン)の創作者はそうだと言える。
「それ」を追い求めるもう一人の私が、「論者としての私」だ。これが『ピンクの猫』に所属する私である。
この私は、ジャグリングにおける「良さ」と呼ばれる「それ」へたどり着くために、言葉からアプローチしていく活動をする。この私は、その活動においてジャグリングを“する”ことを必ずしも必要としない。活動の結果として残る成果物は「言葉」であり、運動や、作品(ルーチン)といった「ジャグリングそのもの」ではない。
この、「ジャグラーとしての私」と、『ピンクの猫』にいる「論者としての私」は、「アーティスト」と「批評家/美学者」の二者に類比して捉えることも可能だろう。「アーティスト」(ジャグラー)は自らが価値あると考えるものに向かって作品の制作や表現活動といった創作活動を行う。「批評家/美学者」(論者)はそのアーティストによる作品や表現の価値を見出し(再発見し)、言葉によって再び現前させる。言葉という、他者に伝達可能な、より理解しやすい媒体に変換されることで、そのアーティストにとっての「良さ」は全体に共有される価値としての地位を得る。そのようにして、批評家/美学者はアーティストの、作品の評価に影響をあたえる。
また、批評家/美学者は、「良さ」と呼ばれる「それ」を追求するにあたって、分析のために新しい概念や枠組みを作ることがある。それら概念や枠組みはアーティストが作品作りをする際にも役立つ道具となる。そのようにして、批評家/美学者はアーティストの作品作りにも影響を与える。
アーティストは作品を生み出すことで、価値を「かたちあるもの」として世界に生み出すという意味で価値の創造を行っている。
それに対して、批評家/美学者はアーティストの生んだ「かたちあるもの」に言葉という光を当てることで、「かたちあるもの」の価値をよく見えるようにする。また、批評家/美学者の言葉という光は、アーティストが「かたちあるもの」のかたちを作る最中にも価値を照らし出す。アーティストはそこに見えたものを踏まえて創作することで、更に新たな価値を生み出すかもしれない。そういう意味で、批評家/美学者は価値の創造はしないまでも、価値に影響を与える。
とにかく、『ピンクの猫』がやるべきはジャグリングの価値についての言葉の探求だ。それは、現在ジャグリングの価値がどのように言語化されているのか、今までにされてきたのか、ということの発掘・発見、収集、それらの整理、分類、分析だけではなく、新しく「語」を作る、名付ける、言語化されてなかった価値軸を言葉で打ち立てる、といったことも含む。
また、価値論の話でなく個々人の視点からみれば、論者、批評家、美学者なんて肩書きラベルとは無関係に、何者でもない〈私〉として、「私が関わっているもの、取り組んでいることがどのようなものか(どのように価値あるものか)」というのを言葉の世界で明らかにしたいという欲求は自然なもののように思う。
それは突き詰めれば、〈私〉について語る言葉を獲得することでもあるのだ。
『ピンクの猫』は、いつでも同志を募っている。
加入手続なし、入会金・年会費なし、所属メンバーの名簿もなし、思い思いに各自が名乗ったり名乗らなかったりして、それぞれに活動するだけだ。『ピンクの猫』にはあなたが思い立った瞬間に入ることができる。
『ピンクの猫』再考
『ピンクの猫』は僕の個人的なミッションと深く関係しているので、『ピンクの猫』を飼いはじめて名付けるまでの僕のバックグラウンドみたいなものを少し書こう。
僕は「分析オタク」であると思う。
しかも文系の「分析オタク」だ。分析、接続、明晰化、そういったことを好む趣味が僕にはある。
そして僕は、数式や化学式を用いて数学・物理学・化学・生物学といった領域でこの世界の分析をする方向性よりも、言葉・概念を用いてこの世界の分析をする方向性に向いた。大学でも文系の学問を選んだ。
日常的に何かと対峙する度に問い、直観から答えを探す。問いに対して、よりすっきりと明晰化した概念・理論によって答えるということを繰り返す。僕にとっては、世界はQ&A(問答法)によってより明確にそのすがたを認識できるようになるものである。
哲学、だろうか。
『ピンクの猫』は、誤解を恐れず言えば、ジャグリング哲学者、ジャグリング分析美学者たちのことだ。
「良いジャグリングってなんですか」
ソフィスト、ソフィスティケート、
概念、言葉によって〈あなた/私〉の世界の見え方を変え、あるいは価値を再-発見させること。
ジャグリングをsophisticateすることが『ピンクの猫』の使命、存在意義、定義である。言葉、概念を更新し、より洗練させ、すっきりと明晰に、あなたが体験する世界を感じられ、鑑賞する作品を考えられるように。sophisticateされた知/認識枠組み(言葉・概念)を手に入れたあなたにとって、ジャグリングの世界の体験はより豊かになり、ジャグリングの作品の鑑賞はより豊かになる。
「学者」という語で誤解しないでほしいのだが、『ピンクの猫』の目指すところは、学問的達成でもあるかもしれないが、しかし非常に実践的で、経験的な達成である。
認識枠組みを持たない者はいない。
『ピンクの猫』の目指すようなsophisticateされた認識枠組みを持たずとも、人は、生来の五感の作用や人生経験から成る独自の認識枠組みによって、世界を体験し、作品を鑑賞し、その素晴らしさ、良さ、快感を味わうことはできるだろう。
ただ、その「良さ」を他者と共有するためには、言葉が、しかもsophisticateされた言葉が、必要ではないか。例えば「これは良いものです」とか「これは私の好きなものですが、こういう理由で私には好ましく感じられます」といったことを言うとき、"ある種の言葉"が必要となる。
その"ある種の言葉"とは、フランク・シブリーに言わせれば「美的用語」なのだが、あなたの見る世界/作品を記述し、世界/作品とその価値とを紐付ける言葉だ。
そして、その"ある種の言葉"は、私とあなたを、あなたと誰かをつなぐ言葉になるかもしれない。
言葉が足りない、というのは僕だけが感じる不足/ニーズではないだろう。
例えば、「ジャグリングをやっています」と言ったとき、「大道芸の?」という反応が返ってくることを思う。このとき私は何と言えばいいのか。「まあ、はい、それです」という歯切れの悪い返事、とともに〈私〉が誤って再定義される。〈私〉の言葉を持たないせいだ。
〈私〉の語り、〈私〉の言葉、僕のnoteやtwitterをここ1,2年追っている人が居れば、僕がこの「〈私〉の語り」「言葉の獲得」というテーマを追っていることを知っているだろう。
『私はジャグリングをやっています。私はジャグリングが好きです。こういう理由で、ジャグリングは「良い」ものだからです。』と言う『こういう理由』の部分が明らかになることは、もしかしたら相手があなたのことを知るに際して、「ジャグリングをやっている」という情報よりも有用なものかもしれない。
それはあなたの本質・根源を開示することだから。あなたにとって、世界がどう見えていて、その世界の何を価値あるものと感じているのかを伝えることだから。
そのような本質的、根源的なコミュニケーションを可能にするような、〈私〉について語る言葉を手に入れたいと思うことはごく当たり前のことではないか。
ジャグリングをsophisticateする言葉は、ジャグリングと関わるあなたをsophisticateする言葉でもある。
ジャグリングマーケットで僕は何を売っていたのか?という問いについては、ジャグリングをsophisticateする言葉を、概念を売っています。というのが、今のところの答えであり、それは『ピンクの猫』が何であるかの答えでもある。
『ピンクの猫』は、ジャグリングをsophisticateする言葉を、概念を、やっています。
あのピンクの猫の鳴き声を
あのピンクの猫の鳴き声を聴いたことがある?
あのピンクの猫の鳴き声を、いやらしく感じる人もいれば、好ましく感じる人もいる。
趣味は人それぞれ、というのはいいのだけれど、ねえ、あのピンクの猫はなんて鳴いているか、〈あなた〉にはなんて聴こえる?
にゃー、にゃーお、なーご、みゃー、みー、ねう?
そう、あなたにはそう聴こえているのね。
僕には、なうneo、なぁうneow、と、ないているように聴こえる。
どれが正しいということはないわ。一つの鳴き声があなたと僕とで聴こえ方が異なることは普通のことよ。この一つの世界が、あなたと僕とで見え方が異なるように。
それでもあの鳴き声が確かに聴こえていて、それについて僕とあなたは好ましく感じている。でしょ?
あのピンクの猫の鳴き声を、その好ましさを、どのようにして私たちは「共-有」するだろうか?
僕と、今はもういない、あるいは、今はまだいない〈あなた〉?
その好ましさについて僕たちがより豊かに語り、よりsophisticatedlyに語るとき、そのとき、あの「なう」という鳴き声が僕の中でもう一度、好ましく響くのだ。