永遠に解けない魔法はあるか ~未完

2019/07/06 書き上がらないので不完全だが上げる。

どうも、じんです。
はじめましての人は僕のツイッターをフォローしてください。普段はジャグリング界隈で呟いたり文を書いたりしています。
2018年末、Twitterの手品界隈で手品の種明かしの是非について論争をしていたっぽいのですが、追えなかったので、好き勝手に書きます。

私が発端として認識しているのは、Youtuberで手品の種明かしがされていること(マジシャンのポンチ氏の名がよく挙がる)に対する是々非々の意見がTwitterに出てきたことで、それをTLで見てました。その議論の噛み合わないこと!
https://twitter.com/jin00_Seiron/status/1022693253731246081
※2019/03/07
https://youtu.be/X7lZ3jL1rl4

序論

1.過去の議論の蓄積

私は手品界隈の人間ではないので、現在までの論争の蓄積を調べるところから始めよう。
インターネット上で最も詳しく、網羅的に情報が載っていたのは、中村安夫氏の「スティングのマジック玉手箱」の、「「マジック種明かし番組」問題特集」のページだ。

これは2001年5月に日本のテレビ番組で、とあるマジックの種明かしがなされたところ、その是非に関する議論がメーリングリスト(Magic Mailing List:MML※1)や電子掲示板:BBS(日本奇術協会の掲示板※1)で活発に起こったのを受けて、各人の意見やその後の経緯をまとめたものだ。
現在(2019年)ではメディアはテレビからインターネット(YoutubeやSNS)へと移行しており、いささか過去の時代を感じさせる出来事だが、問題の本質においては変わらないだろう。

他に、近年書かれた記事として、「手品の種明かしはどこまで許されるのか? Web時代の「ネタバレ」と守られない「アイデアの価値」」(2017/12/15)がある。筆者であるBee氏は「種明かし反対派」であると表明しつつ、「手品の種明かしはどこまで許されるのか?」という問いを立てている。

手品の種について法的権利としての保護を検討しているものとして、松山光伸氏の「『オリジナリティ』と『権利』 第3回」がある。
また、『SPICE of MAGIC vol.2』より、まっち氏の「種明かし行為が法的に規制される事例の検討~ギミックコイン報道事件を参考に~」がある。この論文では、手品の種にまつわる裁判例(※2)をとりあげている。

それらを見るに、マジックの種明かしに対しては、プロ・アマチュア問わず手品界隈の多数派が否定説(手品の種明かしはしてはいけない/すべきでない)の立場をとっているように見える

確かに、サーストンの三原則(※3)の一つには「種明かしをしてはいけない」とあるし、1993年にIBMとSAMが合同で出した声明(※4)にも、
『Oppose the willful exposure to the public of any principles of the Art of Magic, or the methods employed in any magic effect or illusion.』
(訳:奇術の技芸のいかなる原理も、どんなマジックやイリュージュンのやり方についても、それを一般大衆に意図的に暴露することに反対する。)
とある。マジックキャッスルの倫理規定※5もほぼ同様である。
しかし、それぞれの否定説を丁寧にみれば、「”一切の”種明かしが許されない」としている意見は無いように思われる。

それぞれの否定説が”例外的に”許されるとしている種明かしは、以下のように整理できる。
「目的」で区別するのもの
a「指導」/「講習」/「レクチャー」は許されるとするもの ※6
b 目的が不当なものでないと考えられる場合(稀有な例) ※7
 ここで注意したいのは、目的をどのように特定するかということだ。テレビの種明かし番組の事例で言及されたような、目的が単に「利益/お金」か、手品の「普及/発展」か、ということは客観的に決定困難であり、良い切り分けの仕方とも思えない。
「態様」で区別するもの(「意図/故意」に着目する、または、対象となる「相手方」に着目する)
c「意図的な/故意の」暴露でないものは許されるとするもの ※8
d 対象となる「相手方」が、不特定または多数でないものは許されるとするもの ※9
d' 対象となる「相手方」が、手品師を志す、その手品をやりたい/学びたいと思う、または、手品の種に興味がある相手方であれば許されるとするもの ※10
d'' 対象となる「相手方」が、その手品の種のために一定のコストを支払った場合は許されるとするもの ※11
「内容」で区別するもの(種明かしする「種」に着目する)
e 自らが考案し創作した手品についての種明かしは許されるとするもの ※12
 手品の種を創案者の権利として保護しようとする試みは、この立場に立つものである。そして自らの権利あるものをどうしようが自由だと考える。
e' パブリックドメインとして公有化されている手品についての種明かしは許されるとするもの
もっとも、何がパブリックドメインとなるのかについて検討が必要である。※13
 e'はeと類似する考え方で、誰の権利でもない(権利者としての創案者のいない)ものをどうしようが自由だと考える。
f 「簡単な」手品についての種明かしは許されるとするもの ※14
g その他 ※15

以上で見た区別は、互いに関連しながら、種明かしの例外的な許容範囲についての手品界隈での合意をある程度形成しているとも言える。
しかし、手品の種明かしの是非における問題の本質を見るには足りない。肯定説と否定説の理論的対立点は、例外的に許容される範囲の境界線の詳細な議論に立ち入ることによりむしろ不明確になってしまった。
おそらく、「種明かしが例外的に許容される範囲の境界線はどこか」という問いの仕方では、「手品の種明かしの是非」の理論的問題の本質には近づけないだろう。
手品の種明かしの是非における本質的な対立点を明らかにするために、否定説の理論的根拠まで遡ろう。つまり、「手品はなぜ(原則的には)種明かしされてはならないのか?」という根源的な問いにまで遡ろう。
手品界隈にとって、そして直観的には自明のものかもしれないが、私にとって、そして今後の論の展開上、必要な手続だ。

1.注

※1 現在はどちらもリンク切れ、消滅?
※2 東京地裁平成 20 年 10 月 30 日判決・判例時報 2027 号 32 頁のもの。
※3 詳細には、
http://plaza.harmonix.ne.jp/~k-miwa/magic/round/thurston2.html
にもあるように、サーストンが言ったものではない。
※4 IBMとは、The International Brotherhood of Magiciansの略であり、SAMとは、The Society of American Magiciansの略である。どちらも歴史ある国際的組織だ。
両者が合同で出した声明については、こちら、または、こちらで確認できる。訳されたものとして、
スティングのマジック玉手箱より「IBM/SAM 倫理規程
マジックラビリンスより松山光伸氏「『オリジナリティ』と『権利』第 1 回」  本文の訳はこの松山氏のものを採用している。
※5 http://magsting.o.oo7.jp/Exposure/WAM/exposure-CastleCodeofEthics.htmより、『1.マジックに使用されるあらゆる原理や方法が、いかなる口頭、書面、電子コミュニケーション手段においても故意かつ不必要に一般へ種明かしされることに反対する。』とある。
マジックキャッスルは、The Academy of Magical Artsが運営する奇術専門の会員制クラブ。
※6
中村安夫氏 『TVにおける種明かし番組の是非に対する私の基準は以下のようなシンプルなものです。つまり、(1)番組の目的は、暴露か指導か
(2)作品の選択は適切か』
マジェイア氏 『誤解されると困りますので、一言付け加えますが、私は何も「種明かし番組」がすべてダメなどというつもりは毛頭ないのですよ。制作理念と主旨によっては、賛同するものもあります。例えば「講習もの」です。』
Walter Zaney Blaney氏 『What is the purpose of the exposure? I assume it is to get the money he is paid to do so, just as Valentino has done. 』『This exposure is not a "lecture". It is not "enlightenment"....not when one exposes our basic secrets and magic principles on national TV to the lay public.』
・さとる氏の「びっくり箱」の「アンチ・マスクマジシャン宣言」より
『タネ明かしがタブーなのは、ほぼ全ての手品入門書に載っていることで、 手品界のみならず一般においても常識と言えるでしょう。もちろん・・・・ 「相手にそれを身につけてもらうためにトリックを教えること」
「マジシャンのマジックへの理解を深めるためにトリックを明かすこと」
「非マジシャンに門戸を開くために、非マジシャンでも演じうる範囲のものを明かすこと」
・・・・などの例外はあるでしょうが、...』 特に一つ目の例外。
※7 ※2の裁判例の判決文より、
『本件報道の構成からいっても、被告らの本件報道の主たる目的は、ギミックコインの種を明らかにすることにはなく、その当時はほとんど摘発例のなかった貨幣損傷等取締法違反の犯罪事実を報道することにあったものと認められる。』
※8 ※4のIBM/SAM 倫理規程でも「willful exposure」の語が含まれるように、意図的でない/故意のない暴露は許されるとする立場がある。具体的には、手品の失敗・下手さにより種が観客に”分かってしまう”場合を外す立場である。これを「種明かし;exposure」と呼ぶかはさておき、種が明らかになってしまう点では同じである。
※9 ※4のIBM/SAM 倫理規程には「exposure to the public」の語が含まれる。ここでの「public」の読みを「不特定または多数」としたのは、著作権法の「公衆」の解釈を参考にしてのことである。cf.「公衆」とは?
※10 d'はaの考え方と関連する。d’の中でもどの程度の絞りをかけるかは様々であろう。
・マジックの館 簡単マジック講座マジック解説の前に」より『TVなどの種明かしは、見たくない人も見てしまう可能性がありますが、ホームページは基本的に求めてきた人が見るものですので、TVでの種明かしとはその性格が違うと思います。』
※11
Marc DeSouza氏 『I think one of the keys is making them work for the secret. They have to undertake some sort of effort to get these secrets. Whether that entails buying a book or going to a library, there is an effort involved. Simply turning on a TV isn't enough. 』
コストとしては解説本を買う、図書館に行くことは認められ、テレビをつけるだけでは不十分とされている。では、インターネットで調べることはどうか?
※12
厚川昌男氏 『種明かしをする奇術は無限にある。それはあなた自身の創案した、全く新しい奇術なのである。』
Bee氏 『まず、公有化されていない技法や手品の作品、つまり考案者の独占下にあるものについては、考案者が判断するべきです。』
中村安夫氏 『今回の緒川集人師による「サムタイ」の種明かしについては、...作品の選択は、対象に合っていない点と他に創案者が存在する点でNGとなります。』
※13
・Bee氏の記事より、『ほかの手品人に尋ねてみたところ、「考案者が物故者であれば、なんとなくパブリックドメイン」「作品の発表後に、ある程度ひろまったらパブリックドメイン(かもしれないけど、議論の余地あり)」という意見もありました。』
・松山光伸氏の「『オリジナリティ』と『権利』 第6回」の5.奇術におけるパブリック・ドメインとは を参照。
 公に出版され、そのネタが本として誰もが購入し閲覧できるものなのか、という点に触れられている。
それに関連して、パブリックドメインの論点ではないが、※2の裁判例で種明かしによる財産的損害を検討した箇所を引用したい。
裁判例:東京地裁平成20年10月30日 より
 『本件報道の対象となったギミックコインの存在及び奇術の種は、本件報道以前から、それを説明する書籍やギミックコインを購入した際に付されている取扱説明書等によって一般に知り得る状況にあったものであり、現在も上記の書籍等やインターネット上の記事において知り得るところ、これらは本件報道でのギミックコインの種の説明によってされるようになったものではなく、本件報道とは関係がない。』
 『ギミックコインの存在及び奇術の種は、本件報道以前から、書籍等によって一般に知り得るものであった上、そもそもギミックコインを含めた奇術の道具は、その種が一時的に第三者に明らかになったことによって財産的に無価値になるものとも認められず、さらに本件報道の対象となったギミックコインを用いた奇術の実演の機会が本件報道における種の説明によって現在及び将来にわたり有意な程度に減少するものと認めるに足りない。』
※14
中村安夫氏 ※6,12も参照。『作品の選択が不適切である。サムタイは、子供や初心者に合った難易度の作品ではない。創案者が他に存在し、著名プロマジシャンの持ち芸にもなっているような高度の作品である。』
Bee氏 『わたし個人の感覚としては、わずかな時間で習得できるような難易度の低いもの、ほかの手品の土台とならないもの(その手品を知ることで、ほかの手品の種を類推できてしまうようなものではないこと)、といったあたりが、個人的な「種明かしが許されるもの」の線引きになっています。』
Marc DeSouza氏 『There are instances where exposure can be condoned. A book of simple tricks for the public, internet sites exposing simple tricks well within the public domain, or similar forms of teaching simple effects.』
Walter Zaney Blaney氏 『If a magician wants to interest people into taking up the art of magic, let him/her teach any one of the many basic beginner's "easy-to-do magic tricks". 』
※15 
植松正之氏
 植松氏の言う「原理のタネ」は、※14のBee氏の言う「ほかの手品の土台となる(その手品を知ることで、ほかの手品の種を類推できてしまう)」ということと同様の点を指摘している。


2.「手品はなぜ種明かしされてはならないのか?」 否定説の理論的根拠

「手品はなぜ種明かしされてはならないのか?」という問いは、あまりに前提のことであるために言及されることは少ないが、過去の議論では、否定説の理論的根拠に触れられている部分もある。
前掲の「「マジック種明かし番組」問題特集」には「なぜ種明かしがいけないのか?」の記事も見つけられた。そこでのWAM※16の説明を見てみよう。

『なぜ種明かしがいけないのか?
マジックの「秘密」は、観客が体験する驚き(wonder)を高めるためだけのために保護されます。
あなたは、オチを知ってしまった喜劇俳優を見たいと思いますか?
あなたは、結末が最初のページに書かれている推理小説を読みたいですか?
もちろん、あなたは、そんなことは思わないでしょう。それなら、なぜあなたはマジックから楽しみを奪おうとするのですか?』

また、「マジック種明かしの真実」の記事より、

『しかし、マジシャンにはアキレスのかかとのような弱点がある・・・それは、タネという秘密である。
それがなければマジックではなくなってしまうのだ。
そういうことは誰もが知っている。しかし、マジシャンの中には、目先の金銭を得るために喜んでマジックの不思議さをだいなしにしようとする輩がいるのである。
皆、マジックの裏側がどうなっているか一般の人達も知りたいだろうと思っている。しかし、一般の人はまったく、そのようなことを思っていない。
タネを知ってしまうと、一般の人達はがっかりしてしまい、良いマジックを観て得られる畏敬の念や楽しさを二度と味わうことができなくなってしまう。もしあなたがマジックに興味を持っているなら、きちんしたマジックの団体に連絡して、なぜ秘密を守ることがそれほど大切なのか尋ねてみると良いだろう。』

また、WRMC※17の「種明かしをして何がわるい」という記事より、

『●Q1:なぜ、マジシャンは、マジックのタネを教えてくれないのですか?
★A1:マジックは観客の「知的好奇心」を満たすためのものではなく、「未知との遭遇欲求」を満たすためのものだからです。

大小はあると思いますが、誰しも「UFOを見てみたい!」「幽霊を見てみたい!」「普段得られないような体験をしてみたい!」(身の安全は確保しながら)といった欲求があると思います。
そういう「日常を逸脱したミラクル体験への憧れ」を狙った演芸がマジックである訳です。
したがって、マジックを見せた後、マジシャンがタネの解説を始めてしまったら、それはもはや「マジック」ではなくなります。
解説を受けた瞬間、想像力をくすぐる余地はなくなり、現実の世界に引き戻されて、不思議体験の余韻は瞬く間に消え去ってしまうのです。

それが「知的好奇心」を満たすための「クイズ」や「推理小説」との大きな目的の違いである訳です。
「クイズ」や「推理小説」と化しても別に面白ければいいのでは?と思う方もいるでしょう。確かに「知的好奇心」が満たされれば、それなりの楽しさがあるかも知れません。
しかしながら「マジックの種明かし」は、マジックを「観る側」にとっても「演じる側」にとっても、そうしたメリットよりも、むしろ「デメリットの方が多い」と考えられます。
以下にその理由を挙げておきます。
(1)マジック独特の楽しさが死ぬ
上に述べた通り「知的好奇心」に走ると「不思議体験の余韻」を完全に放棄することになります。...』

以上では、手品の種が明かされ、秘密が秘密でなくなれば、「マジックではなくなってしまう」と述べられている。
前掲のBee氏の記事でも、『手品にとって、種は命のようなものです。種の分かっている手品は、既に手品ではありません。』と書かれている。
ふむ、その主張の妥当性の検討については後にまわそう。
「観客が体験する驚き(wonder)」が低下してしまう、「良いマジックを観て得られる畏敬の念や楽しさを二度と味わうことができなくなってしまう」、「マジック独特の楽しさが死ぬ」、
なるほど。この点についても後に検討するが、一旦これらの主張に乗るとする。

しかし、種は明かせないとする一方で、「なぜ種明かしがいけないのか?」の記事にはこうも書かれている。

『マジシャンは、マジックの秘密を絶対明かさないのか?
いいえ、そんなことはありません。

マジシャンは、マジックに興味を持つ人と一緒に何千年にも渡って、マジックの秘密を共有してきました。マジックの秘密・歴史・芸能を学ぼうとすることには、何ら制限はありません。マジッククラブ、本、雑誌、コンベンションなどさまざまな機会によって、自由に情報を得ることが出来ます。ただ一つ必要なことは、あなたがマジックに興味を持っているということだけです。』

手品が手品でなくなるから、手品の味わいが損なわれるから(両者を合わせて「手品が損なわれるから」としよう)、だから手品の種は明かせないと主張する一方で、『マジックに興味を持つ人』には種を明かすと言う。
『秘密の共有』という語を使ってはいるが、種を知った者にとって手品が(少なくとも種を知った「その」手品が)損なわれるのは変わらない。
ここに、手品の種明かしに関する根源的なジレンマがある。それについて少し考えよう。


※16 WAMとは、World Alliance of Magiciansの略であり、悪質な種明かしを撲滅するための組織である。現在も活動しているのかは不明
WAMの設立の経緯についてはこちら。(1997年のテレビ番組での種明かしが背景にある。Masked Magician/Valentinoの名はこの文脈ではあまりに有名)
※17 WRMCとは、大阪で活動するマジッククラブ「ホワイトリバーマジッククラブ」の略。


3.手品の種明かしに関する根源的なジレンマ

手品の種明かしを否定する最も極端なものは、「”一切の”種明かしが許されない」とする立場である。これによれば、手品を教わることも否定されるため、手品師になろうとする者は自ら手品を創案するしかなくなる。おそらく、そうなれば手品師の数は減少する一方となり、また、過去の手品は(車輪の再発明がなされない限り)失われ、手品の文化は絶えることとなる。
したがって、この極端な立場をとる者はいない。
それどころか、この「手品の文化」という視点からは、「種を明かしてはいけない」は「種を明かさなければいけない」に反転する。さもなければ、手品を見ることは過去の保存データを繰り返し再生することを指すこととなり、手品をすることは失われた過去の文化となる。

それでは、手品の種明かしを肯定する方向で考える。
手品の文化が絶えないように種明かしをするべきだとして種明かしをすればするほど、手品は手品でなくなり、手品の味わいは損なわれる。
ある手品の種が皆に知られてしまえば、その手品は手品ではなくなり、味わいは損なわれる。その手品を手品として見る者がいなくなったことにより失われるのだ。
先ほど極端な否定説をとった場合に、その手品の種を知る者がいなくなり、その手品をする者がいなくなったことにより失われるのと同様に。
これが手品の種明かしに関する根源的なジレンマである。
前掲のBee氏の記事では、『手品を見る側の「種を知りたい」という欲求と、手品をする側の「種は明かせない」という意識は、手品という芸能にとって、1つのジレンマとして常に問題になってきました。』としているが、正確ではない。
そもそも手品という文化に、「種を明かしてはいけない」と「種を明かさなければいけない」のジレンマがあるのだ。

このジレンマの下では、種を明かされる者は限られた一部の者でなければならない。
だからこそ、1.のdでみたように公衆一般への種明かしは忌避され、「限られた一部の者」を誰にするかが問題となる。これが「種明かしが例外的に許容される範囲の境界線はどこか」という問題にもつながる。
その「限られた一部の者」は手品の文化のためには「単に種を知っている者」から「手品をする者」になる必要があり、そのため、その可能性が高いものが選ばれやすく(1.のd',d''参照)、「指導」/「講習」/「レクチャー」と「単なる種明かし;exposure」は決定的に区別される(1.のa参照)。

このジレンマの解決策として、従来から手品界隈では、「種を知っている者」と「種を知らない者」との二分を、そのまま「手品をする者」と「手品を見る者」との二分に当てはめる考え方をとっているように思う。
「手品をする者」が、その手品の「種を知っている者」であるのは当然だ。そして、種明かしによって手品が損なわれると考える者にとって、「手品を見る者」はその「種を知らない者」である(※種を知っていては”手品”を見ることはできないのだから)。
また、「種を知らない者」がその「手品をする者」になれないのも当然だ。そして、「種を知っている者」はその「手品を見る者」にはなれず(※同上)、「手品をする者」でなければならない(そうでなければ明かした意味がない)。
このように、「種明かしによって手品が損なわれる」という考えを間にはさみ、種明かしは手品をする者を増やす時のみに行われるものとし、「種を知っている/手品をする者」と「種を知らない/手品を見る者」との二区分の断絶を明確にする。
この二元論を考えると、「手品をする者」と「手品を見る者」は常に背反・対立した構造となる。種を知った者はもはや手品を見ることは叶わず、手品をする者達の中に引き込まれる。そこは秘密の共有者達の閉じた場所であり、秘密が外の誰かに明かされるときは、その誰かをそこに引き込むことを意味する。
手品が外に開かれるのは、外の選ばれた誰かに種を明かして内へ引き込むとき以外では、まさに手品を見せる/見せられるときしかない。
そのことはこう言い換えられる。手品において、相対する二者が出会うときとは、「継承」と「鑑賞」という二つの場面である、と。
そして、従来から手品界隈は「継承」と「鑑賞」を完全に区別しようとする。「継承」と「鑑賞」は、ジレンマの「種を明かさなければいけない」と「種を明かしてはいけない」にそれぞれ該当し、両者を完全に区別することでジレンマが起こらないようにしたのだ。
「継承」の場面において、「種を知らない/手品を見る者」は限られた一部の者であり、そのやりとりは秘密裏に行われる。そのため、一般的には、手品において相対する二者が出会うときは「鑑賞」の場面しかない。
種明かしが問題になっている事例を考えると、それは「鑑賞」の場において”適切な”鑑賞がなされなくなることが問題となっているか、あるいは、「継承」でも「鑑賞」でもない新たな場面を問題としている

具体的な事例を考えよう。
一つには、手品の鑑賞の場面において通常の手品の演目に加えて、種明かし”も”なされることが考えられる。手品を見せた後にマジシャンが種の解説を始めてしまった場合などがそうだ。また、マジシャン自身によるものでなくても、手品の最中に観客の中で種を知っている者が種明かしをしてしまう場合が挙げられる。
これらは、種明かしが鑑賞の場面で行われる場合であり、種明かしによりその場での手品の”適切な”鑑賞が阻害される場合だ。
他には、手品の鑑賞の場面ではなく、単に種明かしのみがなされることが考えられる。
これは、その種明かし自体が、「継承」でも「鑑賞」でもない新たな場面として、つまり新たな手品の”在り方”の場面として問題になる。
そして同時に、その種明かしにより、種を知った者が別の機会にその手品(または同種の手品)を鑑賞するときに、手品の”適切な”鑑賞が阻害されることが問題となる。

ここで、「手品の種明かしの是非」という問いは形を変えて、新しい問いが私たちの前に現れる。
つまり、「手品の”適切な”鑑賞とはどのような鑑賞か?」という問い、
そしてそれに関連してもいるが、「手品において、相対する二者が出会う場面は「継承」と「鑑賞」の二つしかないのか?」「『種明かし』は新しい手品の場面として認められないのか?」という問いだ。


4.序論まとめ と 本論の導入

ここら辺で一旦まとめて、ここからの方針を書いておきたい。
私たちは手品の種明かしの是非についての過去の議論をみた。また、種明かしに関する根源的なジレンマがあることを確認した。そして、そのジレンマに対して、従来の手品界隈がとっている解決策は次のようなものだと確認した。つまり、手品の場面を「継承」と「鑑賞」の二つに絞り、両者を徹底して区別して、さらに「継承」の場面を隠すことで「種明かしをしなければならない」ということを隠し、「鑑賞」には「”適切な”鑑賞」という絞りをかけるという策である。
種明かしは「継承」と「鑑賞」の混ざり物、中間の手品の在り方であるといえ、まさにジレンマの中間にあるものとして従来の徹底した区別を破壊するものである。
種明かし否定説が主張する「マジックではなくなってしまう」、「観客が体験する驚き(wonder)」が低下してしまう、という主張は、手品に「”適切な”鑑賞」という絞りをかけるためのものであり、混ざり物を「鑑賞」区分から排除する、または混ざり物を「手品」そのものから排除してしまうという手法である。あくまで手品の場面は「継承」と「鑑賞」でなければならず、その中間の存在は種明かしに関するジレンマを再び目の前に現れさせるものであり好ましくないとされる。

しかし、もう一度私たちはそのジレンマについて考えよう。
もう一度考える意味は、従来の「種明かしが例外的に許容される範囲の境界線はどこか」という問いの仕方ではなく、新しい切り口でこの種明かしのジレンマについて考えるためだ。
新しい切り口とは、▲「手品の”適切な”鑑賞とはどのような鑑賞か?」という問い、
そして、▽「手品において、相対する二者が出会う場面は「継承」と「鑑賞」の二つしかないのか?」「『種明かし』は新しい手品の場面として認められないのか?」という問いを考えるということだ。
この二つの問い(厳密には一つと二つの問い)は、端的には、前者▲を「鑑賞の規範」の問題、後者▽を「手品の場面の在り方」の問題と呼びたい。


さて、本格的に論じ始めるために、2.での否定説の理論的根拠を少し検討しておこう。
2.でみた否定説の理論的根拠に、種明かしされた手品は「マジックではなくなってしまう」というものがみられたが、ここにはレトリックが用いられてはいないか。観客が種を知る前と後で、手品師が行う行為やそこで起こる現象は全く同じであるのに、一体何が変化してしまったというのか。
種を知った者が見る「それ」は、マジックでないなら一体何だと言うのだろう?

おそらく2.で言われている「マジックではなくなってしまう」という言葉の意味は、手品の”適切な”鑑賞が阻害されてしまう、そしてその”不適切な”鑑賞を「”マジック”」とは認められない、ということだろう。つまり彼らの言う「”マジック”」とは(それがレトリックでないなら)、手品師が行う行為やそこで起こる現象を指しているのではなく、観客によるある種の(=”適切な”)「鑑賞の環境」を指している。
結局のところ、「マジックではなくなってしまう」という主張は、ある種の(=”適切な”)鑑賞の環境が担保されないという意味で、その手品による「観客が体験する驚き(wonder)」が低下してしまうということと同様のことを言っているのだろう。
その点について、前掲の「「マジック種明かし番組」問題特集」より、Marc DeSouza氏のコメントを引用したい。 

『Magic can be enjoyed by some, specificallymagicians, when they know the secrets. We look at magic in a very different way. We look at the level of skill and competance, the presentationalabilities, etc. We look at magic from a detail standpoint. But, it is at acost...the loss of that sense of wonder. Magic should be just that...MAGIC. Without maintaining the secret, you don't have that anymore. 』
訳:『たしかにマジックの種が分かっても楽しむ人はいますし、特にマジシャンたちはそうです。しかし、マジシャンはかなり違った視点でマジックを見ています。我々は技術レベルや能力、見せ方といったレベルで見ています。細部にこだわった見地からマジックを評価しているのです。しかし、それとて驚きの喪失という「代償」を払ってのことです。やはりマジックは、本来「魔法」であるべきです。秘密を守ることなしにはマジックになりえません。』

Magic should be just that...MAGIC.

▲「手品の”適切な”鑑賞とはどのような鑑賞か?」という問題を考えるにあたって、まずはこの「MAGIC」の意味を考えなければならないだろう。



本論

5.1.何が「MAGIC」(魔法的)なのか?

手品(マジック)とは、何だろうか。
というよりも、「手品の何が”魔法的”なのか」(マジックのマジックたる部分は何か)という問いから始めたい。

手品は魅力的だ。その魅力とは、手品を観て私たちが感じる「!」と「?」
つまり、驚き、不思議さ、感嘆、まさに「ワンダー」な感覚;sense of wonder なのだと思う。
観客は、目の前で起こった現象にまず驚く。それは現実では起こりえないような現象(出現,消失,変質,透視など)だ。常識では不可能な現象が現実に起こったことの理屈の解らなさに戸惑い、不思議に思う。そして、その現象を起こした者の「術」に感心し褒め称える。
手品の”魔法的”な部分は、「現実では起こりえないようなことが、現実に起こった」ということだ。「現実では起こりえない」と「現実に起こった」という矛盾する両者の合間で、私たちは目を疑い、脳をバグらせ、それをワンダーな感覚として受け取る。
と、ここで、私たち観客の内の何人かは、もう一歩進んでワンダーする。
”魔法的”な現象を起こした者が使ったであろう「術」について知りたがり、あるいはこんな術を使ったんだろうと怪しむ。
もちろん、この根底にある好奇心は責められるべきものではない。「あり得ないことが起こった。これは何だ。」と思うからこそ、「では、どうやって?」という疑問が起こるのは当然だと言えよう。

私がここで着目したいのは、『観客はこのとき、「術」が存在することを当然のものと認識してはいないか?』ということだ。
確認しよう。私たちがワンダーな感覚を得たのは、「現実では起こりえないことが現実で起こった」からである。何らかの術によって「現実で起こり得る」ことが「現実で起こった」としてもそれは何ら矛盾しない。観客が術の存在を認識しているとしたら、それは”魔法的”なのか?

手品には、種も仕掛けも、ある
したがって、手品は”魔法”ではない。(※19)
その種や仕掛けの正体は、仕掛けの施された道具(ギミック)かもしれないし、演者の手練(スライハンド;Sleight of Hands)かもしれないし、手順自体に理論的にそうなるような仕掛けがある(セルフワーキング)のかもしれない。
さて、手品に「種や仕掛けがある」ということによって、手品は”魔法的”;MAGIC でなくなるだろうか?
特に「鑑賞の環境」を考えるのであれば、こう問うべきだろう。
手品に「種や仕掛けがある」ということを観客が知っていることによって、手品は”魔法的”でなくなるか?と。
ここで区別したいのは、
①観客が「何らかの種や仕掛けがあること」を知っているのと、
②観客が「その手品の種や仕掛けが具体的に何であるか」を知っているのとでは違うだろうということだ。
「観客が術の存在を認識している」というときの認識のレベルとして、①と②がある。多くの観客は①の認識レベルの観客だろう。手品師(同業者)を含む限られた観客が②の認識レベルの観客である。①にも満たない認識レベルの観客は少なく、その主な層は幼い子供達であろう。


※19
手品には種や仕掛けがある、ということを前提にしている。ここでとっている立場は、「種や仕掛けがないのだとしたらそれは”魔法”であり、手品ではない。手品師はあくまでも手品師なのであり、魔術師ではない。」という立場だ。
この立場は、魔術師がこの世界に存在しないと主張することを意味しない。ただ今は、私は手品の話をしている。(後述するが、)この立場は手品師が魔術師であるかのように振舞うことを否定しない。

5.2.二通りの観客

ではまず、①観客が「何らかの種や仕掛けがあること」を知っている場合、手品は”魔法的”ではなくなるのだろうか?

これには「いいえ」と答えなければならない。でなければ、手品を”手品として”見る観客(①の認識レベルの観客)に対してワンダーな感覚を引き起こしているという現状が説明できなくなってしまう。
一つの答え方は、「具体的にその種や仕掛けが何であるのか」を知らない限りは、種や仕掛けは「ない」と主張しうる(信じうる)、というものだ。①の観客は、結局のところ、本当には、目の前で起こった現象が魔術であるか手品であるかの区別がつかない。※20
これはまさに手品師が「種も仕掛けもありません」と言うところの意味であり、手品師一般がとるべき立場のように思う。
手品師は、「あなたが種や仕掛けがあると言うのなら、どうやってやったのか見破って、当ててごらんなさい(それが出来ないのだから種や仕掛けはないのだ)」と、まさに手品のパフォーマンスを通してこちらに訴えているのだ。この答え方は手品師としてはもっともなものだが、後に②でクリティカルな反論を喰らうことになる。

観客が「その手品の種や仕掛けが具体的に何であるか」を知っている場合、手品は”魔法的”ではなくなるのだろうか?

これに「はい」と答える者は、おそらく、観客に種明かしをすることを良しとしないだろう。そして「はい」と答える者が手品師の多数派に当たるのではないかと思う。2.でみた種明かし否定説の根拠がここにある。

先ほどの①での「具体的にその種や仕掛けが何であるのか」を知らない限りは種や仕掛けは「ない」と主張しうる、という答え方は、この②の場合にはもはや通用しない。(したがって多くの手品師が「はい」と答え、種明かしに反対するのだろうが)

私は種明かし肯定説の立場から「いいえ」と答える答え方を模索したい。
つまり、種があること、具体的になんであるかを知った上でも手品を魔法的なものとすることができる、という立場だ。

ここで想定される「いいえ」と答える答え方の一つは、あるひとつの現象を引き起こす種や仕掛けは複数パターンある場合がある※21、というものだ。つまり、観客がその有り得るパターンのどれを用いたのかを分からない限りは、”魔法的”であり続けるというのだ。
しかしこれは答えとしては不適当である。なぜなら、まず、あらゆる現象についてそれを引き起こす種や仕掛けが複数あるわけではないということが指摘される。
また、手品が”魔法的”なのは「現実では起こりえないようなことが、現実に起こった」からであり、複数パターンあったとしても、そのうちの一つの種・仕掛けが「現実では起こりえない」を覆してしまう以上は”魔法的”でなくなってしまうということが言える。

他に、②に「いいえ」と答える根拠となりそうなものとして、具体的な種や仕掛けを解った上で手品を観ても楽しめる(ことがある)、という実体験からくる経験則が考えられる。
4.でみたMarc DeSouza氏の意見にもあるように、種を知った上でも手品を楽しめるということはある。主に手品師が手品を観て楽しむということができるという経験からして、その主張は説得力を持つ。
しかし、ここで言われている「手品が楽しめる;Magic can be enjoyed」という意味と「手品が”魔法的”である」ということとの関係を、注意深く考えなければならい。
つまり、
・ここで手品を「楽しむ」というときに感じている感覚は、(種を知らない鑑賞のときに感じる)「ワンダー」な感覚;sense of wonder ではないのではないか、
・ここで「楽しまれて」いるのは、手品の”魔法的”部分の魅力ではなく、ほかの部分による魅力なのではないか、
という問題を考えなければならない。


※20
・アリス氏「ビザーマジックの手順研究」の「マジックにおける種明かしについて」より
『「この人の手品は仕掛けを使ったり、テクニックを駆使している。超常的な能力ではないんだ」と、思われたらおしまいなのだ。
ビザールは観客にこう思わせなければならない。【この人が手品と称して演じているものは果たして本当に種があるのだろうか? 実は魔術なのではなかろうか】』
※21
デビッド・カッパーフィールド氏
『人々は何年も私のイリュージョンの秘密を推測してきました。多くの推測は、私が使っているものより良い方法です。私たちは、各イリュージョンに対して、4つか5つの方法を持っています。もし、誰かが推測すれば、私は方法を変更し、手順(ルーティン)を守るでしょう。私は、消失や浮遊する多くの方法を持っています。もし、誰かが私のイリュージョンの秘密を暴露しても、私は新しい方法を使うので問題ありません。Masked Magician のTVスペシャルは、マジックで生計をたて、子供を養っているプロのマジシャン達にとって、迷惑で実害のあるものです。普通のマジシャンは、1つのマジックに対して、(私のように)4つも5つもの方法を用意することはできません。』

5.3.手品の”魔法的”鑑賞と非”魔法的”鑑賞

これらの問題について、前掲のMarc DeSouza氏の意見から一部を再引用する。

『 We look at magic in a very different way. We look at the level of skill and competance, the presentationalabilities, etc. We look at magic from a detail standpoint. But, it is at acost...the loss of that sense of wonder. 』
訳:『マジシャンはかなり違った視点でマジックを見ています。我々は技術レベルや能力、見せ方といったレベルで見ています。細部にこだわった見地からマジックを評価しているのです。しかし、それとて驚きの喪失という「代償」を払ってのことです。』

Marc DeSouza氏は手品師(We)を②の認識レベルの観客の例に挙げ、上記の二つの問題にこう答えているように思う。
・ここで手品を「楽しむ」というときに感じている感覚は、「ワンダー」な感覚;sense of wonder ではない。
・ここで「楽しまれて」いるのは、手品の”魔法的”部分の魅力ではなく、ほかの部分(技術レベルや能力、見せ方)による魅力である。
と。
氏は、手品師(②の認識レベルの観客)が通常の観客とは異なった、より詳細な観点で手品を観ていると言う。技術レベルや熟練度、表現能力といった観点だ。これらは、いわゆる手品が「上手い」という魅力だろう。
そして、手品の”魔法的”部分の魅力とは、まさに「ワンダー」な感覚にあるのであり、演者の手練の巧さ(種を知っていても観客が”実際に”見極められなかったことの「すごさ」)に対する称賛ではない。確かにほかの部分による魅力を感じていると言えるだろう。
その意味では、手品師(②の認識レベルの観客)は「ワンダー」な感覚を感じているのではなく、氏の答えを是認できるように思う。

しかしここで、氏に対して重要な反論がある。はたして手品師は本当に代償としてsense of wonder を喪失しているのだろうか?ということだ。
手品師が通常の観客とは違った鑑賞方法をとっているために、手品の”魔法的”部分以外の魅力を、または「ワンダー」な感覚以外の感覚を感じているとして、そのことは手品師が通常の観客と同様に手品の”魔法的”部分の魅力を感じられない/「ワンダー」な感覚を感じられないことを意味しない。という反論だ。
種を知る②の観客が通常の観客(①、及び①に満たない認識レベルの観客)とは違う鑑賞方法ができるからといって、通常の観客と同じ鑑賞方法ができない理由にはならない。手品の”魔法的”部分以外の魅力を感じられるからといって、手品の”魔法的”部分の魅力が感じられない理由にはならない。
それに関して次のことを考えよう。
手品は種や仕掛けのみによって構成されるわけではなく、そして手品における「術」は種や仕掛けのみによって構成されるわけではない。手品は手品師の「パフォーマンス」(語りや振る舞い)を含む。その「パフォーマンス」の魅力は手品師以外の通常の観客(①、及び①に満たない認識レベルの観客)も感じられる。その「パフォーマンス」の魅力を、手品の”魔法的”部分以外の魅力であると考えることができる。※22
また、手品師ほどの詳細さではなくても、通常の観客も技術レベルや熟練度、表現能力といった観点から手品を観て、手品が「上手い」という魅力を感じることはできる。手品の種を知らずに/見破れないままで、例えば「改め」の有無や、動作の不審点/ぎこちなさの有無や、消失,出現する物の大きさや数などから評価するのだ。その評価の正確さ、詳細さはさておき、手品が「上手い」という魅力を感じる点では同様である。
通常の観客は鑑賞法(観点)を複数持ち、魅力を複数(同時に、あるいは選択して)感じることができる。

Marc DeSouza氏は、手品の”魔法的”な鑑賞(手品の”魔法的”部分の魅力を感じる/「ワンダー」な感覚を感じる鑑賞)と手品の非”魔法的”な鑑賞(手品の”魔法的”部分以外の魅力を感じる/「ワンダー」な感覚以外の感覚を感じる鑑賞)との両者を排反のものとして考えているのではないか。
そしてその考え方は、『手品の「”魔法的”な鑑賞」』と『手品の「非”魔法的”な鑑賞」』とを、『「”魔法的”な手品」の鑑賞』と『「非”魔法的”な手品」の鑑賞』に捉え直せば、より明確に排反的なものとして理解できる。ある手品が「”魔法的”」かつ「非”魔法的”」であるということは考えられないからだ。
私はあくまで鑑賞の問題として、『手品の「”魔法的”な鑑賞」』と『手品の「非”魔法的”な鑑賞」』とを選択肢として考えている。


※22
ちなみに、「パフォーマンス」の魅力や演者の手練の巧さという魅力に着目すると、手品とその他の芸、例えばジャグリング(マニピュレーション)との境界が曖昧になる。
ジャグリングの例:クラブトスクリスタルボールコンタクト

5.4.「準ワンダーな感覚」

ここで、「ワンダーな感覚」を考えたい。
ワンダーな感覚」とは、「現実では起こりえないことが現実で起こった」ことによる「!?」という感覚だ。詳しく言えば、観客の世界に対する認識(物体は消失しない)と、目で見た認識(コインが消失した)が矛盾することによる視覚か思考/理解(あるいは両方)の混乱である。
この矛盾・混乱は、「何かの種があって消失したように見えただけで実際は消失していないのだろう」と観客が認識レベル①になることで解決する(魔術だと思うことでも解決はする)。だがその後も種は分からず謎は残る(「?」の感覚は続く)。
準ワンダーな感覚」とは、認識レベル②の観客の世界に対する認識(種/方法Xによって物体は消失したように見えるだけで実際は消失しない)と、目で見た認識(種/方法Xを行っているように見えない、やはり消失して見える)が異なることによる感覚である。「!’?’」この感覚は、思考/理解の認識と視覚の認識のズレによる感覚である。
種は知っており理解しているため、その後の「?」の感覚が残ることはない。代わりに、知っているその具体的方法を、観客が”実際に”見極められなかったことの「すごさ」への感覚(演者の手練の巧さに対する称賛)が残るだろう(「!」の感覚は続く)。

さて、この、手品の”魔法的”な鑑賞による「ワンダーな感覚」(「!?→?」の感覚)と比べて、
種を具体的に知る②の認識レベルの観客の「準ワンダーな感覚」(「!’?’→!」の感覚)を受ける鑑賞も、手品の”魔法的”な鑑賞と言うことはできないのだろうか?
それは、手品の「非”魔法的”な鑑賞」になってしまうのだろうか。
(ここでは単なる手練の技巧や、語り・立ち振る舞いといった”魔法的”部分以外のみを魅力に感じているわけではない。)

さらに、その「ワンダーな感覚」を受ける鑑賞は、「ワンダーな感覚」を受ける鑑賞よりも果たして一つ劣ったものと言えるだろうか?
それは▲手品の鑑賞の規範の問題としては、”不適切な”鑑賞となるのだろうか?
種を知る手品師は皆がしている鑑賞であるのに?(手品師は皆、”不適切な”鑑賞をしているのか?※23)


※23
「手品師は鑑賞においてワンダーな感覚を感じることはない」または「手品師は”不適切な”鑑賞をしている」という主張は、手品におけるコンテスト(例えばFISM)の審査を手品師が務めることとの整合性はとれるのか。

.手品の非”魔法的”部分

ここから未完

手品師の「パフォーマンス」とは?
種だけでは手品は完成しないこと

手品の種に対する秘密を、謎解きやパズルの謎や、ミステリ、推理ものの謎になぞらえる主張をたまに目にするが、適切だろうか。
確かに謎解きやパズル、推理小説などにおける、初見(一度目)と、謎が分かった上での二度目とでは、異なる体験といえるだろう。
はたして手品も同じなのか?
二度目は、全くつまらない体験なのか

VTuber、またはキャラクターアクター
VTuberの中の人が分かっていても見ることがあること、
アクターの場合は中の人に応じて振る舞いが変わるので、それを見ること
 cf.Disneyオタがキャストごとにステージ見に行くこと
  着ぐるみの中の人を知っていることが鑑賞をどう阻害するのか

.本論まとめ

結局のところ、具体的な種や仕掛けを解った上で手品を観ても楽しめる(ことがある)、という主張は、手品には「”魔法的”な鑑賞」だけでなく、「非”魔法的”な鑑賞」もあるという主張である。
そしてそれは以下の二つの主張に分解できる。
・手品には「ワンダーな感覚」を受ける鑑賞と「ワンダーな感覚以外の感覚」を受ける鑑賞とがある
・手品には「魔法的部分」の鑑賞と「魔法的部分以外」の鑑賞がある

そしてそれぞれ、
Q「ワンダーな感覚以外の感覚」を受ける鑑賞は、「非”魔法的”な鑑賞」なのか
Q「魔法的部分以外」の鑑賞は、「非”魔法的”な鑑賞」なのか
という問いが立てられ、
▲それぞれの「非”魔法的”な鑑賞」は手品の”適切な”鑑賞としては認められないのか?という根源の問題につながる。

手品の鑑賞の規範の問題と▽手品の場面の在り方の問題との関係は、
▲1「非”魔法的”な鑑賞」も手品の”適切な”鑑賞であるなら、▽手品の種明かしを禁じる理由は(私が論じる範囲では)ないと言えるし、
▲2「非”魔法的”な鑑賞」は手品の”適切な”鑑賞でないなら、種明かしは手品の適切な鑑賞を奪うことになるが、▽それでも種明かしを認めるかどうかが問題となる。
つまり、『観客が、以降のその手品の”適切な”鑑賞の機会よりも、種明かし+以降の手品の”不適切な”鑑賞の方を選ぶ』という選択権を認めるか、
▽「継承」でも「(”適切な”)鑑賞」でもない「新しい手品の在り方」として認めるかどうか、の問題である。

現在の多数派であろう手品の種明かし否定派がどの立場をとり、
現在の少数派であろう手品の種明かし肯定派はどの立場をとるのかが明らかになると、話がスムーズなのでは。

.私が論じない範囲の問題

種明かしの是非における対立点・問題点として、私はもっぱら種明かしによって手品の鑑賞がどうなるかを考えた。「種明かしにより”手品は”何を失うか」という問題は、手品界隈でどのような利益状況を持つ者、どのような政治的立場の者にも共通する問題である。
これは、種明かし否定派が、種明かしによって手品自体が”MAGIC”を失うと主張することから問題としたものである。

しかし、私が論じない範囲にも問題や対立点はある。
「種明かしにより”手品は”何を失うか」と「種明かしにより”手品師は”何を失うか」は異なるのであり、例えば、種明かしによって手品師の利益が損なわれることを問題視するかどうか※24 、また、特許権や著作権といった権利に類似して、創作者保護の面から手品師の利益を保護すべきかどうか※25 といった点も対立点となりうるし、実際にそれらは手品界隈の政治的合意形成をする際には注目すべきだろう。


※24
種明かしによって手品師が受ける不利益について、一体何の利益が失われるのかを明らかにしないといけない。よく言われるのは「手品の種を知ったら誰も手品を見に来なくなる」というような主張である。この主張についても検証すべきだろう。

http://plaza.harmonix.ne.jp/~k-miwa/magic/round/taneakashi3.html
『しかし、私がYさんと電話で話していて、大変気になったことがあります。 Yさんは何度も「啓蒙のため」、「マジックの普及、マジックの底辺を広げるため」とおっしゃっていました。確かに、テレビで種明かしの番組を放映すればマジックに興味を持ち、マジックを始める人が増えることは事実です。そのような意味では啓蒙といえないこともありませんが、このような番組を製作する人が気づいていないこと、または軽視していることがあります。それは、マジックのタネを知ったら、興味をなくす人が予想外に大勢いるという事実です。
この点を指摘しますと、「確かに一部、そのような方がおられるかも知れませんが、底辺を拡大させることのほうが大切であると私たちは考えました」という返事が返ってきました。
「一部」という言葉を使っておられましたが、これは重大な事実誤認です。マジックを長くやっている人であればわかると思いますが、マジックを始めて1、2年の頃、観客にずいぶん受けたので、サービスのつもりで種明かしをやってしまうことがあります。すると観客の大半は、「なーんだ、そうだったのか」という言葉と共に、つい今しがたまでの驚きや感激が急激に薄れて行きます。十人いれば、タネを知って一層感心するのは一人いるかいないかでしょう。9割の人は、一瞬にして興味をなくすものです。つまり、種明かしをすることは好きな人を作ると同時に、その何倍も、マジックなんてつまらないと思う人を作ってしまうことにあります。諸刃の剣、それも一挙に数多くの負傷者を作り出す可能性の高い、あぶない「剣」であることに気がついていません。』

※25
2019/06/16にはMN7主催「知的財産権とマジックに関する研究会」が開催。
私の日記も参照。



めも
https://twitter.com/deinotaton/status/1147368606461652993
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/jaac.12290

https://note.com/tanishi_yy/n/nac8ec5cca010


2019/12/31追記

読みたいものメモ
https://twitter.com/rovinata_/status/1147371249787535360
https://twitter.com/conchucame/status/1202847420586979329
☆JASON LEDDINGTON氏(https://www.jasonleddington.net/about.html)
・「The Experience of Magic」(2016)
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/jaac.12290
・『Aesthetics: A Reader in Philosophy of the Arts,fourth edition』(2017)に収録
https://philpapers.org/archive/LEDMTA.pdf
・『The Art of the Impossible』が出版予定??
https://www.jasonleddington.net/uploads/3/1/4/6/31463977/the_art_of_the_impossible_--_book_proposal.pdf
(↑最後の参考文献目録も要チェック)

買ったけど読めてない
・『フィルカル Vol.4, No.2』(2019)の 特集:ネタバレの美学
http://philcul.net/?page_id=545#v4n2

2020/01/08追記

読みたいものメモ
・Juan Tamariz(ホアン・タマリッツ)『Magic Rainbow』(2019にスペイン語から英訳)
https://www.penguinmagic.com/p/11500
http://majion.shop-pro.jp/?pid=140211602

めも
・アスカニオの著作しらべる
・アスカニオの系譜に属する研究家gabi pareras
・half half manというところから刊行されているquarterlyという雑誌
dave buckによる美学についてのエッセイ ?
https://twitter.com/halfhalfman
・Derek DelGaudioの著作しらべる

2020/02/08追記

2020/2/1に日本奇術協会から、「インターネットを利用した動画によるタネ明かしのガイドライン<2020年度版>」が公開された。
http://www.jpma.net/
これは日本奇術協会会員向けのもので、インターネットを利用した動画による種明かしに限っているが、日本で最大(だよね?)の手品団体(公益社団法人)が指針を出すのは大事なことなのでそこは素直に褒めたい。

※2022/4/10追記
https://twitter.com/jin00_Seiron/status/1513031729283428354
当時とURL変わってるようなのでリンクを貼り直す。
(公社)日本奇術協会・会員向 インターネットを利用した動画によるタネ明かしのガイドライン<2020年度版>

僕のコメント↓ https://twitter.com/jin00_Seiron/status/1224559165030322176

RTの種明かしガイドライン、一歩目として重要だし、まあ妥当とも思うが、
3条2項3号と4条3項3号の関連性はどうなってんの?
『対象奇術に係る奇術のタネを認識していない者が、その意に反して、観客として対象奇術における合理的ではない現象を認識する機会を損なうものではないこと』と『受講者に、奇術に係る技能を習得するために継続的な学習に励む意思のない者が多数は含まれていないこと』との関連性、ないでしょ。
「その意に反して」のとこだけ拾えばいいじゃん

会員に限定せず、一般向けのガイドラインも作成されるようなのだが、様々な意見を集め、丁寧な議論が積み重ねられてほしい。
例えば、種明かしを推理小説の犯人のネタバレと類比して、その同義性を言う主張に度々出会うが、丁寧さの欠けた論だと思う。(ちなみにここらへんは『フィルカル Vol.4, No.2』(2019)を参照すると良いだろう)
そういう雑なレベルの議論から一歩進む段階に来ていると思っている。

まず、一歩進んだ。さあ次は。


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